9 悪魔店長と中年の男
口うるさいアルジオがやっと去ったと思ったら、
「きゃあっ!」
後ろで人が倒れる音と、皿が割れる音が順番にした。
「てめえ、また皿を割りやがったな」
シンクは後ろを見ずに言った。その後ろには割れた皿と転んだマリがいる。
「すみません!」
それにしても無駄に綺麗好きと皿割り常連なんて、役立たずな従業員ばかりじゃねえか、とシンクはため息をつく。
だが二人を解雇してしまってはシンク一人で店を経営していたあの地獄の日々に戻ってしまう。
それはもう経験したくない。
シンクがため息をついてから一分も経たないうちに、アルジオが少し困った顔で厨房に戻ってきた。
「店長、お客様が呼んでいます」
「あ?」
シンクは眉をひそめる。
アルジオのこの報告があると、大抵ろくなことがない。
「相当お怒りのようで、店長を呼べと何度も言っています。オムライスは私が作っておきますから、行ってください」
「ちっ仕方ねえな」
一度舌打ちして、シンクはアルジオと場所を交代する。
客席の方に行くと、おいしそうに料理を食べる人間に紛れて、食べかけのラーメンを前に眉間に皺を寄せる中年の男がいた。
「おい、店長はまだか!」
男は煙草を口に銜え、腕を組み、怒りを露にしている。
その様子にシンクは一度ため息をついて、男の席に向かう。
「はいはいお呼びでしょうかぁー」
シンクは語尾を妙に間延びさせた、やる気のない声で言った。
「誰がお前のようなチンピラを呼べと言った。店長のシンクを呼べ」
男はシンクの態度に怒っている。
怒って額に血管が浮かぶ程短気な人間を、シンクは生まれて初めて見た。
「あー?」
「シンク=アルフェラッツを呼べと言っている」
「だから俺がこの店の店長だって言ってんだろ。頭悪いのかこのクソジジー」
アルフェラッツは、悪魔だということを隠すための仮名である。
珍しい名前ではあるが、男はそんなことは全く気にしていない。
シンクがクソジジーと言ったことで男の逆鱗に触れてしまったからだ。
「お前、それでも店長か! 客に対して何だその態度は!」
男が怒りのあまり机を叩こうとする。
机と拳が接触する直前に、シンクはその腕を掴んで止めた。
胸倉を掴もうかとも思ったが、相手は客だ。
さすがのシンクでも店では客に強迫はしない。
だが今の行動が強迫になっていると誰もが思っている。
「そんなことよりも、何でてめえは俺を呼んだんだよ。それを教えてくれねえと意味分かんねえんだよ」
「このラーメンだ」
男は掴まれていない方の手でラーメンを指差す。
「これのどこが悪いってんだ」
「見てみろ。髪の毛が入っている」
「はぁ?」
渋々シンクはラーメンを覗き込む。
スープの中には、たった一本の短い髪の毛が浮いているだけだ。
「お前がそんな不潔な格好で料理をするから、こんなことになるのだ」
確かに長い前髪といい、エプロンもせず普段着のシンクの格好は料理人の格好ではないのだが、シンクはこの男の意見にどうも納得いかない。
スープに入った髪の毛を素手で取ったシンクは、あることに気がついた。
「てめえ、これで俺から金を取ろうとでも思ってんのか?」
と言いながらシンクは一本の髪の毛をまじまじと見つめる。
「そうだ。お前の責任だ。それ相応の慰謝料を払ってもらおう」
男は顔に悪意のある笑みを浮かべて言った。
「てめえふざけんじゃねえぞ」
シンクは男の腕をさらに強い力で握る。
このまま燃やそうかとも一瞬思ったが、そんなことをしたら悪魔だとばれて祓魔師を呼ばれる。
「いてて! お前、客に怪我まで負わせるつもりか! 何て店だ!」
右腕を左手で押さえながら、男は大声で言う。
男の声を聞いて、周りから客の視線が集まってきた。
「よく見ろ。この毛、白いじゃねえか。俺の髪じゃねえ」
シンクが見せつけた髪の毛を見て、男の目が見開かれた。
「この店に白髪は働いてねえ。まあアルはともかくとして……これはてめえが金を取るために自分で入れやがったんだろ」
辺りから、男を批判する野次が飛んでくる。
「図星なんだろ。金払わねえと腕の骨折るぞ?」
シンクは小声で男の耳に囁く。
男は悔しそうな顔をして黙り込んだ。
と思ったら、突然物凄い勢いでラーメンをスープごと全部飲みほした。
「……っ」
冷汗を掻きながら、男はポケットから財布を取り出す。
「これでいいだろ!」
どん、という音を立てて男は千デルカ札を机に置いた。
「祓魔師研究家の私が言うのもなんだが、悪魔みたいな店長だな」
男は鼻息を荒くして机を叩く。
「やっと気づいたのか? 鈍感なジジ―だな。俺悪魔だぜ?」
とシンクはおどけた口調で言う。
「嘘をつくな! 私が悪魔と人間を間違えることなどない!」
ターレという男は勢いよく立ち上がり、椅子を倒す。
そして扉を押して開けて、帰って行った。
「ありがとーございましたぁー。それにしても『ノコサセネエ』の値段は六百デルカなんだけどなぁ……千デルカでいいのか? 四百デルカ得しちまったな」
千デルカ札を片手に、シンクは困っているのか、嬉しいのか、その間をとった表情をした。
「それともう一つ、俺は嘘なんか言ってねえぜ。要するにあのクソジジ―は間違えてるってことだよな」
「店長、私がともかくとして、とはどういうことでしょうか?」
シンクが最後に言った言葉は、アルジオの声と客の笑い声にかき消された。
「さーて、もう白髪の歳になっちまったアルなんか放っておいて、と。厨房に戻るか」
「あの、店長さん。これ分かりますか?」
後ろで、中学生の少女がジュースと本を手に言った。
「何だよ?」
「この単語です。てぃー、えいち、あい、えぬ、けー。これ何て読むんですか?」
少女は、単語を指差して言った。
「何だよそれ。暗号か?」
文字以外に勉強をしていないシンクには当然分かるはずがない。
すると厨房からアルジオが歩いてきて、
「ああ、それは『シンク』って言うのですよ」
と笑顔で言った。
「アル、これ俺の名前か?」
「いいえ、『思う』っていう意味です。ちなみにトランプの5も店長と同じ名前で」
「あのな、俺は流し台でも思うでもトランプの5でもねえんだよ! 馬鹿にしてんのか」
「中学生相手に大人気ないですね、店長。5よりもジョーカーの方が似合っていますよ」
「うっせえ」