「やるべきことをやれ」と言われ続けて婚約破棄された私、愛に苦しむ元婚約者に同じ言葉を返します
「ユーディット、お前との婚約は破棄する」
「その旨、承知いたしました」
この日、私は人生における大きな転換点を迎えた。
それは決して後ろ向きなものではなく、新たな門出となることでしょう。
そして、今度こそ分相応の道を歩めますように。
そう自分に言い聞かせながら、私は深く一礼する。頭を上げた先、玉座の間の窓から差し込む夕陽が、アルノルト殿下の輪郭を淡く縁取る。殿下の顔立ちが整っていることもあってあまりにも綺麗な光景だというのに、胸の内はどうしようもなく虚しかった。
私は静かにこの結末に至るまでの道のりを思い返していた。
◆◆◆
「ユーディット。私の婚約者になるからには私の隣に立つ王太子妃として、そして未来の国母として相応しくなければいけない」
「はい、殿下」
「家柄だけではない。品格、能力、人柄など、求められるものは多い。くれぐれも私を失望させるな」
「はい、殿下」
彼と婚約関係になったきっかけは大したことない。消去法、私以外にアルノルト王太子殿下のお相手を務める者がいなかったに過ぎない。
いかに私が建国から続く由緒正しい侯爵家の娘といえど、本来なら公爵家や隣国の王家など、私より彼のお相手に相応しい者がいてもおかしくなかった。なのに、王太子殿下と釣り合う家柄のご令嬢は尽く別の婚約関係が結ばれていたり早世したりと、いつの間にか上がいなくなっていた。
最初のお見合いの際、真っ先に彼から言われたのはご尤もな忠告、しかし面と向かって言われると腹の立つ上から目線の物言いだった。この時点で「あ、この人とは気が合わないわ」と思ったものだが、悲しいかな、正式な婚約関係となってしまった。
もちろん私だって貴族の娘。与えられた役割は見事果たしてこそ。王太子殿下の婚約者に相応しくあろうと日々寝る間も惜しんで努力した。語学、歴史、経済、礼儀作法、頭が破裂しそうなほどの詰め込みにも耐えた。ただ、悲しいかな、どれだけ頑張ったところで私の評価はせいぜい及第点止まりだった。
「出来ました、殿下」
「遅い。たったこれだけの資料をまとめるのにどれだけ時間をかけているんだ。私だったら片手間であっても半分以下の時間で済ませただろう」
「っ……。申し訳、ございません……」
「まあいい。これも君の勉強のためだ。慣れれば今よりも短く済む。私の婚約者なのだ。無論、やれるだろう?」
「……はい。最善を尽くします」
執務において私が成果物を恐る恐る提出すると、アルノルト殿下は簡単に目を通しただけでそう評価なさった。そして何箇所も訂正を入れると私に書類を突き返し、再び自分の仕事に取り掛かるのだった。羽根ペンの走る音だけが室内に響き、私はこれ以上声をかけることも許されず、黙って訂正箇所を見つめるしかなかった。
はっきり言いましょう。私は悪くない……と言えば嘘かな。けれどアルノルト殿下が求める短時間で仕上げようとすると推敲する暇も自己確認する暇もありはしない。自然とあらが目立つ書類になってしまい、殿下はそれを決して見逃さない。
そう、問題なのは、凡庸な私では相応しくないぐらい、アルノルト殿下が優秀すぎるのだ。
「ユーディット。次の日の夕方までにこの資料の内容を全て覚えるように」
「殿下、たった一日ではあまりにも短すぎます。せめて今少し時間を……」
「やるべきことをやれ、と私は言っている」
「……はい、殿下」
例えば重要な会議の資料は前日にしか渡されない。おかげで私はしょっちゅう一夜漬けする日々を送っている。蝋燭の灯りを頼りに文字を追い続け、気づけば夜が明けていたことも一度や二度ではなかった。どうしようもない時は扇子の裏側にカンニング用のメモ書きをびっしり書く作業に勤しむしかなかった。
なお、当のアルノルト殿下は流し読みしただけで資料を丸ごと記憶するそうだ。なんでも頭の中に映像として残るので、後で頭の中の資料を読みながら思考するのだとか。何よそのインチキくさい記憶力は。羨ましい。
「あの、殿下。少し休憩してお茶にしませんか? 私の侍女が街で有名なお店のお菓子を買ってきてくれましたので……」
「君一人で楽しめばいいだろう。私は見ての通りそのような時間を割く暇は無い」
そんな色々と至らない私が不満なようで、アルノルト殿下は私と親睦を深めようとなさらなかった。
交流は必要最低限。そして会話は事務的なものばかりであまりにも思いやりが無い。私が気にかけた言葉を投げかけても短い返事で会話終了。挙句、決められた時間になったらすぐさま戻っていく。私を置き去りにして。ほとんど口を付けられずに残されたお茶とお菓子を前に、私は何度笑ってしまいそうになったことか。
「こ、の……! 私を婚約者にって決めたのは王家の方じゃなかったの……!?」
「全くだ。兄上は義務さえ果たせばいいと思っているようだな」
私が自分の至らなさよりアルノルト殿下の理不尽さに憤りを覚えるようになった頃だった。フェデリコ第二王子殿下が私に接触するようになったのは。
怒りでテーブルに手を叩きそうになった時、フェデリコ殿下は何食わぬ顔でつい先程までアルノルト殿下が座っていた椅子に腰掛け、余ったお茶とお菓子に手を伸ばした。あっけにとられる私をよそに、彼は「ん、コレ中々いけるじゃん」と言いつつ私にはにかむ。私を元気付けるためだったか、妙に温かく見えたのが印象深い。
「あの、第二王子殿下。恐れながら申し上げれば、些か行儀が悪いかと」
「余り物は片付けられて捨てられる運命だろう。勿体ない。なら俺の胃袋に収まった方がいいんじゃないかな」
「私の注意への答えになっていないかと」
「いいじゃないか。いずれ義姉と義弟、つまり家族になる仲なんだから」
完璧たるアルノルト殿下に相応しくあれ、と求められ、そうあろうと努めてきた私にとって、その時のフェデリコ殿下からは自由を感じた。とても憎らしくて嫉妬するほどで、もし次の一言が無かったら彼に怒鳴っていたかもしれない。
「息が詰まるだろう、兄上の相手は」
「えっ?」
まるで私の苦悩を見透かすような一言だった。
すぐさま否定しようと口を開いても、喉から出るのは乾いた息だけ。
事実を突きつけられ、私は反論が全く思い浮かばなかった。
「い、いえ、そんなことは……」
「兄上のような非の打ち所のない人を、世間では完璧超人などと呼ぶ場合もあるらしい。友人からの受け売りだけれどね」
「完璧超人……言い得て妙ですね」
「俺もだ」
その告白にどう返そうか、一瞬迷った。
「兄上の側は息が詰まる」
「……。フェデリコ殿下も、ですか」
最終的に……同意した。
本来なら周りに人がいなくてもそのような発言をするべきではない、と進言するべきなのに。
ただ、私にはフェデリコ殿下が私に寄り添い、そして……同じ苦悩を抱える者として同意を求めてきたように思えた。
「無論、兄上も人が分からぬお方ではない。部下の能力は把握しているし、限界があるとも分かっている。ただ、身分不相応な者にかける慈悲が無いだけだ」
「……。ええ、分かっていますとも。私程度ではとても王太子殿下の伴侶は務まらない、と」
「そう自分を卑下する必要は無い。教育係からの評価は及第点。つまり充分に王太子の相手に相応しいと認められている。ただ……兄上の相手となれば話が別になるだけだ」
「私にとっては慰めに過ぎませんわ。その事実は」
私は王太子妃として、フェデリコ殿下は第二王子として、それぞれ無難程度には役割を果たせたでしょう。けれど、稀代の逸材とまで称えられたアルノルト殿下が横に並ぶと途端に色褪せて見えるのがお互いの不幸だった。
こうして私とフェデリコ殿下の愚痴の言い合いは始まった。勿論私の婚約者はアルノルト殿下なので、未来の義弟として以上の関わりは避けなければいけない。必然的にほんの短い間だけ許される仲だった。
それでも、こうして気兼ねなく語り合う時間は、いつしか私にとってかけがえのないものになっていった。
「まーた兄上に叱られてしまったよ。もっと王子としての自覚を持ってって」
「私はもうその段階を通り過ぎて、失望されてしまったと思います。最近あまりにもアルノルト様が素っ気なくて……」
「そうは言ったところでユーディット嬢よりも優れた令嬢は近隣諸国を含めてもいないだろう。兄上もそれが分かっている筈なのに、どうしてこうもユーディット嬢に寄り添おうとしないのやら」
「……。もしかしたら、もう私のことが能力抜きでもお嫌いなのかもしれません」
私の関係は不貞などではない。もはやアルノルト殿下より気心知れた仲になったとはいえ、私たちの間に愛情は存在しない……少なくとも、当時の私は本気でそう思っていた。あるのはたった一つ、非凡ではない私たちの限界を蔑ろにするアルノルト殿下への不満を打ち明ける、同盟でしかない。
「近頃フェデリコとの時間が多いようだな」
「互いに側仕えが控えた空間で休憩を挟んでいるだけです」
「報告は上がっている。何か申し開きはあるか?」
「適度な息抜きが作業の効率性を上げることは学者が証明しています。会話の内容も特にアルノルト殿下にご報告するほどのものではない、と判断しておりますが?」
もはやこの期に及んでアルノルト殿下と私の関係が改善する様子は無かった。私が寄り添おうとするのを止めていくと、彼は無駄な時間を少しでも有益に使おうと私との時間を少なくしていった。社交界で取り繕える程度の薄い距離感を絶妙に保ちながら。
王太子殿下の婚約者に命ぜられたからにはその義務は果たす。勿論そのお役目を放棄する気は無い。無いのだけれど、時折夢を見ることがある。恋愛成就とまではいかずとも、お互いに思いやる男女関係になれればなぁ、と。
夜、寝台に横たわりながら天井を見上げるたび、私は自分に問いかけた。このまま何も変わらない日々が続くのだろうか、と。答えの出ない問いを抱えたまま、私はまた朝を迎える。そんな繰り返しの中である日、そんな思いが強くなる出来事があった。
――それは、隣国から届いたひとつの噂話だった。
◆◆◆
「隣国の第三王子が婚約者に対して公の場で婚約破棄を言い渡したらしい」
「隣国の第三王子……ああ、あのお方ですか。そのような不誠実な真似をされる方だとは思っておりませんでしたが……」
「なんでも、真実の愛に目覚めたんだとさ。お相手はただ庇護欲を誘う愛くるしい男爵令嬢なんだとか」
「真実の愛……?」
その言葉を耳にした瞬間、私の中で何かが変わった気がした。うまく言葉にできないけれど……渇望、あるいは羨望のようなものかしら。
それがきっかけで、段々とこの「婚約破棄騒動」について耳にするようになった。
なんでも、近隣諸国では最近、公の場での婚約破棄が流行っているらしい。
貴族同士の婚約は基本的に政略的なものだ。そこに男女間の恋愛が無いとは言わないけれど、初めから思い人と結ばれることはよほど家に余裕がある場合ぐらいだろう。まずは家同士の都合からすり合わせて、当事者の関係は後から育むもの。これが常識だった。
そう、「だった」だ。
長年続けられた当たり前が……過去のものになりつつある。
きっかけは何だったかしら? そう、確か海を隔てた別の大陸よりも遠くからの来訪者がもたらした、「自由恋愛」という全く異なる価値観だったっけ。男性と女性が惹かれ合って自然と婚姻にまで至る、そんな夢みたいな流れに任せよう、というものだ。
家のためとはいえ気に入らない異性と今後一生添い遂げるなんて嫌だ、との考えが近頃若者の間で芽生え始めた。やがてそれは関係の終幕、つまり婚約破棄騒動に発展してしまい、近年この国のみならず近隣諸国で問題となっている。
そんな天地がひっくり返るような大騒ぎを起こすなんて馬鹿げている、と考える方もいるかもしれない。しかし、だ。穏便に婚約を解消しようとしたところで政略結婚が当たり前だった親世代を説得できるかしら? 否、無理でしょう。現に真実の愛を真に受けた友人が父親にそれとなく「もし婚約者に不満があったら」と水を向けたことがあったけれど、返ってきたのは「家のために生まれてきたのだ、我儘を申すな」という一喝だけだったそうな。
つまり、婚約破棄騒動とは、自分の真実の愛とやらがいかに正義か、そして相手がいかに自分に相応しくなく非があるか、を皆に知ってもらうパフォーマンスであり、そして家だけの問題ではなくすことで親を(不本意だろうと)頷かせる起死回生の一手でもあった。
もちろんやられた側が素直に受け入れる場合もあるし、反論して家同士の諍いに発展した挙句に最後は国が調停に入った場合もある。どのみち関係性に大きな亀裂を与えることに変わりはないので、婚約破棄したら最後、婚約関係は終わりを告げる。
「それで、その第三王子殿下の婚約破棄は成功したのですか?」
「成功したさ。成功せざるを得なかった。王家の一員の発言をおいそれと撤回すれば、それは権威の失墜に直結しかねない。無茶を通して道理を引っ込ませたのさ」
「なんと……。それでは王家を支持する貴族が減ってしまうでしょうに」
「現に隣国の王太子は信頼の回復のために必死になっているんだって。可哀想に。俺だったらそんな尻拭いなんて御免だね」
その最初に耳にした婚約破棄騒動は成功した。成功してしまった。お相手の公爵令嬢は能力や実績ではなく人柄をこき下ろされて婚約者の座を追われた。いかに優れた美貌と家柄があろうと、名声が地に落ちたが最後、次は二十歳も年上な貴族の後妻に収まったのだとか。
幸いにも浮気相手の男爵令嬢が現実を思い知ったのか必死に勉強し、今では立派に王子妃を務めている。彼女自身は成り上がりなどすべきではない、と周囲に漏らしているものの、第三王子と元男爵令嬢という成功例が出てしまったため、後に続けと婚約破棄騒動は巻き起こるようになった。
「ああ、いっそ……」
アルノルト殿下も真実の愛に目覚めればいいのに、と愚痴をこぼしかけ、慌てて口をつぐんだ。不安になりながらフェデリコ殿下の方を見ると、彼は今までに見たことがないぐらい狼狽えながら周囲を伺い、やがて自分の側仕えに入念に確認を取り、ほっと胸を撫で下ろす。
「兄上は義務を果たす。そこを心配する必要は無い」
「そう、ですよね……」
その日フェデリコ殿下の見せた妙な焦りを、私はただ自分と同じように迂闊に口を滑らせるべきではない、との考えからだと思っていた。今にして振り返れば、あの反応こそが後の全ての伏線だったのだけれど。
◆◆◆
そんな時折聞こえてくる婚約破棄騒動は、やがて大衆娯楽にもなっていった。
何しろ一般庶民にとって貴族は手の届かぬ尊い存在。そんな彼らが自分たちと同じように男女の諍いを起こしているのだから、話のネタにしないわけがない。
街の広場では吟遊詩人が即興で婚約破棄騒動を歌に仕立て、酒場では誰それの噂で夜が更けるまで盛り上がるのだとか。私の侍女ですら休みの日に読む三文小説の題材はもっぱらこの手の話らしい。
面白いのが、その結末が毎回異なる点かしらね。
この国を含めた近隣諸国は男性社会、なので令嬢や淑女の立場はあまり良くない。娘は親の、妻は夫の、母は息子の言うことを聞いて一生を終えることになる。なので令息側が理不尽な婚約破棄を突き付けても令嬢は泣きを見ることが少なくない。
しかし、いつだって例外は存在する。
女性側が有能だった場合、男性側は自分が婚約者に支えられていた自覚が無いままに婚約破棄し、後で痛い目を見る場合だってある。情けなくも女性側に関係の修復を求め、女性側が鼻で笑いながら新しい婚約者を誇る、なんてことも過去にはあった。
例えば東方の伯爵家で起きた一件だと、令息が婚約破棄した翌年に領地の帳簿が真っ赤に染まり、実は令嬢が裏で領地経営の全てを取り仕切っていたと発覚して、暴かれた無能さに社交界中の笑い者になったそうだ。
あとは、女性側が実はやんごとなき血統の令嬢で、過去に色々とあって真相が秘匿されていて、婚約破棄があったために公のものになった、とか。そんな大層な身分だと初めから知っていれば、と男性側が悔しがって幕引き、も過去にはあったそうな。
そして、どんな女の子でも一度は夢を見て、けれど絶対にありえないと諦めてる逆転劇がある。それは愛。捨てられた筈の女性側が隣国の王子に見初められて幸せを掴み取って、男性側は運気が離れて破滅していく。作り話じゃない、れっきとした実話だ。
悲しいかな。大衆にとっては印象に残る逆転劇は娯楽として語られても、女性が泣き寝入りする普通の結末はどうでもいい。自分に非が無かろうと親からは不甲斐なさや至らなさを怒られ、今度はより条件の悪い婚約相手を押し付けられる。語り継がれる華々しい物語の裏ではその数倍もの無慈悲な現実が積み重なっているのだ。
……私たち貴族令嬢にとってはそれが常識。現に我が家に届く縁談の噂話の中に、そうした「その後」を耳にする機会が度々あったから。少し上の年代のご令嬢が婚約破棄された翌年には見る影もなくやつれ、やがて社交界から姿を消したという話を聞いた時、私は他人事とは思えず眠れぬ夜を過ごしたことがある。
「「シンデレラストーリー」なんて夢物語だ。早々成功するものじゃないね」
「夢物語だからこそ、滅多に起こらないからこそ、素敵な夢として一度は頭の中に思い浮かべて贅沢を味わうのでしょう」
「そして夢と現実は似て非なるものだと思い知り、人は大人になっていく、と」
「夢のないことを……」
「夢を打ち砕く無情な現実が悪い」
結局のところアルノルト殿下は凡庸な私で妥協するしかなく、私はアルノルト殿下に仕方無いと思われながら添い遂げるしかない。それが運命で、現実。アルノルト殿下に限ってそんな世間を騒がせる婚約破棄騒動と関わるなんて有り得ないし。
「まあ、兄上が誰かに真実の愛とやらを見出すところなんて想像もつかないな」
「ええ、想像すらできませんね。殿下は効率と成果しか見ていらっしゃらないようですから」
「だとしたら、ユーディット嬢はこのまま兄上と添い遂げるのか」
「……。そう、なるのでしょうね」
当たり前の現実を突き付けられただけなのに、フェデリコ殿下へ返した返答の声がどれほど乾いていたか。フェデリコ殿下はしばらく黙り込み、それから何かを言いかけて、結局口をつぐんだ。中庭の噴水の水音だけが、その沈黙を埋めていった。
だからこそ、その出来事は果たして運命の悪戯だったのか、それとも天の采配だったのか。なるようにしかならなかった未来は、書き換わろうとしていた。私にはどうしようもない大きな流れによって。
始めに言っておくと、アルノルト殿下は最後まで完璧超人だった。
他の婚約破棄騒動を巻き起こす連中とは異なり、きちんとやるべきことは果たした。
それでも彼がああなってしまったのは……運が悪かったと言うしかない。
そして、その「運の悪さ」という運命は、間もなく私たちの前に姿を現すことになった。
◆◆◆
とある侯爵家が聖女コルネリアを養子にした、と噂を耳にしたのは婚姻まであと二年に迫っている頃だった。
聖女。この王国から少し離れた所にある教国により認定された、神の奇蹟の体現者。
一つの時代にたった一人、天啓を受けた少女が人々を苦しみから解放する。
具体的には、手をかざせば瞬く間に怪我や病気が治り、水に手を付ければたちまちに浄化され、大罪人でも彼女の許しを得れば天に召される、と言い伝えられている。
幼い頃に絵本で読んだ聖女の伝説の挿絵を思い出す。光の輪をまとった女性が、飢饉に喘ぐ村人たちに手を差し伸べる場面……あれはただの御伽噺ではないとは知っていたけれど、私の日常には関わりのない話だと思っていた。
そんな聖女がどうしてこの国の貴族の娘になったか? それには理由があった。
「調べさせたよ。どうやら侯爵の庶子だったらしい。使用人に手を出して子を授かったと分かったら放逐。生まれた娘が聖女に認定されたらしい」
「なんとも浅ましい……。聖女と判明して利用価値があると分かればすぐ呼び戻すだなんて……。それで、その聖女様は今どうしているのですか?」
「侯爵令嬢になっても聖女には変わらない。教会の下で奉仕活動に明け暮れているさ。ただ、いずれは社交界に姿を見せるだろうね」
「……慌ただしくなりそうですね」
フェデリコ殿下からその経緯を聞かされた時、私は言葉を失った。実の父親に母親共々見捨てられ、教会という異質な世界で育ち、それでいて聖女という重責を一身に背負う。想像するだけで胸が痛んだ。同時に、そんな数奇な運命を辿った少女がこれから私たちの生活にどう関わってくるのか、漠然とした不安も覚えた。
聖女が一国に属するのは歴史を紐解くとそう珍しくない。例外はあれど祖国に戻った聖女はその地のやんごとなき方に嫁ぎ、聖母となる。聖女の子は聖女や聖者になりやすく、嫁ぎ先はその後の栄光と繁栄を約束されたも同然なのだとか。
ただ、歴史書を紐解くと、聖女が聖母になってからについては、どうも一部意図的に記録されていない事実があるように思える。古書屋で埃を被っている文献まで手を伸ばしても、知りたい情報は尽く黒く塗り潰されていた。一体何が隠されている……?
一度興味本位で聖女に関する古い記録を漁ったこともある。司書の老人は私の熱心さに驚きながらも、「聖女様のことは、あまり深く詮索なさらぬ方がよろしいかと」とだけ忠告してくれた。その言葉が妙に耳に残ったまま、当時の私はそれ以上の追及を諦めた。今思えば、あれが最初の警鐘だったのかもしれない。
「聖女ともなれば王家も黙っていられないでしょう。もしかしたら王子妃として迎え入れるかもしれませんね」
「よしてくれ……。婚約者がいない俺が娶る破目になるじゃないか」
「いつまで経っても婚約者を決めないフェデリコ殿下がいけないのですよ。第三王子殿下の方が先に婚約者を決めてしまったではありませんか」
まだ聖女コルネリアが表舞台に出てきていないのではっきりとしたことは言えないのだけれど、おそらく年代的にも近いフェデリコ殿下は聖女のお相手の最有力候補でしょう。現に王宮内では内密に聖女について調査が始まっているようだし。
それにしても、どうしてこの方には婚約者がいないのかしら? 常日頃アルノルト殿下と比較されるのは気の毒だけれど、王子としては及第点の筈。素行にも問題無いのだし、あまりにももたついていると見合うご令嬢は別の縁談が進んでしまう。
そんなことを指摘すると、フェデリコ殿下はあからさまに不機嫌になった。
あら、婚約者が決まらないのは彼が拒絶しているからなのだから、原因は自分のせいなのだけれど。そんな反応をされる謂れはない、と思う。
「……。あいにく、俺は自分の人生を賭けた一世一代の大博打に挑んでるんでね」
「大博打? いけません。第二王子ともあろうお方がそんな危ない真似をなさっては」
「いいから。ユーディット嬢は俺が賭けに勝つのをただ祈ってくれ」
「はあ……。少しでもフェデリコ殿下のためになるのなら、祈りましょう」
あの時のフェデリコ殿下の瞳の奥に宿っていた光を、私はまだ正しく理解できていなかった。ただの意地っ張りだと思っていたそれが、実はもっと深い決意だったのだと知るのは、まだ少し先の話だ。
◆◆◆
そうして国中を騒がせた聖女コルネリアが姿を見せたのは、噂が流れてから一年後の事だった。多分、聖女を目の当たりにした方の日記は、聖女を称える言葉で埋め尽くされたことでしょう。それほど衝撃的だった。
その日、王宮の大広間には近隣諸国の使者まで招かれ、朝から異様な熱気に包まれていた。私も朝早くから支度に時間をかけ、婚約者として恥ずかしくない装いで臨んだ……はずだった。彼女が扉をくぐった瞬間、そんな私の気構えなど吹き飛んでしまったけれど。
聖母が、天使が、女神が降臨したなら、今まさに目の前の光景だろう。
それほどまでに聖女は美しく、気品に溢れ、見るものを圧倒した。
それは私を含めた名門貴族や、国家元首たる国王陛下を含めて。
「初めまして、皆様。聖女を拝命しておりますコルネリアと申します」
声には讃美歌が霞むほどに心打たれる。
近寄ると鼻をくすぐる匂いは爽やかで心落ち着く。
頭のてっぺんから指の先までどの仕草も洗練されて心奪われる。
銀糸のような髪が窓からの光を受けて淡く輝き、伏せられた睫毛の先まで神が設計したかのように美しい。一礼する所作ひとつとっても、長年礼儀作法を叩き込まれてきた私ですら及ばない滑らかさだった。会場中の視線が、まるで奇蹟を目の当たりにしたかのように彼女に集中していくのを、私は肌で感じたものだ。
一瞬だった。
聖女はまたたく間にその場にいたもの全てを虜にした。
同時に、そのうちの何名かはやがて我に返り、驚愕するか警戒心を強めた。
「コルネリア嬢。よくぞ我が国に戻ってきてくれた。私個人からも礼を言う」
「かたじけないお言葉です、殿下」
「今後聖女としての奉仕活動を援助するための予算を組むつもりだ」
「申し訳ありませんが、活動資金は教会で予算が組まれている以上は受け取れません」
「この王国に属する以上、援助するのは国の義務だ。寄付とは異なると考えてほしい」
「では、国が定めた範囲でしたら、ありがたく頂戴致します」
例外はアルノルト殿下ぐらいだったでしょうね。
アルノルト殿下は聖女を前にしても平常運転。全く心動かされる事無く聖女を見定めた。その存在、能力に見合った報酬と資金を与える。そして聖女の果たした成果を正当に評価したのだ。あの場に居合わせた誰もが聖女の神々しさに呑まれる中、殿下だけが眉ひとつ動かさず淡々とやり取りを進めていく様子は、ある意味で異様だった。
非常に複雑だった。聖女を見初めて真実の愛に目覚めれば私はお役目御免だったのに。逆を言えば聖女にもブレないアルノルト殿下のしっかりとした芯を褒め称えるべきか。何にせよ、私を取り巻く環境が著しく変わることは無いでしょう。
そう思っていた時期が、私にもありました。
確かにアルノルト殿下は惑わされることなく聖女を真っ当に評価した。
そのうえで、いつしかこう考えるようになったのよ。
私よりコルネリアの方が自分の伴侶に相応しい、と。
「して、コルネリアよ。そなたにはまだ婚約者がいないのだったな。聖女は結婚出来ると聞いているが、まことか?」
「はい。次に人々を救済する子を産むことも神より授かった聖女の使命でございます」
「では我が息子、第二王子はどうだ?」
そんな聖女初披露の場にて聖女が国王陛下に謁見した際、国王陛下は予想された提案を聖女に投げかける。周囲の貴族が騒然となる中、アルノルト殿下のお顔が僅かに歪み、当のフェデリコ殿下が不快げに眉をひそめる。
当事者ではない私は……どういうわけか胸が苦しくなった。
皆が見る前で動揺を見せてはならない、と自分を戒めてかろうじて堪える。いつまでもお相手を見つけないフェデリコ殿下にとっては何にも代えがたい縁談で、祝福するべきなのに……どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。自分でも説明のつかない感情に戸惑いながら、私は背中の裏ででそっと拳を握った。
言い渡された本人のコルネリアは僅かに反応を示したものの、垂れていた頭を上げ、口を開き――、
「陛下、それでは約束が違います」
言葉が紡がれる前に、フェデリコ殿下の重く鋭い言葉が被された。
フェデリコ殿下は今までに見たことがないほど深刻な面持ちで陛下を見据える。
一体何が彼をそうさせるのか。もう彼と親しくして長い私にも分からなかった。
「兄上……王太子殿下が婚姻するまでは私が望むまで婚約者を定めない。それが私が唯一の望みだった筈です」
「ぬ、う……しかし……」
「約束は違えるもの、と公言なさるおつもりですか?」
「……。相分かった。この件は一旦保留にする。それで良いな?」
こうして国王陛下も認めるほどの存在感を示した聖女は、またたく間に社交界注目の的になった。彼女への釣書は連日膨大な量が侯爵家に届けられたそうな。しかし聖女はしばらくは奉仕活動に専念すると宣言して全て断っている。
王家の方はと言うと、フェデリコ殿下に拒絶されながらも聖女のことをまだ諦めていないらしく、聖女が自然災害や魔物のスタンピードを収めて帰還した際の謁見後にフェデリコ殿下との逢瀬の時間を設けたりと、姑息な手(フェデリコ殿下談)が打たれた。
「つ、疲れた……まるで兄上二号と相手してるみたいだ……」
「お疲れ様です。こちらは更に見向きもされなくなったような気がします」
それと比例するように私とフェデリコ殿下による愚痴大会は加速するようになった。
どうやら聖女と二人きりの時間は逆効果だったらしく、疲労感を滲ませた。
そんな殿下を見てどういうわけか私は胸を撫で下ろした。安堵、というにはあまりに複雑な感情だったけれど、この時の私は深く考えないようにしていた。
「天は二物を与えず、なんて嘘だね。彼女は明らかに兄上と同類、神に愛された存在さ。妬ましくなってくるよ」
「噂では耳にしました。既に近隣諸国の言葉は全て流暢にお話しになるそうですね。私は日常会話を片言で喋るのが精一杯な有様です。諺や詩を絡めた返答などとても……」
「書類を一目見ただけで問題点や計算誤りを見つけるなんて、どんな頭の構造してるのやら。目に映れば頭の中に書類が残るなんて嘘だろ?」
「アルノルト殿下も当たり前のようにそう仰っていましたっけ……」
そう、聖女コルネリアはまごうことなき天才だった。それこそあのアルノルト殿下と肩を並べる程……いや、分野によっては彼を超えていた。聖女としての奇蹟だけでなく、王太子妃そして後の王妃としての執務も余裕でこなせるほど優秀だとの評判だ。
常にアルノルト殿下と比べられて辟易しているフェデリコ殿下にとってあの方を彷彿とさせる聖女は不倶戴天の敵。国王陛下に命じられて渋々時間を作り、義務を果たすため会話は重ねているものの、仲良くなる気配はこれっぽっちも無いようだ。
むしろ私とフェデリコ殿下がこのように至らなさを舐め合いながら腐っている間、聖女とアルノルト殿下が王宮内でばったりと出会ったのに端を発し、あの二人の方が段々と関係を進展させているみたいね。
風の噂では、書庫で偶然居合わせた二人が、専門書を巡って議論を交わしたのが最初だったとか。互いに一歩も譲らず、気づけば日が暮れるまで語り合っていたという話を聞いた時、私は妙な胸騒ぎを覚えた。あのアルノルト殿下が、仕事以外のことにそこまで時間を割くなんて。
「それで、ここだけの話、真実の愛に発展すると思いますか?」
「難しいんじゃないか? コルネリア嬢は侯爵令嬢になってもなお清廉潔白だ。彼女にあるのは慈愛だけで、男女の恋に溺れやしないさ」
「アルノルト殿下も恋に落ちる様子はありませんね。ただ最近、私は殿下ご自身だけでなく聖女様と比較されるようになってきました」
「ふぅん、兄上らしい。あの人の頭の中にあるのはいかに効率的に、最適に、物事を回し続けることだけだからな」
社交界のみならず国中が段々と聖女こそが次の国母に相応しい、と思うようになっている。たまたま近い年代に私以外の令嬢がいなかっただけだから、より相応しい候補者が現れればそちらの方が望ましいと心変わりするのは自然なことでしょう。
悔しい。という思いは勿論ある。だって今まで私は一生懸命頑張ってきた。ようやく認められたのに突然やってきた神に愛された娘にその座を脅かされるんだもの。今までは一体何だったの、って思って当然でしょう。悔しくて夜な夜な枕を濡らした日もあったけれど、それを誰かに打ち明ける気にはなれない。
一方で、ようやく楽になると安堵もしている。これから先ずっとアルノルト殿下と付き合っていくのは神経をすり減らすどころか寿命を縮めてしまいそうだ。言われたから今の立場にいるだけなので、みっともなくしがみつき続けるつもりは無い。
「ところで、ユーディット嬢」
「はい、なんでしょうか?」
「立場とか義務とか一切抜きにして、兄上のことをどう思う?」
「そんなの分かりきっているでしょう。私にとってアルノルト殿下は……」
婚約者については常日頃愚痴をこぼしていたのに、その日フェデリコ殿下から投げかけられた問いはとても真剣なものだった。私の一挙動を見逃すまいと見つめてくる眼差しは凄く熱を帯びていた。
最初に愛がなくても関係を後追いして想いが育まれる、と思ったこともあった。それが無理だと分かるとせめてお役に立ちたいと懸命になった。ただ、どれだけ背伸びしても、あの方はこれまで積み重ねてきた拙い実績など評価に値しないでしょう。
「凡人の心がわからない同僚に過ぎません」
もう、彼への感情は枯れ果ててしまった。
そんな答えに満足したのか、フェデリコ殿下は今まで見たことないほど満面の笑みを浮かべた。
「同じだな。やっぱり俺達は気が合うね」
その笑顔の裏に、どんな思いが隠されていたのか。この頃になるとうっすらと気付いてきたのだけれど、私はそ知らぬふりをした。今の関係が永久に続くなら、あまりにも不毛だから。
◆◆◆
聖女コルネリアが社交界に姿を見せてから半年ほど経った頃だろうか。私はアルノルト殿下との距離がさらに開いていくのを感じるようになっていた。それに対する私の思いは複雑で、悩んでしまうせいで余計に疲弊してしまった。
執務室に足を運ぶ回数が減り、代わりに聖女への言及が増えたのは間違いない。
「聖女コルネリアならばこの程度の資料、瞬く間に全容を把握し、綺麗に情報を整理して仕上げただろう」
や、
「聖女の判断は的確だった。かつ大胆で、領主の伯爵も舌を巻いていた、と報告があがっている」
といった言葉を殿下は平然と、まるで天気の話でもするかのように口にする。彼に聖女と私を比較して劣っている事実を突き付ける意図や、至らない私を非難するつもりは無い。悪気が無いからこそ、余計に胸に突き刺さる。
「お父様、お母様。近頃、殿下との関係について思うところがございます」
ある晩、私は思い切って両親に胸の内を打ち明ける。消去法で王太子の相手に選ばれた私だったけれど、より相応しい令嬢が現れたこと、そしてこれ以上私が彼の後ろに付き従うのは厳しいことを。
父は書斎の椅子に深く腰掛けたまま、しばらく黙って私を見つめていた。母は隣で静かに手を握ってくれた。
「ユーディット。お前はよく頑張っている。それは私たちが誰よりも知っている」 「ですが、殿下にとって私は……」
「もし婚約が解消されるようなことがあっても、お前を責める者はこの家には誰もいない。それだけは覚えておきなさい」
その言葉がどれほど私の心を軽くしてくれたことか。
私はアルノルト殿下からはこの時になっても感じられなかった愛を受け取り、久しぶりに胸が暖かくなった。その夜、久しぶりに涙も見せずに眠りにつくことができた。
◆◆◆
そして、ついにその日がやってきた。
国王陛下の御前会議が終わった後、アルノルト殿下は私を別室に呼び出した。
窓の外では夕陽が沈みかけ、部屋の中を段々と茜色に染め上げていく。まるで私の心境を表すように部屋に影を落ちていく。
殿下はいつになく静かな声で切り出した。
「ユーディット、お前との婚約は破棄する」
「その旨、承知いたしました」
驚くほどすんなりと返事が出た。真っ先に湧き出た感情は、悔しさでも悲しさでもなく、かと言って喜びでも怒りでもない。重圧、運命、義務から解放されたという安堵だった。
噂で耳にする婚約破棄騒動と違うのは、アルノルト殿下は根回しを怠らなかった点でしょう。国王陛下や私の父にも許可を得て、上院議会の承認も得ている。更に王家側の都合だと明記し、私に非がないようにしてくれた。殿下があらかじめ準備した書類には「王太子妃候補の変更は両家合意の上、王家の事情によるもの」と明記され、私の家名に一切の傷がつかぬよう配慮されていた。それだけは、彼らしい仕事ぶりだと言えるのかもしれない。
現実を突き付けられ、本来待ち望んだ状況なのに、次第に胸が締め付けられるように辛くなってくる。
「参考までにお聞きします。私は決して王太子の婚約者として落第点だったとは思えませんし、王妃陛下からもそのようなお言葉を頂戴しています。妥協には値するようになった、と貴方様も以前仰ったではありませんか」
「私の伴侶としてより相応しいものが現れた。それだけに過ぎん。聖女コルネリアのような者が現れるのを私はずっと待っていたのだ」
「では、聖女様に心惹かれたのではない、ということですか?」
「愛情など理性と判断を鈍らせるだけに過ぎん」
「その割には聖女様を随分と大事に扱っていたようですが」
「彼女に敬意を評しているだけだ。聖女コルネリアは丁重に扱うに値し、ユーディットは値しなかった。それはお前が一番良く分かっている筈だが?」
その言葉が、これまで積み重ねてきた歳月の全てを踏みにじるように感じられた。何年も傍で支えようとしてきた日々、寝る間も惜しんで努力した夜、扇の裏にびっしり書いたメモ書き――そのどれもが「値しなかった」の一言で片付けられてしまう。
「……。サインいたしました」
「ではこの書類は私で処理しておく。下がっていい」
「……。ねぎらいの言葉一つすら無いのですね」
「何か言ったか?」
「いえ。用件がこれだけでしたらこれで失礼させていただきます」
私は深く一礼し、それ以上言葉を交わすことなく部屋を後にする。長い間続いた婚約関係の最後の会話までこんな感じだったから、私はあまりにも悲しくなってしまい、退室の際に足早になってしまった。
そして扉が閉まると思わず駆け出してしまい、終いには角の向こうでフェデリコ殿下とぶつかってしまった。
「ユーディット……。今まで、お疲れさま」
「っ……!」
彼はその一言だけを私に送ってから私を抱きしめてくれた。私は彼の胸の中で思いっきり泣いてしまった。
これだけ涙を流すなんて子供の頃以来だ。侯爵家の娘として、王太子の婚約者として相応しくあれと戒めてきたけれど、今ばかりは無理だった。
フェデリコ殿下の腕の中は、不思議なほど安心できる場所だった。婚約者の弟だったので私も弟のように思っていたけれど、彼は私を受け止められるぐらい大きくなっていた。彼の心臓の音を聞きながら、私はようやく本当の意味で肩の荷が下りたのだと実感する。
「フェデリコ殿下……。私、頑張ってましたよね……?」
「ああ、勿論だ。兄上以外は皆評価している」
「分かっていたのに……否定されるのは、やっぱり辛いです」
「今日は我慢しなくていい。俺が付き合うよ」
落ち着いた頃には完全に夕方になっていた。王宮の中庭が夕焼けで茜色に染まっている。噴水の見える椅子に私たちは座り、美しい景色を前に黄昏れる。その間フェデリコ殿下は何も語らず、ただ手を握っていてくれた。指先から伝わる温もりが、悲しみで冷えた心をゆっくりと溶かしていくようだった。
どれほどそうしていただろうか。空の茜色が藍色に変わり始めた頃、フェデリコ殿下がぽつりと呟いた。
「俺は、最初からユーディットと兄上の縁談は破談すると思っていた」
「え?」
しばらくの間何を言っているのか頭の中で理解できずに困惑し、やがてとんでもないことを口走っていると分かって慌てて彼へと顔を向ける。
「だってそうだろ。あの完璧超人の兄上と頑張り屋さんのユーディットが合うわけがない。それは最後までそう言って反対したのに、兄上に一蹴されたからな。ユーディットが現時点では最善だ、ってな」
「結局、私は暫定でしかなかったってことですか……」
「だから俺は父上、国王陛下と一つ契約をした」
「契約……?」
フェデリコ殿下は頷く。少し緊張しているのか、いつもの飄々とした様子とは違い、握った手にわずかに力がこもった。
「ユーディットと兄上の婚約関係が婚姻の前に破棄された場合、俺がユーディットと添い遂げたい、と」
「……!」
そんな……フェデリコ殿下が私と……?
いえ、分かろうと思えば分かったことね。お互いに立場をわきまえていたからこそ、思いが強くなる真似を避けて、蓋をして、相手が向けてくる義理の姉弟を越えた眼差しを見て見ぬふりしたに過ぎない。
思い返せば、彼が私を見つめる眼差しには、ただの同盟者に向けるものとは違う並々ならない決意がずっと宿っていたのかもしれない。
「初めて出会った時に惹かれたんだ。あの時、余り物のお菓子に手を伸ばしながら、俺は君の困った顔をずっと見ていた」
「最初からですか!?」
「そして、兄上のためにも懸命に取り組む姿は俺の心を掴んで離さなかった。そして……ユーディットと語り合う時間が何よりも愛おしかった」
「殿下……」
「愚痴を言い合うだけに留まるつもりだった。でも、いつからか、ユーディットの笑った顔が見たくて、君が悲しんでいないか気になって仕方がなくなった。こんな気持ち、初めてだったんだ」
けれど、そんな線を引く日々は今日終わった。
夢でしかなかった未来が今目の前にある。
彼のあふれ出る想いが私の中に染み渡っていく。
「結婚してくれ、ユーディット。俺には貴女が必要だ」
「……はいっ! 私にも……フェデリコ殿下が必要です」
勿論、私はその告白を受け入れた。
だって色々と至らない私には彼が必要だったから。
もう彼がいない日々は考えられなかった。
「敬称は要らない。名前で読んでくれ」
「フェデリコ……」
名前……そう言えばアルノルト殿下のことを名前でお呼びしたことなかったっけ。
フェデリコ殿下……いえ、フェデリコのことは気心知れた相手だとは思っていたけれど、いつの間にか婚約者よりも親しくなっていた。私にとってなくてはならない、私の中で一番大きな存在になっていた。
自然とお互いの顔が近づき、口付けが交わされた。
唇の触れ合いからお互いを求め合う行為へ発展するのはごく自然なものだった。
ああ、幸せとはこんななんだな、と実感として分かった。
◆◆◆
その日から私たちの日々は目まぐるしく変わっていった。
まず、国王陛下と王妃様への正式な報告。フェデリコは私を連れ立って緊張した面持ちで謁見の間に立ち、私との婚約を願い出た。国王陛下は驚いた様子を見せたものの、すぐに相好を崩し、
「賭けを持ち出した時点でお前の想いには気付いておったが……まさか成就することになろうとはな。だが、ユーディットにとってはお前の方が良いのかもしれぬな」
と笑顔で快諾してくださった。
王妃様に至っては私の手を取って涙ぐみながら、
「ようやく、あなたが笑える場所が見つかったのね」
と仰った。その言葉に、私もまた涙が止まらなくなった。
我が家への報告した際も拍子抜けするほど穏やかなものだった。むしろ我が家に着くまでの間緊張で吐きそうだと主張していたフェデリコよりも、婚姻の許しを請われる父の方が緊張していたぐらいだったし。
王太子との婚約を台無しにした私は叱られると恐れていたのに、母は逆に「良かったわね」と安堵したような表情を浮かべるほどだった。
「これで、ユーディットとお似合いの殿方と添い遂げられるわね」
二人とも、私が思っていた以上にアルノルト殿下との関係を案じていたのだと、その時初めて知った。
「フェデリコ、これから正式な婚約発表までにやることが山積みですね」
「ああ、面倒だが仕方ない。でも、それもユーディットと一緒なら苦にならないね」
「口が上手くなりましたね」
「正直な思いを口に出しているだけさ。ユーディット相手には素を曝け出し過ぎても問題が無いし」
そんな軽口を交わしながらも、私たちは着実に婚約者としての日々を歩み始めた。
不思議なもので、フェデリコと過ごす執務の時間は、アルノルト殿下との時とはまるで違う。彼は私の意見を丁寧に聞き、間違いがあればお互いに指摘し合い、そして何より成果を出せば「よくやったな」と、当たり前のことを当たり前に褒めてくれた。
たったそれだけのことがこんなにも心を軽くしてくれるのだと、私は初めて知った。
一方、アルノルト殿下も聖女コルネリアと婚姻した。アルノルト殿下による治世は安定し、王国は栄えた。その側に聖女コルネリアの姿があることは多くなかったものの、二人は常にお互いを認めあい、尊重し合った。やがて聖女コルネリアが子宝を授かるのはそう遠くない未来の事だろう。
その報せを聞いた時、私の胸に去来したのは、意外にも清々しい思いだった。ようやく、本当の意味で過去のものになった――そんな実感があった。
「めでたしめでたし、で終われば良いんだけどなぁ」
「非の打ちどころのない方同士が結婚したのですから、すれ違ったところで上手いこと修正していくでしょう。何が心配なんですか?」
「いや、万事上手くいってる時こそ、思わぬ落とし穴に落ちるものだから」
「石橋を叩いて渡るような堅実な道を歩むアルノルト殿下方が?」
「突然の落雷や落石に襲われるかもしれないだろ。何が起こるかは分からないさ」
私はフェデリコと共に、新しい未来へと歩み出していた。
どこか一抹の不安を抱えながら。
けれどもう私たちには関係ない、とも思いながら。
◆◆◆
「一体何でしょうね? 急に呼び出されましたが……」
私とフェデリコは結婚した。
盛大な結婚式ではお父様もお母様も号泣したり私まで感極まって涙を流したり……という、およそ貴族の結婚式らしからぬ賑やかさだった。式典長が眉をひそめるほど涙と笑いに満ちた式は、後々まで社交界の語り草になったという。
結婚してからの日々は、私が想像していたよりもずっと穏やかで、そしてずっと騒がしかった。フェデリコは私の夫になってからも相変わらず飄々としていて、公務の合間を縫っては
「ユーディット、ちょっと休憩」
と、休憩時間が来る前に私を庭園に連れ出す。
「なあ、ユーディット。今度の視察、一緒に来るか?」
「よろしいのですか? まだ王子妃として任された執務を消化しきれていませんが」
「なあに、俺が手伝えば瞬殺さ。片方が抱える負担は相手が半分でも背負えばいい。夫婦なんだから、それが当たり前だろ」
「そう……ですね」
こんな何気ない一言にこれまでどれほど救われてきたことか。アルノルト殿下との日々では決して得られなかった安心感が、今の私の生活には満ちていた。
本来ならフェデリコはこの時点で臣籍降下して爵位を賜る筈だった。なのに国王陛下がアルノルト殿下に王子が出来るまでは待つように言い渡され、未だ王宮に留まっている。
「早く落ち着いた暮らしがしたいんだけどなぁ。領地でユーディットとのんびり過ごすのが夢なのに」
「陛下にもお考えがおありなのでしょう。もし不幸にもアルノルト陛下と聖女様が御子に恵まれなかった場合のことを考えれば、無理もございません」
「ま、そうなんだけどさ。ただ、そうなったら王族に復帰すればいいだけの話だと思うんだけどね」
私も概ね同意見だった。過去にもそうした事例はあったはずだ。だから私たちは、いずれ落ち着いた暮らしが待っていると、その時はまだ楽観していた。
◆◆◆
その報せが届いたのは、その日の仕事を終えて庭園で穏やかな午後を過ごしていた、ごく普通の一日のことだった。
「殿下、王子妃様。至急、国王陛下の御前へお越しくださいませ」
「急にどうしたんだ? 何かあったのか」
「詳細は分かりかねますが、王太子殿下ご夫妻も同席されるとのことでございます」
使者の言葉に私とフェデリコは思わず顔を見合わせた。アルノルト陛下ご夫妻も同席……穏やかな話ではなさそうね。フェデリコの表情もいつもの飄々とした様子から一転、真剣なものに変わっていた。
「嫌な予感しかしない。めでたしめでたし、で終わってたら良かったんだけどなぁ」
「一体何でしょうね? 急に呼び出されましたが……」
王宮内を歩む間に努めて軽い調子で言葉を交わしながらも、私たちの手は無意識のうちに強く握り合っていた。窓の外の景色を眺めながら、私は言いようのない胸騒ぎを覚えていた。
案内された部屋の扉をくぐった瞬間、その胸騒ぎは確信に変わる。
「陛下。第二王子フェデリコ、ならびに王子妃ユーディット、ただ今参りました」
「……少し話が長くなる。そこに座れ」
部屋に入るなり驚いたのは私だけではなかったようで、フェデリコは目の前の光景に息を呑んだ。
まず、国王陛下と王妃様の様子がおかしい。国王陛下はまるでこの世の終わりかのように頭を抱えているし、王妃様は冷淡にアルノルト殿下を見つめていらっしゃる。普段は温和な王妃様のそんな表情を見るのは、私にとって初めてのことだった。
視線を少し移すと、アルノルト殿下は悲鳴を上げたくなるほど恐ろしく怒りに満ちた形相で聖女コルネリアを見つめていた。あの、常に冷静沈着で感情を表に出すことのなかった殿下が、これほどまでに取り乱している姿を見るのは初めてだった。まるで見知らぬ誰かを見ているようで、背筋に冷たいものが走る。
そして聖女コルネリアは美しい微笑を称えながら愛おしく少し膨れてきたお腹を擦っていた。その穏やかな表情だけが、この張り詰めた空気の中で異常なほどに浮いていて、得体の知れない恐怖を覚える。
まさか聖女ともあろうお方が不貞を働いてアルノルト殿下以外の子が出来たのか、とも頭によぎったものの、それなら国王王妃両陛下の反応が違っているはず。では一体何がどうなってこんな状況に……?
私とフェデリコは大人しく席に付いた。だというのに部屋の空気は重く、誰も口を開こうとしない。壁際に控えた侍従たちですら、存在感を無くして息を潜めているのが分かった。
「結論だけ申す。王位継承権第二位はフェデリコのままとする」
国王陛下は押しつぶされそうなぐらい重苦しく低い声で宣言なさった。
今は言われずとも王位継承権第二位はフェデリコ殿下だ。けれど、今聖女コルネリアのお腹の中にいるアルノルト殿下の子が生まれたらその順位は繰り下がる。王子だろうと王女だろうと。
なのに誕生する子を無視して順位を維持する? どうして?
もしかして、以前調べた聖女が聖母になってからの歴史に関係する?
結局私には関係ないと思って途中で調査を打ち切ってしまったから、アレから何も分かっていないのよね。書庫で司書の老人が「深く詮索なさらぬ方が」と忠告してくれたあの日のことがふと蘇る。
「では、私から説明を」
おそらくこの空気を作り上げた聖女コルネリアご本人は、場違いなほど穏やかで、恐怖を覚えるほど私たちを安心させた。机の下でフェデリコが手を握ってくれた。とても温かくて頼もしかった。私も彼の手を握り返して、どんな言葉が来ても良いように覚悟を決める。
「聖女は次世代の人類救済のために子を産まなくてはなりません。本来聖女は神の子であり神の妻ですので夫を持たないのですが、人に愛し愛される場合に限って人の子を産むことが出来ます」
「愛し愛された場合限定……?」
厳粛な聖職者が妻や夫を持たないのは有名な話だけど、聖女は過去の記録から家族を持つのが一般的だと思っていた。けれどそれは普通の家族を持つのと同じ意味ではないらしい。
「はい。次世代の聖女になる女の子の父は神。本来であれば人の父は必要ありません。確かこういうのを処女懐胎って言うんでしたっけ」
「ちょっと待ってくれ。頭の中を整理するから」
え、と。つまり、聖女は女神官と異なって夫を持つことが可能。夫との子宝を授かることも可能。ただし愛し合わなきゃ駄目。それとは別に聖女は男女の営み抜きに神の子を授かれる。聖女の使命として。
……今、聖女コルネリアのお腹の中にいる子はどちらだ?
両陛下やアルノルト殿下を見れば一目瞭然だ。
「まさか、その御子は神と聖女様の子で、王太子殿下の子ではない……?」
処女懐胎によって誕生した子がアルノルト殿下の血を引いていない。つまり王位継承者には成り得ない。多分聖女コルネリアの妊娠が発覚して、魔道具でアルノルト殿下の子でないと分かり、聖女があっさりと真実を打ち明けた、みたいな経緯か。
なんという皮肉なことか! あれほど完璧を求め、合理性のみで生きてきたアルノルト殿下が、まさにその不要な感情に見向きもしなかったがゆえに、次の王たる王太子として最も望まれるはずの世継ぎを得られずにいるとは。
いや、だったら互いに思いやって愛を育くめばいいでしょう、との指摘は無理だ。ことアルノルト殿下に限って女性を尊重することこそあれど、一人の女性を愛するなんて到底望めまい。それは私が身に染みて分かっている。なので、聖女コルネリアといくら同衾しても産まれるのは今後も神の子ばかりなわけね。
「あー……うん、話は分かった。だったら兄上が義姉上を愛すれば済む話では?」
一応フェデリコがそのことを指摘するも、アルノルト殿下に睨みつけられて言葉を引っ込めてしまう。分かっていることを指摘されることをアルノルト殿下は一番嫌っていたけれど、今でも変わらないらしい。
「何故言わなかった?」
アルノルト殿下が射殺さんばかりに睨みつけても、聖女はいつもの微笑を崩さない。
「言うまでもありませんでしたので」
「そう判断した根拠は?」
「だってアルノルト様は結婚式の際、神の前で宣言なさったではありませんか。「愛することを誓う」と」
「なっ……!」
言った。確かに言った。
アルノルト殿下にとっては話が違うのでしょうけれど、聖女からしたら神の前で愛を誓ったのだから問題にもならないって判断だったのでしょう。
ぐうの音も出ない正論を叩きつけられ、アルノルト殿下が怯んだ。
こんなに動揺する殿下なんて初めて見た。
そして、ここまで下手を打った殿下も私が覚えている範囲では存在しなかった。
怒りを堪えるアルノルト殿下とは対照的に、聖女はここで初めて表情を崩した。物悲し気に夫を見つめる。
「愛を知らないアルノルト様も私のために愛を覚えてくれる、と喜んでいましたが……嘘だったのですね」
「そんなことはない! 私はいついかなる時・場合でもコルネリアを妻として敬い、慈しむつもりでいる!」
「やはり、愛は無いのですね。残念です。それでは私たちは夫婦にはなれますが、アルノルト様が私の子の親になることはありません」
「ぐ……!」
殿下の子を産めないのは永久じゃない。アルノルト殿下が聖女コルネリアを愛すれば解決する。
けれど……きっと無理なんだろうなぁ。彼には人の心が分からないし。
だからこそ、国王陛下も殿下を見限って今回の結論を出したのでしょうし。
不意に、アルノルト殿下の視線がこちらに向けられた。
大方聖女コルネリアは駄目になったから、次の候補である私を王太子妃にでもしようとか考えを巡らせたんでしょう。アルノルト殿下はそういうお方だ。
と、理性的には分かっていても、その視線が私に向けられた瞬間、背筋に悪寒が走った。かつては憧れすら抱いていたあの完璧な横顔が、今の私にとってはただただ恐ろしいものにしか感じられなかった。
そんな私とアルノルト殿下の視線が絡まったのはごく一瞬で、フェデリコが手を出して私の視界を塞いだ。もうこれ以上アルノルト殿下に私を見させやしない、と言わんばかりに。彼の手のひらは温かく、そして力強い。
「もうこれ以上ユーディットに兄上を見てほしくないし、兄上の視界にユーディットを映したくない」
「大丈夫です、フェデリコ。私が愛しているのは貴方ですから」
「……。何があってもユーディットを離すつもりはないから」
「ではその手を下ろして私と手を繋いでください。どうか私に勇気を」
フェデリコは少し考えこみ、ゆっくりと手を下ろしてまた私の手を握る。
大丈夫、もう私はアルノルト殿下を必死になって追いすがる必要は無い。
私は意を決してアルノルト殿下を見据える。
今まで私が及びもつかない優秀だった彼が、今はとても小さく感じた。
「アルノルト殿下。神の前で宣言した愛の誓いは神聖なものです。まさか、ご自分がコルネリア様を愛せずお子様が出来ないからと、すぐさま一度捨てた私を手に取るおつもりではありませんよね?」
「……さ、最優先にされるべきは国の安泰だ。私なら国をより良く出来、更なる繁栄をもたらせられる」
「ええ、否定致しません。殿下にはそれを可能とする充分な能力があるかと」
「なら、王になる者、世継ぎは必須だ。コルネリアが出来ぬのなら……」
「殿下がコルネリア様を愛すれば何も問題ありません。思いやれば自然と愛に発展していくことでしょう」
「し、しかし……」
醜い……実に醜い。こんなみっともない方は私の知るアルノルト殿下ではない。
いや、今まで挫折知らずだったからこそ、こうも打たれ弱いのかもしれない。
婚約破棄されるまでなら初めて頼られて歓喜したでしょうけれど、今は違う。
部屋の隅で成り行きを見守っていた国王陛下が深い溜息をひとつ漏らす。その音だけが、静まり返った部屋に妙に大きく響いた。
「殿下。私にはもう愛する伴侶がいます。フェデリコは私を愛し、大切にしてくださいます。能力以外の思い、そして生き様を見てくださいます。貴方様とのお付き合いはもうこりごりになったからこそ、婚約破棄にも同意しました」
「っ……! ユーディット……!」
「あるべき姿はアルノルト殿下がコルネリア様と愛し合い、お二人の御子が次の世代の国を担っていくことですので……」
話は終わりだ。私とフェデリコは「詳細は後日王太子夫妻がいない場で改めて」と国王陛下に断りを入れてから立ち上がり、出口に向かって歩みだす。アルノルト殿下に絶対に渡さない、との決意を込めてか、フェデリコは私の腰に手を添え、自分へと引き寄せる。
大切にしてくれて嬉しいのだけれど、それでも私は最後に彼に言ってやりたいことがあったので、アルノルト殿下へと振り向いた。
……なによ、その見捨てられた子犬みたいな顔は。貴方は何をやらせても誰よりも完璧にこなす万能王太子でしょう。恋路の一つぐらい理解しなさいよ。
「やるべきことをやれ、と私が言っているの」
なので、以前言われて腹が立った理不尽な一言を返してやった。
前に顔を向ける寸前、がくっと項垂れるアルノルト殿下の情けないお姿だった。
かつて、あれほど私を委縮させた完璧たる者の威圧感はもうどこにも無かった。ただの、人の心が分からない不器用な一人の男の姿がそこにあるだけだった。
部屋を後にし、扉が閉まり、私とフェデリコは見つめ合い、つい笑ってしまった。長い緊張から解放された反動か、笑いは止まらず、廊下の途中で通りかかった使用人が驚いた顔で私たちを見つめるほどだった。
「見たかあの兄上の顔! いやあ、スカッとしたね!」
「こらこら、そんなはっきり言ってしまっては可哀そうですよ」
「そんなこと言っておいて一番ざまあみろって思っているのはユーディットだろ」
「否定はしませんが、気の毒でもあります。だって彼は何でも自分で出来てしまうから、お相手がいる必要が無い。必要が無いから人を理解しなくてもいい。そうやって想いを育む機会を逸してしまったのですから」
「相手に聖女を選んだのは運の尽きだったかー」
「運命のいたずらか、それとも神の采配か……。いずれにしても、アルノルト殿下にはコルネリア様と向き合ってもらわなければ」
アルノルト殿下の問題は私たちにはあまり関係ない。もう私と彼の道は別れてしまったのだから。これまで私たちが散々悩んできたことに今更直面するんだ。存分に悩んでもらいたいものね。
私は私を見続けて、寄り添ってくれて、力になってくれたフェデリコと共に歩んでいく。お互いに至らない部分は補って、困れば相談して、困難を乗り越えていく。それはとても素敵なことだと思う。
「行こうか、ユーディット」
「ええ、フェデリコ」
これからも私たちは分相応の道を歩んでいく。
◆◆◆
あの王座の間での騒動から、幾年もの月日が流れた。
私とフェデリコの間には幸いにも何人もの子宝に恵まれた。長男は人見知りな性分ながらも、私たちのいいところを吸収してすくすくと育っている。
臣籍降下の話は結局代替わりしたアルノルト陛下に真の世継ぎが生まれるまで先延ばしにされ続けたけれど、私たちはそれを苦にすることなく、王宮での穏やかな日々を積み重ねていった。
一方のアルノルト陛下は、というと。
風の噂で聞く限り、聖女コルネリア――いえ、今は王妃コルネリア様との関係は、あの一件の後、少しずつ変わっていったらしい。まるで手引書をなぞるようだったアルノルト陛下の接し方があの日を境に急にぎこちないものに変わったのだという。
「陛下がわざわざ王妃様の執務室に足を運ばれたそうよ。書類仕事の合間に、お茶を一緒にどうか、と」
「まあ、あのアルノルト陛下が? 信じられませんね」
社交界でそんな噂話を耳にするたび、私は複雑な気持ちになった。あの合理性の塊のような方が、不慣れながらも誰かに歩み寄ろうとしている……。それはかつて彼に認められようと必死にもがいていた私にとっては想像もつかない変化だった。
最初の子は、案の定「神の子」だった。輝くばかりの銀髪と、聖女譲りの神々しいまでの気品を持つ王女は、生まれながらにして人々を魅了したという。二人目、三人目も同様だった。そのたびにアルノルト陛下は、魔道具で血の繋がりを確かめては、静かに肩を落としたそうだ。
それでも、陛下は諦めなかった。
「陛下は、毎晩必ず王妃様の元へ通われているのですって。政務がどれほど立て込んでいても」
「今更ながら、必死なのですね」
「必死、というより……何と言えばいいのかしら。あれはきっと、本当に王妃様を大切に想っていらっしゃるのだと思うわ」
そんな話を耳にするようになったのは、三人目の王女が生まれてからしばらく経った頃だった。私やフェデリコが無理だと思っていたアルノルト陛下の変化は鈍足ながらも着実に進んでいったのだった。
◆◆◆
四人目の懐妊が発表された時、王宮中がざわついた。またあの「神の子」が生まれるのか、と誰もが思っていた。……何を隠そう、私だって。
けれど、生まれてくる第四王女を検めた魔道具は、これまでとは違う反応を示したという。
「まさか……本当に、陛下の御子だと……?」
その報せが王宮を駆け巡った時の騒然とした様子を、私は今でもよく覚えている。フェデリコと共に祝いの席に招かれた時、私は初めて、アルノルト陛下があんな顔をするのだと知った。
いつも通り整然とした表情の下に隠しきれない、震えるほどの喜び。生まれたばかりの王女を抱く彼の腕は、これまで見てきたどんな執務の場面よりもぎこちなく、そして誰よりも優しかった。
「コルネリア……私は、私は今、心から嬉しいと思っている。これが、愛おしいという感情なのだな」
「ええ、アルノルト様。ようやく、分かってくださったのですね」
伝え聞いた話によれば、王妃コルネリア様はその時、涙を流しながら微笑んでいらしたという。聖女として、聖母として生きてきたコルネリア様はようやく、本当の意味で家族を得たのだから。
長年の遠回りの果てに、ようやく辿り着いた幸福がそこにはあった。
◆◆◆
しかし、幸福な時間はそう長くは続かなかった。
第四王女の誕生から数年、アルノルト陛下の体調が急激に悪化した、との報せが届いたのは、ちょうど息子が剣術の稽古を始めた頃だった。
「陛下が、床に伏せられたと……?」
「ええ。長年の激務が祟ったのでしょう。医師の見立てでは、もう長くはないだろう、と」
その報せを聞いた時、私は複雑な感情に襲われた。もう関わりのない相手だと思っていたはずなのに、胸の奥がざわつくのを止められなかった。フェデリコも同じ気持ちだったのだろう、しばらく黙り込んだ後、静かに言った。
「見舞いに、行くか」
「……ええ。行きましょう」
王宮の奥、陛下の寝室へと案内された私たちを待っていたのは、思っていたよりもずっとやつれた姿だった。かつて誰よりも威厳に満ち、隙のなかったあのアルノルト殿下が、寝台の上でやせ細り、荒い息を繰り返している。傍らには王妃コルネリア様が、そして幼い四人の王女たちが、それぞれ不安げな顔で寄り添っていた。
「陛下……」
フェデリコが声をかけると、アルノルト陛下はゆっくりと瞼を開けた。かつての自信と英知に満ち溢れた鋭さはそこになく、ただ穏やかな……そして、どこか安堵したような眼差しがそこにあった。
「フェデリコ、か……。それに、ユーディットも、来てくれたのだな」
「……はい、殿下」
久しぶりに臣下としてではなく交わす言葉に、私は思わず昔の呼び方をしてしまった。慌てて訂正しかけるも、陛下は小さく笑い、それから、ゆっくりと、けれどはっきりとした声で言葉を紡ぎ始めた。
「ユーディット……。今更、都合のいい話だとは、分かっている。それでも、どうしても、伝えておきたかった」
「陛下……」
「私はユーディットに酷いことをした。お前がどれほど懸命に、私に応えようとしてくれていたか……正しく受け取ることが出来なかった。ただ結果と数値だけで判断し、お前の心を蔑ろにしてしまった……」
声は弱々しかったが、その一言一言には、これまで彼から聞いたことのないような、確かな重みがあった。
「私は愛という感情をずっと理解していなかった。効率と成果だけ、私にとっての全てだった。だからお前の努力も、お前の想いも……評価に値しない些事だとして、お前を悲しませ続けてきた」
「……」
「コルネリアと出会い、この子たちが生まれ……ようやく、私は知った。誰かを想うということが、どういうことなのか。そして、それを知った今だからこそ、分かる。私がお前に対してどれほど残酷であったか、を」
寝台の傍らで王妃コルネリア様が静かに目を伏せた。幼い王女たちも何かを察したのか、静まり返っている。
「あまりにも遅すぎた。そしてユーディットにとってはもはや無意味だろう」
「陛下、そのようなお言葉は……」
「だが、どうか聞いてくれ、ユーディット。これが……私の最後の我儘だ」
アルノルト陛下は、震える手を私の方へと伸ばした。フェデリコが一瞬身構えたが、私はそっとその手を取った。かつて、書類を突き返すたびに見てきたその手は、今はあまりにも弱々しく、そして温かかった。
「すまなかった。お前の努力を、お前の心を、正しく見てやることが出来なくて、本当に、すまなかった」
「……」
込み上げてくるものを堪えるように、私は唇を噛んだ。長年の間、胸の奥に残っていた若い頃の無念が、その一言でゆっくりと消えていくのを感じた。今、この瞬間、私がアルノルト陛下と過ごした時間が決して無駄ではなく、報われた思いだ。
「アルノルト殿下……。私はもう、幸せです。フェデリコと出会い、愛する家族を得て、今の私は誰よりも満たされております。ですから……」
私は一度言葉を切る。フェデリコが背中にそっと手を添えてくれる。その温もりに背中を押されるように私は続ける。
「どうか、もう、ご自分を責めないでください。殿下が本当の意味で愛を知ることが出来たのは、コルネリア様とこの可愛らしい姫様方のおかげでございます。それは、何よりも尊いことです」
「……ユーディット」
「殿下が最後に辿り着いた場所が幸せであったこと。それだけで……私にとっては充分でございます」
アルノルト陛下は、しばらくの間、何かを噛み締めるように目を閉じていた。それから、かすかに――本当に、かすかにだったけれど――笑みを浮かべたのが分かった。
「ありがとう、ユーディット。そして……フェデリコ、コルネリアを、子どもたちを、頼む」
「陛下……いえ、兄上。分かった。任せてくれ」
その日から幾日も経たずに、アルノルト陛下は静かに息を引き取られた。公式発表では病によるものとされたが、その裏で囁かれた不名誉な噂の数々は、真実を知る私たちにとっては、あまりにも見当違いなものだった。
葬儀の日、王妃コルネリア様は気丈に振る舞いながらも、その瞳には深い悲しみが宿っていた。上の三人の王女たちはアルノルト陛下から実の娘として愛されていたため、幼いながらも大切な人の喪失に嘆き悲しんだ。第四王女もまた、まだ赤子ながらも、何か大切なものを失ったことを理解しているようだった。
「陛下は……最後に笑っていらしたわ。後悔がなくなってもう悔いは無い、ですって」
葬儀の後、私にそっと囁いた王妃コルネリア様の言葉を、私は今でも忘れられずにいる。
◆◆◆
程なく、アルノルト陛下が身罷られた。
王位継承権は真の世継ぎが生まれたことで第四王女が第一位になって、フェデリコはお役御免……にはならなかった。聖女が関係する王位継承権をどう臣下や市民に説明するかがとても難しく、事実上公表を棚上げしていたからだ。
とはいえ、アルノルト陛下の崩御とあってはもはや先延ばしに出来ない。先王のお言葉どおりこのままフェデリコが王になるか、幼子の第四王女を王座に据えるか、もう血筋など関係なしに第一王女が王冠を被るか。
しかし、私はおろか、フェデリコもコルネリア様も、それ自体は特に問題視していなかった。
「じゃあ、次の王は第一王女殿下ということで」
「異議ありません」
「それでいいの? 先王陛下のご命令を無視することになるけれど」
「第一王女殿下って本当に兄上の娘じゃないの? あれだけ優秀だと兄上を彷彿とさせるんだけれど」
そう、なんと第一王女殿下はアルノルト陛下と本当に血が繋がっていないのかと疑いたくなるぐらいに、あの方の才能を色濃く受け継いでいる。幼い頃から書物を諳んじ、政務の要点を瞬く間に見抜くその聡明さは、まさしくかつての「完璧超人」を彷彿とさせた。
聖女の事情を知らない臣下や市民は次の世代も王国は安泰だ、と喜ぶばかりだった。アルノルト陛下は存命時によく苦笑いしていたのを覚えている。
ただ、第一王女殿下が「大きくなったらお父様みたいに立派な王様になる!」と満面の笑顔で言った際、アルノルト陛下は微笑みながら優しく彼女の頭を撫でていた。
能力的には、まだ幼いながらも、第一王女殿下が次の王になるのはそう問題無い。そんな優秀な第一王女陛下でも、血統に限るなら王位を継ぐのはほぼ無理だ。一応コルネリア様ご自身もご実家の侯爵家が王家の血を継いでなくもないのだけれど、王家の血の濃さで言うならフェデリコに軍配は上がる。
ただ、こと第一王女殿下に限っては事情が異なった。
「じゃあ、第一王女殿下の王位継承と同時にうちの息子が王配になるってことで」
アルノルト陛下の家族と私たちの家族は同じ王宮で過ごしているうちに大きな家族のようになっていった。自然と王女殿下方とうちの息子たちは姉弟のようになったのだけれど、そのうち第一王女殿下とうちの長男はとても距離が近かった。
「また小試験の点数で負けたぁ! でも、次は絶対に超えてやるんだから!」
そう言って唇を尖らせる息子の姿は、どこか懐かしい既視感を私に抱かせた。かつてアルノルト殿下に追いつこうと必死にもがいていた自分自身の姿と、重なって見えたからでしょう。
けれど、第一王女殿下とアルノルト殿下には決定的な違いがあった。
第一王女殿下は決して息子を見下さない。むしろ、負けず嫌いな彼を面白がるように、時には手加減をし、時には真剣に競い合う。二人が並んで庭園を歩く姿を見かけるたび、私はその微笑ましさに、思わず頬が緩んでしまったものだ。
彼が実の娘のように育てた子と私の息子が対等な立場でお互いを尊重し合い、切磋琢磨している。その様子はまるで、私たちが果たせなかった何かを次の世代が代わりに紡いでくれているようで、胸の奥が温かくなった。
「二人とも相手とは腐れ縁だと主張するけれど、もうお互いを姉弟以上に気にしているのは明らかでしょう」
「まったくだ。あの二人、絶対にお互いを憎からず思ってるどころかむしろ好きだろ」
「フェデリコ、あまりからかってはいけませんよ。まだあの年齢の子どもたちには早い話です」
「分かってるって。でも、いつかまた別の形で家族になったりしてな」
「んもう」
そんなわけで、うちの息子が王配になるのなら王家の血筋として問題は無くなる。あとは聖女の真実はこれまでどおり大事にせず、密かに言い伝えていけばいい。愛が問題になった時、再び神の試練として浮上してくるでしょうから。
「納得するでしょうか? あの子ったら第一王女殿下をかなり意識しているけれど、全然素直じゃないから、断ってしまうかも……」
「そこは俺が息子ときちんと話し合うから大丈夫。素直にならなきゃ一生後悔するぞって言い聞かせておくから」
「第一王女殿下の方は? 実はあの子を弟のようにしか思っていなかったら……」
「それは大丈夫じゃないかしら。ずっと添い遂げる相手としては彼以外考えられないって言ってたから」
「なら決まりだな。万事解決だ」
との身内だけの秘密会議を経て、第一王女殿下が女王陛下になり、同時にうちの長男が王配殿下になった。
幼い女王陛下では心もとない、との意見は彼女の父と母譲りの明晰な頭脳がすぐに黙らせた。そこに王配殿下がまだ小さな女王陛下の腕に収まりきらない面倒事や問題を収集して整理、女王陛下とともにあっという間に解決に導いていった。
最初のうちこそコルネリア様やフェデリコ様も手伝ったものの、次第に若い両陛下に任せるようになった。やがて二人とも自分たちにしか出来ない義務と職務と従事するようになって、国の行く末は新しい世代に引き継がれていったのだった。
そんな立派な息子たちの様子は……誇らしくもあり、羨ましくもあった。
私とアルノルト陛下では果たせなかった理想が、目の前には広がっていた。
◆◆◆
夜、寝室の窓辺で、私は久しぶりに古い日記帳を開いた。婚約破棄を告げられたあの日から、フェデリコと歩み始めた日々、そしてアルノルト殿下の最期の言葉まで……。そのどれもが、色褪せることなくそこに記されている。
「何を読んでいるんだ?」
「昔の日記です。振り返ると、本当にいろいろなことがありました」
「ああ、本当にな。よくもまあ、あんな堅苦しい兄上に耐えていたと思うよ」
「今となっては、感謝すべきことなのかもしれません。あの日々があったからこそ、フェデリコとこうして添い遂げられたのですから」
フェデリコは少し照れたように笑い、私の隣に腰を下ろす。
窓の外には、満天の星空が広がっている。あの日、婚約破棄を告げられて涙を流していた中庭の噴水も、今は静かに月明かりを映しているのでしょう。
「もし、私が聖女だったなら、あの方から……」
ふと、そんな詮無いことが頭をよぎった。けれど、すぐに首を振る。
もしもを語るのは建設的ではない。ありえなかった可能性のひとつに過ぎない。私はフェデリコと共に歩み、愛し合う道を選んだ。それに、一片の悔いもなく、心から幸せだ。
「どうした?」
「いいえ、何でもありません。ただ――」
私は日記帳にしおりを挟んでから閉じ、フェデリコの肩に寄りかかった。
彼の温もりがいつも通りに私を包んでくれる。
「私は今がとても幸せだということを、改めて実感していただけです」
「そうか。ならこれからもっと幸せを実感していこうじゃないか」
彼はそう言って、私の頭にそっと口づけを落とした。
分不相応だと、自分を卑下していた日々があった。誰かに求められるがまま、完璧であろうと背伸びを続けた日々もあった。けれど、今の私には、もう誰かと比べる必要も、誰かに認められるために無理を重ねる必要もない。
ただ、隣にいる人と、共に笑い、共に悩み、共に年を重ねていく。
それこそが、私にとって何よりの、それこそ分相応の幸せなんだ。
次を任せた子どもたちにはお互いを尊重し合い、思いやり合ってほしい。そう願いながら、私はフェデリコと共に、これからも変わらぬ日々を歩んでいく。
合理主義で愛など要らぬな王太子が最終的に愛を得られずざまあされる、みたいなプロットから執筆開始したのですが、推敲してたら悔い改める結末に変わってました。
ご意見、ご感想お待ちしています。




