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「だからもう、ほっといてくれよっ!」

 あまりの大きな声に私はドキッとして熱い鍋を触ったときのように玄関のドアノブから反射的に手を放した。

 今のが洋であることは間違いない。しかし、洋があんな風に声を荒げたことなど私が知っている限りでは一度もないことだった。私の前での息子は幼い頃から常に覇気がなく、今となっては始終顔色の冴えない中年のオタクなのだ。

 私は一歩退いて家の正面全体を見据えた。

 なにやらただならぬ重苦しい雰囲気がドアの向こうからこちらを圧迫してくる。

 久しぶりに楽しい酒を飲んできたというのに。ほろ酔い気分がいっぺんに冷めてしまった私は気を取り直し汗ばんだ手でそっとノブを回した。

「親に向かって何て口をきくの。この親不孝者!」

 どうやら幸子も負けてはいないようだ。息子の攻勢に怯んだ様子が微塵も感じられないのは、今回のようなやり取りがこの母子間では珍しいことではないからなのだろうか。

 人様に見せられるようなものではないとは言え私の知らない家族の風景がそこにある。そう思うと私は軽い嫉妬まじりの疎外感を感じた。

 ごとっと何かファイルのようなものが床に落ちる音が聞こえる。

「何てことするの!罰当たり」

「何回も言ってんだろ!こんなもの必要ねぇんだよ」

 再び洋が怒鳴り散らしている。感情を表に出すのが苦手なはずのあいつが一体どんな顔をして母親と対峙しているのだろうか。

 玄関のドアは開けたままにしておいて私は恐る恐るというよりは半ばわくわくしながら靴を脱ぎ、忍び足でリビングに向かった。

 ガラス戸から中を覗く。

 風呂上りなのだろう。肩にタオルをかけたパジャマ姿の洋がダイニングテーブルでビールを飲んでいる。私はしないが洋は缶からグラスに移してビールを飲む。それは潔癖症で口うるさい母親の躾が浸透しているからだ。

 洋に向かって幸子がしきりに何かを見せようとしている。幸子の手にあるものに私は見覚えがあった。見合い写真だ。

 私は数日前の幸子の言葉を思い出していた。

 幸子は大河内さんとの協議の末早速行動に及んだのだろう。目を吊り上げて洋に迫る妻の姿が今日はやけに痛々しく見えるのは、私だけが洋の心中を知っていることへの彼女に対するやましさのせいなのだろうか。

「こんなもの、じゃないでしょ。しっかり見なさい!」

 幸子は見合い写真を執拗に洋の眼前に広げた。

 洋は鬱陶しそうに身体の向きを変え幸子に横顔を見せる。

 幸子は懲りずに洋の前に回りこんで写真を押し付けようとする。

 これまでも洋は自分から見合い写真を見ようとしたことはなかった。カルーアちゃんにしか目が向いていない今ならなおさら興味がないはずだ。幸子の好意など迷惑以外の何物でもないだろう。

 ここは私が出て行って二人の間に入ってやらないといけないだろうか。洋は幸子を上手に抑えてくれることを期待して私にだけ報告したのかもしれない。玄関のドアを閉めて帰宅を知らしめよう。私は踵を返して玄関に向かおうとした。しかし幸子の言葉が私の歩みを止める。

「あなた、四十にもなって結婚できないなんてどうするつもりなの。これからどうやって生きていくの」

 前々から私が聞きたかったことだ。洋は自分の現状をどう見据え将来をどのように計っているのだろうか。

「ぅるっせぇな。今までどおり生きてくよ」

「何が今までどおりよ。いつまでもこのままで生きていけると思ったら大間違いよ。お父さんも、お母さんもいずれは死ぬんですからね。あなた一人でどうやって今までどおりに生きていけるのよ」

「きっと、なんとかなるって」

 洋ならそう言うだろうな、とは思ったが、実際に耳にするとさすがに寂しいものだった。幸子はなおさらだろう。彼女はこの四十年近い時間をひたすら息子に捧げきたと言っても過言ではない。

「何言ってるの。今、お母さんが死んだら誰があなたにご飯作るのよ。あなたの服の洗濯は誰がして、あなたの部屋の掃除は誰がするって言うの」

 心なしか幸子の声に張りがなくなった。死なれても困らないという口調の息子に媚びるような響きがなくもない。

 洋に見限られ存在意義を否定されては幸子は自分のこれまでとこれからの人生の意味を見失ってしまうだろう。彼女の心中は別れ話を切り出す恋人にすがるような思いに似た感じだろうか。小刻みに震える幸子の華奢な両肩が哀れだった。

「そしたらお手伝いさんでも雇うわ」

「お手伝いさんですって……」

 妻が次の言葉を失っている。こんな幸子を見るのは初めてだ。

 これはまずい。私は慌てて玄関に戻りドアを勢いよく閉めた。家中に私の帰宅が響き渡るとリビングが急に静まり返った。なんとも言えない居心地の悪い沈黙が玄関にまで押し寄せてくる。

「ただいまぁ」

 重苦しさに耐え切れず口に出してみたのだが何かがおかしい。

 そういえば私はいつからか玄関で「ただいま」と言わなくなっていて、無言でリビングに入っていくのが常になっていた。何かを取り繕っているようで余計に気まずさが湧き起こる。今日に限って玄関で帰宅を告げたことにあの二人は違和感を覚えただろうか。

「お帰りなさい」

 意外にも晴れやかな笑顔で幸子がリビングのガラス戸を開けて玄関まで私を迎えに出てきた。私が無言でリビングに現れるのと同じく、幸子も普段はキッチンやテレビ前のソファから軽く一瞥をくれるだけなのに今日に限っては新妻のように恭しく私を出迎え鞄に手を伸ばしてくる。

「今日は帰ってきてるのか?」

 もちろん洋のことだ。先ほどの母子の諍いは全く知らない体で、玄関に靴があるから気付いたというふりをする。

 洋は会社の傍にあるマンションと実家とを行ったり来たりしている。数年前に「俺も親離れしないと」「一人で暮らしてみたい」などとほざいてマンションを購入したのだが、要は親に邪魔されずに漫画が読めてアニメ映画が観られる場所が欲しかっただけなのだ。コンビニ弁当に飽きたら今日のように実家の食事にありつこうと気軽にやって来る。それでも幸子が嬉しそうなので何も言わないが、本来なら何しに帰ってきた、何のために出て行ったのだ、と説教の一つもしてやりたいところだ。

 しかし、先ほどの幸子の言葉によれば幸子は私には内緒で洋のマンションに行って食事や掃除など身の回りの世話を焼いているのかもしれない。そうではないかと薄々感じてはいたが、その可能性が濃厚となるとますます幸子も洋も好きにすれば良い、俺も好きにさせてもらうという気分になってくる。

「え、ええ。さっきまでそこでビール飲んでたんですけどね。もう寝たのかも」

「ふーん。そうか」

 勝手が違う。どうしたら良いのか分からず成り行きに任せて鞄を差し出したが、改めて妻と視線がぶつかると間が持たずに慌てて目を反らす始末だ。

 幸子の方も台本のない展開に一瞬まごついた様子を見せたが、すぐに毅然と私に背を向けると鞄を小脇に抱えそそくさと寝室の方に消えていった。やっぱり女は強いものだ。

 リビングに入ると洋の姿はそこにはなかった。洋だけではなく缶とグラスもないということは部屋で飲んでいるのだろう。私とは顔を合わせたくないということか。結婚を口に出して洋なりに気恥ずかしさを感じているのかもしれないが、おかげで私も肩透かしを食ったというよりはほっと気が楽になったのは事実だった。

 男親なら誰でもそうなのだろうが子供の恋愛話ほどどう対処して良いのか分からないものはないと私は今回初めて知った。そういえばこれまでそういう経験を一度もさせてもらえなかったのだなと改めて思う。

 今までは「早く可愛い彼女を連れてこいよ」ぐらいの姿勢だったのに、いざ結婚の話になると途端におどおどとしてしまう。いつも頼りなく見えていた息子の中に急に大人の男を感じてしまい自分と洋との距離や立ち位置が不安定なものに見えてしまうのだ。

 遠いようで近い。手に届く距離なのに触れ合えない。

 洋との目線の位置が波にもまれているようにぐらつく。

 だからこそ今日は急に友人の宮前氏に電話をして飲みに誘ったのだった。息子と顔をあわせるのに酒の力を借りるというのも情けないことだが、久々に宮前氏と話をしてみたいと思い立ったら手が受話器を取っていた。

 宮前氏とは十年ほど前に、当時、県下から選出されていた国会議員の主催するパーティーで初めて顔を合わせた。それ以前にも同じ地域で成功を収めている実業家ということで当然互いに顔ぐらいは知っていたのだが、場を共にしてグラス片手にくだらない立ち話をしているうちに、年齢が一つしか違わないことや、会社を大きくするまでの苦労、妻との関係などにお互い親近感を抱き一気に意気投合してプライベートな付き合いをするようになったのだ。土建業の彼とは仕事上さしたるバッティングもなく胸襟を開いたやり取りができた。

 宮前氏はすでに祖父と呼ばれる羨望すべき地位に立っており、長男の結婚話など遠い昔の出来事になっていることは知っていたが、それでも今日は彼と飲みたかった。仕事帰りの気軽な一杯なら幹部職員と飲むことが多いのだが、家族や部下にも見せられない顔が男にはあるのだ。

 ダイニングテーブルには缶とグラスのあった位置に水の輪が二つ並んでいて、その隣に見合い写真が広げられていた。

 山吹色のスーツを着て少し流行おくれの感がある化粧を施した女性が不気味なほど柔和に笑って座っていた。年のころは三十代半ばか。洋の相手に求めてはいけないのかもしれないが惜しげもない作り笑いに初々しさが全くない。写真を通しても分かる太りじしに彼女自身の押し出しの強さが滲み出ているような気がする。

「何やってる人?」

 寝室から帰ってきた幸子に対してネクタイを弛めながら声をかける。

「いい感じの人でしょう?小学校の先生よ」

 いい感じだとも思わないし、生徒に人気があるとも思えない。少なくとも男受けしないことは間違いない。カルーアちゃんにぞっこんの洋でなくても食指は動かないところだ。妻はいったい彼女のどこを気に入っているのだろうか。

 私はワイシャツのボタンをくつろげながら椅子を引いて座った。

「やっぱり、もうちょっと可愛げがある方がいいんじゃないか」

「贅沢言ってられる立場ですか!」

 幸子の青筋の立った横顔に「人の苦労も知らないで」という文字が浮かんでいる。妻は私を非難するように音を立てて写真を閉じると私の目から隠すように胸に抱いて再び寝室に去っていった。その怒りで湯気も漂わんばかりの背中を見送りつつ私は宮前氏の息子が離婚しそうだということを思い出していた。

「なかなか気の強い女でね。嫁入り当時からこれは苦労するなと思ってたんだが、ここにきて案の定だ。それでも長くもった方だと思うよ」

 具体的な理由は口にはしなかったが離婚はもう時間の問題だという。夫婦共に弁護士を立てての泥仕合に発展しているらしい。

 宮前氏は優秀な息子を持ち事業も順調に拡大させ目に入れても痛くないほど可愛らしい孫が二人もいる。まさに私が夢に描く境遇を手に入れており常に羨んでいた相手が「今回の件で家内との仲も悪くなってきて、さすがに疲れてきたよ」と嘆息しているのを見て人生とは分からないものだとつくづく感じたのだった。


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