第五話 =変化=
失神する士、茫然とする京子を背中に航太郎は一人、大ホールを横切っていく。
彼にかかる声は無い。歓声も無ければ罵声も無い。その場にいる者は、ただじっと彼の姿を見つめるだけだった。
航太郎がどうなったのか、何をしたのか。分からないわけでは無い。むしろ嫌と言うほど見せつけられた。ただ、信じたくなかっただけだ。彼の様な能力者が同じ学園に、しかも最底辺と言われるFクラスにいた事に。
しかし一つだけ、全員が認めざるを得ない事象があった。
今ここで、確かに航太郎は勝ったのだ。巨大な重力に握り潰され、原型が判別不能になるほど木端微塵に飛び散った身体を衆人に晒しながらも、あの3-Aの榎本士に無傷で勝利したのだ。
そんな矛盾や理不尽の塊となった事実を、認めなくてはいけない。それが、菅原航太郎という男の戦いを目にした者の義務なのだから。
「…………」
誰よりも間近でこの事実を目の当たりにした愛も、観覧席の生徒たちと同様に航太郎を黙視していた。
今まで誰も、国家すらも逆らえなかった権力に、矛盾を事実に変える事で打ち勝った航太郎は愛の目の前まで歩み寄ると、その足を止めた。そして何時ものように独特の雰囲気を帯びた無表情で、彼女の瞳をしっかりと見据えている。愛もまた、航太郎の紅眼を捉えたまま微動だにしない。
「よぅ、お疲れさん。菅っち」
そんな二人に声を掛けたのは、観覧席前列のフェンスに腕を掛け身を乗り出した仁だった。顔には笑顔が張り付いていたが、先ほどまでの狂ったものではなく、いつもの彼の、あっけらかんとした笑顔だ。
航太郎はいつも通りゆっくりと首を動かし、仁の笑顔を見つめた。
「どうだぃ、あの世の淵を見てきた気分は」
「……やっぱり慣れるもんじゃないですね。旅行先にはお勧め出来ません」
「そりゃ残念だ。霧ちゃん先生に頼んで、修学旅行の行き先にでもしてもらおうかと思ったんだけどね」
「やめておいた方が身のためですよ。波川先輩の場合、片道切符しか買えませんから」
そんな軽口を返すと、航太郎は再びその紅を愛へと向けた。
「えっと……」
戸惑いを隠しきれない様子の愛。そんな彼女をしばし見つめると、航太郎は口を開いた。
「…………怖いか」
「えっ」
突然投げかけられた航太郎の言葉に、愛は目を見開いた。その表情に変わりは無かったが、声色はどこか悲しげで、寂しげで、そして――――苦しそうだった。
「俺が怖いか。こんな殺されても死なない化け物が、恐ろしいか」
愛を値踏みする様に問いかけ続ける航太郎を、彼女はしばし黙って見ていた。
だがやがて、彼の問いを否定するかのように微笑む。
「さっき起きた事が事実でも虚実でも、地獄に堕とされかけた私を救い上げてくれたのも、今こうして目の前で語りかけてくれているのも、間違いなくいつもの菅原さんです。だから……怖くなんかありません」
刹那、愛の表情が微笑みから笑顔へと変わった。
「私を助けてくれて……ありがとうございました!」
航太郎は思わず、伏し目がちの瞳を目いっぱい開く。
「…………救われたのは、俺だよ」
顔を伏せ、誰にも聞かれない様に呟いた。
愛は「何て言ったんですか?」と首を傾げたが、次の瞬間にはその表情を驚嘆へと変える。
「……ありがとう」
そういって、航太郎は――――微笑んだ。
それは愛も、龍ヶ峰学園内の誰も見た事が無かった、航太郎の笑顔だった。とても不器用で、不格好だったけど、おそらく彼が精一杯浮かべたであろうその笑顔が、愛にはとても綺麗に思えた。
だが、すぐにその笑みは航太郎の顔から消え失せ、変わりにいつもの無表情が姿を現す。
そして、ス――と。
愛の前に、右手を優しく差し伸べた。
「もう此処に用は無いし、さっさと帰ろうか。まだ愛との昼食の約束も果たしてないしな」
「っ、……はい! 航太郎さん!」
目尻に少し涙を蓄え、愛は笑う。
そして、ゆっくりと己の左手を航太郎の右手の上に乗せた。
「ふぅん……まさか、あの人に勝っちゃう人がいたなんてね。まぁ良い事だけど。榎本くんにも、良い薬になったでしょうし」
航太郎たちが退館した後。
3-Aの生徒たちが慌てた様子で士の元へと走っていく中、一人の女生徒が航太郎のいた場所を見つめて呟いた。その言い草と冷静な態度は、士などまるで興味の種になっていない様子だった。むしろ彼女には、榎本士を完膚なきまでに叩きのめした航太郎の方が魅力的に思えるのだ。
「菅原航太郎くん、かぁ……興味あるなぁ、面白いなぁ」
柔らかく微笑む少女。だがその声色は、新しい玩具を手に入れた子供の様に無邪気で、そして―――――狂気に満ちていた。
■ □ ■ □
「着きましたよ、航太郎さん」
「あぁ……着いたな」
Fクラスのドアの前で告げられた愛の言葉に、航太郎は短く答える。ぼーっとその扉を見つめる航太郎を見る愛の目は、どこか不安そうだった。
「えっと、その……大丈夫ですか?」
「何が?」
「いえ、あの……航太郎さん、何だか怯えてるみたいで……『怖がられるんじゃないか』って」
航太郎の視線が、ゆっくりと愛の方へ向けられる。それを受け、愛は顔を少し赤らめて両手を上げた。
「す、すみません! 余計なお節介でしたよね!?」
「……いや」
短くそう言うと、航太郎は再び視線を扉へと移した。
「心配なんてしてない、と言ったら嘘になる。あんな姿を晒した俺を、皆が恐れるんじゃないかって不安だし、心配だし、怖い」
でも、と言葉を続け、一拍おいて航太郎は言う。
「愛は言ってくれただろ……『怖くなんてない』って。それだけで、俺には十分だよ。
人間、たった一つでも〝希望〟があれば生きていけるんだから」
続けられた言葉は、愛にとってこれ以上ないまでに嬉しいものだった。航太郎は自分の事を『希望』だと言ってくれたのだ。気弱で、優柔不断で、臆病な自分を。
思わず溢れだしそうになる涙を堪え、愛は笑って見せる。
「さぁ、入りましょう。きっと皆、航太郎さんの事待ってます」
「……そうだな」
ゆっくりと扉に手を掛けた航太郎は、やはりいつも通り。ゆっくりとその扉を開いていく。
そして次に、航太郎に襲いかかったのは――――
パァーン! と言う音の束と、無数の金の紙吹雪だった。
思わず、愛は目を見開いた。航太郎はと言うと、やはり表情は変わっていない。だが彼を纏う雰囲気は、明らかに驚いている様に思えた。
Fクラスへ戻った二人を待ち構えていたもの。それは、
「菅原航太郎くん!」
「3-F・榎本士との決闘勝利」
「おめでとう!!!」
そんな不協和音と、手にクラッカーを持ったFクラスの笑顔だった。
状況理解に苦しむ航太郎の前に、彩が微笑みを浮かべて歩み寄る。そして、程よく日焼けした右手を航太郎の肩に乗せた。
「よくやったな、航太郎。お前にあんな能力があったなんて驚いたが、よくアイツの鼻をひん曲げてくれた」
「おめでとう、航太郎君! あの時の航太郎君、ちょっとかっこ良かったよ?」
顔をほんのり紅潮させ、満面の笑みで言う百花。
「航太郎殿! お手柄ですぞ! そして何より、今回の決闘でのフラグ建設、おめでとうございます!」
丸メガネを光らせながら、興奮気味に言う元春。
「かっこ良かったすよ! コータロー先輩!」
いつも通りの眩い笑顔で言う新。
「…………お疲れ様です」
仏頂面の陽。だがそれは、照れ隠しの様にも思えた。
それぞれがそれぞれの言葉で、航太郎を労う。唯一汐音だけは、離れて壁に寄りかかっているが。
愛は思わず、ニコリと笑った。自分が心配する必要など、どこにも無かったのだ。どんなに恐ろしくても、どんなに化け物じみていても、普段の航太郎を知っているFクラスの面々が、そう簡単に彼を……仲間を恐れる筈がない。むしろ、航太郎が迫害を受けるのではないかと心配していた自分が恥ずかしかった。
「兎にも角にも菅っち、お疲れさん! そしておめでとうな!」
最後に無邪気な笑顔でそう告げたのは、仁だった。
航太郎は気恥ずかしそうに、ぽりぽりと頭を掻く。そして、彼のFクラスへの返答は
「…………………………どうも」
たった一言のみ。だが、いかにも彼らしい不器用な感謝の言葉だった。
それとほぼ同時に、ドアの前に立つ愛の後ろから声が聞こえてきた。
「おっ、なんだなんだ。祝勝会の真っ最中か?」
声の主は、Fクラスの担任である立壁だった。彼の姿を確認したFクラスは、たちまちどんよりとした表情を作る。
「先生……アンタが登場したせいで、せっかくの空気が台無しだよ」
彩が先制を取る。
「さすがに引きます……」
それに続く形で、百花が言う。
「KYという言葉は、先生のためにあるのですな……」
元春が追撃する。
「立壁先生……マジ無いっす」
そして最後に、新がフィニッシュを決めた。
「お前ら全員後で職員室に来い!」
涙声で叫ぶ立壁。いや、声だけでなく実際に涙が光っている。もはやFクラス内で、彼の威厳は無いに等しいらしい。
そんな騒がしいクラスの様子を、仁は遠目で微笑みながら見つめていた。視界の中心には、今日のヒーローインタビューを受け、少し困った様子の航太郎がいた。
「……もしかして、波川先輩は知っていたの?」
「んー?」
突然彼に声を掛けたのは、それまでダンマリを決め込んでいた汐音だった。
仁は彼女に視線を移し、おどけた様な表情を作る。
「菅原くんの能力についてよ。どうなの?」
「まさか」
軽い口調で、汐音の仮説を否定する。
「霧ちゃん先生でも知らなかったんだよ? 俺が知ってるわけないじゃんか」
「だったら何故、あんなに自信満々に『菅原くんは勝つ』と言いきれたのかしら……本当にただの勘?」
しばし無言で見つめあう二人。
未だおどけた表情を崩さない仁に対し、汐音のそれは明らかに仁を疑っていた。こう見えても、汐音はクラスメイトの事をよく観察している。そんな彼女には、少人数であるがために団結力も他クラスより一倍強いFクラスの中でも百花についでその意識が強い仁が、何の根拠もなくあんな事を口にするとは、到底思えなかったのだ。
だが、仁の返答は汐音のそれを真っ向から否定する。
「本当に、ただの勘だよ」
「…………そう」
明らかな違和感と疑念を抱きつつも、汐音はそれ以上の追及を止めた。
そして次に、クラスの輪の中心にいる航太郎へと目を向ける。人間観察を得意とし、『理解できないものなど無い』とまで言われた彼女にとって、初めて現れた異端者である彼を。
(本当に、あなたは一体何者なの? ……菅原くん)
彼女の中の疑問が解消される日が来るのか。それは、誰も知りえない問いだった。
「すっかり人気者ですね、航太郎さん」
「愛が客観的に見てそう思うんなら、そうなのかもな」
心底面倒くさそうな様子で、航太郎は答える。だがその姿は、愛にはとても楽しげに見えた。そして、彼女は真に理解する。何故、自分が航太郎に惹かれたのか。
ぶっきらぼうだが、仲間を信頼し、仲間のために立ち上がる事が出来る。どんな理不尽を前にしても、決して自分を曲げずにいられる。
愛は無意識に頬を紅潮させた。そうなのだ。自分はそんな彼が……。
不器用で、優しくて、その癖人一倍強い信念と自分を持った航太郎の事が―――――――
「大好き、です」
「何か言った?」
「いえ、何にも!」
笑顔で答える愛に、航太郎は不思議そうに首を傾げた。
今はこれでいい。この想いを、自分の内側だけに閉まって置くだけでいい。
いつか――――そう。いつか自分が、彼の隣を並べるほど強くなった時に、この想いを解き放てばいい。
とりあえず今は、航太郎に押し寄せる愛しい人波と恋しい喧騒の大群に負けないくらいの声で、もう一度航太郎を昼ご飯に誘う所から始めようか。
そんな事を想いながら、愛は開きっ放しになっていたFクラスの扉を閉めた。