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天使なんかじゃない

作者: 石田多紀

 一か月前、姉に子供が産まれた。

 おめでたい事だったが、うちで喜んでいる者はいない。

 赤ちゃんは、遺伝子異常を持っていた。

 もう二か月以上も前から、あたし達はそれを知っていた。少なくとも両親は、義兄から聞いていた。あたしは、両親のひそめた会話から、何かあることを感づいていた。

 姉に、何か言わなければならない。

 分かっているのだがとても重くて、あたしはまだ、見舞いに行っていなかった。

 二年生になり、クラス替えがあった。

 新しい担任教師が自己紹介を促し、順に立ち上がって挨拶を始めた。あたしは、名前だけを名乗ろうと考えていた。

 男子の三人めだった。

 華奢といっていい体つきの、整った顔をした人だ。教室が少し、ざわついた。ささやきが届き、あたしはびくんとした。

 彼は教室のざわめきを十分に聞いてから立ち上がり、少しハスキーな声で、言った。

「遠藤熾有です。みんないろんな事を影で言っているみたいだけれど、そういうのは嫌いだ。何か聞きたいことがあるなら聞くけれど、はっきり面と向かっていってくれ。そうじゃないなら、何も言うな」

 教室は、シンとした。

 気まずい緊張が漂い、彼が席に着いた後、次の人はなかなか立ち上がれなかった。

 妹が天使なのよ、という声が、耳に残る。

 姪も、天使症候群だったのだ。


 天使症候群は、二十年くらい前に初めて報告された珍しい遺伝子異常の一種だ。

 特徴は消化器官と心臓の奇形、そして、無性であることだった。

 性染色体の異常で、正常男子の染色体に女性染色体がくっついた物とかその反対とかはある。最近の論文では、いわゆるニューハーフになる人も、一種の性染色体異常だという。

 天使症候群の無性とは、そんな物ではない。ターナー症候群にしろクラインフェルター症候群にしろ、どちらかの性では、ある。オカマさんは、もともとは男だ。しかし天使症候群エンジェル・シンドロームの無性とは、文字通り性別不能なのだ。遺伝子をどこまで調べても、性染色体を分離できないのである。これが、天使症候群の、最大の特徴だった。

 去年、テレビ番組が取り上げたことで、この病気は一般に認知された。生まれたばかりの赤ちゃんが、この予後不良の病気であると告げられた両親の苦悩が、語られたのである。

 ここに、同じように天使症候群で子供を亡くしたという一組の夫婦が出ていた。この両親が、遠藤熾有の両親だというのだ。

 天使の子は短命で、大体が一歳前後で死んでしまう。去年の話しで三年前の事として語られていたのだから、遠藤は、中学生だ。

 その時遠藤は、どう考え、何を言ったのだろう。

 あたしは興味を持った。

 初めはそれが、遠藤熾有に近づいた理由だった。


「遠藤!」

 五月に入っていた。

 そのはっきりした物言いを見込まれたか、熾有は委員長になっていたが、滅多に委員会に顔を出すことがなかった。なんとか彼と接点を持ちたい一心であたしは副委員長になったが、会話をする機会はほとんどなくて、彼の代理で委員会に出るくらいのものだった。

 この日も委員会があった。しかし用事があり、あたしは彼にどうしても委員会に出るようにと言おうとした。

「遠藤、今日委員会があるの。あたしは出られないから、絶対に出てね」

 面倒くさそうに眉をひそめ、一度ため息をついてから、熾有は言った。

「俺、今日病院に行くんだ。森岡の用事は? どうしても出られないのか」

「何言ってるのよ、もともとは遠藤の仕事なのよ。今日はだめ。姉が帰ってくるの。どうしても家にいて迎えてあげなきゃ」

 姉が、家に帰ってくることになったのだ。天使の姪が生まれてから、姉夫婦は少しおかしくなり、一時別居した方が良いだろうという結論に達したのだ。

「なんだよそれ。俺は病院なんだぞ」

「どうせ歯医者か何かなんでしょ。明日にできないの」

「……わかったよ、どこでやるんだ」

 驚いたことに熾有は生徒会室の位置も知らず、結局あたしが案内をして、委員会も一緒に出る羽目になってしまった。

 四時半までには帰るといっていたのにとっくに五時も回ってしまっていた。仕方がないので、タクシーで帰ることにした。一時間に二本しかないバスを待っていたのでは、埒があかない。

「本当に急いでいたんだ、悪かった」

「何だと思ってたのよ」

「いや、お姉さんが帰ってくるくらいでどうしてそんなに急ぐのかなあ、と思って」

「家庭の事情よ」

 ぷんと横を向いたが、ずっと聞きたかった事を聞く、いい機会かも知れないと思った。

 タクシーをひろえる大通りまでつき合ってくれるという彼をそっと横目で眺め、それから意を決して、あたしは言った。

「……お姉ちゃんの子がね、天使症候群なの」

「え?」

 小さな声で、熾有は聞き返した。

 聞こえていないとは思わなかった。あたしは、かまわずに続けた。

「お産終わってから初めて、あたし会うのよ、姉に。一体なんて言えばいいのか、実は悩んでたんだ」

「森岡の、姪になるのか?」

「そう。姪。どうして分かるの、姪だって」

 天使の子は、性別がない。男でも女でも、どちらでもないのだ。役所にどちらで届けるかは、両親の考え一つなのだ。

「天使症候群の子供は、大抵が女で届けられるよ。それは天使だけじゃないんだ。ほかのちょっとした理由で性別が分からないときも、そうなんだよ。だからきっと、そうだろうと思ったんだ」

「……そうなんだ」

 二人とも、黙り込んでしまった。

 重い足取りで歩きながら、あたしは熾有に本当に聞きたかった事を言い出せずにいた。

 あなたは一体、天使の妹をどう思ったのか。それをどう、両親に言ったのか。

「遠藤……」

「森岡、姪っ子、可愛いか」

 突然足を止めて、熾有が言った。あたしはまだ姪には会っていない。大学病院のNICUにいる姪には、そう簡単に面会できないのだという理由をつけて。

「まだ会ってないから……」

「会ってやれ、早く。そして可愛いって言ってやれ、お姉さんに」

「……うん……」

 結局それからは一言も交わすことなく、あたし達は家に帰った。


 姉は明るく、あたしは別に何も言わなくとも良さそうなことに、内心ほっとしていた。食事が終わり、後ろめたさからあたしが後片づけに立った。姉は昔と同じように、お皿割るな、と憎まれ口を叩いた。

 良かった、姉は以前と同じじゃないか。

 子供のことは、きっと姉の中で折り合いがついたんだ。

 今度の土曜にでも、姉と一緒に姪のお見舞いに行こう。

 あの病院は、姉か義兄が一緒じゃないと、面会させてくれないのだ……。

「お姉ちゃん、土曜日も愛子ちゃんのお見舞いに行くんでしょう?」

 姪には、愛子という名がついていた。

「もちろん」

 居間の方から、姉も大声で返事をくれる。

「あたしも行って良いかなあ、会いたいし」

「あ、でも……」

 しかし途端に、姉の口調はおどおどしたようになった。

「でも、まだ体重が少なくて、会えるかどうか分からないわよ。もう少し体重が増えたら帰って来るんだから、その時にしたら」

 帰ってくる?

 帰ってこれるはずがない。

 姪の心奇形はかなりひどく、酸素を流した保育器から出られないのだと、母が言っていたのだ。

「だって、お姉ちゃん……」

「いいから早く洗ってしまいなさい、麻紀!」

 父が怒鳴った。

 声だけとはいえ、滅多に怒らない父の怒声にあたしはびくっとすくみ上がり、それ以上喋るのを止めた。

「お父さん、何も怒鳴らなくたっていいでしょう。麻紀、もう少ししたら愛子も保育器から出られるから、それからにしてよ、いいでしょ」

 姉の声はあくまでも明るく、しかし沈痛な雰囲気が漂ってきて、あたしは口の中で、うん、と返事をした。

 姉は少し混乱しているのだと聞いたのは、その日、ベッドに入ってからだった。

 お休みを言ったあとで、母が部屋に来たのだ。

 姉は、少し混乱している。愛子は体重が足りないだけの、普通の女の子だと思っているのだ、と。

「だからあんたも、なるべく愛子は、普通の赤ちゃんなんだという風に振る舞ってちょうだい。どうせ、そう長いことではないんだから」

 一歳にはなれないだろうと、そう愛子は告知されているのだと、愛子の祖母は泣きながら言った。


「よい子症候群って、知ってるか?」

 次の日、どうだった、と聞いてきた熾有に昨日の出来事を話した。熾有は沈痛な表情でそれを聞き、言った。

「よいこしょうこうぐん?」

「うん。生まれてくる赤ん坊は、健康であるのが当たり前であり、その上に完全無欠でなければならないという、昨今の風潮のこと」

「完全無欠……」

「そう。ほんのちょっとの障害すら認められずに、養育拒否とか虐待とか、そういうところまで進んでしまうこともある。特に母親はね、当然生まれるはずだった健常な赤ん坊を失ってしまったばかりじゃなく、四十週かけて築き上げてきた母親像まで一緒に失うんだ。これを二重の対象喪失といって、まわりが一番、気遣わなきゃならないのは、実はここだといわれている。森岡のお姉さんも、きっとそういう状態なんだよ。もう少ししたら、きっと落ち着くさ。天使の子だって、笑わないわけじゃないし、動かないわけじゃないんだから」

「詳しいのね、遠藤」

「……少し勉強したから」

 照れたようにそっぽを向いて、言った。

「ねえ遠藤、あんた最初、お母さん達になんて言ったか覚えてる? 妹が生まれた時」

「いや」

「そうか。あたしねえ、何て姉に言えばいいのか、ずっと悩んでたの。姪が遺伝子異常らしいことは、もうずっと前から分かってたから」

「……」

「慰めるべきなのか、気づかない振りをするべきなのかって。昨日あんたに可愛いって言ってやれって言われて、すごく気が楽になったの。ありがとう」

「大したことじゃないよ」

 呟くように熾有は言い、うつむいて黙り込んだ。口許に当てた長い指が、ほんの少し震えていた。

 この時、あたしは気づくべきだったのかも知れない。

 熾有がどうして、こんなに詳しいのかを。

 三年以上も前に死んでしまった妹のために、そんなに天使症候群とその周辺について詳しいわけがないのだと、気づくべきだったのだ。

 あたしが気づいたのは、別のことだった。

 熾有の細くて長い指や、明るい色の柔らかい髪、骨張った華奢な体格と、それを包む白い肌の綺麗さ。

 同じ高校二年生の男子の、誰とも共通項を持たない美しさだけに、気づいた。


 しかし翌日から、遠藤熾有は早退することが多くなり、ついには長期休暇を取ってしまった。

 学校での楽しみがなくなってしまったある日、姉が倒れたと、病院から連絡が入った。

 愛子の面会を終えて帰るときに、廊下で倒れたのだという。

 帰宅したところだったあたしは、取る物もとりあえず、病院に向かった。今日に限って、母も出かけている。

 姉は、ストレス性の過労だろうと言われた。

 二、三日は入院した方が良いといわれ、あたしは一度、荷物を取りに家に戻ることにした。NICUのある小児科の廊下で倒れたので、なんと姉は小児科に入院することになった。

 最近鬱状態にあった姉も、これはおかしかったのか、ひとしきり笑った後、涙をすうっと流して、ごめんね、と、言った。

「ごめんね、麻紀。本当はあたしも、分かっているのよ。わかっているんだけれど、だけど……」

「いいよ、お姉ちゃん。喋んなくていいよ。あたしも分かってるから。お母さんたちだって、わかってるから」

「どうしても、考えられないのよ。あたしの赤ちゃんが病気だなんて。だって、どうして、あたしと賢の子供が、天使症候群なの? だまされないわよ、天使なんて言葉に、だまされないわ」

 病室の戸口で、あたしは姉の方を振り返った。目がつり上がり、確かにこれは、普通ではなかった。熾有に言われていたことを思い出して、できる限り優しく、言った。

「でもお姉ちゃん、愛子は可愛いわよ。見なくたって分かる。お姉ちゃんの子だもん。たとえ何であったって、絶対にあたしには可愛いわ。だってお姉ちゃんの娘で、お母さんの孫で、あたしの可愛い姪だもの」

「……ええ、そうよね……・」

 姉の声から力が抜けた。表情から険しさが消えて、以前のままの姉に、一瞬で戻った。

「ありがとう、麻紀、ごめんね……」

 顔を手で覆って泣き出した姉を残して、あたしは病室を出た。

 何を分かっているのか、あたしにだって、よくは分からない。

 姪が天使であったこと。

 たぶん、一歳にならないうちに死んでしまうだろう事。

 天使症候群の子は消化器系に重大な欠陥を持っているために、ミルクを飲んだりはできないこと。だから姉は、張ってくる自分の母乳を、いつも洗面台に流していること。

 あたしは母親ではないから、それが一体どういう意味を持つか、本当には分かっていない。産まれてくる子が天使でなければ、絶対に、一生かけても、姉の気持ちなんて、わかりはしないのだ。

 熾有はどうして、知っていたのだろう。

 姉が、今は混乱しているだけだって。愛子を可愛いと言ってやれって。

 その一言が、姉に一番必要だって。

 妹が天使だったから? それとも、ほかの誰かが?。

 暗い気分で廊下を歩いていると、小さく自分をよぶ声が聞こえた気がした。

 ふと顔を上げると、そこに、病衣を着た熾有が、立っていた。

「熾有……」

「どうした、森岡。姪ごさんの見舞いか?」

「あんたこそ、一体どうしたのよ。入院したなんて、先生、言ってなかったわよ」

「学校には言ってないんだ」

 ベージュの、体に合っていない病衣にひっかけたカーディガンの襟元を引っぱる。

「俺、病気持ちなんだ。治るような種類の物じゃなくて、一生つき合って行かなきゃならない。もうこれ以上、病状が変わることなんかないと思うんだが、定期的に検査だけは、しなきゃならない。ま、明日には退院できるから、そのまま学校に行く」

「そうなんだ」

 熾有の顔は見ずに答えた。

「だから詳しかったの? 病気の子を持った親の事とか」

「何とか理解しないと、自分を保っていられないこともあってね」

 綺麗な熾有が言う。

 あたしよりもずっと女性らしく美しい。

「お姉ちゃんが、倒れたの。ストレス性の過労だろうって。あたしね、熾有に言われたとおり、お姉ちゃんに愛子は可愛いって言ったわ。まだ会った事はないんだけれど、可愛いに違いないって」

「そうか」

「お姉ちゃん、たぶん喜んでくれたと思う。ありがとうって、言ってくれた」

「……よかったな」

「うん。熾有にも、お礼言わなきゃね。ありがとう」

 そう言ってしまってから、いきなりなぜか恥ずかしくなった。顔がカアッと赤くなるのが分かった。

 あわててうつむいたので、この時熾有がどんな顔をしていたか分からない。

 いや、とか何とかくぐもった声が聞こえ、それから彼は、言ったのだ。

「なあ森岡、俺とつき合ってくれないか」

 嬉しさよりも驚きの方が強くて、答えられない。あたしはその場に硬直し、あわてた熾有が、「へ、返事は後でいいから」とまくし立てるのを、遠くで聞いた。

 好きな相手がつき合ってくれといったのだ、嬉しくないわけがない。その場で「はい」と言いたかったのに、何とか動悸をしずめて顔を上げたときには、すでに熾有はそこにいなかった。

「もう少し待ってくれればいいのに」

 スリッパで走る熾有の後ろ姿に呟いたが、遅い。

 こみ上げる嬉しさを、口許を覆っておさえる。

 それと、一抹の不安を。


 次の日から、返事をするためのチャンスを窺ったが、なかなかきっかけがなかった。朝はいつも、熾有は遅刻ぎりぎりだし、中休みごとに、どこかに出かけてしまう。あたしにしてもまともに彼の顔を見れず、授業中、目の端に彼の姿がちらりと映るだけで、いてもたってもいられなくなった。隣の席の恵美子が、一度となく「大丈夫?」と聞いてきた位だ。その時は適当にごまかしたが、あたしが熾有を好きだと言うことは、すぐにばれてしまった。

「だって分かるよ、あんなに遠藤ばかり見つめていたら。気をつけなよー。今はあんたが一番仲いいみたいだけどさ、遠藤って、結構ファンが多いんだから」

「え、そうなの!?」

 驚いた。暗いという理由で、あまり同級生の女子には、受けが良くなかったからだ。

「無愛想だし、あたしはタイプじゃないけど、ほかのクラスじゃ分かんないもんね、そんな事。ほら、綺麗な顔しているし、どっか中性的じゃない、遠藤って。今受けるタイプだよね」

 知らなかった。

 どうもあたしはそっち関係が鈍い。熾有に近づいた理由だって、最初は「天使」だったし。

 改めて熾有の席を見た。

 熾有は、そこにはいなかった。あまりクラスメートと馴染んでいるとはいえない彼は、ほとんどの時間を一人で過ごし、昼休みも教室でお弁当を食べるでもなく、中庭の枯れかけた大きな桜の木の下にいることが多かった。

 何をしているわけではない。

 ただ黙って根元に座り込み、ときおり眠っているだけだ。

 その時に熾有は、教室にいるときとは違ってとてもおだやかな表情をしていて、あたしはその桜の木に嫉妬を感じることさえあった。

 もともと無口だった熾有は、だんだん誰とも口を利かなくなって言った。

 あたしは返事ができないことに、いらいらとしていた。わざとじらしているのかと最初は思った。だがそのうちに、あれは自分の思いこみだったのでは、と思うようになった。

 すべて妄想。

 熾有を好きな自分の思いつめた意識が、都合のいいように幻想を見せただけなのではないか、と。

 一度そう考えると、もうすべてが怖くなり、今度は自分から熾有をさけるようになった。もしも話しをして、それが正しいと分かってしまったら? 

 それが怖かった。

 熾有は日毎に綺麗になっていくように、あたしには思えた。白い肌がますます透明感を増していたし、あまり血の気のなかった唇が、紅をさしたかのように艶めいて見えることすらあった。

 あたしは自分がおかしくなっているんだと思っていた。熾有恋しさのあまり、あばたもえくぼが極まっているのだと。

 しかし、ほかの同級生にもそう映っていたのだ。

「最近遠藤くん、ますます綺麗よね」

 一緒にお弁当を食べていた一人が、言った。

「そうそう。前から綺麗な人だったけど、最近お化粧しているかのようじゃない、どうしてだと思う?」

「麻紀、何か知らないの」

 恵美子が聞いたが、もちろん知らないあたしは、力一杯首をふった。

「知らない知らない、どうしてあたしが知っているのよ」

「だって遠藤と一番仲いいの、たぶんあんたじゃない?」

「それにしてもさ、どうしてだろうね。女の子だったらこういう時、恋しているっていうけれど、男子でもいうのかな」

「まっさかあ」

 あははと笑ってその話題を終えた。

 でもあたしは、笑えなかった。

 熾有は確かに綺麗になったのだ。

 どうしてなのか。


 愛子が急変したという連絡が来たのは、その夜だった。三日くらい前から、何かお腹に腫瘤が触れるといわれていたが、それがついに肺を圧迫しはじめ、人工呼吸器でも、おいつかなくなってきたのだ。

 あたし達は急いで病院に向かった。姉は奇妙に落ち着いていた。その静かさが却って不気味で、あたしはずっとどきどきしていた。

 病院にはすでに義兄がいた。泣いていたらしく赤い目をして、オロオロと歩き回っていた。

「ご両親、どうぞ」

 NICUの白いドアが開いて、青い帽子をすっぽり被った看護師さんが、姉たちを呼ぶ。

 姉が、義兄の手をしっかりと握りしめて、中へ入っていった。

 十分後、あたし達は愛子の死を知った。


 愛子は小さな小さな赤ちゃんだった。下から両手ですくえるくらいだ。直接命を奪うことになったお腹の腫瘤とやらが、異様なくらいぽっこりと目立つ。

 プラスチックの透明な保育器の中の愛子は、人というより精巧に作り上げられた、奇妙な人形のようだった。

 ガラスの棺に収められた、赤ちゃんのレプリカ。

 可愛くないわけではいない。

 もう開かない、まつげの長い瞳、小さな鼻、ぽかんと、小指がやっと入るくらい開いた唇、小さな小さな顎。

 可愛い可愛い愛子。 でも一生懸命可愛いと思わないと、あたしあんたを、可愛いと思えない……。

 愛子の死にではなく、自分の感情の乏しさに泣きそうになったとき、震える姉の声が聞こえた。

「そうです先生、この、お腹の腫れ物を取って下さい。こんな……、こんな苦しそうな姿のままで眠るなんて……」

 両手で顔を覆い、姉はついに泣き出した。義兄が支えていなければ、床に座り込んでしまっただろう。

 ああ、かわいそうにね、愛子。あなたの一生は、母親を泣かす一生だった。嬉しそうな顔を向けられたこともなく、楽しそうなハミングも、きっとあなたは聞いていない。

 かわいそうにね、愛子。

 そうしてやっと、あたしは愛子のために、泣いた。

 二時間後、綺麗なベビー服に包まれて、愛子は姉の手に戻ってきた。

 摘出した腫瘤を、医者はちらりと見せてくれた。大人の握りこぶし大の、固そうな質感の物。骨のような物の周囲を筋肉質が包み、そのまわりを脂肪が覆っていたという。

 血流を失ったために茶色くなったそれは、巨大な種のように、あたしには見えた。


 一連の儀式を終えて学校に行くようになり、あたしは熾有を探した。

 どうしても、熾有と話しをしたかった。愛子の死んだことを話して、お礼を言わなければならない。

 たぶん、あたしが考えついてしまったとおりなのだと思う。

 これが正しければ、愛子をどう思ったのか、これは熾有にとっても大きな問題だと思うのだ。

 あたしは熾有を探した。

 朝には教室にいたが三時間目にはすでにいなくなっていた熾有は、案の定、中庭にいた。

 例の桜の木の下に、半分目を閉じて座り込んでいた。

 きっと見えているだろうに、先生達も何も言わないようだ。

 あたしはきちんと靴を履き替えて、中庭に向かった。


 正面玄関をでて左側にずっと回っていくと、体育館と校舎、特別教室棟に三方を囲まれた中庭に出る。

 中庭の奥の方、体育館側の三分の一の所に、古い桜の木がある。もう枯れかけた、創立当初からあるという花の咲かない古木の根元に、熾有は背をもたせかけて座っている。

「……熾有」

 そっと、声をかけた。 半開きだった目を見開いてあたしを見、熾有は少しからだを引いた。

「森岡」

「うん。あのね、熾有、愛子が死んだの。

 あたし、結局生きているうちは愛子に会えなかったけれど、お姉ちゃんには言ってあげる事、間に合った。ありがとう」

 熾有はゆっくり立ち上がったが、決して桜の木から離れようとはしない。

「愛子、可愛かった」 聞いているのかいないのか分からなかったが、あたしに視線は向けてくれた。

「……前に、性別不明の子は女の子で届けられることが多いって話したよな。どうしてだかわかるか?」

 全然関係ないかに思えることを、熾有は言いだした。

 何を言いだすつもりなのか、あたしは予測がついていた。

 聞きたくなかった。しかし、どこにも逃げ場はない。

「後で何事かあったときに、女の子であれば、取り返しがきくんだよ。後で生物学的に男であると分かっても、精巣摘出とホルモン療法、可能なら膣形成で、いくらでも女性になれる。病気でなくともそういう人って、いるだろう」

「うん」

「天使症候群の場合、これが問題になったことはない。無性として、性別欄未記入で役所に届けても、後ではっきりさせるようにと言われることもない。なぜなら、天使の子は、性別が問題になる頃まで、生きることがないからだ」

 そう。あのテレビでも言っていた。ほぼ全例、一歳になる前に死んでしまう、大変予後の悪い疾患だって。

「どうして天使って言うか、知っているか? 最初にこれを報告した医者が、カトリック教者だったんだな。彼は、天使は無性であると子供の頃に教わっていて、それで天使症候群と命名したんだ」

 咲きはじめのコスモスが、風に揺れている。不格好に頭だけ重そうに見えるのに、首のしおれている花はない。

「だから中には、男児として届けられる天使の子もいた。別に、医者としてもどっちでも良かった。どうせ死んでしまうんだ、男だろうが女だろうが、何の問題がある?」

 愛子は女の子として届けられた。お医者さんはどちらでもかまわない、ご両親のお好きなようにと言ったのだと、母が言っていた。

「だが、全例ではなかったんだ。一例だけ、あるケースだけは、なぜか一歳を過ぎても死にはしなかった。その子は痕跡のような腸をつないでもらい、特殊な栄養剤で命を繋いだ。生みの両親は養育拒否をしていたため、この医者の元で育てられた。それもまた、この子の命を繋いだ」

 体育館からバスケットボールの音が響いてくる。四階の音楽室の窓から、アルトリコーダーの音が、切れ切れに届く。日はまだ高いが、もうすぐ風が冷たくなるだろう。

「両親が、男子として届けた。どうせすぐに死ぬんだ、男でも女でも構わなかった。十七年間、別に考えたこともなかった」

 あたしは一度しっかりと目を閉じて、呼吸を整えてから、眼を見開いた。

「森岡、俺は……」

「待って熾有。先に言わせて」

 あなたがまだ遠藤熾有であるうちに、あたしは言わなければならないことがあるのだ。

「あたしも、あなたが好き。大好き」

 熾有は傷つけられた表情になり、長く沈黙した後、吐き捨てるように言った。

「俺が、天使でもか」

 あたしは視線をずらして長く息を吐いた。

 やはりそうだったのだ。

 妹が天使なのではない。熾有自身が、天使だったのだ。

 気が遠くなる感覚があった。目を閉じたら、すぐにも気を失ってしまうと思った。

 だから、しっかりと目を見開いた。

 目を見開いて、遠藤熾有をまっすぐに見つめた。

「違う熾有、だから、あなたがそれを言いだす前に、言ってしまいたかった」

「俺は、別に男でも女でも、構わないと思っていた。今生きてられるんならな。だけど、おまえに会って、外見だけでも男で良かったと、本当にそう思ったんだ。

 なのに、森岡、なのにだ!」

 熾有は泣いた。目元を拭った細い腕に、生々しい点滴の内出血痕があった。

「いいじゃない、天使だって。別に構いやしないわ、あたしは」

 必死だった。

 何とかしないと熾有が壊れると思った。揺れるコスモスよりも不安定に見えた。

「初潮が来たんだ!」

 

 中庭を渡る風は、日が傾く頃にはまだまだ冷たくなった。リコーダの音もしなくなり、体育館からは今度は、竹刀のふれあう高い澄んだ音がしていた。

 赤いコスモスもひまわりも、少し花をしぼめたように見える。

 西の方は特別教室棟にふさがれて、沈む夕日は見えない。それでも、空が橙色に燃えるのは分かった。校舎は、その輪郭を黒い稜線として、ただ空の広さだけを強調しているようだった。

 桜の木に背をついて、熾有は泣いていた。

 あたしも、泣きたかったはずだ。

 では、恋した男は女だったというのか。

 それは、あんまりではないか。

 あんまりではないか。

 しかしあたしは、さほど自分がショックを受けていないことに、気づいていた。

「ごめん、泣くつもりじゃなかった。

 初潮が来たっていったけど、それは違うんだ。だって俺には、もちろん子宮なんてないんだからな。医者も、分からないっていうんだ。流れ出ている血液は、ヒトの血液とは少し違うと言うんだ。じゃあ、俺は何だ? 男でないことは知っている。初潮があったが、女でもない。しかも、ヒトの血液じゃない物を持っている。

 それじゃあ、俺は何なんだ?

 森岡、俺は何なんだ?」

 彼は何なのか。

 もちろん、あたしにだって分かりはしない。

 男なのか女なのか、人なのか、人ではないのか。

「愛子ちゃんは、どうして死んだ?」

「……お腹に、何か腫れ物ができて、それが肺を押しつぶして……」

 言いよどんだのは愛子の死を思い出したからではない。

 熾有の、周りが、何か揺らいで見えた。

 陽炎の立つかのように周囲を透明な霧が包み始める。

「俺は、出血多量で死ぬよ、森岡。血が、止まらないんだ」

 桜の木が、張りを取り戻したかに見える。なにか匂う風が吹く。

 ほのかに甘い、かすかに酸い……。

 桜だ。

 あたしははっとした。

 枯れかけた桜の木が、徐々に蘇っていると感じた。

「ごめんな、森岡……」

「止めて熾有、ここにいて、熾有!」

 男で女でもなく、あるいは人でもない。

 だがそれは、一体大切なことなのか?

 愛子は姉の子で、天使症候群の女の子で、あたしの姪だ。

 もしかしたら愛子だって、同じだったかも知れない。だけど、やっぱり姉の子であたしの姪なのだ。可愛いあたしの姪なのだ。

 だったら人だろうが人でなかろうが、構いやしないじゃないか。

 目の前にいるのは、あたしが恋した遠藤熾有だ。

 男ではないかも知れない。それは分かっていた。

 それでもやっぱり、好きだった。

 なぜなら、熾有は熾有だからだ。

「あたしは熾有が好きなの。熾有もあたしが好きなんだったら、ここにいて。抵抗して!」

 何がそう叫ばしたのか、分からない。

 熾有が、桜に喰われると思ったのだ。

 種のような、愛子を殺した腫瘤。

 生き生きと見えるこの桜。

 あたしは混乱していた。

 愛子も熾有も、同じ物に殺されると思ったのだ。

 何に?

 植物に?

 「熾有!」

 嫌だ、そんな事にはさせない。

 あたしは熾有に抱きついた。桜の木から、彼をもぎ取るようにして、そのままコスモスの群に倒れ込む。

「いや、熾有、絶対に、いや」

 反応のない彼の胸にすがって泣く。

 遠巻きに授業を終えた生徒が見ている。

 もう、だめなのかもしれないと思ったとき、細い指が髪を梳いた。「麻紀」

 はっとして顔を上げる。

「大丈夫だよ……まだ」  


 二週間後、伸びた髪を後ろで束ねて、熾有は学校に来るようになった。その頃にはすでにあたし達は、学校の名物カップルになってしまっていた。

 止血剤を打ち続けてやっと止まったという月経は、結局なんだったのか、今でも検査中だという。

 実は自殺も考えていたと、熾有はあたしに打ち明けた。自分が自分であることを、信じられなくなっていたと。

「だけど考えたら、そんなの誰だって同じだよな。

 まだ、人間どこからやってきたのか、知ってる奴なんていないんだ。

 俺がちょっと人と違ったって、どうでもいいよな」

 一人で解決したような顔をして。

 ちょっと小憎たらしくなって、あたしは言った。

「そうそう。世の中には犬が恋人って人もたくさんいるしね。似たようなもんよ」

 だが気になることもある。熾有は、まだ、といった。

 それが、何のことなのか。

 人の不安を知ってか知らずか、ちょっと笑って、熾有が答える。

「ちがう。天使だ」




          

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