第十四話:銀衝剣リースグラート⑥
何を言われているのかわからなかった。
思わずユリの全身を観察する。いつも行軍中に着ているローブとは異なる緩やかなワンピース。仄かに濡れた白の髪は事前にシャワーでも浴びてきたからなのか。
華奢な体つきだが、その体つきはレビエリなどと違ってきちんと成長している事がわかる。なだらかに盛り上がった胸がその静かな呼吸に従い上下していた。
見られている事に気づいたのか、ユリが頰を染める。そこまでいってようやく俺の思考は再起動した。
「……何言ってるんだ?」
「……言葉のままです……勇者様」
そういえばユリの俺への呼び方はいつから勇者殿から様に変わったのか。思い出そうとするが思い出せなかった。
一歩ユリが距離を詰める。動揺のあまり一歩後退る。
別に俺だって、決してそういうのに興味がないわけではない。ユリはレビエリ程ではないが現実ではそう見ないくらいに可愛いし、レビエリと違って、大人だ。
だがそもそも、俺は彼女から好意を持たれるような事はしていない。
レビエリに言い寄られた時にも思ったが、俺はそんな夢を見る程女に飢えていたというのか。
手を伸ばせば届くくらいの至近まで近づかれる。じっと俺を見上げるユリ。
混乱が少しずつ溶けていく。顔が熱くなる。残ったのは『何故』だった。
とっさに出た言葉は考えてもいなかった言葉だ。
「ワレリーから……何か言われたのか?」
俺の言葉に、ユリの眼がほんの一瞬険しくなる。が、すぐに元に戻った。
「……団長から、許可は頂きました。しかし勇者様……誤解されたくはないのですが、これは私の――意思です」
許可を貰いに行ったのか? 俺に抱かれる許可を?
俺は一体明日からどんな顔をしてワレリーと会えばいいのだ。
そんな考えが脳裏をよぎるが、今はそんな事を考えている場合ではない。
潤んだ眼が俺を見上げている。ユリの顔は真っ赤だった。今まで見たことのないその表情を素直に可愛いと思う。
俺はそういった恋愛感情に疎いが、その表情は恋する乙女にも見え――いやいや。
一度深呼吸をして呼吸を落ち着ける。熱に浮かされ掛けた脳に水を差す。
例えばここで抱いたとしよう。現実に戻った時にきっと大惨事になっているし、そもそも隣の部屋にはレビエリ達がいるのだ。壁はそれほど厚くないし、ついでに俺の鋭敏な感覚だと、壁の向こうで聖剣達がこちらを窺っているのもわかる。
何と言って断るべきか。幾つか言葉を考えたが、結局口から出てきたのは情けない言葉だった。
「俺は……そういう経験がない」
「ご安心ください……私もありません!」
ユリが語気強く言う。その顔はまるで湯気でも立っているかのようだった。
「魔導の習得に忙しくて、恋人を作る暇もありませんでした。しかし、勉強はちゃんとしてあります! 大丈夫です!」
「何が!?」
意味がわからない。再び混乱してしまい単純なツッコミしかできない俺の前で、ユリが自分の服を握る。僅かに顔を伏せて呟いた。
「準備も……万端です」
「何の!?」
嘘だろ!? そんな馬鹿な話があるか。
口を開く。動揺のせいか唇は震えていたが、それでもしっかりと言ってやらねばならない。
俺は貞操観念が固いのだ。知り合ったばかりの女の子を抱くなんて考えられないのだ。別にユリが嫌いなわけでもないし全然ウェルカムだがせめてこうもう少し段階を踏んで――。
「――――」
声を出そうとしたが、声が出なかった。身に覚えがある現象である。
レビエリの力だ。隣の部屋から力を行使しているのだろう。
れびえりいいいいいいいいいいッ! 俺は断ろうとしてるんだぞッ!?
そんな事する暇あったら部屋に飛び込んできて俺を助けてくれ!?
ユリの唇が動く。そして、ユリも言葉が出てこない事に気づいたのだろう、一瞬眼を大きく見開いたが、どう納得したのか一度頷くとすぐに動きを再開した。
その身から漂う甘い臭いがより強くなり脳内を焼く。興奮のせいかまるで立ち眩みのように思考がぐらぐらする。
もしかしたら黒竜と戦った時よりもピンチかもしれない。
これ、もしそういう魔物が出てきたらあっさりやられてしまうんじゃ……。
現実逃避している間にユリがそのか細い手を伸ばしてくる。俺の背中に腕を回すと、身体を密着させてきた。
柔らかい感触と匂い、薄い布を通して伝わってくる体温、その全てが俺を混乱させる。もちろん振り払おうと思えば振り払えるが、そんな事したら怪我をさせてしまうかもしれない。
ユリが俺の胸元に鼻を当て、くんくんと匂いを嗅ぐような動作をする。
幸い、俺もシャワーを浴びた後だったので臭くはないはずだ……って違う違うそうじゃないッ! そうじゃないぞ。
頭をぶんぶん振り、本能を追い出そうとする。
荒く熱く呼吸をする。息をする音と心臓の音はちゃんとするのに声が出ない。おかしいだろ、この能力!
ユリがまるでマーキングするかのように俺の胸に身体をこすりつけ、左胸に耳を当てる。心臓の音でも聞いているのか、あるいは彼女自身覚悟が完了しておらず、時間稼ぎをしているのか。
思わず林檎のように真っ赤なユリの頰に手の平を当てる。しっとりと手の平に吸い付くような肌。ユリは一瞬身動ぎしたが、特に抵抗はしなかった。
……なんかもうこのままいっちゃってもいいんじゃないかな、どうせ夢だし。
そうだ、これは夢なのだ。いくらリアリティはあっても、所詮は眼を覚ませばいつか忘れてしまうような他愛のない夢。ならば一時の欲求に身を委ねる事の何が悪いだろうか。
って違う。駄目だ。駄目駄目、無理。一体レビエリは何をしているのか。
くらくら頭を動かしながら、匂いと感触から思考を離すべく、聴覚に感覚を集中させる。
――そして、その瞬間、俺の背筋をぞわりとした何かが奔った。
それは今まで聞いたことのない音だった。微かな、本当に微かな音だ。召喚されて感覚が鋭くなっていなかったら気づかなかっただろう。
風の音に似て風の音ではない。
なんだこの音は……?
顔色が変わったのに気づいたのか、ユリが茹でダコのように顔を真っ赤にしたまま訝しげな表情をする。
俺がその肩を軽く押すと、そっと身体を離してきた。
目元を揉みほぐし、更に音に意識を集中させる。
レビエリが力を解いたのか、今度は声が出た。
「なんだ……この音は――聞いたことがない」
「ど……どうしました? 勇者様」
ユリが不安げな表情をする。先程まで俺の中にあった熱がまるで嘘だったかのようにごっそりと消えていた。
いや、違う。消えざるを得ないくらいにそれは――不吉な音だ。
風。小さな風に、まるで何かを削るかのような微かな音。唇を嚙む。暗い窓に反射した俺の表情は引きつっていた。
「何か……いるぞ」
「……ッ!?」
わからない。音は聞こえていてもそれがなんなのか判断規準がないのだ。
だが、それが余りいいものではないという事はわかっていた。虫の知らせと言ってもいい。
黒帝剣に視線を投げかける。その様子にようやく事態を察したのか、ユリが乱れかけていた服をしっかりと整えた。
「勇者様……杖を持ってきていません」
「ユリはここで待っていてくれ、少し見てくる。……いや」
黒帝剣を握る。ユリの身体とは違う固い金属の柄の感触が俺の思考を研ぎ澄ませる。
訓練で散々握ったその剣は俺の手にしっくり馴染んだ。
「部屋で待っている方が――危険かもしれない。ついてきてくれ。自衛出来るか?」
「出来ます。杖がなければ魔法は威力が出ませんが……私も一応軍人です」
きっぱりとしたユリの言葉。その言葉を信じる事にする。
ユリは華奢だし杖の魔導師がどれほどの事ができるのか知らないが、いざという時は俺が前に出ればいいのだ。
扉を開け、部屋の外に出る。その時には部屋の前に聖剣達が集まっていた。
やはり俺の部屋の様子を窺っていたようだ。眼を真っ赤に腫らしたレビエリが先頭に立って俺に言う。
「私も行きます」
「……ああ、そうだな」
音は止まらない。いざという時に聖剣の力が必要になるかもしれない。
何が起こっているのかわからないのだから。
音は下の方からしていた。俺とレビエリ達に充てがわれた部屋は、宿にある部屋でも最高級のランクの部屋であり、一番上の階にあった。
下の階に泊まっているのは一般の客と、いざという時に俺を守るための騎士たちだ。
時間が遅いせいか、宿の中は静まり返っている。だからこそ余計にその音は耳に残る。
風の動き。匂い。音。いつ何時何が起こったとしても対応できるように、抜き身の黒帝剣をいつでも振れるように覚悟しながら、先に進んだ。
呼吸を整えながら階段を降りる。激しい物音もしなければ、特に何か風景が変わっているわけでもない。
ユリが声を潜めて言う。
「特に……何もありませんね」
「い……や……」
声が震えた。まるで背中をつららで撫でられたような悪寒に、全身から汗が吹き出す。
臭いがした。微かな臭いだが、散々嗅いだ事のある臭いだ。俺が気づかないわけがないし、そもそも――臭いはそこらじゅうからしている。
喉の奥からこみ上げてきた何かを、舌を噛んで耐える。
「血の……臭いだ」
「……どこッ!?」
フレデーラが語気強く聞いてくる。
俺はそれに答えず、一番手近な部屋に近づいた。
部屋の中からは物音一つしない。生き物の気配、その呼吸の音すら。
ノブを握り、回す。鍵がかかっているようで、引っ掛かりを感じた。
「勇者様、私が――」
「いや、いい」
ユリが伸ばしてくる手を止め、俺はその重厚な木の扉を蹴り飛ばした。
一撃で蝶番がはじけ飛び、扉が紙切れのように折れ曲がり吹き飛んだ。鍵なんてもちろん無意味だ。
ユリが険しい表情を作る。ようやく彼女の鼻にも血の臭いが感じられたのだろう。
その中に足を踏み入れる。部屋のランクは違うとはいえ、その構造は俺の部屋とは余り変わらない。
扉がぶち開けられ騒々しい音が立てられたのに、誰も騒ぐ気配がない。
部屋に争った跡などはない。そして、俺は見た。
ベッドの中に横たわる騎士の男を。
表向きはまるで眠っているかのように見えるが、訓練を受けた騎士が扉をぶち破られて目を覚まさない訳がない。
さっさと近づき、その掛けられた布団を摑む。手が震えていたが、一度深呼吸をすると一気に布団を剥ぎ取った。
「な――」
「これは――」
険しいフレデーラの眼。リースグラートも信じられないくらいに鋭い眼でそれを見下ろす。
死んでいた。騎士が死んでいた。外傷は殆どないが、唯一心臓の場所に小さな穴が穿たれ、赤黒い血が部屋着と布団に滲んでいる。
その表情に恐怖はない。眠っている間にやられたのか、抵抗の跡もない。
余り親しくはなかったが、その騎士の顔には見覚えがあった。名前も覚えていないが、俺が魔王を討伐すると宣言した際に笑っていた男だ。
こみ上げる吐き気をぎりぎりで抑える。
冷静にならなければ。冷静に対応せねばならない。押し殺すような声が出る。
「どうやって……殺したんだ?」
「ッ……」
室内には敵の影はない、扉には鍵がかかっていた。それほど頑丈な扉ではないが、俺が破るまでは確かに部屋は閉ざされていたのだ。
ユリが唇を強く結んでその傷跡を調べている。先程まで潤んだ表情を浮かべていた時とはまるで別人のような表情。
「魔法では……ないようです。魔法には痕跡が残ります。この傷にはそれがありません。これは――『斬撃』です」
「斬……撃?」
馬鹿な。それこそどうやったという話になる。
そして、何故殺し終えた後に布団など掛けたのか。布団の上から刺されたわけではない、掛け布団には――穴があいていなかったのだ。
思考が袋小路に入りかけた俺の肩を、リースグラートが掴んで強く揺らした。
「勇者様……他の部屋を」
「ッ……そうだったな……」
正気に返る。考えるのは後だ。
血の臭いがしたのは一部屋からだけではないのだ。
他の部屋を順番に探る。
鍵のかかっている部屋もあったし鍵のかかっていない部屋もあった。一人部屋もあったし二人部屋もあった。
だが、全てに共通点があった。異常なまでの静寂と強い血の匂い。
流石に荒事に慣れているユリでもこの状況は異常だったのだろう、蒼白の表情で呻く。
「そんな……どうやって……」
全ての部屋に死人がいた。騎士も、魔導師も、眠っていた物も本を読んでいた者も酒を飲んでいた者も、その全てが死んでいた。
中には一般客の泊まっていた部屋もあったが、それもまた同じだった。
傷は様々でその表情も様々だ。心臓を穿たれていた者もいたし、四肢をバラバラにされたものもいた。頭蓋を削り取られていたものすらいた。普通の傷ではない。
恐怖を表情に貼り付けている者もいたし、呆けた表情の者もいた。笑ったまま死んでいる者すらいた。共通点は――死んでいた事と、抵抗しようとした形跡が殆どない事だけだ。
身体を震わせ、しかし気丈に立つユリが俺に教えてくれる。
「勇者様……奇襲は魔導師にとって天敵です。故に魔導師は休息を取る時――結界を張ります。側に敵が近づいてきた時にすぐに気がつくように」
「……」
魔導師。リバー将軍が虎の子と言っていた、万能の魔法の使い手。回復も攻撃出来る騎士の中でもエリートである者達。
死体の中にも何人か魔導師がいた。数えていなかったので後何人生き残っているのかわからない。
ユリが突っ立っている俺の腕を掴み、揺さぶってくる。
「結界が発動した跡が……なかったのです。感知の結界は単純な結界故にすり抜けるのは不可能です。魔術の腕が相当離れていない限り絶対に無理です」
何を言いたいのか。憔悴したユリの表情を見下ろす。
つまりそれは相手が突出した腕前の魔導師だといいたいのか、あるいは……こういう可能性はどうだろう。
襲撃者が味方である可能性だ。相手が見知った者だったら魔導師達も結界を解除して招き入れるだろう。
浮かびかけたその考えを、眉を顰めて打ち消す。
ない。ありえない。例え相手が仲間だったとしても、剣を抜けばすぐに気づくはずだ。部屋には抵抗した後がなかったのだ。そもそも傷跡が異常すぎる。
今にも吐きそうだった。血の臭い、死臭には既に慣れたと思っていたが、それが味方の者となるとまた違ってくる。
俺がまだ吐いていないのは側にレビエリたちとユリがいるからだろう。




