残月のバラッド2
年を数えるのは無意味だ。無意味だが数えていないと不便なこともある。例えば自分の記憶の順番だったり、人間側の事情だったり。
年月を気にすることの無意味さと、それでも気にしなければならない煩わしさと。彼女がその双方に折り合いをつけられるようになり、暫く経った。彼女が二百五十歳を越えるかどうか、そして年齢と同じくらい長く時を見続けた頃のことだ。
カナレッツォの街道沿いの街で、二十年ほどやっていた商売は、その年の冬が来る前に畳んだ。
魔女は一所に長くは留まれない。
異質なものへの潜在的な恐れは、人間にとっては当然のことだった。恐れを感じさせる前に、彼女は転々と居を移す。それが当たり前すぎて。国にいる五人の魔女のうち一番年若いヤナは、まだ人との関わりに曖昧な解釈を残したままになっていた。
店を仕舞い、これまでと同様そっと場所を離れる。たったそれだけだが。
彼女にとっては短い二十年だが、場所に愛着がわくには充分な時間でもある。
離別には一抹の淋しさが付き纏った。
旅立ちに理由はあれど、目的はない。
長く生きていても訪れたことのない場所もあるし、前から時間が経てば一度訪れたところも様子が変わる。
ヤナは住処の片付けをしながらしばし考えた、次はどこへ行こうか、と。
カナレッツォの西隣は、広大な領地をもつヴァレーダ領。
そこであれば、南北に長く伸びた土地の中央から離れたところであれば、比較的住みやすかった記憶がある。と、そこまで思考を巡らせておきながら、彼女は思いとどまった。
このところ、彼の地から聞こえてくる噂は良くないものだったからだ。
国の情勢が不安になり、中央の政治が少しの綻びでも見せれば、様々な方法で王家へ歯向かうのがヴァレーダの一族である。
これまで幾度も問題を起こしているヴァレーダを、国が表立って糾弾できないのは、その一族が建国以前から続く一族であり、古から神官の血を絶やすことなく受け継いでいるからだった。
公には知られていないが、彼らでないとできないことがある。逆に、ヴァレーダが完全に王家を潰しに来ないことにも事情がある。
お互い、睨み合い、時に力を削ぎあって、うまくバランスをとっていた。
その均衡が少し崩れかけている。
それは数十年ぶりの魔獣の増加に起因していることは間違いないだろう。
中央がその対処に追われている隙に、西は王家にちょっかいをかけている。
いつものことだ、とヤナは鼻を鳴らした。
この前は疫病だったか、それがカナレッツォの北隣のアザレアで流行した時に、反抗的な態度をとっていたはずだ。
それを踏まえれば、王都とヴァレーダの間に居るのは、面倒ごとを引き受けるに等しい。
彼女はそう結論づけた。
とすると、できるだけ遠くに、そして面倒ごととは無縁の地に、次の居を構えるべきだろう。
ヤナが今いる場所は、ヴァレーダとイングラシアを結ぶ、王国中央を横断する街道の途中にある街だ。
今回そういうわけで、西へ行くという選択肢はとっとと消去したヤナだったが、さて次はと考えるとなかなか決まらない。
魔女は未来視とまではいかないが、なんとなく先のことを見ようとすれば、靄のようではあるものの『わかる』のである。それがなければ彼女は、南のアッカルディを目指しただろう。そこは中央とも西ともある程度の距離を開けてうまくやっている領であったから。
しかし、ヤナは最終的に『東の』と言われるイングラシアへ向かうことにした。
何故、と問われればそれこそ『予感』としか言いようがないものが、見るつもりもないのにうっすらと見えてしまった。
こんなことは初めてだった。
しかも、その見えたものが良いのか悪いのか、さっぱり分からない。
ここから街道を通り、そのまま東へ行けば、いつかはイングラシアに到達するのだが。
雪を降らせる雲を避けるようにして、ヤナは南のアッカルディから迂回するルートを選択した。
久しぶりに海を見るのも悪くない、と思ったからだ。
もう何度目になるかわからない、海。その色はただ、青いだけではなかった。
冬の海の色は、彼女の好きな色だった。
灰色の空を紺碧がくっきりと支えている。
強風に波が立ち、沖に白い筋がいくつも見える。
その海の上に、使い魔を一羽飛ばして感覚を共有するのが好きだった。
急いで東に行くこともないだろう、冬の間はアッカルディで休暇を取ろう。
そう決めて、ヤナは荷造りを続けた。
魔術書を整理しながらヤナは思い出していた。
彼女が十二でハルキノを出た時も、海を気にしていたことを。
それが、本当に気にすべきは海なんかではなかったということに気づいたのは、彼女の母が死んだ、と聞かされた時だった。
見たくないものは、魔女にだってある。それを、海で消していただけだった。
亡骸すら見ることも叶わず、手のひらに落ちてきた情報だけを握って、ヤナは自分に流れる時がないことを感じ取った。
あれからもうとっくに二百年もすぎてしまった。
そして、なんの因果か、今また彼女は海を気にしていた。
彼女の中には、白い靄に隠された予感がある。
目を瞑ることができないくらいはっきりしているくせに、姿を捉えることはできないそれ。
イングラシアに行くべきではないのだろう。
でも、それと同じくらい、行かずに済む道も見えなかった。
彼女にできるのは、せいぜいその時を遅らせるくらいのこと。
すっかり片付いた、がらんどうの家の中を見回す。
最低限の荷物だけ背負って、勝手口を出た。
細く白い月が、薄いインクの滲んだような空に出てきたばかりであった。
夜明け前の残月だった。