それでも妹は
オレは今日のアルバイトを終えて自分の部屋にぼんやりとしている。今は夜だ、静かな空気だ。妹のヤエは赤ちゃんのミユを抱っこしてオレの部屋に入ってくる。そう言えばドアを開けっぱなしだったような。オレは二人を見つめる。妹のヤエはミユを大切に抱っこして笑顔だった。オレはアルバイトの疲れもあってかあくびをひとつ。妹のヤエが座りこんだ。その両腕にミユが抱っこされている。オレは眠たい。けれども妹が何かを言いたそうな表情だ。オレは妹のヤエを優しく見つめる。妹のヤエはこう言った。
「あのね、お兄ちゃん? このことは他の人、お父さんとお母さんにも言ったらダメだよ?」
その言葉を聞いてオレは心を身構える。
「私は、まだ逃げたあの人を待っているの」
妹のヤエの言葉にオレは静かにこう思う。妹の旦那が逃げた、それでも妹はその男を待っている。オレはひたすらいろんな感情がぐちゃぐちゃになっていく音を聞いた。それは、安心なのか不安なのか、それとも、妹の笑顔を踏みにじる行為をする逃げた男のことをとてつもなく憎いと思うからなのか。オレは何も言えなかった。妹のヤエの笑顔を消したくなかったから。オレは妹のヤエに赤ちゃんのミユを抱っこさせてくれるようにお願いした。確かに、ここに命がある。生まれて間もない命が。オレはこの重みを十分に感じ取る。すると、ミユが泣き出した。オレは妹のヤエにミユを手渡した。オレはしばらく考えている。逃げた旦那が果たして妹のヤエの元に帰ってくるだろうか。オレは目をつぶった。こんなことは恐ろしくて言えない。逃げた男のことはもう忘れた方がよい。けれども妹にそんなことは言えない。それでも妹はまだ逃げた男のことを待っている。オレはぼんやりとした意識のなかで絶望を感じ取る。オレは妹の笑顔を絶やしたくはない。だが、妹のヤエの希望とは正反対に日々が進んでゆく。オレはそれでも妹が笑顔を絶やさずに待っている姿を見ては涙がたまっていた。それでも妹のヤエは逃げた旦那を待っている。