靴だってしまいます
「おばさん、紅茶ごちそうさまでした!いってきます!」
ずいぶんと冷めた紅茶を行儀悪く立ったまま一気に飲みほして、空にしたカップを軽くすすいで食器洗浄機にたてかける。笑顔で手を振るおばさんにあいさつをしてからテーブルに置いてあった総一郎のお弁当箱を手に取り、一足先に靴を履いて外に出た総一郎を追いかける。
結局、最初に予定していた電車じゃなく、一本遅い電車に乗ることになった。ぺたんこのかばんを持って先を歩いている総一郎に追いつこうと早足で歩くけど、なかなか差が縮まってくれない。脚の長さの違いだとはあまり認めたくないのでわたしの荷物が多いせいにしておく。
最寄駅には駐輪場があるにはあるけれど、よく自転車盗難事件がおこっているので近所の人はあんまり利用しない。私も駅から歩いてすぐの総一郎の家に毎朝自転車を預けている。
昔買ってもらったばっかりの自転車がなくなって、自宅とは反対方向にある川の中に私の自転車がつきささっているのを見つけたときの母の蒼白な顔は忘れられない。
駅の直前でやっと総一郎に追いつく。改札をくぐりスーツ姿のサラリーマンの後ろに並んで一息つく。自然と下がった視界の中に朝ちゃんとセットした髪の毛が中途半端にうねっているのが見える。ゆるまき、なんてかわいらしいものじゃないな、と髪の毛を指にからめるように巻きつけてみたけど、朝のようなふんわりとした質感は戻らない。
髪の毛を“なおして”くれた人を睨みつけてやろうと横を向けば、猫っ毛なのにつやつやと美しい緑髪をレイヤーカットにして片耳にだけかけている。総一郎は一度も髪の毛を染めたことがないから、全然痛んでなくてうらやましい。せっかくきれいな黒髪なんだから、染めないでねと今度お願いしよう、いやあえてそんなこと言ったら金髪なんかにしてくるかもしれないからもう少し言い方を考えよう。
総ちゃん、黒髪がかっこいいねーとか、黒髪が一番似合うよ!とか、そんな感じだろうか。
人がもんもんとした思考にふけっている中、総一郎はおおきなあくびと一緒にこっちを見た。
「巻くの時間かかったのに。」
わたしのつぶやきにあくびのなごりの涙を目にうかべたまま総一郎は何度かまばたきする。こうしたちょっとした仕草のひとつひとつがかわいらしい。
「ごくろうさま。」
わたしが髪の毛を直しているのを見て、総一郎のぽってりとした唇が我慢できないというように、にやりとつりあがるのを見た。どうやら今朝の総一郎さんは上機嫌らしい。
髪の毛くらい、まあいっか。と思いなおしたところで、電車がホームに到着した。車両の中に詰まった人の数を見てわたしの眉が思わず寄った。通勤・通学ラッシュまっただなかの快速急行なので混まないわけがないんだけれど、それでもタメ息が出てしまう。世間のサラリーマンは30数年も毎朝こんな電車に乗ると言うんだから、企業戦士どころか勇者か妖精じゃないだろうか。高校に通うのに乗り始めて1ヶ月とすこし。いつまでたっても慣れる気がしない。
たくさんの人の中にちらほらとうちの学校の制服が見える。この電車は快速が止まる学校の最寄駅まで乗り換えなしで到着できる。でもこの時間は混雑するので少し早めに出て各駅にとまる電車で登校している生徒も少なくない。各駅停車なら座れはしなくてもこんなすし詰め状態にはならないからだ。入学以来、わたしもその電車に乗ろうとしているが、総一郎がなかなか協力してくれないので乗れることは少ない。
ぎゅうぎゅうの電車に乗り込みながら、もうすぐやってくる梅雨の時期から夏にかけてはもうちょっと早めに総一郎の家に行こう、と決心した。
電車が発車してすぐのぐらぐらとした揺れに耐えているわたしとちがって、総一郎はドアの近くの吊革を持って悠々と涼しい顔で立っている。身長が平均よりも少し(ほんっとうに少し、)低いわたしには、届きはしても腕と背中をピン!と伸ばさなければ握っていられない高さだ。荷物置きの金網だって、使えたためしのないわたしには鉄道会社の冷たさが身にしみた。総一郎の持つ吊革のとなりが空いていたが、そんな事情で持てずにひたすら脚に力をいれてふんばる。
「陽菜、吊革持てば?」
自分の隣の吊革を示すように軽く肘をまげて総一郎は言う。
持ちたくても持てないんだよ、と言ったところでそんなこと絶対にわかって言っている総一郎に同情させることだってできない。
わたしは押し黙って、つんと顎を突き出すように顔をそむけた。総一郎を飽きさせるにはこれが一番だ。
「うそうそ、しょうがないからつかんでていいよ。」
吊革をつかんでいない方の肩を少しこちらに差し出して総一郎はにっこりと笑う。目の前にある総一郎の二の腕あたりの上着を握って、わたしは口元がゆるむのを実感していた。
9個いじわるされたって、1つ優しくされたらその9個のいじわるの分も合わせて好きになってしまうわたしはもう後戻りできないくらいのバカなんだろうなあと思う。
満員電車からやっとのことで降りて、駅から5分ちょっとの学校までの道を歩く。わたしと同じ制服を着た女の子たちが、総一郎のことをちらりちらりと見ているのがわかる。うちの総ちゃん、かわいいしかっこいいしもうたまらないでしょう?と自慢したかったのはずいぶん昔で、今では公衆の面前でこの“王子さま”の隣を歩くのに神経を遣う毎日だ。みんなが幼馴染のようだった小学校・中学校とは違い、高校ではほとんどの人が総一郎の天使のようなお顔しか知らない。黙って歩いているこの子を見ただけで、手に負えないほどのわがまま悪魔だって誰が想像するだろうか。
わたしはゆっくりとまばたきして、くるんとカールさせてマスカラをつけたまつ毛の重みを確かめる。総ちゃんのそばにいるのに、ちょっとでもかわいくいたいって思うことは自由だよね?
学校の正面玄関をくぐるとすぐに下駄箱が見える。全学年がいっしょくたに集められたそこから、学生番号を探しだすのは入学したてのころは大変だった。今ではもう場所を覚えてしまっているのですぐにそこへ向かえる。神様のちょっとしたイタズラなのか、下駄箱の一番上の段にあるわたしの学籍番号が張られた小さな扉を開き、上履きを取り出す。背伸びをしても中身がはっきり見えないのでいつも手探りで出さないといけない。上履きの変わりにローファーをそこに収納すると、扉を閉じて上履きに足をつっこみながら総一郎の元に戻る。スニーカーを脱いだ状態でかかと部分の靴下をひっぱり上げている総一郎が目にとまる。スニーカーを脱いだときに一緒に脱げてしまったんだろう。わたしのくすくすという含み笑いは大きなチャイムの音にかきけされた。
それまで玄関でだらだらと歩いていた生徒たちもにわかに早足になる。予鈴ではなく、本鈴だからだろう。わたしはまだ靴下をなおしている総一郎に急いで駆け寄って、脱いだままになっているスニーカーを掴み総一郎の下駄箱を開ける。中から上履きを取り出してやっと靴下を直し終えたらしい総一郎の足元に上履きをそろえて置き、握ったままだったスニーカーをそこにつっこんだ。
「本鈴なっちゃったから、早く!」
1年生の教室が1階でよかった。上履きに足をひっかけて履いている総一郎を急かしながらなんとか担任の先生が来る前に教室に到着できた。よかった、と息をつき今朝かばんに入れたままだった総一郎のお弁当を取り出し、総一郎に手渡す。
「はい、これ。」
「あ、さんきゅー。いつ持ったの?」
赤チェックのお弁当箱入れにつつまれたそれに視線を落として少し驚いたように言う。
「お家出るちょっと前。」
お弁当の存在を忘れていたんだろう、そうかそうか、と納得したように言うと総一郎は自分の席に座る。
廊下側の一番後ろのその席のちょうど対称の位置、窓側の一番前に私の席はある。
ちょっとでも居眠りしたらすぐにばれてしまうこの席はこの間のくじ引きで当たったものだ。とことんクジ運のないわたしは本当に神様に見放されているのかもしれない。
総一郎っていう天使の顔した小悪魔に出会ってしまったことって、そもそもが神様の嫌がらせだったんじゃないかな?くらいにわたしは思っている。でもそんな総一郎に夢中で一生懸命お世話してしまうわたしってちょっと、いやかなり残念な子だ。