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 出勤するなり私はすぐに真奈美に小倉を呼び出させた。

 まもなく彼は少し血の気の失せた強張った表情で会長室に入ってきた。

 広報課の小倉は洋にとって部下であると同時に数少ないプライベートでの友人でもあることを私は知っていた。この組織の中での洋の浮沈が今の私の最大の関心事である。従ってその交友関係にも当然目を配っているが、そうでなくても私はできる限り社員の情報は頭に入れるようにしている。

 小倉雅史。二十九歳。

 床屋の家庭に生まれ、子どもの頃から店にある漫画を台詞を覚えてしまうぐらいに何度も何度も読み倒した。以来アニメ漫画が大好きで実際に初回から最終話まで全ての台詞を空で言えるものは一つや二つではないと聞く。

 有名私大の文学部で独自に漫画を研究しその論文の完成度の高さで源氏物語や枕草子を専門にしている漫画には手も触れたことのないような教授陣を唸らせたという噂は事実らしい。

 アニメ以外に興味がないのだから当然親のあとを継いで床屋になるという殊勝な心がけなど一片もなく、一生単行本に囲まれて過ごしたいと思っていたようだが、そんな矢先の在学中に父親が脳卒中で倒れてしまった。幸い一命は取りとめたもののその後遺症で行住坐臥がままならなくなってしまう。

 母親一人では床屋を切り盛りしていくこともできず彼は突然一家の大黒柱として両親を扶養しなくてはならなくなってしまったのだった。床屋を畳みパートを始めた母親の頑張りで何とか大学中退だけは免れたが、父親の介護もあってやはり小倉は地元へ戻らなくてはならなくなった。特に伝手があるわけでもなく手当たり次第に就職面接を受けてたまたま合格したのが我が社だったということだ。

 アニメについての知識は誰よりも深く、アニメの社会的地位が上がった今日ならその道(どんな道があるのか知らないが)で食っていけると社内でも評判の変わり者である。変わり者ではあるのだが社内の評価は決して悪くない。家庭での苦労を顔に出すようなこともなくて意外に人当たりもよく、物怖じしない性格もあってアニメの名場面の一人芝居という特技で慰安旅行などの余興には欠かせない人物だったりもするらしい。

 そんな豪胆な性格の小倉にとっても自社ビルの最上階にある会長室は縁遠い場所であるに違いない。

 ただの平社員でしかない人間が出勤早々何の前触れもなく組織のトップに呼び出されては足がすくむのも尤もなことだった。

「朝っぱらから申し訳ないな。仕事に差支えがあったら許してくれよ」

「いえ、とんでもありません」

 小倉は畏まって何度も頭を下げる。

「フィギュアを使った客寄せは君の立案なんだろう?社長表彰モノの企画をした人物と一度話がしてみたくてね。あれは実に面白い発想だったし、なかなか盛況のようじゃないか」

 スーパーの建物内にアニメのフィギュアを何体も設置する。たったそれだけのことで集客力が明らかにアップした。特設会場として設けたフィギュアやゲーム用カードの販売コーナーは人が絶えないという。小中学生ぐらいのものだろうと思っていたら、どうしてどうして大人の姿も目に付き若い女性も珍しくなく客層はバラエティに富んでいる。

「ラッキーでした。自分でもまさかこれほどまでに当たるとは思いもよりません」

 小倉は謙遜して言ったがこの業界ではどんな成功も単に運だと片付けることはできないものだと私は知っている。

 アニメに疎い私には全く理解できない現象であるが、時代の流れに敏感な若手社員とその企画にゴーサインを出すことのできた頭の柔らかい幹部職員の存在に私は大いに満足していた。会社全体にこの展開力があれば蛯名グループの安寧はもうしばらく続くことだろう。

 だとすればなおさら洋にはこの会社に確固たる地位を築いておかせる必要がある。

 私は小倉に応接用のソファを勧め、その向かいに腰を下ろした。タイミングよく茶を出す真奈美の出現に小倉はより一層身を縮めて深々と頭を下げた。会長の美人秘書に給仕させるのが面映いということだろう。

「それにしてもアニメってものはかなり幅広い層に人気があるんだね」

 私の言葉に小倉は大きく頷いた。

「下はそれこそ乳幼児から、上は還暦手前ぐらいまでを守備範囲としてます。女性にも受けてるんですよ。少女漫画のフィギュアなんかもありますからね」少しずつ緊張がほぐれてきたらしく小倉の舌は滑らかさを見せ始めた。「アニメが娯楽として受け入れられてきた世代が子を持つ年代になって今や親子間のコミュニケーションツールとしても欠くことができないものになってきてるんです」

「なるほどな。うちの道楽息子ももうすぐ四十だが昔っからアニメが好きでね。あいつも子供がいてもおかしくない歳になったが、未だに暇があると漫画ばっかり読んでるんだ。いや、しかしそれも今回のようなことがあると悪いことばかりでもないようだな」

 苦笑しながら湯飲みに手を伸ばすと小倉はこちらの顔を軽く覗き込むような視線になった。

「あのぉ、その道楽息子って常務のことですよね?」

 私は心の中で息を詰まらせた。

 蛯名グループの社員でそのことを知らない人間などいないはずだが、面と向かって確認されるとどう返事をしたものかと言葉が出てこない。私が曖昧に笑いを浮かべると小倉は毅然と言い放った。

「ご存知かとは思いますが、今回特設会場にどんなアニメ商品を並べるかはほとんど常務がお決めになってます。そして全てが大当たりなんです。常務のアニメに関する知識はすごいですからね。おべっかじゃなく今回の成功は常務のご努力によるところが大きいんですよ」

「あれは全部君が仕切ったんじゃないのかね」

 少なからず私は驚いた。洋の父親である私に対しての言葉だからある程度の割引は必要なのだろうが、小倉の表情を見ていると今回ばかりは洋が組織の一員として機能したことは間違いないようだ。こんなことは洋が入社して初めてのことだった。

「私は企画までなんですよ。所詮私の知識は偏ってますから。でも常務は満遍なく抑えてるっていう感じで、私が言うのもおこがましいですが今回に関してはお客様のニーズをよく掴めていたと思います」

「いやぁ、まいったな。あいつがかね。確かに漫画しか能がない感じだが。それにしても、知らなかった」

「私のような平社員が申し上げるのは僭越ですが、今回の企画は常務もかなり本気モードですよ。自分でも本屋とかマンキツとかで売れ筋漫画とか人気キャラクターについて熱心にマーケティングされてるようでしたし」

 きた、と私は思わず拳に力を入れた。

 マンキツ。

 そこで洋の意中の人が働いているという。

 小倉から聞き出したかったのはこのマンキツが何なのかということだ。そしてあわよくばどこのマンキツにカルーアちゃんがいるのか、その手掛かりを知りたかった。

 私は思わず震えそうになる声を抑えた。「マンキツ?なんだね、そのマンキツってのは」

「漫画喫茶のことですよ。あれ?ご存じないんですか?喫茶って言うぐらいですから一応喫茶店なんですけど図書館みたいに漫画がずらっと並んでて、みんなジュースを飲みながら漫画を読むわけなんです。客は漫画を読むために来るわけですから長時間の読書でも疲れないようなクッションのきいた椅子が置いてあります。みんな漫画に熱中してるからすっごく静かで、聞こえてくるのはページをめくる音だけで、それを聞いてると一層集中できたりするんですよね。個室がおいてあるところも多いですし漫画を読む環境としては最高なんです。僕みたいに彼女のいない暇を持て余した冴えない男には天国のような場所っていうか。でも最近カップルシートとかカップルボックスとかいってカップルのための設備を増やしてるところが多くて、そいつらがぺちゃくちゃいちゃいちゃするもんですから、ちょっと残念だなって思ってます。こういうのもれっきとした環境破壊ですよね」

 小倉はもともと多弁な性格なのだろう。ゆくゆくは口で失敗するタイプかもしれない。

 私は少しずつ彼の長広舌にげんなりしてきた。内容も脱線して洋とは関係のない方向へ進んでいるような気がする。

「なるほど。何となくイメージはつかめた。しかし、マーケティングとなると洋はかなりのマンキツを回ったんだろうか。実際あいつにそんなことができたのかな」

「常務もご多忙だとは思いますけど、休日返上でリサーチしてらっしゃったみたいですよ。趣味と実益を兼ね備えてるからこればっかりは苦にならないよっておっしゃってましたけどね。少なくとも県内の主要な市は全て網羅されたと思います」

「ふむ。しかし闇雲に県内を回ってもいいデータを取れるとは限らないだろう。やはり桜浜を重点的におさえないと」

 桜浜市は県内最大の都市であり我が社もここに本社を置いている。マーケティングは当然標本が多いほど精度が高まるのだが、一つの地点を集中的に調べることも大切で、基本的に県下でおさえるべきは桜浜だというのが事業を進める上での常識だ。ここで当たればこの県内で優位に事業を進めることができる。

「確かに桜浜は重要だと思いますが、県内のマンキツ軒数は緑山が一位ということもあってか常務は緑山に力を入れてたみたいです。緑山には店員さんがアニメのキャラクターに扮してるちょっと面白いマンキツがあるんですよ。いわゆるコスプレですね。そこが男女を問わず子どもにも人気でして、常務もそこでのマーケティングに最も力をいれていらっしゃいました」

 緑山市は桜浜の隣に位置し街の規模は桜浜に劣るが近年人口増加が顕著で勢いのある都市だ。

 もともと私の出身も緑山であり、創業もこの地で始まった。

 桜浜が発展を迎える中で飽和した人口が溢れ出した結果現在の緑山の伸びを作っている。蛯名グループも緑山を再度重視するようになってきていてここ数年で店舗数を桜浜と肩を並べるぐらいに増やしている。

 小倉によれば「アニワールド」という名のそのマンキツは緑山の住民なら特にアニメに興味がない人でも店の場所ぐらいは知っているというほどの人気スポットのようだ。「コスプレ」という響きに私はどうも不健全なイメージを嗅ぎ取ってしまうのだが、今や「コスプレ」は世間的に市民権を勝ち得たようで、アニワールドもいわゆる夜の店というものではないらしい。

 私は「なるほどな」と満足げに頷いて見せた。小倉の情報は期待通り、いやそれ以上だった。

 このアニワールドに洋のカルーアちゃんがいると見て間違いないだろう。

 好きな漫画があって、気になる女がいる。動機は不純かもしれないが、それでも自発的に仕事をしたのだから洋にしてみれば上出来だ。

 しかし、あまりに簡単に洋の思考と行動が探れて私は面白いような悲しいような複雑な気分だった。まあ、概して男などその程度の単細胞なのかもしれないが。

 小倉が部屋を辞し、代わりに盆を片手に真奈美が入ってきた。慣れた手つきで湯飲みを片付け、テーブルを拭く彼女に私は何か声を掛けたいのだが何も思いつけない。口をぱくぱくさせている間に彼女は無駄な動き一つなく作業を完了しぺこりと頭を下げた。

「中谷君も漫画を読んだりするのか?」

 何の脈絡もない質問に彼女は少し意外そうな顔をしたがすぐににこやかな表情で応えた。

「はい。小さい頃から好きで、布団の中でも読んでいたのですっかり目が悪くなってしまって」

 そう言って彼女はシルバーの眼鏡の縁に恥ずかしそうに手を添えた。

 知性に溢れる真奈美が漫画好きというのは意外だった。知的な雰囲気を漂わせるそのレンズが実は漫画の読みすぎが原因なのだというギャップがまた彼女の魅力を深めるようだ。

「じゃあ、マンキツにも行くのかな?」

 私がマンキツという若者言葉を発したことに年寄りの背伸びを見てとったというような微笑を彼女は浮かべたが、彼女がすることで私が気分を害するようなことはない。

「行きますよ。朝から一つの席に陣取って漫画を読み倒すのが私のストレス解消法なんです」

 ほぉ、と頷いて驚きついでに私は思わずこんなことを口走ってしまった。「一度、私も一緒したいものだな」

「マンキツに、ですか?」

 しまったと思った。真奈美が真意を汲みかねるという表情で私に厳しい視線を投げかけている。

 四十の息子がいる大の大人が、老眼に悩む還暦爺が、千人弱の社員を抱える企業のトップが漫画喫茶に連れて行ってほしいと頼んでいる。彼女の目に私はどのように映っているのだろうか。

 発した言葉を取り返そうと大きく息を吸い込んでももう遅い。

「いや、その、今、うちの店でやっているアニメを使った広報の勉強にと思ってな。小倉君が言ってたんだが広報部ではマンキツで盛んにマーケティングをやっているらしいんだ」

 私は惨めにも額に汗が滲んでいるのを自覚しながら必死に弁明した。

「そういうことですか」微かに真奈美もほっとしたように見える。「お仕事なら仕方ありませんが……」

 眉間にしわを寄せて深刻に何かを考えている様子の真奈美に私は少なからず慌てていた。

「いやいや、ちょっと言ってみただけだよ。中谷君につき合わせては申し訳ない。しかし、小倉君が言っていたが、最近はカップルシートなんかがあるところもできたみたいだね」

「そんなマンキツは邪道です。マンキツは一人で楽しむべきところです」

 敏腕秘書のいつにない有無を言わせぬ毅然たる態度に私はアニワールドには単身乗り込むことを改めて決意した。


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