聖域なき経営改革
「ふぅ、困ったなあ」
机の上の請求書の山を見て院長はため息をついた。病院の経営は危機的状況だった。このままでは早ければ来月にも病院の経営は破綻してしまう。それほどまで病院の経営は逼迫していた。
院長は雇われではない。立派なオーナー院長だった。
若き頃、怪我や病気の人々を助けるという理想に燃え、働きながら勉学に励んだ医学生時代。さらに念願の医者になってからは寝る間もない過酷な職場で身を削りながら資金を貯めた雇われ医者時代。
そんな、文字通り血を吐くような思いをしながらようやく自分が理想とする病院を作ることができた。この病院は院長の夢の結晶だった。いや、もうこの病院は自分だけのものではない。通院や入院している患者さんや自分の理想に賛同して力を貸してくれる多くの医師や看護師たちにとってもなくてはならない存在であった。その存在が風前のともしびであった。
いやいや、諦めてなるものか。
院長は心の中で首を振る。
今できるのは経費節減だ。聖域なき経営改革でこの難局を乗りきるのだ。
そう考えると、院長は書類を何度もひっくり返し、節減できそうな項目をさがし続けた。
人件費……
医師も看護師もギリギリの給料で頑張ってくれている、彼ら、彼女らにも生活がある。これ以上の負担を強いる訳にはいかない。
ならば医療費……
薬は設備投資は良い医療活動をする基礎だ。
これを削減してしては本末転倒のそしりを受けても仕方ないだろう。
光熱費はどうだろう。
適正な空調は必須だ。高すぎたり低すぎる気温が患者の体調を崩すことは絶対に避けねばならない。
院長が思い悩んでいるとノックの音がし、内科の佐藤先生が入ってきた。
「院長。高橋さんがなくなりました」
部屋に入るなり佐藤先生は言った。
高橋さんとは重度の癌を患っていた患者さんだった。来院した時には既に余命3ヶ月。快復の見込みはなかった。
「そうですか。高橋さんが入院されて半年。
良く頑張られましたね」
院長はしみじみと言った。
「はい。最後は麻酔も余り効かなかったようです。かなり苦しかったと思いますが、それでも愚痴の一つもこぼしませんでした。
ところで院長。
高橋さんの扱いはどうしましょうか」
高橋さんは身寄りがなかった。いわゆる生活窮乏者だったのだ。お金が無く、様々な医療機関から追い出され、流れ流れて最後にたどり着いたのがこの病院だった。治療が手遅れになったのもそのせいだ。
「そうですね。
いつものように病院の方で弔ってあげましょう」
院長の言葉に佐藤先生は軽く礼をすると出ていった。
高橋さんの治療費の回収は絶望的であろう、と佐藤先生の後ろ姿を見ながら院長は思った。この病院には高橋さんのような患者が実はたくさんいた。すなわち、頼るものがなにもなく人生の最終局面にこの病院に流れ着いた患者さんたちだ。そんな患者さんたちが病院の資産を食い潰し、経営を圧迫していた。病院経営の健全化のためならそのような患者を引き受けなければ良いのだが、そういった患者さんたちを切り捨てることができないでいた。そんな人たちに手を差しのべることこそがこの病院の存在意義と考えていたからだ。
だが、その頑張りも限界だった。
院長はこの日何度目かの、そして一番大きく深いため息をついた。
そのため息にテーブルに積まれた請求書の束の数枚がぱさりと床に飛ばされ落ちた。
拾い上げると、みな、病院食の食材の請求書だった。どれもかなりの金額だった。食材費をなんとか下げれないものか、と院長は一瞬思ったがすぐに思い直した。病院食は患者の体を回復させる源泉。良質な食材を使わなくてはならないのだ。
どこかに安価で良質な食材があれば良いのだけれど……
院長はそんなことを考えながら、受話器を取った。
「ああ、斎藤先生。先程の高橋さんのことですが、最後のお別れをしたいと思っていますが今、どこに?
……
もう霊安室に移動した?
そうですか。では後で行くとします。ありがとう」
院長は受話器を置くと、またため息混じりに一人呟いた。
「経費。経費。どこかに削れるところは無いものか……」
夕刻。
院長は病室を診て回る。
各病室では夕食の準備が進められていた。廊下から病室を覗き、時に患者さんに話しかけ病院全体の様子を自分の目で確認するのが院長の日課であった。
「田中さん。調子どうですか?」
「ああ、院長先生。お陰さまで良い感じです」
「それは良かったです」
見回りで目があった田中のおばあちゃんに院長は穏やかな笑みを見せる。田中のおばあちゃんも笑いを返したが、直ぐに真顔になって人目を気にするように辺りをキョロキョロと見まわした。そして、周囲に人がいないのを確認すると院長を手招きする。
「院長先生、ちょっと小耳に挟んで気になってることがあるんだけど……」
「何ですか?」
小首を傾げ、近づく院長に田中さんは小声で言った。
「この病院危ないって」
田中さんの言葉を聞いたとたん、院長の顔から笑みが消えた。
「どこでそれを?」
「まあ、色々とね。
院長先生が良い人過ぎて、損ばかりしてこの病院潰れてしまうって入院患者の間では有名だよ」
田中さんの言葉に、院長は一瞬きょとんとした顔になったが、たちまち笑顔になる。
「なんだ。その事なら心配は要りませんよ。
この病院が潰れることはないですから」
「本当かい?赤字続きだって聞くよ」
「経営努力をしてますからね。聖域なき経営改革と言うのですかね」
「そうなのかい。なら安心だけど……」
「そうですよ。だから、田中さんはそんなこと心配せずに体を治すことだけを考えてください。
ほら、田中さんは貧血気味なのですからちゃんとレバーを食べてくださいね」
「はい、はい。
そう言えば最近、食事に肉が多いのはその聖域なき経営改革のお陰なのかい?」
「はははっ、そう言うことです。詳しくは企業秘密ですがね」
院長は笑いながら田中さんの病室から出ていった。一通り、見回りを終わらせると満足そうに頷き、踵を返す。
今日の午前に一人、そして昼過ぎにまた一人亡くなられたと報告があった。二人とも身寄りのないと聞いていた。
「今月はダメかと思いましたがなんとか繋がりそうですね」
院長は一人呟くと、霊安室へと歩き出した。
2019/07/11 初稿