チーズタルトを買います
ほぼ全クラス合同の再テストなはずなのに、1クラス分も人数のいない生徒たちをが受けた放課後の再テストで40点という点数を獲得すると、先生は白髪混じりの自分の髪の毛をなでながらつらそうに目を細めて「よくがんばった、よな?」と聞いてきたので、次はもっとがんばりますから…と先生から目をそらしながら返事をして再テスト会場を出た。どうにかして数学ができるようにならないものかと奇跡を願いながら放課後のさみしい廊下を歩いた。
サイレントマナーにしているカバンの中の携帯を確認すると、新着メールを知らせるライトが断続的に点滅する。開いてみると『教室にいる』という一文だけのメールが見えた。結香もメールは長文ではないけれど、絵文字のひとつくらいはいれてくれる。こんな端的なメールを送ってくるのは母親か、総一郎だけだ。
総一郎が教室で待っていると思うと、再テストで沈んでいた気分も少しは浮上したような気がする。今日は結香がアルバイトなので、わたしの再テストにつき合わせるのは悪いからと先に帰ってもらったので、このまま沈んだ気分のまま帰るのはいやだと思っていたところだった。
「総ちゃん、おまたせ。」
教室をのぞくまでもなく、総一郎は廊下側の一番後ろの席で分厚い週刊の漫画雑誌を読んでいた。今朝は持っていなかったから、授業が終わってから今までの間に近くのコンビニに行って購入したか誰かに借りたんだろう。
「おっそい。2周目読み終わるとこだった。」
顔をあげて広げていた電話帳くらいの厚さと大きさのそれをばふ、という音とともに閉じる。総一郎は好きな漫画しか読まないから、あれだけ分厚い雑誌なのにけっこうすぐに読み終わってしまうんだ。その1冊で300円ほどするんだから、全部読まなきゃもったいないとわたしはいつも思う。
「ごめんね、テスト終わってから先生に引き留められちゃって。」
「こうじいは陽菜がお気に入りだからな。」
“こうじい”はうちのクラスの数学担当のあだ名だ。生徒の間でこそこそと呼ばれるものじゃなくて、みんな先生に親しみをこめて呼びかけている。成績不振のわたしはおとなしく「せんせい」と尊敬をこめて呼んでいるけれど。こうじいのあだ名は先生が定年間近という歳だからではなく、本名の『康二』から来ているので学生のころからそう呼ばれていたらしい。学生のころから年齢以上に落ち着いていたから、「じい」の称号がついたんだろうとわたしは秘かに推察していた。
「逆お気に入りだよ。お気に入りなのは篠山くんとかでしょ。」
こうじいにとってわたしは手のかかる生徒ではあるだろうけど、やっぱり教えがいのある優等生の方がいいだろうと思う。ふう、と息を吐いて数学とこうじいのことを忘れようとしていると、同じタイミングで総一郎がはあ、と息をついたのが分かった。
「そういば、数学教えるとかって篠山が言いだしたのか?」
「うん、優しいよね。でもわたし数学できなすぎて迷惑になるし、総ちゃんが止めてくれてよかったかも。」
あともう一歩でそんな親切な人につらい思いをさせるところだった。数学を教えてもらえなかったのはちょっと残念だけれど総一郎のわたしへの(的を得すぎている)暴言もときには誰かを救うらしい。
もう一度はあ、と大きいため息をはいて総一郎が立ち上がる。毎朝自分でセットしているこだわりのレイヤーカットをかき乱すように片手で頭をかきながら机の横にかけてあったカバンを手に取る。これは総一郎がいらいらしているときによくするクセだった。世界が自分中心に回ってると疑わないどころか、当たり前すぎて自覚もしていないようなこの人が何に心を乱されているのか、わたしには分からなかった。
「数学の教科書もてよ、明日も小テストあるからその範囲だけ教えてやる。」
「ほんと?いいの?」
空のお弁当箱しか入っていないぺたんこのカバンにけっこう幅をとる漫画雑誌をなんなく詰め込みながら何もない風に総一郎はつぶやく。
他人(篠山くん)が迷惑するのでさえ、あんなに不憫そうな顔をしていたのに、その不幸を総一郎がかぶろうとしていることが信じられない。けれど今はこの気まぐれなわたしにとっての幸福に甘えてしまおうと思う。
「チーズタルトおごれよ。」
「カフェオレもつけちゃう!」
総一郎が言うチーズタルトは、駅前にあるコーヒーチェーン店のちょっと割高なやつだけれど気にしない。何かのお礼と言っても総ちゃんはめったにわたしにおごらせてくれない、たとえ親からもらったお小遣いで買ったものでもわたしがあげたもので喜んでいるところを見たい。
「篠山がタダで教えてやるって言っても…。」
ちょっとでも自分の実力に抗うために家で予習しようと思い、数学の教科書とノートはカバンに入れていたので机の奥にしまいこんであるはずの数学の問題集だけを取りに総一郎の席から一番はなれた自分の席に向かう。
総一郎が後から何か言ったけれど、めずらしく小声なのとわたしがうれしくてはしゃいでいるのとではっきりと聞き取れない。
「タダがなに?」
「いや、タダでコーヒータイム味わえてうれしいなって。」
机から問題集をひっぱり出して総一郎を振り返ると、廊下の方に顔を向けてツンとすましていた。
少しまた機嫌をくずしたように見える総一郎の顔を、窓側から差す夕日が照らす。
せっかくの情緒あふれるシチュエーションなんだから、総一郎があの悪魔的にかわいい笑顔を向けてくれないだろうかとわたしは瞬時にこっそり期待する。
「総ちゃん、ありがと。」
「なんだよ急に。」
笑顔ではなかったけれど、総一郎の顔がこちらを向いて視線が合う。
総一郎のものとは違ってかさ高なペンケースやノートたちが溢れかえるカバンに問題集を詰め込みながら、やっとこっちを向いた総一郎の元に戻る。
唇はまだ少し不満そうにつきでていたけれど、わたしが馬鹿みたいに笑っているのにつられたんだろう、総一郎のその唇の端がちょっとだけふにゃりと上がった。
いつも笑顔でいてほしいと願っている。なんて言えば聞こえはいいんだけれど本当はそれだけじゃない、わたしが総ちゃんを笑顔にしたい。総ちゃんを笑顔に、幸せにできるのはわたしなんだって、そんな自己満足がわたしの自尊心を満たしている。
これを言ったら、きっとほかの人は眉をひそめるだろうけれど、きっと総ちゃんは片方の眉だけをあげて笑ってくれるだろう。
「じゃ、チーズタルトとカフェオレ飲みながら教えてください。」
一足先に教室から出る。
明日こそ初の60点以上を獲得して、先生のことをこうじいと呼ぼう。破滅的なわたしの数学脳だけれど、どれだけひどくても所詮はわたしの脳みその一部なんだから長年刷り込まれた「総一郎 イコール 幸福」の絶対的な公式にはきっと逆らえない。
「カフェオレじゃなくて、ブラック。」
「だーめー。子供はコーヒーだけ飲んだら胃に刺激が強すぎるって前になんかで言ってた!」
「“なんかで言ってた”って信じにくいわ、しかも子供なのは陽菜だけだろ。」
「総ちゃんと誕生日半年しか変わらないから、わたしが子供ならあなたも子供です。」
「大人と子供の境目がその半年にあーるーの。1月生まれまでは大人。」
「なにその理屈。総ちゃんだけずるい。」
「へりくつ。大人はずるいもんなの。」
「自分でも分かってるんじゃん!全然大人じゃないよ。」
いつも通りの軽口を叩きながら総一郎と並んで校門を出る。
ずっとこのままでいられないなんて信じたくないけど、その現実に目を閉じられるほど自分を信じていないから今の幸福をしっかりと覚えていようと思う。
総ちゃんが離れていってしまう、わたしから関心がなくなるんじゃないかっていう不安に目をそむけてもしょうがないのは分かっているけど、まるで味のなくなったガムを顎が痛くなっても噛み続けるみたいに、そのいやな予感を吐きだせずに持ち続けているしかない。
せめて「いま」が少しでも永く続きますように。
いつまでもお話が進展しなくてほんとすいません。
総ちゃんはやく陽菜の友達に恋して…。
※あらすじと違う方向に進みすぎて手に負えない