第七話:気静剣レビエリ⑤
頭が痛い。酷い世界だ。
変な感じに俺の想定を外してくるあたり、肉体的疲労はなくても精神的疲労がやばい。
怪物の血を浴びて初めて、外套の有用性が心底理解できた。雨具としても使えるというのは本当だろう。軽く水をかけただけで殆どの血は洗い流されている。
それでも、頭からかぶってしまった血の方はそう簡単に取れるわけもなく、一刻も早く凄まじい悪臭がする血を洗い流すため、レビエリの案内で、俺は森の中にある泉に来ていた。
てかこの血、頭からかぶっちゃったけど病気とか感染しないよね?
い、いや、さすがに大丈夫に違いない。これは夢の中なのだ。そこまで考えられていないだろう。というかいちいち感染してたら魔王とかそれ所ではない。夢の中で療養生活とか勘弁してほしいものだ。
静寂。現実とは異なり、虫の声も鳥の鳴き声もしない。
そんな静けさに包まれた森の真ん中にそれはあった。陽光に反射してキラキラ光る水面は透き通っており、そのまま飲めそうだが飲まないほうがいいんだろうな、きっと。
「お疲れ様……でした」
「……ああ」
そのまま水の中に飛び込み、さっぱりしたい所だが、あんな化け物のいる森だ。きっと水場にも何かいるに違いない。
さっさとレビエリの渡してくれたタオルを水に浸し、べったりと血をかぶった頭を乱暴に拭く。あっという間に白いタオルが黒に染まった。あのミノタウロス、血が黒いのか。なるほど、怪物の名に相応しい。ディテールが凝っている。
外套はともかく、中に着込んだシャツはやはりべったりと血がこびり付いている。厚手の生地なので中に染みこんできたりはしないが、それでも不快だ。
一抱えもある岩の上に腰をかけ、一度深い息をついた。
今更ながら、手が腕が震えてくる。
確かに強くはなかった。確かに強くはなかったが、先ほど倒したものは明らかに怪物だったのだ。
心臓が今更ながらその事実に鼓動を早くする。
頭を抱える。
なんという臨場感。なんという無駄な現実感
この夢――俺が考えていたより数倍、厳しい。
明確な痛みを感じたわけではない。衝撃はあったが少なくとも極端に苦痛だったという事もない。
それでも、この夢は――悪夢だ。
「大丈夫、ですか?」
「……ああ」
一方で傍らにただ佇むレビエリの表情は街を出た時と変わらない。
あれほどの脅威をくぐり抜けたというのに、あの化け物の前に自らを囮として差し出したというのに。
どのような精神構造をしているのか、俺は改めて目の前の少女が自分とは明確に異なる摂理で成る存在である事を理解した。
何かを待つようにこちらをじっと見るその双眸。
その眼が考えている事が俺には僅かも理解できない。
「……」
「……そういえば、レベルは上がったか?」
「レベル……? ……あ、は、はい」
何だその間は。
「レベル……15、です」
「……上がるの早いな、おい」
最弱な敵を一体倒しただけで、まさかの10レベルアップの大躍進である。
それとも10のレベルアップなど大したものではないのだろうか。
じっとレビエリを見つめていると、何を考えているのか頬を染めてそっぽを向いた。
「格好、良かった、ので……」
「あ、そ、そう……」
しかも好感度も上がっているらしい。
俺、あんな弱い個体に遭遇しただけでぶるぶる震え、レビエリを先に出させてしまった上に、一体倒しただけでげろげろ吐いてるんだけど。
一体どこでそんな評価されたんだよ。
溜息をつく。勿論格好良いと言われて嬉しくないわけがないが、所詮はただの夢なので嬉しさよりも気恥ずかしさが先にくる。
現実感がないと言い換えてもいい。俺は現実で格好いいなんて言われたことがない。
俺の視線に何を勘違いしたのか、レビエリが一度大きく身体を震わせた。
少なくとも、レビエリは誠実だった。
理由は知らんが俺のためになろうとしてくれる。持ち物を準備してくれた事然り。そこは素直にありがたい。
ぐっと身を寄せて、レビエリが俺を見上げる。
「あの……勇者さま、剣の手入れを……」
「……やり方がわからないんだが」
「あの程度なら……血を布で拭くだけで、十分……です……それ、魔法の剣……なので……」
魔法の剣?
ただの剣ではないと思っていた。あの刃の輝きは素人目に見ても尋常なものではない。その切れ味も。
しかし、よもや最初に手に入る剣が魔法の剣だとは……
ってかレアリティ判定マジ役に立たねえな。名前すら出ないとか。
「……そうなのか」
剣を鞘からゆっくりと抜く。そのまま鞘に突っ込んだので、その剣身にはうっすらと血が塗られている。
レビエリは呆れたように小さく溜息をついた。
「……魔法剣……リースグラート……龍銀で拵えられた……珠玉の名品。名工、グルコードの作った、三振りの剣の内の……一振り」
……その情報いる?
てか剣に名前があったのかよ。俺はそれらの無駄な知識の一切を聞いた側から投げ捨てた。細かい事を覚えるのは苦手なのだ。
つまりそれは、凄い剣って事なのだろう。城の武器庫からかっぱらってきたAランクの剣であるだけの事はある、という事か。
レアリティ判定の情報……割りと正しいのか?
一抱えもある剣を抱え、丁寧に剣身から血を拭きとってくれているレビエリを眺める。
レアリティA。レビエリとおんなじ。
ふと、何気なく思い当たったことを聞いてみた。
「……その剣、レビエリとどっちが凄いんだ?」
「!?」
レビエリが眼を見開き、わたわたと手に抱えた剣を落とした。そして、それに視線を向けようともしない。
顔が真っ赤になっていた。どこかふくれっ面。怒っているのか?
レビエリが眉を潜めて咎めるように見上げてくる。それは、俺が見た彼女の感情で初めてのものだった。
やがて、おずおずと口を開く。
「……か、片手剣としては……この子の方が強い……です……」
「武器としては?」
「わ、私の方が……上!!」
「うおっ!」
急な大声。大声といっても一般人と比べればそれ程大きくもないが、力がこもっている。
思わずまじまじと視線を投げる俺に、レビエリは俯いてぽつりと付け足した。
「……かも、です」
「かもなんだ」
さて、この自称聖剣の言うことをどこまで信じていいものか。
自称聖剣。そう、自称聖剣だ。レビエリは勿論、他の子達についても、聖剣らしい所を見たことがない。
レベルを上げれば見れるんだろうが……今の所はどこか幼気で何処か大人っぽくどこか超越してどこか無邪気でそして理解出来ない点が多々ある、極一般的なただの少女にしか見えないのだ。
このふくれっ面。武器としての自負というものもあるのだろう。
何よりレアリティが一緒だ。大きく違うと思わない方がいいんだろうな……
……まぁ、彼女を使って戦おうなどとは思っていないから関係のない事だ。
「……はい。勇者様……出来ました」
「ああ、ありがとう」
綺麗に磨かれた剣は新品同様。化け物を唐竹割りにしたにもかかわらず、その刃には刃こぼれ一つない。なるほど、珠玉の名品というのも間違いないだろう。
さて、そうだ。聞かねばならない事があった。
「レビエリ、魔王城までの道は知ってるか?」
「……教えない、です……」
ぷいとばかり顔を背ける。
気弱……気弱、ねえ。はっきりとした否定が出来るあたり、ただの気弱でもなさそうだが……
レビエリの頬に触れ、こちらを向かせた。
一瞬身を固くしたが、その力に逆らわずにレビエリの視線がこちらに向けられる。
しかしこの子は……本当に綺麗だな。
「何故?」
「は、は、話すと……勇者様、特攻するから……です」
「しねーよ」
「する……絶対、する……ウィレットさんが、言ってました……」
あの大臣……そこまでショートカットさせたくないのか。
げんなりした。いいじゃん。倒せばいいんだろ、いいじゃん。まぁ今の状態だと多少は恐怖は感じるかもしれないが、この剣の切れ味……なんとかならないような気がしなくもない。
てか、この先あのミノのような化け物と何度も戦うかと思うとやる気が起きないのだ。確かに爽快感もなくはなかったが、俺は所詮、英雄でも勇者でもない、ただの平和な日本人なんだなあと思う。相手倒すと血も出るし……
だから、世界を救うのに是非はないが、可能ならば後一回だけで終わらせてしまいたいのだ。
「レビエリがいれば勝てるだろ?」
「……勝て……ません」
「レベルが足りないから?」
「……いえ……わ、私は……防御用の聖剣、なので……」
……
高い防御性能を誇るとは聞いていたが、防御用の剣なのかよ! 攻撃に使えないのかよ! 防御用の剣ってどんな剣だよ!!
やばい……かなり見てみたい。
レビエリが申し訳なさそうに潤んだ眼でこちらを見上げる。それだけで全てを許してしまいそうになる程にその所作は可憐だった。
「すみません……トリちゃんか、フレちゃんか……アインテールさんなら、一人でも勝てるかもしれないのですが……」
「なら何で立候補したんだよ!」
「!? すすす、す、すいません……わ、私が、余計な事、したから」
束ねられた髪のしっぽがショックを受けたようにびくんと持ち上がり、上下に震える。なにそれ? 感覚があるの? 本当に尻尾みたいだな。機嫌がいいとぶんぶん振るの?
怯えた表情のレビエリ、一歩距離をあけようする彼女に慌てて弁解する。
「わ、悪い、今のはただのつっこみ! つっこみだから! 別に余計な事されたとか思ってないから!」
ちょっとしか。
何より彼女のレベルを上げないと、次の聖剣に挑戦できないのだ。絶世の美少女である事は間違いないし、仲良くすることに越したことはない。
俺の意図を感じ取ったわけでもないだろうが、レビエリは伏し目がちで首肯してくれた。
「は、はい……でも……私も、役に、立ちます……」
「防御用の剣なのに?」
「……かなり、お買い得、です……ご飯とかも、作れます……」
それは本当に剣としての性能なのか?
甚だ疑問ではあるが、同時に俺は別に――彼女の事を嫌っているわけではないのだ。
顔も勿論だが、性格だって好ましい。可憐でもある。むしろ、いくら勇者だからといって、俺に付いて来るには勿体無いくらいの女の子だと……胸を張って言える。
相手がいくら、この辺りで最弱の魔物だからって、自らを囮にしようとする気概は感心できないが……
「か、家事とかも出来ますし……」
それはどうでもいい。どうでもいい、が――
「戦いたくないんじゃないのか?」
「!!」
そうだ。
彼女が聖剣の紹介の際になんと言ったか、俺はまるでまだ昨日の事のように覚えている。
私……戦いたくありません……
そういったのだ。確かにそういったのだ。
だから俺は――魔王を討伐するために聖剣を選ぶのだとしても、彼女は絶対に選ばないつもりだった。嫌がっている子を無理やり連れて行くなんて……倫理に反している。
だからこそ、俺は彼女が真っ先に俺との顕現化を試みると立候補した瞬間、驚いたのだ。
「それ……は……」
「なぁ、レビエリ。差し支えなければ――教えてくれないか? あの時何故、自分から顕現化を立候補したのか。俺はもともと、聖剣なんて持たずに魔王を討伐する予定だったんだが……」
あの時に何らかの強制的な不思議な力で声が出なくなっていなかったなら、俺は間違いなくその道を選んだはずだ。
そもそも、レビエリの言葉が本当ならば――攻撃力の高い聖剣を先に連れて行ったならば、レビエリの順番は回ってこなかった可能性が高い。
それなのに、そうであるにもかかわらず、それが分かっていたはずなのに……どうして彼女はあの時自ら立候補したのだろうか。そんな性格でもなさそうなのに。
やがて、レビエリはゆっくりと口を開いた。
「……わ、私も……お役に立ちたかったから、です」
「……何故?」
「……理由……いります、か? 勇者、様」
レビエリが微かに口元を歪め、微笑んだ。その笑みはそれ以上の俺の反論を封じた。
……
いつの間にか自分の夢にムキになっていたようだ。
女の子の感情なんて、俺にはわからない。だが、そういうのならば、そうであるのならば――俺は自分の出来る事を遂行するだけだ。
もとより、聖剣の力に頼るつもりはない。今の俺には剣としての力だけならば気静剣を超えるという魔法剣、リースグラードがある。
魔王には物理攻撃は効かないらしいが、この魔法剣だったら傷つけられるに違いない。
ミノタウロスという未知の化け物を倒した剣の柄を、万感の思いを込めて撫でた。
剣が俺の決意に呼応するように僅かに震えた気がした。