春野弥生の誤算?
……全く、春野の奴は。
冬川睦月は図書館の個室で、弥生の宿題を見ながらため息をつく。午前十時十五分ごろのこと。
ため息の原因は春野弥生だ。自分の前で平気でうたたねしていたので、妙に腹が立つ。もちろん、本人は無意識でやってしまったのだろう。徹夜してここまで終わらせたという意思はほめてあげたい。だが、やるにしてももっと計画的にすることは出来ないのか?
弥生の宿題をパラパラと一通り目を通していく。
きちんとやってるんだな。自分で頭が悪いといっている割には自分がわかる範囲でほとんど埋めている。わからなくても一応答えは書いているので上出来といっちゃあ上出来だ。
だが、結局やるにしても計画的にやらなきゃ意味がない。もっと考えて行動してくれれば……。
ふと顔をあげた時に弥生と目が合った。どうせ問題がわからないとかだろう。自分でやるといっていたのだから弥生本人にやらせないと。
そう考えた睦月は目線を逸らす。目線をそらされショックで固まる弥生が目に入った。
全く、これしきのことでショックを受けるとは情けなさ過ぎる。
鍋が煮えくり返ったかのような怒りに襲われた。
その時、それと同時にシャルロットのことが思い出される。
黒の人魚族に夢石を奪うためだけに生まれたシャルロット。ただ夢石を奪うために利用され、城と共に消えていった男。そういえば、以前チェリーとかいう南の海の人魚国の王女の執事をしていたとかいっていたな。
……全く、性格の悪い男だ。
再びため息をつく。
――そういえば、春野は俺がシャルロットに操られたとき、助けに来てくれたんだったな。
海の時間の流れは海堂町の時間の流れとは違い、遅く流れる。記憶を封印されていた弥生はそれに気づかず、それでもなお自分を助けに来てくれた。海堂町は時間の流れが速いため、海から上がったとき、数日や数週間も過ぎていたということがよく起こる。
だとすれば、俺を助けに行って俺と戻ったときもう時間がなくなっていたのかもしれないな。それで夏休みの宿題をやる暇がなくなってしまった。シャルロットは相手がいかなる状況でも目的のためならどこへでもやってくる。弥生から聞いた話だと、シャルロットは弥生にちょくちょく夢石を奪いにやってきていたようだから俺を操ったときも、弥生になにかしら招待状を送るなりして手段を選んでいたのかもしれない。
突如、睦月の手が止まった。
……なら、春野が夏休みの宿題をやる暇がなくなったのは俺のせいだな。
目を曇らせ、口元がきゅっと結ばれる。
もし、俺がシャルロットに操られなかったら、海に入ることなく夏休みをすごせ、宿題もやり終えていたはず。昔の記憶も呼び覚ます事もなかった。
……言い過ぎたな。
シャルロットとの戦いで時間を費やしてしまったとしても、その遅れを取り戻そうと必死になって徹夜までして宿題をやっていた春野に厳しく当たりすぎた。いまさらになって気づくとは。
睦月の心に罪悪感が芽生え始めた。
弥生はちっとも悪くない。元はといえばラリアの生まれ変わりである弥生を助けるためにシャルロットと手を組んでしまい、足を洗ったあともそのシャルロットに意識を操られ、結果弥生に助けに来てもらうハメになってしまった。自分がまいた種なのに。助けてくれた弥生を責めるなんて。本人は一生懸命やっているのに。
こんなことになるんだったら、早く終わらせてあげるためにアドバイスかなんかやるだけでよかったな。
今からでも遅くは無いと弥生に謝ろうとするが、
「…………あっ……」
声をあげるも言葉にならない。
いまさら謝って大丈夫なのか? あいつ、けっこう怒って……いやショックを受けたりしてるんじゃあ……。
睦月の脳裏に迷いが出てしまい、ためらいがちになる。
その時顔をあげた時、ばっちり弥生と目が合ってしまった。
二人は「あっ」と声を出してしまう。
弥生はしばらく睦月を眺めていたが、きまずそうに目を逸らす。
それに対し睦月は平常心を装いながらも、後ろめたさを感じてしまう。
これからどうすればいいんだ?
個室に気まずい雰囲気が流れた。
*
終わらない……どうしよう。
弥生はいまだ夏休みの宿題と対面していた。
すでに十時四十五分になろうとしている。
向かいの席に座る睦月と葉月の顔色をうかがいながらやっていたため全く進んでいないからである。原因は弥生本人が二人の前でうたたねをしてしまったからである。本人は寝不足だったためで反射的な行動だが、それが厳しい二人の心を怒らせてしまったようなのだ。
そのためいつまた怒られないか、はらはらしながら手先を動かす。
手先がぴたりと止まり、その代わりにため息が出る。
――それはコッチのセリフよ! まったく、今度は宿題中に寝るなんて何考えてるのよ!
――とにかくお前は先に宿題終わらせたら寝ろ。宿題やらないで寝てるだけじゃ、時間の無駄だからな。
睦月と葉月の言葉が深く胸に突き刺さっていた。
悪気がなかったとはいえ、結果的に二人を怒らせてしまったのは確か。やってはいけないことをやってしまったというのはこの事なのだろうか。宿題をやり終えた後はどうやって二人と仲直りしようかなぁ……。
傷ついた感情が抑えきれない時、睦月に声をかけられる。
「……なぁ、春野。ちょっといいか?」
「えっ」
弥生は拍子抜けしたような声を出す。
まさか睦月に声をかけられるとは思いもしなかったため、一瞬頭の中が真っ白になる。
「どっ……、どう、したの??」
「あっ、いや、ちょっときになる所があってな……」
「気になる所……?」
キョトンと尋ねる弥生に、
「実はここの答えなんだが……」
と睦月が手に持った冊子を弥生に見せ、詳しく説明していく。
「……だから、もうちょっと解き方を変えていったほうがいい」
「なるほど~。徹夜明けだったからそこまで頭が回らなかったよ~」
弥生はごまかし笑いを浮かべた。
その弥生を見た睦月が気まずそうな顔を見せる。
……あれ? 私、なにか気に障るようなことしたの?
睦月の表情に内心しどろもどろになり始めた。
だが突然、睦月が弥生に顔を近づける。
「春野」
「えっ、ええええぇぇぇ?」
弥生は反射的に肩をすぼませた。それと同時に顔が火照る。
何、何!? な、なにがおきるの!? ま、まさか……キ、キス!?
突然の出来事のため、冷静に判断できていない。
睦月は弥生に向かって小声でささやく。
「春野、悪かったな」
「…………へっ?」
ぽかんと口を開けて固まっていたが、
「何か私、睦月さんにやった……かな?」
ようやくそれだけしゃべれる余裕が出来る。
その質問に睦月が少し視線を逸らしながらつぶやく。
「俺、お前の事情に気づかずお前を傷つけたこと、後悔していた。ほんとに悪かった」
「あ、そのことね……」
「結果的に春野を巻き込んで時間を削らせて、俺に責任があるんだ。全部」
「そ、そんなっ! 睦月さんは悪くない! む、睦月さんは最初の出会いも、海堂町で再びあったときも私を助けてくれた。私はそれだけで充分。だから、自分を責めないで」
「春野……ありがとう」
睦月はほっとしたような笑みを浮かべた。
睦月の笑みに弥生もつられて微笑む。
……睦月さんと仲直りできてよかった。
もう睦月の心に迷いはなかった。
*
「お、終わったぁ~~!!」
弥生は気持よさそうに伸びをする。
睦月と仲直りをしてからわずか十五分後、あっさりと夏休みの宿題が終了。いままで悩んで手が止まっていたのが嘘のようだ。もちろん、すべて睦月と葉月のおかげである。この二人なくして、宿題はなかなか終わらなかったからだ。
向かいの睦月と葉月にお礼を述べる。
「ありがとう~。二人とも、ほんとに助かったよ~」
椅子に座ったまま、頭を下げた。
それに睦月と葉月は
「……まぁ、よかったな」
「やるだけやったから、疲れたわよ。ほんとに」
ぐったりとした表情でため息を漏らす。
さすがにほとんどの宿題を見てもらうだなんて、残酷なことをしたな。
「終わったが言わせてもらうが、もうちょっと計画的にやった方が効率がいい。夏休みが始まる前、計画を立てなかったのか?」
「あ、いや、立てたのは立てたんだけど、やろうとするとなぜかいろいろ邪魔が入ったりして中々進まなくて……そしたら結果的にこうなって……」
弥生の言葉に葉月が疑問をぶつける。
「いろいろ邪魔が入ったって、なにに邪魔されたっていうのよ?」
「えっ。い、いやぁ~……それはその…………」
弥生は葉月の疑問に答えられず口ごもる。
まさか、魔物やシャルロットという男に邪魔されただなんて信じてくれるだろうか? 難しいだろう。
「ほ、ほんとにいろいろ! いろいろあったの!」
「いろいろねぇ~。とにかく、夏休みの宿題は早めに終わらせろっていつも言ってるじゃない。やるの遅すぎ」
もはやあきれることしか出来ない葉月。
「今年はとくに遅かったわね。一体何があったらこうなるのよ……」
その葉月の言葉に一瞬ぎくりとしながら、冷や汗をおでこにたらす弥生。
なにか二人にお礼がしたい……。
そう胸の中で思うが何をすれば検討がついていない。
「ね、ねぇ! なにか二人にお礼がしたいんだけど、何がいいかなっ?」
行き当たりばったりで尋ねてみた。
しかし。
「別にいらん。俺は図書館の本が気になっただけで、お礼なんかどうでもいい」
「弥生なんかにお礼をもらうくらいなら、とっくに家でのんびりしてるわよ」
と二人に断れてしまう。
どうしよう。あきらめようにも、あきらめきれない。
「で、でも! 結局は私が頼んだんだし、やっぱりなにかお礼を……したいし…………」
何をすればいいのか検討が付いていないため、言葉につまづく。
ふと睦月が独り言のようにつぶやいた。
「なんか、のどが渇いてきたな」
ずっと宿題をやってきて水分が消耗したのか、のどがかわいてきたらしい。
その言葉を聞いて、ある提案を思いつく。
弥生は椅子から立ち上がり、その提案を二人にぶつけてみる。
「ね、ねぇねぇ! もしよかったら、私が何か飲み物を買ってこようか?」
弥生の提案に二人が「え?」と声を出す。
「飲み物を……」
「買ってくる……? 急にどうしたのよ、弥生」
口を開けたまま立ち上がった弥生を見上げる睦月と葉月。
「二人とも、そろそろのど渇いてきたんじゃない?」
「まぁ……、人一倍宿題見ていたから、のどは渇いてきたな」
「確かに、なにか飲みたい気分ね……誰かさんのせいで」
「だったら! 宿題を見てくれたお礼として、私が何か飲み物をおごるっていうのはどぉ? それならいいでしょ?」
弥生が突然提案をしてきたので言葉をなくす睦月と葉月。
だが、すぐさま我に返り、
「まぁ、飲み物を買ってもらうくらいなら……別にいいか」
「弥生のおごりとなれば、遠慮なくそうさせてもらおうかしら」
二人とも、あっさりその提案を承諾する。
「じゃ、二人とも何が飲みたい?」
睦月はそっけなく答える。
「普通にウーロン茶でいい」
「睦月さんはウーロン茶……と」
弥生はズボンのポケットから取り出した小さなメモ帳に書き記す。
「で、葉月は? いつものあれにする?」
「そうね……いつものココナッツサイダーにするわ。下手に新しいドリンク飲んで痛い目あうよりマシだしね」
葉月のは覚えているのか、メモ帳には書かない。
「じゃ、さっそく買ってくるね。買ってすぐ飲んだほうが、のど潤うし」
「わかった」
「ま、せいぜい迷子にならないようにね。弥生」
「わ、わかってるよー!」
弥生はふくれっつらな顔をすると、個室を後にした。
*
……出ていったわね。
弥生が個室から出て行くのを見届けると、内心ほくそ笑んだ。
同じく十一時ごろの個室では、葉月が立ち上がり睦月の隣の席に座る。
もちもん、理由はほかでもなく、睦月を自分のものにし、自分を裏切った弥生を傷つける事。弥生が明らかに睦月に思いを寄せていることは鼻から知っている。なら、たとえ恋愛が鈍い弥生でも私が睦月とくっついたら、絶対何かしらの反応はするはず。そこに自分は弥生とは親友じゃないと告げれば、傷つきやすい弥生に大ダメージを受けさせられる。復讐が果たせるというわけだ。
「ねぇ、睦月さん……で、いいわよね?」
葉月は自分の身体を睦月の腕に擦り付けるかのように寄っていた。
突然葉月の表情が豹変したのに気づいた睦月が眉間のしわをよせる。
「なんだ……? 急に寄ってきて」
「別にいいじゃない。減るもんじゃないんだし」
葉月は妖艶な笑みを浮かばせるとささやいた。
「……ねぇ。弥生なんかやめて、私にしない?」
「は? 一体何のことだ?」
睦月のわけがわからないといいいたそうな顔をのぞきこむと、
「弥生みたいな、馬鹿で性格の悪い女なんかよりも、私みたいな、知的で誰よりも睦月さんを思っている一途な女の方がよっぽどいいと思うんだけど」
弥生をあきらめろといわんばかりに話を持ちかけた。
さっきの弥生のうたたねで睦月さんは弥生に腹を立てていた。なら、話を持ちかけるなら今しかない!
睦月みたいな男に弥生は全く似合わない。睦月の隣をゲットするのは弥生ではなく、この葉月だ!
だがしかし。
「悪いが、そういうのはあまり興味ない。それと春野はお前の親友だろう? なぜそんなに憎む。憎む必要あるのか?」
睦月にあっさりとふられた上に、逆に質問返しされてしまう。
しかし葉月は親友という言葉にぴくんと反応を示す。
「親友…………私が? あの弥生と? 冗談じゃないわ。私を裏切った女なんか私の親友じゃないわ」
冗談じゃない。私の好きな男ばかりを奪っていくあんな女なんかと親友なんて、へどが出る。
「そんなことよりも、私と一緒になったほうが幸せよ? 男をとっかえひっかえ付き合うような弥生よりも」
睦月はしばらく黙り込んでいたが、口を開ける。
「悪い。俺は秋村と一緒にはなれない。それに、春野は男をとっかえひっかえするような奴じゃない。純粋で明るい女の子だ。それは一番、秋村がわかっていることじゃないか」
「そう……駄目なの」
寂しそうにつぶやくが、別にあきらめたわけじゃない。
――このまま引き下がるわけにはいかない!
「だったら、一度だけ私とデートしてくれない?」
葉月の決死の頼み綱。口で駄目なら今度は行動で落とさせてみせるといわんばかりの顔。
「一度デートしたら睦月さんのことはあきらめる。だから、少しでいいからデートしてほしいの」
「そ……れは…………」
睦月に迷いが現れた。
葉月はそれを見逃さなかった。
「一回だけ、デートするだけなんだから別に迷う事ないじゃない。私、睦月さんがデートに来てくれるの、楽しみにしてるのよ?」
あたかもデートをするのを肯定させたかのような言い方。そんな葉月に睦月は葉月の目的に気づく。
「なにを思ってやっているかは知らないが、春野を傷つけるために誘っているなら俺は受けられない」
睦月の言葉に目を見開く葉月。
睦月は話を続ける。
「もし、これ以上なにか企んでいるなら、たとえ秋村でも許さない」
それだけ言い残すと立ち上がり個室から出て行ってしまった。
一人きりになってしまった葉月に静寂が訪れると舌打ちする。
まさか睦月本人が計画に気づくなんて。さすが『もう一つの世界』の王子様ね。
でもこれも全部、あの女のせいよ!!
憤慨したように向かい側に移動すると弥生が座っていた椅子を蹴り出す。椅子は蹴られた拍子に倒れ、椅子が倒れ反発した音が響き渡る。
やっぱりあの女は私からなにもかも奪う気なのね!
――あの時も!
――あの時も!
――あの時も!
弥生、私を本気怒らせた罪、思い知らせてあげるわ……。
個室に葉月の高笑いが不気味に響いていた。