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「そんな品の悪い漫画喫茶、二度と行かないでください」
私がマンキツデビューの話をすると真奈美は半ば本気で怒り出した。真奈美との短くない付き合いの仲で今ぐらい彼女の険しい顔を私は見たことがない。
私は驚きのあまりヘッドレストから軽く頭を起こして隣に座る彼女の横顔をまじまじと見つめてしまった。それは多分に凛々しさの中にも可愛らしさの残る彼女の表情に見とれてしまった気持ちが含まれているのだが。
「あっ、申し訳ありませんでした」真奈美は私の視線に気付いて自分の言葉が立場をわきまえないものだったと悟ったようだった。「でもその方たちは普段仕事は何をなさっているのでしょうか?」
私は「さぁ」と小首を捻った。
真奈美が眼鏡の向こうで微かに顔を朱に染めしょんぼりしている。彼女がこんなに表情を豊かにするのは極めて珍しいことだ。
「でも『閣下』は、的を射てますね」
「そう思うかね」
「はい。髭をたくわえられますとなお一層」
「じゃあ、のばしてみるかな」
私は笑って顎を撫でた。
「きっとお似合いですよ」
頬を緩めて頷いてくれる真奈美。
嗚呼。私は心の中で嘆息する。
初めて真奈美を見たとき私は彼女を囲おうと考えた。一生手元に置いておきたい。箱に入れてしまっておきたいとさえ思った。それほどまでに彼女は美しかった。しかし彼女と会話を交わすにつれ、彼女の存在の貴重さを知り、どういう結末にせよ悲しみしか生まない泥沼よりも、上司と部下との一線を越えない距離感を大切にしたのだ。
そしてそれは正解だった。男と女の関係になっていれば十数年後の今、こんな気持ちの浮き立つ会話を楽しむことなど決してできてはいない。
そうは思っても……。
過ちの中に何にも代えがたい宝物があったかもしれないと後悔するのは無いものねだりなのだろうか。
「到着しました」
真奈美はそそくさとドアを開けて出ていくとすぐにこちら側のドアを開けてくれる。私は一つ咳払いをして車から降りた。
「お待ち申しあげておりました」
支店長が頭を下げている。
「常務はまだか?」
「いえ。常務は既に会場に」
「そうか」
私が頷くと支店長は「こちらへ」と腰を低くして私の前を歩きだした。「いってらっしゃいませ」と私を見送る真奈美に「一時間で戻る」と言い残し支店長に従って職員用エレベーターに乗った。最上階に上がり通路を抜けて会場に入ると私は思わず「ほう」と声を上げた。
催事用スペースに設けられた特設会場は向かって右手にアニメグッズや家電製品が当たる抽選会場、左手側にはショーケースの中に手のひら程度の大きさのフィギュアが窮屈そうに並ぶ展示コーナーとなっている。
そして抽選会場とフィギュアの展示コーナーの間に現在テレビで放映中のアニメ「エターナルターゲット」の主人公の等身大フィギュアが写真撮影用に設置してあった。
会場内は黒山の人だかりだが、特に抽選会場には子連れの主婦層が多く断続的に福引抽選器をガラガラ回す音が鳴り響き抽選結果に一喜一憂があって騒々しい。
反対側のフィギュアの展示コーナーには下は小学生から上は大学生のようにも中年のようにも見える胡散臭いという表現がぴったりの年齢不詳の人間まで合わせて男性が多くみな一様に熱いような冷たいような眼差しでショーケースの中に見入っている。
中央のテンガロンハットを被った海賊風の男が不敵に笑っている等身大の人形がある辺りが緩衝地帯となっていて代わる代わる客が携帯電話やデジカメで写真を撮っていく。
抽選会場で大きな鐘の音とともにどっと歓声が上がった。空気のうねりを伴うような活気が好ましい。
「景品は何かな?」
「一等が42型のテレビです。しかし、特賞のエターナルターゲットの原画狙いのお客様が多数いらっしゃるようで」
支店長が、抽選券を一枚もらうには期間内に五千円の買い物をしていただく必要がある、と説明を続ける。
食品や日用品で五千円の買い物と言えばかなりの額だ。しかし、見れば何枚も抽選券を握りしめて会場に駆け込む客の姿が珍しくない。アニメの原画に集客力があるのだ。
フィギュアの展示コーナーにいた中年男性の一人がこちらに軽く手を上げて向かってくる。ギョッとして誰かと目を凝らせば洋だった。名札をしていなかったら客なのかうちの職員なのか分からない。
「お越しでしたか。気づきませんで」
洋が申し訳なさそうに頭を掻くので気にするなという感じで私は軽く頷いて見せた。
洋は上着を着ておらずワイシャツも袖をまくり上気したように顔を赤らめている。額や顎の辺りが光っているのは汗だろう。今の今まで客の相手に熱中していたようだ。
「常務、申し訳ありません。視察していただくところが、逆に接客までしていただいて」
支店長が恐縮してぺこぺこ頭を下げ、脇に控えていた職員に手渡されたペットボトルのジュースを捧げるようにして洋に手渡す。
「いいの、いいの。自分が好きでやってることだから」
あのあたりにいる連中とアニメの話をしているのが楽しいんだよね、と洋は先ほどまで自分がいたあたりの数人の野暮ったい男性陣を眺めながらジュースを口にする。
「こらこら。従業員休憩室に行ってきなさい。お客様の前でジュースを飲むなんて」
私は少し顔をしかめて洋を追い払うように手を振った。
しまった、という顔つきで洋が慌ててペットボトルの蓋をする。そのまま一旦従業員出入り口に向かいかけて何かを思い出した顔で足早に戻ってくる。
「これ、抽選の景品です。三等と同じジン少佐のフィギュア……」洋が胸ポケットから紺色の軍服を着た金髪将校の人形を取り出した。「なんですが、普通、少佐の軍服は深緑色なんです。でもこいつは紺色。紺色は大尉という設定です。アニメの中で僻地から急きょ呼び寄せられて国王に謁見する場面にのみジン少佐はこの色の軍服を着ていました。それは何故か。つまり国王に謁見したときにはまだ大尉だったということなんですね。謁見した際に国王直々に少佐に昇進させてもらったからこれ以後は少佐の色である深緑色の軍服を着用します。一般的にはジン少佐は深緑色のイメージです。つまりこのフィギュアはレアものなんです。百体に一体の割合でこの紺色軍服のバージョンが作られていて深緑色のものより価値が高い。位が低かったころのものの方が価値が高いなんて面白くないですか?この紺色軍服のジン少佐のフィギュアの価値は……」
「分かった、分かった」
私はどんどん熱を帯びていく洋の説明を何とか途中で遮った。洋が喋っていることはまるで異国の言葉のようにさっぱり理解できない。手の甲を振って休憩して来いと追い払うように促すと、洋は「とにかくこれ価値のあるものですから」と無理やり私に手渡そうとする。そんなものいらないと押し返すと洋はその人形をササッと私の背広のポケットに放り込み休憩室に向かっていった。
遠ざかっていく洋を見送ると私は肩の力が抜ける思いがした。職場では皆同じとは言え、他の職員の前で部下としての息子と接するのは妙に意識してしまうものだ。
支店長は私の機嫌を損ねないようにしているのか声は届くが邪魔にならない位置に控えている。
漸くの思いで誰に気遣うことなく店内を見渡すと胸に迫るものがあった。
何度来てもこの店は感慨深い。ここは私が一念発起して出した初めての店があった場所だ。もちろん敷地を増やし何度も改築改装を加えているので当時の様子を思い起こさせるものなど何もないのだが、だからこそ以前の吹けば飛んでいってしまうようなちっぽけな荒屋がこんなに立派で近代的なショッピングモールになるまでになったのかと思うと自分のしてきたことがそれなりに大きな意味をもったという気持ちになれた。あの頃の夢が今ここに現実のものになっているという甘美な達成感が私を酔わせるのだ。
ふと私の目が一人の少年に留まった。
幼稚園児か小学校の低学年か。彼は私がここに来たときから同じ姿勢で壁にもたれてぼんやりと抽選会場を見つめている。つまらなさそうでもあり何かを諦めてもいるような無表情で。保護者らしき人は近くに見当たらないが、その年齢に似合わない落ち着いた表情から迷子とも思えない。
眼鏡をかけ色白で柔らかそうな髪を持つその少年は幼かったころの息子にどこか似ているような気がしていた。私は吸い寄せられるように彼の方へ足を向けた。
「独りかい?」
私は腰をかがめて膝に手を当て目の高さをなるべく下げるようにする。近くで見るとまるでタイムスリップしたかのような少し気味が悪い心地になるほど少年は息子の面影を宿していた。私は少年から目が離せなくなってしまった。
なるべく柔和に話しかけたつもりだったが、少年は一瞬びくっと肩を窄めた。恐る恐るといった表情で私を一瞥すると再び壁に背をもたらせてその顔から表情を消した。
「お母さんかお父さんは一緒じゃないのかな?」
「一階で買い物してる」
ムスッとした声で返事があった。
「君は何年生?」
今度は返事はなかった。
「独りじゃ寂しいだろう?」
「別に」
「どうして?」
「たいていいつも独りだから」
この年齢で独りぼっちがつらくないはずがない。それでも気丈に寂しさを否定する彼の「いつも」の生活に少し異常な部分を感じてしまう。
少年が見つめている抽選会場でまた歓声が上がり法被を着た職員の手で鐘が振られている。少年が少し視線を落とす。
私は背広のポケットから小さな人形を取り出した。「これ知ってる?」
少年はチラッと私の手に視線を寄越すと「あ!」と大きく目を開きガバッと背を起こした。
「ジン少佐。大尉バージョンだ!」
少年は興奮を隠せない様子で少し声がひっくり返っている。
「詳しいね」
少年の反応の良さに嬉しくなって私が言うと、ばつが悪いような顔で波が引くように少年は元の姿勢に戻っていってしまう。
「誰でも知ってるよ」
「そっか」私は彼の興味を引きとめようとフィギュアを彼の目の前にそっと出した。「あげるよ」
洋の言葉によればこのフィギュアはかなり価値のあるものらしい。それをこんなに簡単にこんな幼い少年にあげてしまうのは決して良いことではないことは分かっていた。しかし何故か私はこの少年の笑顔がどうしても見てみたくなったのだ。彼がどんな風に笑うのか。せめて笑顔には年相応の無邪気さを出してほしい。
差し出されたフィギュアをじっと見つめた後、彼はゆっくり首を横に振った。
「いらない」
「どうして?」
「知らない人にモノもらっちゃいけない」
私は一瞬虚を突かれたがじわじわと笑いがこみあげてきた。
「こら、君。こちらはね」
いつの間にか背後に立っていた支店長が眉尻を上げて少年をたしなめようとするのを手で制する。
「そうだね。知らない人からものをもらっちゃいけないね」利発な子だと思った。そして少年の常に心を強く持っていようとする感じが私に不憫な印象を与えてならない。「あれ何か知ってる?」
私が指した先に少年は目を細めて向けた。そこにはテンガロンハットの海賊が仁王立ちしている。
「エターナルターゲットのキューイ」
「よく知ってるね。あそこで写真撮るのはどうかな?」
私の提案に少年は黙りこくったままキューイを見つめていた。
興味なさそうに首を振るかと思ったが、意外にもなかなか返事はなかった。
一人、また一人と少年と同じぐらいの子供たちがキューイの隣に立ち親に写真を撮られていくのを彼は無表情に眺めていた。表面上は読み取れないが、その柔らかそうな産毛が生えた肌の向こう側で今必死に考えを巡らせているのだろう。
「ほら。一枚撮らせてよ」
私は少年の背中をひと押しするようにポケットからデジタルカメラを取り出した。店舗の視察時には私は常にこのカメラを携行している。
私が言うから仕方なくといった感じを見せながら少年はゆっくり壁から背を離した。 きょろきょろと左右を見渡してから何かを決心したような目でフィギュアの方へ駆けていく。
私は少年についてフィギュアの前まで行きカメラを構えた。
丁度フィギュアの周りは空いていた。
少年はフィギュアの横に仁王立ちすると腰に手を当ててフィギュアと同じポーズをとった。
「おっ、いいねぇ」
フィギュアの半分ほどの身長しかない少年。渋々協力するという風だった彼がレンズの前に立った途端格好をつけてフィギュアの真似をしているのは何とも可愛らしかった。
私は少年を映すデジカメの液晶画面に思わず頬を弛めシャッターを切った。「もう一枚、いこうか。何か他にポーズはない?」
気を良くしたのか彼は勇ましく表情を引き締め腰にあてていた右手を真っすぐ前に突き出した。
「あゆむっ!」突然若い女性の金切り声が響き渡り、辺りが静まり返る。声は私の右斜め後ろから発せられたようだった。「何やってんの!こっち来なっ!」
途端に少年が見る見る顔を曇らせ最後には半泣きの表情で項垂れてしまった。力強く突き出していた右手は今はだらんとおろしている。「あゆむ」が少年のことであることは一目瞭然だった。
私は声の方を振り返った。
そこにはD&Gのロゴが大きくプリントされたぶかぶかのTシャツにスキニーなジーンズという格好の若い女性がカートを手にして立っていた。大きな目を怒らせ、こっちへ来いという感じで右手で大きく手招きしている。
私の脇を何かが彼女に向かって通り過ぎていった。あゆむが走っていったのだ。「ママ」
あゆむは母親の前で直立不動。鬼軍曹に呼びつけられた新米兵のように肩にコチコチに力が入っているのが分かる。
「知ってる人?」
不機嫌さがビリビリと伝わってくる声だ。脳天から直球の問いかけを浴びせられあゆむはぜんまい仕掛けのように素早く何度も首を横に振る。
「知らない人と遊んじゃダメでしょ」
今度は縦にブンブン振っている。首の筋肉を痛めないか心配になるぐらいに。
しかし、こんなに従順に返答しているあゆむの頭頂部に彼女は拳を振りおろした。
ぃてっ。
げんこつを食らったあたりを手で押さえるあゆむ。
あゆむ君は何も悪くない。私が写真を撮らせてほしいと頼み、それを彼が承知してくれただけなのだ。私が拝み倒して無理にお願いしたのだから彼を責めないであげてほしい。
そういうことを言いたくて私は彼女に歩み寄ろうとした。
私が足を前に出したことに反応するように彼女がキッと鋭い視線をこちらに向けてくる。
私は思わずその場でかたまった。次の一歩を踏み出すことができなかった。それは彼女の怒りに気圧されたからではない。彼女を知っていると思ったからだ。髪の色も化粧の感じも違うが、あの人であることは間違いない。
彼女の方も、あれっという顔をした。見覚えはあるがどこでだったかな、という表情だった。
「こないだは申し訳なかった。急に用事が出来たとは言え、お金も払わずに」
その場で私が軽く頭を下げると、カルーアちゃんは眉を上げて驚きを示すや、すぐにばつの悪そうな表情になった。
「あれは気にしないで。あたしも変な人の間に通しちゃって悪かったって思ってる」
早口にそう言うと彼女はすぐに顔を少年の方に戻し、強引に彼の二の腕を掴むと引きずるようにしてエレベーターの方へ向かって歩き出した。あゆむは操り人形のように力のない足取りで彼女のなすがままになっていた。
「さっさと歩けよ。あたしはこれから仕事なんだから」
やがて、エレベーターに二人が消え私は手にしていたデジカメに目を落とした。
そこには嬉しそうにポーズをとる少年の姿があった。