第八話
「平気、木登りは子供の時から得意だもの。
その……
今日は失敗しちゃったけど。
いつもはあんなヘマしないわよ。
これの裾がもうちょっと短ければ、多分大丈夫だったと思うの」
エミリアは笑みを浮かべる。
「そう言うものではありませんよ」
「僕もそう思う」
男が同意の言葉を発する。
「ごめんなさい、次からは気をつけるから」
二人の心配そうな顔にエミリアはさすがに申し訳なくて視線を落とす。
「ところで、ウォティ殿下、何か御用ですか? 」
エミリアはこの場で見慣れぬ顔の男に向き直った。
毎朝嫌になるほど見ている顔だ。男の顔自体は珍しくなかったが、その男がここにいることが不思議だ。
最初、一度だけ男が案内がてらここを訪れた時の言葉通り、ここにはこちらで声を掛けない限り、めったに誰も近寄らない。
この男に至ってはあれ以来だ。
「ああ、別に取り立てて用は無いよ。
ただ、少し時間ができたから君がどうしているか様子見。
……それにしても変わったね」
男は室内を見渡して息を吐いた。
「うん、かわいそうだったけど、元気の無いのは抜いて新しいの植えたから」
中に招き入れながらエミリアは説明を始める。
「その新しいのがどうして野菜なんだい? 」
男は足元に球のように丸まった葉野菜を珍しそうに覗き込みながら訊いた。
「だって、そのほうが効率いいでしょ?
お花は食べられないけど、野菜なら食べられるし! 」
エミリアは笑顔を浮かべる。
この庭をもらって、初めて植えたのはもちろん葉野菜だった。
ついでに成長の早い蕪。
それらがそろそろ食べごろになる。
「ここの食べ物あまりおいしくないんだもん」
「そうかい?
別にそうとは…… 」
男は首をかしげた。
「王子様、もしかして味覚オンチ? 」
男の顔を覗き込んで、軽い気持ちで訊くとエミリアは足元にかがみこみ、目の前の葉野菜に手を伸ばすと、一枚ちぎり男に差し出す。
「どうしてそうなるんだい? 」
「ん~、苦いって言うか、渋いって言うか、腐った匂いがかすかにするって言うか……
少なくとも、わたしの育った牧場で採れたものは変な味しないわよ」
もう一枚摘み取った野菜の葉を自分の口に持っていく。
口に含んだ摘みたての柔らかい若葉から、わずかに青臭くほのかな甘みが広がる。
「ん。上出来。
やっぱり種なのかなぁ? 」
エミリアは視線を泳がせながら呟いた。
「確かに…… 」
隣で男が食べかけの葉野菜を前に目を瞬かせ、手の中のものをじっと見つめる。
「ね? 味、全然違うでしょ? 」
「ああ……
これは? 」
「うん、家から苗を持ってきてもらったの。
野菜を植えるって言ってもどこから苗や種調達していいのかわからなかったから」
少し得意そうにエミリアは笑みを浮かべる。
その足元を白い二羽の鶏が横切った。
「本当に、鶏を飼ったのかい? 」
男が呆れたように言って目を見開く。
「いけなかった? 」
「いけなくは無いけど…… 」
「小犬のほうがって言うんでしょ?
でも、このお庭じゃ、犬よりこの子たちのほうが役に立つのよね」
言っているうちに鶏は青菜の根元に嘴を突っ込むと、青菜と土色でまだら模様になった芋虫を啄ばみだし、飲み込んだ。
「ね? 」
ご馳走を平らげた雌鶏にゆっくり手を伸ばすとエミリアはそれを抱き上げた。
雌鶏はまるでペットの小犬か子猫のようにエミリアの膝でおとなしく丸くなると、気持ちよさそうに目を細める。
その小さな頭をエミリアはそっと撫でた。
その間に雄鶏が青菜の間に生えた小さな芽を引き抜いて啄ばむ。
「害虫駆除に雑草駆除、どんなに時間があっても足りないもの」
言いながらエミリアは、青菜の根元に手を伸ばす。
数日前引き抜いたばかりなのに、そこにはもう雑草の芽が生えていた。
ここの土壌は作物の生長が早いと思えば雑草の伸びるのも早い。
「およし、手が汚れる」
新芽から出る汁と土で汚れ始めたエミリアの手を男が制するように引き寄せる。
「手なんて、洗えばいいのよ。
それより、雑草。大きくなると大変なの」
妙なことを言われ、エミリアは睫を瞬かせて男の顔を見る。
「君は祈っていればいいんだよ。
汚れ仕事は誰かに言いつければやってくれる」
苦笑しながら、男は扉の向こうに控えた人影に視線を送りながら言う。
「いいの。
皆に何でもやってもらって自分は座っているなんて性に合わないもの」
握られた男の手を振りほどき、もう一度青菜の根元に手を差し込むと小さな芽を再び引き抜き始めた。
「それにね、正直言っちゃうとわたし、どうやって祈りを国中に届ければいいのかなんて良くわかんないのよね」
エミリアはちろりと舌を出す。
今までだって、隠すのに賢明でその力を使おうなんて考えたことは一度も無かった。
ただそれでも漏れ出した力が、エミリアの周囲で通常では起こらない奇跡を起こす。
だから、自分で植物の生育を早めようと思ったこともないし、摘んだ花が枯れないようになんて祈ったことも無い。
すべてが偶然引き起こされたことで、実際にやってみろと言われてもどうしていいのかわからない。
「今までのままでいいんだよ? 」
「ん~、その今までって言うのがね。
なんか、別にこうなってほしいって思ったら結果がそのとおりになったとかじゃなくて。
ただ普通に行動してたら結果がああなったってだけで、意識したことないし。
そもそも、おばあちゃんが『隠しとけ』って『絶対人に知られちゃいけない』ってしつこいくらいに言われてたから…… 」
視線を泳がせて思い出しながら言う。
……そう、事ある毎に言われていた。
それはきっと、祖母にはこうなることがわかっていたからだ。
こうなってしまったのはきっと、自分が不注意だったから。
常時隠しているつもりで隠し切れなかったんだと思う。
ただひとつだけいいこともあった。
ここなら誰もエミリアの力を気味悪がらない。
エミリアは立ち上がるとはだしで地面を歩き出す。
足の触れたむき出しの地面が見る間に緑に染まる。
「おい、おい……
そんなに草茂らせてどうするつもりだい? 」
ウォティが苦笑する。
番の鶏が駆け寄ってくると大喜びでその新芽をつつき始める。
「茂らせるつもりは無いんだけど……
きっと地面にこぼれたまま芽吹けない種が多いんだと思うの」
振り返って足元を見ながらエミリアは呟いた。
「ね? わたし今ここの種芽吹けばいいな、なんて思っていたわけじゃないのよ?
ただ普通に歩いただけ。
どう使っていいのかわからないっていうか、むしろ制御不能? 」
エミリアは首をかしげる。
「君はここの植物が正常に育つように気を掛けているだけでいいんだよ」
男はもう一度苦笑した。
「殿下、巫女様、お茶のご用意ができましたけど! 」
ドアの脇から侍女が声を掛けてきた。
「あ、はい! お願いします」
エミリアが振り返って答えると小さな籠を抱えて侍女が入ってくる。
いつものように泉の縁石の埃を軽く払うとカップにミルクを注ぎ、小さな焼き菓子を広げた。
「……なんだか、お茶のあり方まで変わったね」
促されカップの置かれた縁石の隣に腰を下ろしながら男が言う。
「そう? 」
「ああ、前の巫女はきちんとテーブルを置いて、花盛りの庭を見ながらゆっくりとお茶をたしなんでいたよ」
「そう言うのも、わたしの柄じゃないから」
エミリアは慌てて首を横に振る。
「本当はね、持ってきてもらうのだって心苦しいって言うか。
ミルクくらい自分で持ちにいけるのよ。
だけど、厨房に入らせてもらえないし。
駄目なら泉の水でいいっていつも言ってるんだけどな」
視界の先で地面をつつくのに忙しい鶏の姿を目に、エミリアはミルクのカップを傾ける。
「さてと…… 」
カップの中のミルクを飲み干して男は軽い掛け声と共に立ち上がる。
「そろそろ行かないと。
じゃ、巫女殿また今夜」
思わせぶりな言葉を吐いて背を向ける。
「う~ 」
エミリアは答えの代わりに眉根を寄せ軽い唸り声を上げた。
本当は、来なくていいって言いたいところなんだけど……
視線を動かすと、いつもの侍女が手持ち無沙汰に澄ました顔で立っている。
「じゃ、わたしも……
ご馳走様」
カップを侍女に返すと立ち上がる。
「……本当に、大概にしてくださいよ。
殿下はああおっしゃってくださいましたけど、荒れた手で殿下のお相手をなさるおつもりですか? 」
たしなめるように言われた。
「これでも、ずいぶんましになったのよ? 」
改めて自分の手を見直して呟いた。
ここへ着てからは、掃除洗濯、弟の世話も牛の乳搾りも何も無い。
せいぜい庭の雑草を引き抜くくらいなものだ。
庭仕事の後には必ずこの侍女が香油でマッサージしてくれる。
そのせいか、いつもがさがさでささくれ立っていた手はずいぶんマシになった。
毎日丁寧に梳いて整えられる髪は艶をまし、見るからに貧相にもつれていた赤毛は赤銅色に光を湛えた巻き毛の房に姿を変え、日に焼けていた肌もずいぶん白くなった。
最初着せられた時にはずいぶんそぐわないと思えたトーガが、何とかにあうような様相を呈したとは思う。
だけど……
そんな自分の姿にエミリア自身が一番なじめないでいた。