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鏡台の前で化粧水を肌になじませている幸子の背中を盗み見ながら私は霹靂のような昼間の洋の言葉を反芻していた。
あの洋が結婚したいと考えている。しかし相手は人妻。
このことを知ったら幸子はいったいどういった反応を示すのだろう。
歓喜?落胆?狂乱?
長年連れ添った仲ではあるが今回ばかりは幸子のリアクションを予想することは私にはできなかった。ただ、どんな感情を吐露したとしても彼女の声は私を辟易とさせるほどヒステリックに響くだろう。
「なんですか?ちらちらとこっちを窺って。いやらしい。何かおっしゃりたいことでもあるんじゃないんですか?」
気付くと鏡に映った幸子のこちらを詮索するような冷たい視線にぶつかった。
彼女の非難めいた表情は、まるで全てを知っていながらもこちらがどんな嘘を並べるのか面白がっているかのような得体の知れない自信に溢れているようで私は恐怖すら抱いてしまう。彼女の射るような鋭い視線に正対することができず私は不恰好に慌てて手元の企画書に目を落とした。
ベッドに腰掛けて読んでいる振りをしているが先ほどから一ページも進んでいないことを幸子は知っているのだろうか。私への興味はほとんど失せてしまったようだが、見ていないと思っていたらちょっとした変化に敏感に反応することがある幸子が気がついていないとは限らない。
どうにもいたたまれず私は開き直って書類をサイドテーブルに戻した。こんな日は守勢にまわっていると分が悪い。「最近少し痩せたんじゃないか?腰の辺りが細くなった」
「それは誉めてくださってるんですか?それとも歳だから身体が縮んだとでもおっしゃりたいの?」
最近妻からは険のある言葉しか返ってこない。
「馬鹿言え。歳なら俺の方が三つも上だ。体調を心配してるんだ。少し顔色も冴えないような気がするしな。一度検査を受けてみたらどうだ」
私は健康という万国共通の大義名分を掲げて虚勢を張った。健康が駄目なら明日の天気だ。話題が見つかれば何でも良い。
「あら。心配してる、なんて嘘でも嬉しいわ。いっそ本当に病気になっちゃおうかしら」
幸子はおどけたように言いながらこちらに顔を向けることもなく次の壜に手を伸ばした。
私は会話を続けることが馬鹿らしくなってきてベッドに寝転がり肘をついて彼女の挙措を眺めた。
幸子とはもうかなり長い間夫婦をやっている。二十年を超えた頃からもう数えることにも飽きてしまったが、これだけ一緒にいるとまるで生まれたときから夫婦だったような錯覚に陥ることさえある。
それにしてもお互い歳をとった。
もともと小柄だった体躯が一層小さく見え、いつの間にか髪は隠しきれないほど白いものが増えている。家庭を顧みない私と結婚して人一倍苦労したのは間違いないだろう。そして未だに一人息子のことでも絶えず悩み続けている。
「あなた、バツイチってどう思われます」
「えっ?」
虚を突かれて身体を起こした私は自分の声の大きさにさらに驚いた。
掌で顔全体を包み込むようにしてマッサージしていた幸子がその指の間から再び疑問符を宿した目を覗かせこちらを見ている。
今日のあなたはどこかおかしくないですか、とその瞳が暗く光っている。
私は取り繕うように一つ空咳をしつつ言葉を選んだ。「なんだ。藪から棒にバツイチだなんて」
「洋のお見合いのことですよ。大河内さんがバツイチでもよろしければって前に言ってたなぁって急に思い出して。あのときは、離婚歴があるのはそれ相応の欠点がある証拠だと思って相手にしなかったんですけどね。でも、そういう人も一度は結婚してるんですからそれなりに長所もあるんじゃないかって思えてきて。結婚なんて縁ですからね。離婚歴があるからって必ずしも洋とうまくいかないってことではないはずですし、逆に失敗した経験があれば余計に次は上手にやろうって思うんじゃないかしら。明日大河内さんに相談してみようかしらね」
私に訊ねるというよりは自分自身に問いかけているようだった。「やっぱりそうよね」と頷きながら幸子はもうこちらを見ることもなく再び鏡の中の自分に戻っている。
バツイチが良いのなら現役の人妻はどうか。
そんな愚にもつかない問いかけを思いついて小さく苦笑する私を視界の端に捉えることもなく幸子は鏡に幕を下ろしカーディガンを脱いで隣のベッドに腰掛けた。
「あなた、まだお休みになられないんですか?私は明日早いので先に休ませていただきますよ」
ベッドに横たわりそそくさと枕もとの灯りを消すと幸子はこちらに背を向けてしまった。
いつもの日課どおり布団に入ってからひとしきり洋の結婚について愚痴をこぼすのかと身構えていた私は軽く拍子抜けだった。
音を殺してほっと一息ついた。煙草に手を伸ばし一服つけると今日一番の美味しさだった。ぼんやりと薄暗がりの中空にたなびく紫煙を眺めていると横から嘘か真か早くも寝息が聞こえてきた。
数年前から趣味で通っている絵画教室の生徒たちが共同で展示会を開くことになったとかで妻は最近何かと忙しいらしい。夕食のときに幸子が会場の下見やら打ち合わせやらがどうのこうのと言っていたのを私は思い出した。同じ教室の生徒である大河内さんとも明日会うのだろう。展示会の準備の傍らで額を寄せ合いあれこれと戦略を練るに違いない。
しかしいくら条件の良い見合い相手を探し出してきてもやはり今回も無駄に終わるに違いない。あちら側を向いている幸子の細い首筋を見ているとほんのり哀れをもよおさないではない。
彼女がこちらに背を向けてしまっているのは明日の早起きのためだけではないように思う。洋の結婚に対してすっかり冷め加減の私に見切りをつけたということの意思表示ではないだろうか。その度を超えた執着振りが洋にとって悩みの一つになっていることも知らずに。
まあ、あの能天気な洋には少しぐらい悩みがあった方が良薬なのだろうが。
結婚なんて縁だ、と言い切る妻は己の結婚に対してどのような評価を下しているのだろう。私との関係は良縁だったと思っているのだろうか。それとも縁だと思って諦めるしかないということなのか。
私はどう思っているのだろう。幸子との関係は……。
考えても無駄だと思った。夫婦というものを幸子以外の人とやったことがなければ良し悪しを比較しようがない。
ただ、これまで長い年月をともに過ごしてきた今の感想としては、彼女と一緒にいると息が詰まって疲労を感じる、というものになる。幸子だって少なからずそうだろう。どこの夫婦もこういうものなのかもしれないが。
幸子は私の会社に融資してくれていた銀行の重役の娘だった。
彼とは私の起業時からの付き合いで、経営の「け」の字も知らない私を親身になって世話してくれた恩人でもあった。
彼から娘をどうかと訊ねられたとき私は即座に、お願いします、と頭を下げていた。いわゆる政略結婚の色合いが濃く、そもそも当時私には学生時代から交際している女性がいたのだが幸子との結婚を迷うことはなかった。当時の私にとって幸せとは仕事の成功を意味していた。
予想通り幸子と夫婦になったことで融資元との繋がりが太くなり、ある程度金銭的に不安のない状態で事業拡大に専念することができた結果私の会社は上昇気流に乗り始めた。従って会社経営の面だけ見れば(会社経営こそが私の人生において最も大きな要素だと長らく考えていたが)私にとって幸子との結婚は大きくプラスの材料となったと言える。
一方、幸子の父親はやがて派閥争いに敗れ行内での実力を失い半ば追われるように退社することになった。しかし私の口利きで彼はとあるゼネコンの相談役として再就職しそのまま定年を迎えることができた。彼はその再就職先から過分とも言える退職金を得て老後は悠々自適の暮らしを送り数年前に笑顔のような死に顔を浮かべて人生に幕を閉じた。
私が幸子の父親の窮地に不足のないポストを用意して救ったことを彼女は彼女なりに感謝しているようだった。長い目で見れば持ちつ持たれつ貸し借りなしの辻褄のあった付き合いと言えよう。そういう関係を指して人は縁と言うのかもしれない。
しかし、ここのところ私は気がつけば「もしも」を思い描いていることが多い。
もしもあのとき学生時代からの恋人と結婚していたら。もしも洋にもっと厳しい教育を施していたら。もしも幸子と別れて真奈美と再婚していたら……。
周囲に羨望されるような船を造り上げ仲間や家族と送った長い長い航路には概ね満足している。それでも夜半にひとり甲板に脱け出しては過ぎ去った遠い波頭目掛けて竿を振り針を投げ時折伝わる引き具合にそこにいる決して見ることのできない「もしも」という名の獲物の姿形を憶測することがやめられない。
七色の鰭、黄金の鱗、滲み出る鮮やかな血。
ありもしない人生を空想し我が身を嘆くのは男という生き物の特性なのだろうか。それともこれこそが老いというものか。老いであるなら老人の戯言と許されるだろう。私は隣で寝ている幸子をぼんやり眺めながらそこに真奈美が横たわっていることを想像してゆっくり煙草の香ばしさを味わった。
気がつくといつの間にか傍らの妻の様子に変化が兆していた。先ほどまでの嫌味のような存在感のある寝息は静かで落ち着いたものになっている。音を立てないようにベッドを降りて近づいてみると呼吸に合わせて規則正しく布団が上下している。こっそり覗き込むとそこには薄く口を開けた妻の穏やかな寝顔があった。どうやら妻は寝たふりをしているうちに本当に寝入ってしまったようだ。寝つきが良いのは幸せなことだ。
数年前はよく、心臓がドキドキして寝付けない、と更年期特有の症状を訴え、その反対に仕事で疲れてすぐに寝入ってしまう私に朝食時にネチネチと愚痴をこぼしたものだった。洋の見合いでストレスが重なったのも幸子の神経をささくれ立たせていたのだろう。
しかしここのところ立場は逆転していた。気分転換にと私が勧めた絵画教室にすっかりはまり友達付き合いも増え彼女の毎日は充実しているようだ。その日の程好い疲れと明日への期待が彼女の不眠の解消につながっているらしい。
逆に仕事に対する意欲が減退し明日への活力を失いがちの私は布団に入ってもどうもうまく寝付けず、眠りが浅いのか朝もすっきりと起きられないことが増えた。
すっきりしないのはアルコールのせいもあるのかもしれない。いつまで経っても眠れないとどうしてもイライラが募ってくる。どんどん目が冴えてきて寝返りを繰り返していると鼓動が速まり身体が徐々に火照ってくる。やがて布団の中でじっとしているのも苦痛になると傍らで眠る妻の安眠を損なわないためにもとりあえず寝室を出るしかなくなる。
灯りのない蕭然としたリビングのソファに腰掛けていると自然と手は酒に伸びてしまうのだ。
しかし今日は違った。何やら身体の芯が冷えていて眠れそうにない。胃の奥がズンと鉛を抱いたように重く冷たい。
洋が結婚したいと言った。こんなことはもう二度とないかもしれない。しかし、その相手は人の妻。ならばいっそ聞かない方が良かった。
目の前にあるのに、手を伸ばしてはいけない果実。手に入れることができないのなら、目に毒なだけだ。期待が高まっただけにすぐにやってきた失望の重さ、深さ、冷たさと言ったら言葉もない。
こんなときは強いブランデーがほしい。失望を私の身体ごと焦がしてしまうような熱い液体。
私は妻に正対したまま後ずさり後ろ手にドアを開いてゆっくりと室外に出た。
リビングに出て普段は眺めているだけの貴重な年代物を取り出し迷いなく封を切る。大事にいつまでも残しておいても口をつけることなくこちらが死んでしまっては意味がない。
指一本分を注いで月明かりにグラスを透かす。
思えばこのブランデーも数奇な運命を辿っているのだろう。何十年という間、私の口に入るまでに一体何人の手を渡ってきたのだろうか。私は幾層もの年月の堆積を思わせる重くまろやかな甘みを舌で転がしながら改めてゆったりとソファに身を委ねた。
私は窓の外に掛かる丸い月の中に一本の樹を思い描いた。幸福という名の実がなるという言い伝えの大木。私は水をやり雑草を取り肥料をやりして何年も何年も丹念に育ててきた。雨の日も雪の日もそして日が照りつける暑い日も。その実の甘さを期待して。
そして今日偶然に私は葉の裏に隠れていた果実を見つけたのだ。私は喜び勇んでその実に噛り付いた。しかしそのあまりの苦さに思わず投げ捨てた。あれだけ苦労してようやく手に入れた実がどうして甘くないのか。幸福という名の果実がとても食べられる代物でないのはなぜか。
私は煽るようにしてブランデーを咽喉に流し込んだ。舌から食道、そして胃へと一本の線となって火が走る。
冷静になって考えてみれば私が愚かだったのだ。誰もその実が甘いとは言ってはいない。その実を食べたら幸福になるとはどこにも書いていない。私が勝手にその味を想像しその名前から伝説を美化しすぎたのだ。
誰も責められない。洋が悪いのでもない。
先ほどよりも多めに注ぎ再び月に捧げる。一口、二口で空にしてしまう。物足りなさにまた壜を傾ける。しかし一向に酔いはやってこなかった。身体を焼く熱さも慣れてしまえば生木を燻す程度のものでしかない。求めている酩酊はもたらされず余計に思考が活発になるようだった。
私はブランデーの瓶を片づけ、代わりにいつもよく飲んでいる赤ワインの栓を抜いた。
最近は男女を問わず結婚しない人間が増えていると言う。私の時代にはおよそ考えもつかなかったことだが確かにそれも一つの人生のあり様だと思わないではない。興味がない、他人の人生まで背負い込みたくはない、と言う隣人にまで無理に勧めるものではないように思えてくる。しかしそうは言っても洋には結婚してほしい。
なぜなら、それが洋の世間的地位を高めるからだ。他人からどう思われるかがこと洋にとってみればこの社会で生き延びていく上で非常に重要なのだ。
世の中はいまだに信頼と情で成り立っている部分が多い。妻も子もいる、と聞けば誰だって心のどこかでほだされてしまう。逆に若くもないのに未婚だと聞くと、ああなるほどな、そういう人なのね、と片付けがちだ。
親に力があること以外に個性も実力もない洋にとって結婚は必ずや有益に働くに違いない。結婚することによって少なからず洋に一家の主としての責任感が芽生えることだろう。自分が愛する女性を妻に娶り子どもをもうければ人生を顧みるきっかけに必ずなる。
よしんば洋に何の変化も見られなくても蛯名グループは洋を見限ることはできなくなる。家族ある二世を放り出すような真似は心情としてやりづらいし社会的体裁もとれないからだ。
やはりこれが最後の機会かもしれない。
他人からその妻を奪う。人の倫としてそれはあってはならないことだ。
己の息子が己が養ってきた部下に放逐され路頭に彷徨う。親としてこれも受け容れることができないことだ。絶対にあってはならない。
ではどうすれば良いのか。
私はいきなり見たことのない家の前に連れてこられたのだ。この家のどこかに私が探し続けてきた宝があるのだという。その宝は私の命と引き換えにしても手にしたいものだ。しかし忍び込むには人目を避けなければならず、またどこから忍び込めば良いのかも分からない。糟糠の妻に助言を求めることも今は許されておらず、かと言って老体に鞭打って単身乗り込んでも良い結果は生まれないだろう。家人に見つかれば泥棒と非難され足腰が立たないほどに打擲されその醜い骸を白昼にさらすことになる。
逃げるべきか、盗むべきか。
血を連想させるような赤黒く粘着性さえ感じられるワインを一口一口と身体に流し込んでいると少しずつ体内に充実感が漲ってくるようだった。
とにかく調べてみることだと私は思い至った。相手をとことん知ることでこちらが進むべき道は自ずと照らし出される。
駄目だと思えば引き返せば良い。今までもそうやって事業を進めてきたのだ。それで大きく間違ったことはない。