一章
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それは塾からの帰り道だった。
冬だというのに季節外れの桜吹雪が舞うものだから、僕は足を止めてしまった。
足を止めなければ、今こんなことになっている筈はあるまい。いや。
足を止めていても、きっとこうなっていたに違いない。彼女は。
遣叉繰軌沙は、僕の前に現れて、僕の手を取って、恐らく確実に、こう言うのであろう。
「君が……私のキズナ」
こう、言うのであろう。
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僕、舞梛僅は、高校三年生である。そして冬ともあれば、言わずとも分かだろうが、受験である。
受験といえば勉強、勉強、勉強とこの二文字ばかりで、飽き飽きしてきた。僕は別に難関な大学を受けるつもりはないけれど、それでもそれなりに勉強は必要だったから、母に頼んで塾に通わせてもらっていた。
そんなこんなで、今日も塾。帰りにはすっかり道は真っ暗で、街灯も少ないこんな田舎じゃあ寂しい雰囲気というか、暗い何ともいえない雰囲気が漂っていた。
凍りつくような空気の中、僕は早歩きで家路を急いでいた。
そんな時。
ひらり、と何かが舞った。
雪かと思った僕は、げんなりしながら歩くペースを上げる。その雪は、前に進むとどんどん増える。ひらり、またひらりと僕の横を流れていく。
はた、と止まった。
雪じゃなかったのだ。
ふわりと飛んできたそれを手で掴む。
桜。
桜の花びらだった。
「え……」
驚いて顔を上げる。突風が吹いた。僕は目をつぶる。
突風とともに季節外れの桜の花びらが、僕にへばりついては飛んでいく。勢いが収まって、目を開けると、そこには。
「……初めまして」
何とも奇妙な格好をした少女が立っていた。淡いピンク色の、言うなれば着物に似ているそれを身につけた少女。翠色の長く綺麗な髪が風に靡く。少女の金色の瞳が、僕を値踏みするように睨んだ。
美しい、と思った。
ただ単純に、ただ素直に、美しい。
「君の名前を、教えてほしい」
「な、何で……」
透き通るような声に、僕はどぎまぎしてしまう。
「私が知りたいからさ」
「……僕は」
僕の名前は。
「ーーー舞梛僅」
少女は目を見開いた。そしてゆっくりと僕に近づいてくる。僕は逃げることも、目を逸らすことも出来ずにただ少女に目を奪われていた。
「舞梛……僅」
少女は呟く。
「探していた」
「え……?」
「君が私のーーー」
少女は僕の右手を取った。何、と訊く間も無かった。
「君が私の、キズナ!」
瞬間、ばあっと景色が変わった。
コンクリートで固められた道は、土の道に。壁は、森に。
「え、ちょっと……どうなって……!」
「やはりそうか!私の目に狂いはなかった!」
僕の言葉には耳も貸さず、少女は高く笑った。金色の瞳が光る。
僕は唐突に恐怖が湧き上がってきた。何だこの女は。気が狂っているんじゃあないのか。
「……っ」
僕は止まっていたままの身を翻して、走り出した。
「はは!はーーーって何逃げとんじゃあー!!」
バレるの早っ。いや、まあ目の前から逃げたんだからそりゃあバレるだろうけど!
「待て待て待てぇ!生意気なっ……」
僕はそんな彼女を無視して、無我夢中に走った。木の枝にぶつかりながら、転びそうになりながら。
どうなってるんだよ、ここ。さっきまでただの住宅地だったのに。
大分走っただろうか、息を切らせて、限界まで逃げた僕は膝に手をついて止まる。
「はあ、はあ……どうなってんだ……」
あの少女に手を触れられた瞬間、こんなよく分からない場所になるし、もしかしてこれは夢なんじゃないのか。それにしては木の枝で擦った傷が痛むけれど。
やっと落ち着いて、僕は息をつく。
さて、これからどうすればーーー。足を踏み出した時、足の数センチ先の地面に何かが刺さった。
「な!?」
「おや、もう少し前でしたか」
声のする方を見上げると、目を疑いたくなるような格好をした人が。
「初めましてかな?」
その男とも女とも分からない、まるで本やアニメで見たようなーーーそう、妖怪のような格好をした奴は、木の枝に立ち、僕を見下ろしながらにやにやと薄気味悪く笑って言った。
「だ、誰ですか……?」
「誰と聞かれてしまえば名乗らねばなりませんねぇ。しかし、ま、名乗らせるには自分から名乗るというのも礼儀でないでしょうか、ね?」
「僕は……舞梛僅」
「舞梛」
そいつはギラリと目を光らせた。
「僕が名乗ったんだから、あんたも名乗れよ」
「はっはっ。こいつは失礼。我は鬼陣組四番隊長、傑午」
「き、きしん……ぐみ?けつご?」
混乱してきたぞ。傑午というのが名前で間違いないだろうけれど、鬼陣組とは一体全体何だ?
「ま、自己紹介というのも終わりましたし、舞梛僅」
傑午はすっと僕に向かって手を向けた。長く鋭い、爪。
「ーーー覚悟」
傑午のあまりの速さに僕は目で追うことすらままならなかった。気がつけば傑午は空高くにおり、重力に従って自然落下。そして爪は僕に向いている。
僕はほとんど反射的にそれを避けた。辺りを土煙が包む。
やがて見えた地面は抉れていた。自然落下の力を利用したってこうは普通ならない。傑午という奴、かなりやばい。
「また外してしまいましたか。しかし、ま、まぐれも続くまい」
にやり、と傑午は笑った。勝ち誇ったような笑みだった。
「今度こそ、覚悟ーーー」
そう、手を振り上げ、正に僕に爪を刺そうとした時だった。
「舞梛!!こっちだ!」
ハッとして振り返る。傑午も同じ方向を見た。そこには先ほどの少女。
「手を取れ!」
少女は手を伸ばしている。僕は迷った。この二人が、もしかしてもしかすると、仲間かもしれないではないか。
「何をしている!早く!」
「よそ見をしている場合じゃあないんですよ!舞梛僅!」
少女と傑午に挟まれて、僕はやけくそだった。
「手を取れ舞梛!」
「死ね!舞梛僅ぁ!」
「ああもう、どうにでもなれ……っ!」
僕は必死に手を伸ばし、少女の手を取った。瞬間、辺りは光に包まれた。
「くっ……」
あまりの眩しさに僕は目を細める。やがて目が慣れると、僕の隣には少女が立っていて、僕の前には傑午が立っていた。傑午は先ほどまでの様子とは違い、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「舞梛、よくやった」
少女は僕の方こそ見なかったが、笑っていることが分かった。
「鬼陣組四番隊長、傑午殿。残念だったなあ。よくも生意気に私のパートナーを殺そうとしてくれた。許しを請うても私は聞かんぞ。生憎私の心は狭いのだ」
「許してもらおうなんざ思っちゃいないさ。あんたなんかにゃ特にな」
「はっ。死ぬ間際まで口の達者な奴だ」
何かもう、よく分からない状況だ。この少女は、傑午の敵だということしか分からない。少なくとも、僕の味方ではあるみたいだけれど。
少女は握った手に力を込めた。
今度は薄いピンク色の光が淡く手を包む。
「舞の術!桜華!」
桜吹雪が、彼女の左手から舞った。それは激しく渦を巻き、傑午へ向かって勢い良くぶつかって行く。
「ちっ……」
「終の術……って、あぁ!こら!逃げるな!」
少女が慌てて止めた時に、既に傑午の姿はそこにはなかった。
「逃げるなと言っておろうがー!!」
「敵に命令したって聞いてくれるわけないだろ……」
呆れて僕が言うと、少女はきっ、と僕を睨む。
「あー……おほん」
わざとらしく少女は咳払いをした。ここでようやく、僕と結んでいた右手を離した。
「自己紹介が遅れてしまったな。と言っても、私のせいではないのだが」
「すみません……」
勿論僕が逃げたせいなので、ここは素直に謝っておく。
「私は遣叉繰軌沙。舞梛、お前は私の『キズナ』だ」