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私は一枚の写真を見つめながら軽く息を漏らした。
それは先日、緑山店を視察した時に撮った少年の写真だった。彼は少し得意げな顔つきでフィギュアの隣で腰に手を当てて仁王立ちしている。
私はその後の情景を思い出していた。
少年の母親らしき若い女性が現れ、少年は問答無用で引きずられるようにフィギュア会場を去っていった。
私は彼女を知っていた。彼女は紛れもなく「カルーアちゃん」だった。
本人に確認したわけではないが、「あゆむ」と呼ばれた少年は彼女の子供に違いない。そうだと考えると彼女の出産は高校生の頃になってしまうが、それはあり得ない話ではない。
洋の言葉は妄言ではなかったと思った。
少なくともカルーアちゃんは現実世界に実在していたし、主婦だというのも間違いないだろう。
しかし、それだけにはとどまらなかった。彼女には夫との間に子供がいた。
私は落胆していた。写真を見ながらため息しか出てこない。
洋から結婚したい人がいると聞かされて私は浮かれてしまった。そしてその相手が主婦だと知って、やっぱり洋だ、と目を覆った。それでも私は失望こそすれ完全に望みを絶つことまではできていなかったようだ。
カルーアちゃんに子供がいると知ってこんなにもがっかりしている自分がいるというのは、やはりこれが最後のチャンスだと一縷の望みを捨てきれていなかったからなのだろう。
カルーアちゃんに子供がいる可能性をどうして私は見落としていたのだろうか。主婦をしているのなら当然想定しておくべきだった。そこまで確認しなかった自分自身が腹立たしい。そうしていればこんな惨めな思いをしなくて済んだはずだ。
洋が彼女と結婚できる可能性は万に一つもないだろう。子供がいる家庭を壊してまでして彼女と夫婦になるなどあってはならないし、そもそもあの凡庸な洋にそんな芸当ができるはずがない。
洋はあゆむの存在を知っているのだろうか。知っていて結婚したいなどと言っているのであればその愚かさを叱りつけなければならないし、知らずに夢見ているのであれば、しっかり現実を見ろ、と頬の一つも叩いてやるべきだろう。
しかし、もうそんな気力も湧いてこない。今回のことで洋の馬鹿さ加減にはさすがに愛想が尽きた。あいつのためにこれ以上何かしてやる必要はない。誰かと結婚したければ自分で何とかするしかない。
そしてそんなことはもう二度と起こらないだろう。カルーアちゃんとの結婚が叶わず望みを断たれた洋は再びアニメの世界に逃避するのだろうか。イメージ通りに動いてくれるゲームの世界に救いを求めその世界を彷徨い続けるのかもしれない。
それも仕方ない。それもこれも私のではなくあいつの人生なのだから。
しかし、そこまで考えが辿りついても私はこの写真をなかなか仕舞うことができないでいた。
どこか気になった。
この少年の年格好にふさわしくないどこか達観したような態度。カルーアちゃんのあの過度にヒステリックな振る舞い。母子共にどこか病んでいるような気配が漂っているように思ってしまう。
そしてどこか息子の面影を宿しているあの少年に肩入れしたい気持ちが拭えない。それは単に息子に対してできなかった親としての責務を彼に対して少しでも為すことで自分の罪を贖いたいだけなのかもしれないが。
ルル、ルル、ルル。内線が鳴る。真奈美からだった。
「田之上広報部長から外線が入っております。お繋ぎしてもよろしいですか?」
広報部長には洋の守役として私に最も忠実な人間をつけている。
今年で定年を迎える田之上は堅実や実直という言葉を絵に描いたような人物だ。ひらめきや独創性という点では現代の企業戦士としては物足りない面もあるが、私はこういう人物がいつの時代も組織の屋台骨を支えるものと彼の性格を愛し決して冷遇することなく扱ってきた。最後の務めとして息子のバックアップを任せたことも私なりに彼に花道を用意したつもりだった。それはもちろん田之上も理解してくれているのだろう。広報部長の要職に就いてからも彼は変わらず私に際立った忠誠心を見せてくれているように思う。
日和見的で上辺だけ愛想が良い部下が増えてきている中で私にとって彼の存在は以前にも増して貴重なものになってきている。
その田之上が出先から会長室に直通電話を入れてくるとは何かあったと思わなくてはならない。
彼が告げようとしていることは何か。良い話であれば満面の笑みを浮かべて会長室を訪れ私の顔がほころぶのを直接見たいタイプの男だ。今回はきっと良くない話題なのだろう。
私は引き出しの中に写真を仕舞い田之上の声を待った。
「会長。お忙しいところ恐縮です」
絞り出すような第一声に私は思わず左胸に手を当てた。
昔は毛が生えていた心臓も今は張りを失った風船だ。どんな問題も乗り越えてみせるという自信はもはやそこからは供給されない。それどころかしっかり身構えさせておかないとちょっとした刺激で穴があきシュルシュルと萎んでしまいそうだ。
「洋のことか?」
田之上はさらに苦しそうに「はい」と答えた。「本日は契約農家との会食がありまして」
「ああ、そうだったな」
小売業はたいてい薄利多売を目指す。我が社も長らく他社との厳しい価格競争のなか「1円でも安く」をテーマに戦い顧客獲得を進めてきた。しかし、昨今の格差社会の状況下において富裕層をターゲットにブランド化された高級食材を扱う「ハイクラス店」を数年前から展開した結果、これが大当たりし不況で他社が苦しむのを尻目に我が社は経常利益額最高値の更新を果たすことができた。
従ってこのハイクラス店で扱う食材を提供してくれている契約農家との関係は非常に重要になっている。当然他社も我が社を真似て富裕層を狙ったサービスを増やしてきている。
毎年毎年変化する自然環境を相手に高い質を維持して出荷できる農家は限られており、その争奪戦は権謀術数が繰り広げられ次第に激しくなってきている。それでも我が社には一日の長があり農家との関係も良好で仕入れの現状は満足できるものだが油断すると契約を打ち切って他社に靡く農家が出てこないとは限らない。
まずいことになった、と私は顔をしかめた。まだ内容を聞いていないが洋が契約農家に対して問題を起こしたことは明白だ。それは社長の前橋の顔に泥を塗ることを意味する。
ハイクラス店を誰よりも重要視してその展開に心血を注いだのは他ならぬ前橋だった。
当初私は社訓に反すると批判的だった。それを当時専務だった前橋が「全責任は私が」と進退伺まで出して私に決裁を迫ったのだ。やがてハイクラス店は成功をあげ、不況下での独り勝ちを我が社にもたらし、私はその慧眼に感服し彼に社長の椅子を譲ることにしたのだ。
思えばあの頃から私は自分の眼力に自信が持てなくなった気がする。
ハイクラス店は前橋が手塩にかけて育てた愛子のような存在だった。愛子がぞんざいに扱われれば前橋は部下の洋はもちろん創業者である私に対しても黙ってはいまい。
「遅刻でもしたか」
最初に浮かんだのがそれだった。洋の時間的ルーズさは入社当時からたびたび問題になっている。
「いえ。本日は念のためご自宅にお迎えにあがりましたし、会食はお昼からでしたので」
私は思わず唸った。
田之上は守役として重要な行事のときは洋の迎えまでしてくれているのだろう。最近洋の遅刻が減ったのは陰で田之上が努力してくれていたからだったのか。
田之上を広報部長に据えたとき密かに酒席を設け「愚息の守役」にと頭を下げて頼んだことが思い起こされる。あのとき田之上は目に涙を浮かべて私の酌を受けてくれた。この男が傍にいてくれてどれだけ洋が助けられていることか。
「だとすると、会場で粗相があったか」
田之上は一瞬押し黙ったが気を取り直したように説明を始めた。「常務は昨日かなりお酒をお召しになられたようで。ご本人がおっしゃるには昨日はフィギュアの企画でお世話になった玩具メーカーの方とプライベートで食事をされ意気投合し気がつけば明け方まで飲んでしまっていたとのことです。私がお迎えにあがったときもまだ顔は赤く、息だけではなく身体全体からアルコールのにおいが感じられた次第でして。入浴していただいたりお水やお薬を飲んでいただいたりはしたのですが体調もかなり崩しておられたままの会場入りとなり、何とか席にはついていただき食事に箸もつけられたのですが……」
「まさか……」
「はい。皿の上に戻されてしまいました」
血の気がひくとはまさにこのことだった。
会食で出る食材は全て出席している農家が提供してくれているものを使っているはずだった。それを目の前で吐いてしまったとあっては農家に与えた不信感は計り知れない。しかも二日酔いが原因とあっては弁解の余地がない。
「農家の反応は?」
「今日は十人の方が参加されていましたが、みなさんかなり御気分を害されたようで。私も懸命に謝罪しましたが『酔って出席したのではないか。こんな会社とは縁切りだ』とおっしゃってそのまま帰ってしまわれた方もいらっしゃいました」
「そうか……」
実際に居合せたわけでもないのに現場の様子が瞼の裏側にくっきりと浮かぶ。
居並ぶ農家と蛯名グループ職員の中央に座る洋。腐った卵黄のような色に濁った眼球を大きく見せたまま時間が止まったように硬直している。青紫色の唇から胸元に垂れ落ちる吐しゃ物。アルコールと胃液の混ざった酸っぱいようなにおいに浸食されていく場の空気。
農家側は、ある人は怒りに肩を震わせて今日の蛯名グループの代表を罵り、ある人は逆にあまりの悔しさに言葉なくただ目を閉じる。席を立ち出口に向かおうとする契約農家を何とか押しとどめようと思いつくだけの詫びの言葉を並べ懸命に頭を下げる田之上。茫然自失の洋を立ち上がらせ外に連れ出そうとする広報部の面々。
事態は最悪の様相を呈していた。十人全員が契約解除を申し出てくるとは思えないが、職人気質の頑固な親父も中にはいる。強硬な姿勢を示す農家も出てくるだろう。とにかく今後電話にせよ訪問にせよ一軒一軒謝罪しなくてはなるまい。
「申し訳ありません、会長。私が常務の出席を強く引き留めるべきでした。私の責任です」
「いや、君のことだ。きっと必死に引き留めようとしてくれたのだろう」
全ては自覚の足りない洋の軽率さが招いた失態だ。前日に深酒をするのも、部下の制止を聞かずに出席してしまうのも洋が社会をなめているからこその行動なのだ。
「しかし……」
いくら努力をしても現実としてトラブルが起きるのを防げなかった以上ミスはミス。己にも非があると考える田之上の心中は良く分かる。それを自覚している彼を責める必要はどこにもない。
「洋はどうしている」
「はい。今は休憩室で横になっておられます」
「すぐに、会社に戻らせてくれ。とにかく私のところに事実を報告に来させるように」
「承知いたしました」
電話を切ってどっかと椅子の背もたれに身体を預ける。目頭を揉みながら前橋がこのことを知ったときにどういう反応、態度を示すか頭を巡らせる。
数年前の専務時代ならいざ知らず社長職の今は笑って不問に付すということは考えづらい。企業のトップとしてもハイクラス店への思い入れからしても厳しい言葉が出てくるだろう。
組織内の綱紀粛正の観点から考えれば役員の座からの更迭は免れまい。そして彼がどういう処分を検討するにせよ親子の立場上その場で私は口を挟みにくい。
となれば今のうちに私から前橋に第一報を入れ頭を下げておいた方が良いのかもしれない。
前橋が知るところとなる前に先手を打っておき彼に考える時間を与えることなく私から詫びを入れてしまえば心情的に思いきった処分に踏み込みづらくなる面もあるだろう。あわよくばどさくさに紛れて穏便な処置に向けての何らかの言質がこぼれてくるかもしれない。
私は早速真奈美を呼び前橋の日程を確認させた。
「当初スケジュールでは一時から営業部が食材の宅配型販売について企画説明。その後は商工会議所主催の会食に向かわれる五時半までは空いているかと。営業部のプレゼンが終わっていれば今はフリーのはずです」
時計は二時半を指している。
我が社では会議や企画説明などは原則一時間までと定めている。それ以上の時間をかけてもメンバーの集中力にむらができてだらけるし、議論が脱線しやすいと考えているからだ。つまり、営業部は今、社長室にはいない。
いきなりの好機だった。今から向かえば何も知らない前橋に私の口から第一報を伝えることができるだろう。
しかし、いざとなるとどうも気が進まなかった。重い腰が言うことを聞いてくれない。
創業者の私がかつての部下に、私が雇用主だったときにおいては一労働者でしかなかった前橋に頭を下げるのか。これまで呼びつけたことは数えきれないが、私があいつの部屋に膝行するなど一度たりともなかったことだ。
そこにはやはり忸怩たるものがあった。砂を噛んだような不快感だ。どうにも飲み込めるものではない。
あいつの父親の病気治療のためにかなりの額を用意してやったこともある。良い女性はいないかと頼まれて紹介してやった幸子の高校時代の後輩があいつの女房だ。浮気がばれないように口裏を合わせてやったのは一度ではない。
それなのに私があいつに謝罪する。
いやいや。待て待て。放っておけば良いのではないか。私に何の罪があるというのだ。
会社の中では常務は立場上私の部下ではあるが、もちろん社長の部下でもある。親子関係がなければ私がわざわざ泣きを入れる必要などどこにもない。会長の仕事は本来的には社長から相談を受けたときに助言をしてやるぐらいのものだ。
「いかがいたしましょう。今から連絡を入れて社長にこちらに来ていただくようにお伝えいたしましょうか?」
私に答えを求めるように真奈美が催促してくる。
「いや、それには及ばない」
私は泥濘から這い上がるように重い腰を上げた。
私はこれから前橋のところに行く。そして馬鹿息子が犯した失態を説明し詫びるのだ。
社長室へ続く廊下を歩きながらネクタイの位置を直し、背広の各所を軽く叩いて気持ちを整える。
私はつまらないことをしようとしている。分かっていながらやらなくてはならない。それが人の親というものか。
社長室に付随している控室を目の前にしたとき、ガチャリとノブが回る音がして中から人が出てきた。
「あ、会長」
「お、おう。君か」
私の前に現れたのは営業部長の岩倉だった。後ろから営業部の人間が三人出てきた。
岩倉は私の「営業」のイメージとはそぐわない細面の色白の男だ。なかなかの切れ者と評判でまだ四十そこそこなのにもう部長級に名を連ねている。前橋が目をかけていることもあり役員になるのは時間の問題だろう。
「申し訳ありません。会長がおいでになるのでしたらもっと早く切り上げるべきでした」
岩倉がフレームの細い眼鏡の縁を抑えながら控室のドアの前を開けるようにサッと脇に寄る。それに従って後ろの三人も岩倉の影のように動く。
この岩倉の如才のなさが日ごろからどうも鼻につくのだ。眼鏡の向こうで会長が社長室に出向くとは一体どういうわけだ、と思案を巡らせているのが手に取るように分かる。前橋の懐刀に何となく弱みを握られそうな感じがして思わず顔を背けてしまう。
「いや、私はこっちなんだ」私は岩倉のさらに脇に足を向けた。「ちょっと給湯室にね」
咄嗟に嘘が口からこぼれた。
もちろん給湯室に何の用もない。会長の私が給湯室に用事があるわけがない。しかし、社長室の向こうには来賓を出迎える応接室と会議室、そして給湯室しかないのだ。
「会長。お茶でしたら私が」
岩倉が訝しげにだが、腰を低くして申し出てくる。嗚呼、小憎らしい。
「いや、いいんだ。ちょっとサプリメントを飲むために水をね。少しでも動かないと身体に毒だから」
私は営業部の人間をやり過ごし給湯室を目指して歩を進めた。無防備に晒した背中に岩倉の視線が突き刺さっているのを感じる。腹には部下に嘘をついてしまった惨めさと憤りがうねうねと渦を巻いて蠢いていた。
私は給湯室に逃げるように入り水道のレバーを思い切り上げてシンクに水を叩きつけた。大声で何か叫びたい気持ちだった。しかしそんなことさえも今はできない。悠々自適の生活に憧れているのに私は何と窮屈な立場にはまってしまったのか。
私は掌に水を汲み思い切り顔を洗った。