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 私が茶を飲み干す前に真奈美が再び現れると、その後ろからのっそりと洋が顔を覗かせた。用件が何であるかはさすがに分かっているのだろう。大きな体躯は腰がひけゴミ漁りを邪魔された野良猫のような冷たくも臆病そうな目でこちらの様子を窺っている。

 愚息は私に似て体格は良く身長は百八十センチを超えている。特に何かのスポーツに打ち込んだというわけではないのだが、がっしりとした骨格を持っているので黙って胸を張って仁王立ちしていれば相手は委縮してしまう。

 息子は真奈美よりもさらに二つ年上で未だに独身だ。二人が並んで立っていればお似合いだと言えなくもないが、もちろんこんな道楽息子に真奈美を与える気は毛筋ほどもない。そんなことになれば大事な真奈美が報われない苦労をするだけだ。

 真奈美が静かに一礼して踵を返した。彼女が会長室のドアを閉めるのを待って私はゆっくりと口を開いた。「どういうつもりだ」

「……何がでしょうか?」

 洋は用意していたかのようなお決まりの困惑した表情を浮かべる。

 呼び出された理由が分かっていないはずがない。腹の底で微かに怒りの虫が蠢き始める。「何が、じゃない」

 私は意識して部下を窘めるような口調に努めた。会社では突き放すぐらいの態度をもって洋に接しないと周りに示しがつかない。

 怒気の響きに洋は怯えたような目つきをさらに醜く歪めたが、それは神妙とは程遠い表情だった。彼としては従順さを装っているつもりなのかもしれないが、その内面を支配している不遜な感情が眉間の皺や目尻の上がり具合に垣間見えるようだ。

 私は家庭では洋を叱ることをしてこなかった。叱るだけではない。私は幸子に任せきりで洋の成長に全く関わってこなかったと言える。

 幸子は一人きりの息子を大事に育てたつもりなのだろうが、周囲にかしずかれることに慣れきった洋は他人に頭を下げることを知らない傲慢な大人になってしまっていた。

 しかしそれも私の責任だ。私は父親らしいことを何一つしてこなかったのだから。

 それは洋も同じ認識なのだろう。私を年老いた同居人程度にしか思っていない彼はいまさら私に対して子が親にするようなへりくだった態度を示すことができないのだ。さすがにサラリーマンになって上司に対しての、あるいは取引先に対しての企業人としての謙譲姿勢を少しは身に付けたらしいが、根が尊大な人間である彼は少しでも納得ができないことがあると今のような相貌になってしまうようだ。

「自分の担当業務の議題ぐらい最後まで集中してられないのか」

「はあ」

「お前は自分で自分の仕事を茶化してるんだぞ。今日の会議用にデータをまとめてくれた部下に申し訳ないとは思わないのか」

 私は愚息の部下達の顔を思い浮かべた。昨日は皆遅くまで資料作りで残業してくれたのだろう。洋の守役として広報部長に据えた今年で定年の田之上も例外ではあるまい。

 今日の会議はこの一年広報部が取り組んできた戦略の効果を発表し今後の方針を打ち出すためのものだった。彼らは社長の前橋をはじめとする役員連中を満足させる数字を幾つも披露した。彼らの頑張りは上層部に認められ彼らは達成感に胸を躍らせていただろう。その晴れの舞台に洋は水を差したのだ。

 さすがに部下のことを言われて洋は眉をひそめて黙考した。「そりゃそうだよなぁ」

 ようやく出てきた言葉がそれだった。あまりに気の抜けた返事に私は憤りも維持できないほどの生ぬるい脱力感に両肩まで浸ってしまう。

 スケールの大きな人物になってほしい。そういう想いを込めて「洋」と名付けたのだが、あまりに欲張りすぎだったのか、はたまた神のいたずらなのか。見た目の方だけ如実に体を表してしまった。精神面ではこれから大器に変貌するという兆しは親の欲目で見ても皆無である。

 しかし、それもこいつ一人の責任ではない。

 仕事、仕事で子どもの教育は妻の幸子に任せきりだったし、会社に入れてからも何の苦労もなく常務にさせてしまったのは完全に私の落度だ。

 もちろんそれで良いと思っていたわけではなかった。若いうちに色々な経験をさせたいと思っていた。

 楽しいことがあれば辛いこともある。苦しさを味わえばその分成功したときの喜びは大きいものだ。いくつもの山や谷を自分の力だけで乗り越えることが自分の糧になることを身を持って知ってほしい。そう考えて私は息子の大学卒業時に知り合いの会社に働き口を用意してもらっていた。私の目の届かない他人の会社で厳しく育ててもらい、社会人として一人前になったときに呼び戻して私のあとを継がせるつもりだったのだ。

 しかしそのことを幸子に伝えたところ予期せぬ猛反対にあった。

 あなたは自分の子どもが可愛くないのか、愛していないのか。

 妻は来る日も来る日も涙で絨毯が変色するほどに泣いてみせた。洋は優しい子だから世間の厳しい流れには耐えられない。会社人として育てるならせめてあなた自身の手で、と。

 そんな風に甘やかしては結局洋のためにならない。親の庇護を離れて生活してみなければいつまで経っても誰かを頼って生きることになる。私は二度、三度と幸子の言い分を突っぱねた。だが、世間の厳しい流れには耐えられない、という洋に対する妻の評価は的を射ているとも思っていた。

 私は妥協してしまった。最後の最後で鬼になれなかった。私にとっても、幸子にとっても、そして洋にとっても時間を稼ぐためにアメリカに留学させることにしたのだった。

 異国で一人暮らしさせれば少しはしっかりするだろうと高をくくっていた。だが、つまるところまさに時間を先延ばしにしただけで、帰国した洋は何ら変わっていなかった。

 請われれば金を送る母。金さえ積めば単位をくれる教育機関。学歴だけは格好良いカタカナだが、何のことはない。自由を謳歌するという名目の若さの浪費の末、無駄に歳を重ねただけだった。

 初々しさのかけらもなく、人に自慢できるものを持っているわけでもない三十路手前の息子を他家で新入社員として修業させるのは不憫というよりも恐怖だった。

 私は不出来な息子を社会から隠すように自分の会社に入社させてしまった。今までずっと妻に任せきりだったのだから今度は私が育てる番なのかもしれないと諦めた。

 今思えばあのとき幸子を張り倒してでも洋に苦労させるべきだったのだ。

 会社に入れると私の思いとは裏腹に前橋をはじめとした部下たち全員が洋を特別視した。

 彼らにしてみたらワンマン社長の一人息子を他の社員と同様に扱えと言うことの方が無理な話だったのだろう。ましてや叱りつけて教育するなどそれこそ自分の首を絞めるような行為に見えたのかもしれない。誰一人として洋の上司になりたいものはいなかった。

 ある程度の地位に就いていただかないと私たちがやりづらいですから、と起業当時から苦楽を共にしてきた幹部職員たちに囲まれ頭を下げられては私もなす術がない。

 結果、洋は今現在も会社の仕組み、社会の成り立ちというものを理解しないまま何十人もの部下の上に胡坐をかいている。かと言って今さら、社会勉強して来い、とこの会社から放り出してしまっては一からやり直しがきく年齢ではなくなっている以上それこそ路頭に迷うだけだった。

 私が会社を去ったらこの凡庸な息子はどうなってしまうのだろう。

 社長職を退いたとは言え創業者であり代表権を持つ会長の私には前橋であってもおいそれと逆らうことはできない。従って私が健在でありさえすればたとえ「万年常務」ではあっても洋の地位は安泰ではある。

 しかし、それは永遠ではない。気力も体力も私はすでに衰えを隠しきれない。私のエンジンはいつ止まってもおかしくはない状態にきているのだ。

 洋は決して頭が悪いわけではない。国立大学を出ているしある程度英語ができなければ留学もできなかっただろう。高卒の私よりも余程論理的に物事が考えられるのではないか、と思う。しかし、洋には根気や熱意が欠けていた。仕事に対しても対人関係においてもその度合いは決定的に絶望的だった。

 こういうのをぼんぼんと言うのだろう。一人っ子で、金に不自由がなく、周囲にかしずかれ成長した。本人は意識していないのかもしれないが人も金も向こうから寄ってくるものだという甘さが洋の底辺に横たわっているに違いない。だから何か目標があったとしてもそのために自分から能動的に調整するとか他者と競り合うとか機を見て動くとかいう発想に至らない。私の目にはその発想がない洋はただ世の移ろいを傍観するだけの人生を送っているように映るのだ。

 洋の心許ない一歩一歩は蟻さえも潰せやしない。私に万が一のことが起こったときにはどうなるのか。それはあまりに暗澹としていて想像することすら脳が拒否する未来だった。

 愚鈍とは言えやはり息子は息子だ。さすがに私のあとを継がせて会社を任せることは無謀に過ぎて経営者として採るべき選択肢とはなりえないが、親としては蛯名の息子としての体面を保てないようなつらい思いはさせたくはない。

 社長の前橋は私の子飼いの部下だ。今のところは忠実な犬としてその類まれな知恵と唾液滴る鋭い牙を私のために使ってくれている。しかし、私にリードを御する力がなくなったと彼が判断したときに、彼がどういう様相を見せるかは計り知れない。

 前橋はクールだ。物事に動じない肝っ玉の据わったところが彼の魅力だが、その反面何を考えているか分からないとも言える。温和な忠犬の仮面の下にどんな素顔を隠しているのか。仮にそれが残忍な狼の姿だったとしたら私という庇護を失った無力の羊に太刀打ちできるはずがない。本当の羊なら羊なりに生き延びる知恵というものを備えてもいるものなのだろうが。

 先ほどの前橋の表情が気になった。いくら洋が失敗をしても創業者の私に対して苛立ちの色を示すことなどこれまで一度もなかったことだ。今までも様々な無理難題を彼に押し付けてきたが彼は眉一つ動かすことなく私に従ってきた。その前橋が私に対して自分の不愉快さを隠し切れなかった、隠し切らなかったことの意味するところは何か。

 さすがに今すぐ飼主の手を噛むつもりはないだろうが、少しずつあいつの中で何かが変わっているのかもしれない。

 変わったといえば幸子の態度だ。ここ数年で彼女は私を明らかに蔑ろにするようになった。亭主元気で留守が良い、と考えているのは間違いない。いや、亭主病気で死ねば良い、とさえ思っているかもしれない。昨今は我々の世代での離婚率が上がっていると言うし色々と私も備えておかなくてはなるまい。油断していては寝首を掻かれてしまうぞ。

「……父さん、父さん」気が付くと息子が私を呼んでいる。社内では「会長」と呼ぶように言い聞かせているのだが、私があまりに物思いに耽ってしまっていたということか。「実は、悩みっていうか相談っていうかさ。聞いてほしいことがあるんだよね。そのぉ、会議のときも考え事しててさ」

「ん?」

 私は意外な展開に言葉を失い心の中で軽く身構えた。

 洋が私に何か言おうとしている。聞いてほしいことがある、などというもったいつけるような前置きを洋が遣うことなどこれまで一度もなかったことだ。霞む目をよくよくこらして見れば確かに洋はいつになく思いつめたような顔をしている。憂いを含んだ顔つきにいつもの子どもじみた表情はない。

 一体どうしたんだ、と身を乗り出そうとしたときに、私の胸のどこかで警鐘が鳴り出した。

 待てよ。

 洋が言い出したことでこちらが真剣に耳を貸さなくてはいけないような話が今まであっただろうか。

 会社の廊下で目に涙を浮かべ悔しそうに下唇を噛締めている洋を発見し、どうしたんだ、と訊ねたら野球漫画で主人公率いる高校が甲子園の決勝戦でエラーでサヨナラ負けしてしまったのがやるせなくてどうにも泣けるのだという答えが返ってきたのはまだ数年前の出来事だ。出張だろうが接待だろうが外へ出るときは携帯用のゲーム機が手放せない。ネクタイを結ぶことがままならず母親の手を煩わせている洋の精神年齢は私から見れば小学生並だ。真面目に相手をしていてはこちらが馬鹿を見る。

 私は起こしかけた身体を再び背もたれに委ね足を組み胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。最近健康のために軽くしたのだがどうもこの銘柄は美味くない。

「どうしたんだ、改まって。話ってのは仕事のことか?」

「仕事じゃないよ。もっと個人的」

「個人的?」

「あのさ、そのぉ。何て言ったらいいのかな」

 言いにくそうに頭を掻く洋を見て私は嫌な予感に眉を顰めた。「こみいった話か。……金か?」

「そんなんじゃないよ。もっと精神的っていうか内面の話でさ、それは自分の人生観に関わる問題なんだ」

 髪をいじくりながらしどろもどろ言葉を繋ぐ煮え切らない洋の態度が私には耐え難い。嫌でも頭に血が上ってしまう。もっと簡潔に話せないのか、とこれまで何度小言を繰り返したことだろう。「だから、それは何なんだ?」

「実は、うまく言えないんだけど。……結婚したい人がいるって言うのかな、こういうの」

「何!」

 全く予期せぬ発言に、瞬間、私は我を失った。

 慌てて身を起こした拍子に組んでいた足をしたたかに机にぶつけてしまい痛みに顔が歪む。思わず口から吐き出してしまった煙草が手に付かない。吸い込んだ紫煙に噎せ返りつつもまるでビチビチ跳ねる魚に手を焼くような格好でガラスの灰皿に煙草を放り込んだ。火の付いている部分を触ってしまったが熱さなど感じなかった。

「そ、そうか。よ、よしよし。その人は実在する人間の女性なんだな?」

 もうすぐ四十に手が届いてしまう大の大人がさすがにこのシリアスな状況で漫画の世界の女性と結婚したいなどと言い出すことはないだろうが、私の脳裏に最初に浮かんだ疑問はそれだった。これだけははっきりさせておかないと後でこちらが馬鹿を見る。好きな人はいないの、と母親に訊ねられるたびにアニメのヒロインの名を挙げてこちらをうんざりさせていた洋である。もちろん初恋の女性も紙の上でしか生きていない架空の存在だった。

「当たり前だろ。この歳になってアニメのヒロインと結婚したいなんて言ってたらマジやばいよ。でも、カルーアちゃんにほんと似てるんだ。若くて可愛い子だよ」

 カルーアちゃんというアルコールともとれる人名らしきものは恐らくアニメ漫画の登場人物なのだろう。下手にそこに触れると話が脱線してしまうのだが、どうしても確認しておきたいことがさらに一つ浮かんだ。

 それは風俗嬢ではないだろうな。

 まさかな、とは思った。もしそうだったらこんなにあっけらかんと話すことはないだろう。しかし、相手は洋だ。世間の常識など通用しない。カルーアという名が源氏名でないとは限らない。

 あれは四、五年ほど前のことだ。ご子息が風俗街に熱心に足を向けていらっしゃいます、という情報に私はどう対応したものかと悩んだ時期があった。もう忘れてしまったが何とか言う古風な名前の傾城に相当入れ込んでいたのだ。

 洋も男なのだからそういう店に出入りすることに対してとやかく言うのはどうかと思った。私だって玄人女性の経験がないわけでもない。感心できることではないが、そのことだけを捉えて男親が成人した息子に注意するようなことはできない。

 しかし、それが勤務態度にまで影響してくるようでは問題だった。

 教えてくれたのは田之上だ。田之上は洋が以前に輪を掛けて遅刻や欠勤をするようになったことを訝しみ自分なりに調べてくれたらしい。それで分かったのは洋がある風俗嬢に熱を上げているということだった。 それまで生身の女性に興味を示したことなどなかったが、一度何らかのきっかけがあって触れてみたらそのまま深みにはまってしまった、というところだろう。いいおじさんになるまで全く免疫がなかったのだから柔らかい女の肌に溺れてしまうのは仕方のないことのように思えた。親としても少し責任を感じないではなかった。

 私は洋を呼び出し風俗店通いには直接は触れずにモラールの欠如を注意する一方、田之上に、もう少し洋の行動を見張っていてほしい、と頼んだ。

 田之上は誠実に私の指示をこなしてくれた。

 洋が足しげく通っている店は女性従業員にアニメに出てくるヒロインの格好をさせて客に性的なサービスを施すところだということはすぐに分かった。そして洋はお気に入りの風俗嬢を店外でもつけ回していたようだが、店の用心棒のような強面の人間に睨みつけられてからめっきり風俗街の方に足を向けることがなくなったらしい。半年ほど後に田之上からその旨の報告を聞かされ、男親としてほっとしたような情けないような気持ちを抱いたことを覚えている。

 とにかく、そのことを今どうやって質そうか。面と向かって「そいつはいかがわしいところで働いているわけじゃないだろうな」とは親としては聞きづらい。

 いや。別にそうであっても良いのではないか。

 どんな所で働いていようとも、問題はその女性の現在の自分の生活や社会に対する態度と洋に対する愛情だろう。

 洋と所帯を持ってくれるなら誰でも良い。

 そこまで思うこともしばしばだ。現役ナンバーワン○○嬢、ではさすがに聞こえが悪いが、その仕事を辞めてくれてほとぼりを冷ます期間さえ作れるならこの際ある程度目を瞑る覚悟は必要かもしれない。

 となれば次はこれだ。

「幸子は何と言ってる?」

 洋の結婚は私と幸子の共通の積年の夢だと言っても過言ではない。

 中学、高校、大学と全く女っけのない洋の将来がどうにも心配だと言い出したのは幸子だった。

 女の裸に興味のない男なんていないから安心しろ、と男親の余裕を見せていた私も就職したというのに一向に漫画の世界から踏み出そうとしない洋に少しずつ焦り始めた。三十歳を過ぎてもアニメのポスターを部屋の壁に貼って悦に入っている洋を見てとうとう業を煮やした私達夫婦はそれこそ取り付かれたように盛んにお見合いを仕組んだのだが、どれもこれも結婚の二文字はおろか次回のデートすら覚束ない始末で、見合いの翌日には断りの電話が入るというのが常だった。

 当の洋に全くその気が見えず、しかも口を開けば漫画の話ばかりで、一体どういうつもりなのか、と仲介役からの苦情に夫婦そろって平身低頭詫びることもしばしばだった。

 それでも懲りずに、蓼食う虫もなんとやらで、どこかに洋を気に入って洋をその気にさせてくれる稀有な女性はいないかと方々声を掛けたが、それもここ二、三年はもうすっかりつてを使い果たしてしまいどうしたものかと老夫婦二人で渋面を突合せ悩んでいたところである。

 正確に言えばここのところ私はもうすっかり諦め加減なのだが、孫の顔が見たい孫の顔が見たい、と念仏のように繰言を言うヒステリック気味の妻の機嫌を損ねないように仕方なく相槌を打つ毎日だ。

 従って私にとってもそうだが、幸子にとって洋の結婚はまさに悲願なのである。

 先ほどの洋の台詞を聞かせたならば私の驚きようなど比ではなく、幸子は嬉しさのあまり泡をふいて失神してしまったかもしれない。

「母さんにはまだ何も言ってないよ」

 当然だろ、と言わんばかりに洋は鼻を膨らませて否定した。こちらの食いつきぶりに気を良くしたのか先ほどまでの縮こまっていた態度が嘘のようだ。

「どうしてだ?」

 私は頬を上気させて喜色満面の幸子の顔を思い浮かべた。洋が同じ台詞を言ってやるだけで幸子は天にも昇るほど幸せになれるのだ。それが孝行と言うものではないか。

「考えてもみてよ。母さんに話すと勝手に突っ走っちゃって、頼んでもないのに絶対に余計なことしてくれちゃうだろ。困ったもんだよな、ああいう性格」

 嗚呼、なるほど。言われてみれば確かにそのとおりだった。

 こんな話を直接洋から聞かされたら幸子は正気ではいられまい。いても立ってもいられず、「すぐにでも相手の家に乗り込んで婚姻届に判をつかせてくる」などと言い出しかねない。

 とにかく洋の結婚は幸子の唯一最大の心配事なのだ。いくら世間の常識が通用しない洋でもさすがに家族のことはしっかり見ているらしい。

 改めて考えてみると幸子のことは大きな問題だった。

 息子の結婚に掛ける彼女の情熱はすさまじいものがある。従ってあまりあやふやな状況で伝えるのは彼女には毒だ。黙って見守っていなさい、などと言っても徒に血圧を上昇させるだけに違いない。あまり長い間じっと我慢させておくことは難しい。だからと言って慎重になりすぎて時期を逃すと、どうしてもっと早く言わなかったのだ、と拗ねてしまうだろう。私だけ知っていたという事実が万が一にも露見してしまったらと考えると思わず身体に震えが走った。

 息子の結婚話で親夫婦が絶縁になったら世間の笑い者だ。

 そう考えたところで、私は固まった。強ちそれはあり得ない話ではない。洋の結婚は我々夫婦の大願である。逆にこの心配事がなければ実は夫婦としての会話も共同作業もないのではないか。洋が所帯を持って独立した世帯主になる。そのとき、我が家はどうなるのか。寒々とした風景が予想できるが、一度しっかりとシミュレーションしておく価値はある。

 しかし、そんなことを考えてみても自分が花婿の父になる日が俄かに現実味を帯びてきたようでいやが上にも口調に熱がこもってしまう。「しかし、お前もとうとうその気になってくれたんだな」

「んー。正確に言うとその気になったっていうわけではないんだよな。彼女以外の人ならこんな気持ちにもならないだろうし、もし生涯の伴侶を求めるとするなら彼女しかいないって感じかな。彼女を見てると今までにない精神的な高ぶりがあるって言うかさ」

「運命的な出会いというわけか。結構なことだ。そんな出会いは誰しもが経験できるもんではないからな」

「だろ?我ながらびっくりしちゃったんだよね。俺にもこんな平凡な感性が備わってて誰かと結婚したいって思うなんてね」

「で、若いってどれぐらいなんだ」

「二十二になったのかな。たぶんそれぐらい」

 事も無げに言う洋を見て私は背中に冷水を浴びせられたような気分になった。

 四十になろうとしているおっさんが半分ほどの年齢のうら若き乙女と結婚?芸能人でもあるまいし、そんなドラマの世界のような夢物語の主人公に愚息が抜擢されるわけがない。

 私は釈然としない思いで恐る恐る探りを入れた。「その、なんだ、そりゃ、また随分とだな。それで、相手のご両親は納得してくださってるのか」

「両親はいないんだってさ。彼女が幼い頃に両親とも交通事故で亡くなったって聞いてる。特に身寄りもなくて学生のうちは施設で暮らしてたみたいだよ」

 思わず唸ってしまう。

 両親がいないことでとやかく言うつもりはない。かく言う私も幼い頃に父親を失い母親に女手一つで育てられたが、片親しか知らないことで自分が世間一般から見て人格的に劣っていると思ったことはない。親のいない苦労を知っている人間はその分家族を大事にするということも耳にする。

 しかし、洋のこの「……だってさ」、「……って聞いてる」、「……みたいだよ」では何とも心許ない。

花も恥らううら若き姫君とアニメオタクの四十男との結婚話。しかも花嫁の情報について明確なものはなく、オタクの実家は会社経営。いかにも話が出鱈目すぎる。

 気の回しすぎかもしれないが結婚詐欺ということもあるし、裏に厄介な連中が付いていて金銭の問題に飛び火する可能性だってないとは言えない。

 しかしそんなことを軽々に口にして洋の機嫌を損ねてはならない。ようやく洋の口から出てきた結婚の二文字なのだ。

「そうか。しかし、だからといってそんな若い娘さんを嫁にもらうなんておいそれとできることじゃないぞ。ひょっとするとまだ学生さんなんじゃないのか。それだったら卒業してからの方がいいだろうし」

「学生じゃないよ」

「じゃあ、OLさんか」

「OLってわけでもないんだな、これが」

 親子でなぞなぞをやっている場合ではない。私は虫さされの痒みのような軽い苛立ちに拳を握りしめる。洋との会話は小さなシャベルで砂場に穴を掘るようなもので外縁がすぐに崩れてしまってなかなか深いところにたどり着けない。

「じゃあ、いったいその人は今、何して暮らしてるんだ」

「昼間はマンキツでパート。シュフをしながらできる範囲で働いてるみたい」

「……シュフ?」自分の顔から血の気が引くのが分かった。「シュフって……まさか、主婦か」

「いわゆる専業主婦だよ」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだった。自分の息子でありながら心のどこかで殺意が芽生えたような気がした。もしかするとその行為こそが親である私に課せられた最大の慈愛であり責務なのかもしれないという趣味の悪い冗談が胸を掠める。

「父さん。主婦と結婚するって難しいかなぁ。とりあえず何から……」

「もういい。どこへでも出張に行け」

 まさに目眩がしそうだった。私は右手で額を押さえつつ、左手を振って洋に部屋から出て行けと命じた。突然の父親の怒りに困惑顔の洋ののっそりとしたその動きがさらにこちらの神経を逆撫でる。

 と、突然左胸に鈍い痛みが走った。いつものやつだと分かってはいるが、あまりの圧迫感にうめくことすらままならない。心臓を雑巾絞りよろしく捩じ切ろうとする冷酷な魔手が見えるようだった。私は奥歯を噛締めて何とか痛みをこらえながら机の引き出しの中に無理やり指を押し込み薬袋の中をまさぐった。


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