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「お嬢様!何をなさってるんですか?」
「見てわからないの?リゼル!木登りよ!」
「木登りなど子爵家のご令嬢にあるまじき行いですよ!降りていらしてください」
そんなリゼルの言葉を無視する。見つかってしまった以上もう帰らなければいけないのはわかっていた。だから余計にはしゃいだ声を出してみる。
「リゼル!見て!空が近いわ!」
「聞いていらっしゃいますか?お嬢様!降りてきてください!」
ー小さい時から高いところが好きだった。特に塀のすぐそばに生えているこの木はお気に入りの場所で、嫌なことがあるとここに来るのが私の常だ。この木に登ると壁の外が見れたから。様々な人の往来、営み、商人、町人、富む者、貧しい者、市場の賑わい…私には縁遠くある世界はいつも私の心をひどく引いた。
子爵家に生まれた以上外の世界など焦がれるだけ無駄なもの。頭ではわかっていても幼心に抱いた憧憬はそう簡単には薄れなかった。
私が13歳になった今でも夢は変わらない。
アントーニア・ベアトリーチェ・トリアナ・パウロ子爵令嬢。ベアトリーチェはお母様の名前、トリアナはお祖母様の名前。一族一の美女と謳われたお母様に、前皇帝陛下に女の身でありながら重用された才女のお祖母様。その2人の血を引く私は名前だけは立派に、その実は文字通り名前負けした子爵家の子女となった。なかなか残念な仕上がりである。
一方で優秀な実弟は才に溢れ、その上イケメンときている。社交界デビューこそまだだが、もうあちらこちらからお屋敷への招待のお声がかかり始めている。それにひきかえ私は器量もあまり良くなく、手先は不器用で奉公にも出せないと早々に諦められた親不孝者。家に居場所などなかった。唯一の救いは弟は性格までもが素晴らしかった事だ。弟の名前はキースという。キースは優しく慈愛に満ちた子で、こんなダメダメな姉を慕い、ときに庇い、一緒にいてくれるいい子の鑑みたいな子だ。もしキースが意地悪で、邪魔な長子である私を蔑ろにしようものなら私は多分もう生きてはいない。冗談では無く本当に。キースは長男で私は長女、先に生まれたのは私といえど家督はキースのもの。さらにキースは才能と人望に厚いイケメン、10人中10人が彼についていくだろう。だからそんな彼が私を姉として敬う姿勢を見せた事で私は子爵令嬢足り得ている。弟ながら全く頭の上がらない話なのである。
そんな私も17歳となり流石に木登りはやめた。代わりにドレスを着てダンスを踊るようになった。勉強に勉強を重ね学園に入り、今年から2年生になる。子爵家の恥とまで言われた私にしては上出来だ。
ただ何度も思い出すのは小さい頃木の上から見た市場のこと、人々のこと。子爵家はそこまで位が高いわけではないが、だからといって娘が勝手に市井に下れるほどは低くない。ため息も漏れるというものだ。
私は小さい頃からやれじゃじゃ馬だの、元気がすぎるだの、器量悪しだの、散々な言われようだった。しかしそれが最近では、静かにしていれば気品がるように見えなくもない、しゃべらなければ賢く見える、などお褒めの言葉すらいただいているのだ!悪口ではない、けっして悪口ではない。つまり何がいいたいのかと言うと、いい子ぶって早2年、もういいのではないか、という事だ。市井での買い物のため、小銭の扱いを覚えたし、紛れ込むために侍女からお古の服をもらいそれをさらに汚しておいたし、警戒の目を緩めるために2年間も、大人しくしていたのだ。
そうと決まれば善は急げとばかりに、私は部屋に駆け込むとクローゼットの二重の底(私が蹴破った)から取り出したボロの服を着込み、ポケットに小銭をジャラっと流し込んで、頭にはストールを巻いて顔を隠した。完璧だ!私は入った時と同じように部屋を大急ぎで飛び出し庭を駆け抜け、厨房前を突っ切って使用人用の勝手口にたどり着いた。この間わずかに体感2分。そしていよいよ外の世界に向けドアノブに手をかける日がやってきたのだ。この扉の外は私の全く知らない世界なのだと、ワクワクしながらドアノブに手が触れた瞬間無情にも後ろから声がかかった。
「何してるの?姉さん?」
これはそんな私がちょっと頑張ってみるお話です。