心の声が聞こえる冷酷公爵様、私の脳内(深夜アニメの実況)を受信して毎晩寝不足になる
「君を愛するつもりはない。これは単なる政略結婚であり、互いの利益のためだけの契約だ。貴族の妻としての最低限の体裁さえ保ってくれれば、あとは好きにしろ。ただし、私の私生活には一切干渉するな」
王都の北に広がる広大な領地を治める『氷の公爵』こと、ユリウス・フォン・クライス。
氷河のように冷ややかな銀髪と、全てを見透かすような切れ長の蒼い瞳を持つ彼は、初対面であるはずの妻――私、リーゼロッテ・フォン・アルベルトに向かって、開口一番にそう言い放った。
豪奢だがどこか冷たい空気が漂う公爵邸の応接室。彼から放たれる絶対零度の威圧感に、普通の令嬢であれば泣き出してしまうか、絶望に青ざめる場面だろう。
「……承知いたしました、旦那様。私も、貴族の義務としてこの結婚を受け入れたまで。奥向きの仕事はきっちりとこなしますので、どうぞご安心くださいませ。お互い、干渉せずに平穏な日々を送りましょう」
私は完璧な淑女の笑みを浮かべ、優雅にカーテシー(挨拶)を返した。
ユリウスは私が反発も悲嘆もしないことにわずかに眉を動かしたが、すぐに興味を失ったように背を向けた。
「君の部屋は西翼に用意してある。私の部屋は東翼だ。用事がある時は執事を通せ。……ではな」
足早に立ち去る彼の広い背中を見送りながら、私は内心でガッツポーズを決めていた。
(よっしゃああああっ!! 『愛さない宣言』キターーー!! これで私の自由で優雅な引きこもりオタクライフが確約されたも同然!!)
淑女の仮面の下で、私は歓喜のダンスを踊っていた。
私、リーゼロッテには秘密がある。
私はこの世界アルカディア王国に生きる公爵令嬢であるが、同時に、前世は『日本』という国でしがないOLをしていた生粋のオタク女なのだ。
過労と睡眠不足で倒れ、気がつけばこのファンタジー世界に転生していた私は、今世でこそ「絶対に働かない」「他人の感情に振り回されない」「自分の趣味だけを謳歌する」と固く心に誓っていた。
とはいえ、貴族の娘に生まれたからには政略結婚は避けられない。
運良く(?)相手は『氷の公爵』と呼ばれる冷徹な仕事人間。女性嫌いで有名であり、彼の方から「愛さない」「干渉しない」と言ってくれたのは、私にとって奇跡のような僥倖だった。
私の趣味。それは前世の記憶を頼りにした『脳内アニメ鑑賞』である。
転生特典なのか何なのか、私の脳内には前世で見たアニメ、漫画、映画などの記憶が、完全な映像と音声データとして保存されているのだ。目を閉じて集中すれば、頭の中でいつでも好きなアニメを再生できる。
もちろん、一人きりの空間でなければ集中できないし、顔がニヤけてしまうので人前では絶対にできない。
「西翼の奥の部屋ですね。素晴らしいわ、誰の邪魔も入らない最高の視聴環境ですわ!」
私は案内された自分の部屋に入るなり、重厚な扉の鍵をしっかりと掛けた。
ふかふかの天蓋付きベッドにダイブし、クッションを抱きしめる。
「ふふふ……今日は公爵邸への長旅で疲れましたし、初日の夜ですからね。景気付けに、前世で一番好きだった熱血ロボットアニメ『機動装甲ヴァルキリオン』の第一期、全二十四話を脳内一挙放送といきましょう!」
私はニヤニヤと笑いながら、ベッドの上でリラックスした体勢を整え、そっと目を閉じた。
そして、脳内の再生ボタンをポチッと押す。
『――西暦20XX年。人類は未知の地球外生命体から攻撃を受けていた……!』
脳内に響き渡る重厚なナレーション。そして始まる、熱いオープニングテーマ!
(キターーー! このイントロ! やっぱヴァルキリオンのOPは神曲よね! テンション上がるぅぅ!)
私の意識は完全に前世の深夜アニメの世界へと没入し、一人きりの熱狂的な上映会が幕を開けたのである。
*****
一方その頃。
公爵邸の東翼、ユリウス・フォン・クライスの私室にて。
ユリウスは執務机に座り、書類にサインをしながら、深く重いため息を吐き出していた。
「……鬱陶しい」
彼の蒼い瞳には、深い疲労と人間に対する嫌悪の色が濃く滲んでいた。
ユリウスには、誰にも言えない秘密がある。
それは、他人の『心の声』が聞こえるという、呪いのような能力だった。
物心ついた時から、彼の耳には周囲の人間たちの醜い欲望や嫉妬、計算高い本音が絶え間なく流れ込んできた。
『あのガキに取り入れば公爵家の財産が』
『笑止。あんな氷のように冷たいだけの男のどこが良いのか』
『私を愛して! そして私に権力を頂戴!』
表面上は恭しく彼を敬い、愛を囁く者たちも、心の中ではどす黒い欲望を抱えている。その醜悪なギャップに幼い頃から晒され続けた結果、ユリウスは極度の人間不信に陥り、他者との関わりを極力避ける『氷の公爵』となったのだ。
「あのリーゼロッテという女も、どうせ同じだ」
ユリウスは冷たい紅茶を一口飲み、視線を西翼の方角へと向けた。
政略結婚の相手としてアルベルト家から送り込まれた令嬢。顔合わせの時、彼女は「干渉せずに平穏な日々を送りましょう」と微笑んでいた。
だが、そんな言葉を真に受けるユリウスではない。
(表面上は従順を装いながら、裏では実家と結託して我が家の財産を狙っているか、あるいは私に取り入って公爵夫人としての権力を振るおうと画策しているに決まっている。……確認しておく必要があるな)
彼はこれまで、自分の領域に他人が入ることを徹底して拒んできた。しかし、妻となれば同じ屋敷に住むことになる。彼女がどんな陰謀を巡らせているのか、早めに本性を暴き、牽制しておかなければならない。
ユリウスは能力を使うため、精神を研ぎ澄ませた。
西翼の奥、リーゼロッテの部屋へと意識のチャンネルを合わせる。距離は離れているが、ユリウスの強力な能力であれば、特定の人物の心の声を拾うことは可能だった。
(さあ、何を考えている? 旦那をどう籠絡するか? それとも、冷遇されたことへの恨み言か……?)
ユリウスが身構え、彼女の精神に波長を合わせた、その瞬間。
『ジャジャジャジャーン!! ギュイィィィン!!』
「……っ!?」
突如として、ユリウスの脳内に聞いたこともない大音量の『音楽』が鳴り響いた。
弦楽器でも管楽器でもない、雷のように激しく、しかし規則的なメロディ(前世におけるエレキギターの音である)と、ドスドスと腹に響く謎の打楽器の音。
(な、なんだこれは!? 何が起きている!?)
ユリウスが混乱していると、音楽に重なるように、熱血漢らしき男の野太い歌声が聞こえてきた。
『燃え上がれぇぇ! 鋼の魂ぃぃ! ヴァルキリオン、出撃だぁぁぁっ!!』
(は……? はがねのたましい? ヴァルキリオン? い、出撃?)
訳が分からず硬直するユリウスの脳に、今度は聞き慣れた、しかし初対面の時とは全く違うテンションの『妻の声』が直接叩き込まれた。
『キャアアアアッ! 主人公のレイジ君カッコいいいいい!! この第一話の作画、何度見ても神がかってるわ! 監督の本気がビンビン伝わってくる!!』
(リーゼロッテ!? お前、心の中で何を叫んで……!? 作画? 監督? 何の暗号だ!?)
ユリウスの混乱をよそに、リーゼロッテの脳内上映会は止まらない。
ユリウスは今、リーゼロッテの心(脳内)を読み取っているため、彼女が思い描いている『映像』すらも、ある程度イメージとして共有してしまっていた。
『敵の機動兵器キター! うわっ、ここでレイジ君の幼馴染がピンチに!』
『「やめろぉぉぉっ!!」』
『レイジ君の叫びからの、ヴァルキリオン起動シーン! ここ! この目のカメラアイが「グポォン」って光る演出が最高に鳥肌ものなのよ!!』
『「俺の、俺のヴァルキリオンが……動くのか!?」』
『動け、動け、動いてよぉぉぉ!!』
(……え? え? なんだこれは。鋼鉄の巨人が……動いている? 人が中に乗っているのか!? いや、それよりもリーゼロッテ、君は一体何を興奮しているんだ!?)
ユリウスはかつてない衝撃に目を見開いたまま、執務机の椅子に背中を預けてフリーズしていた。
これまで彼が聞いてきた「心の声」は、金への執着、権力への渇望、嫉妬、憎悪といった、生々しくドロドロとした人間の醜い感情ばかりだった。
だが、今彼に流れ込んでくるリーゼロッテの心はどうだ。
一切の悪意がない。
ただひたすらに、純粋に、謎の『鋼鉄の巨人』が戦う光景に熱狂し、見知らぬ少年(レイジ君)の安否を案じ、時には「作画」や「演出」といった全く意味不明な言葉で感極まって泣きそうになっている。
(……陰謀でも、私への恨みでもない。ただ、謎の幻影を見て興奮しているだけ……?)
あまりにも予想外すぎる精神状態に、ユリウスは読心を打ち切るタイミングを完全に見失っていた。
『いっけぇぇぇ!! ビーム・キャリバーァァァァッ!!』
『「うおおおおおっ!!」』
『ズバァァァン!! 爆発ドカーーーン!! ふぅぅぅ……! 第一話終了!! エンディングテーマへの入り方も完璧!! さあ、次! 次はライバルのゼクスが登場する第二話よ!! 止まらないわ!!』
(だ、第二話だと……? まだ続くのか……?)
ユリウスは額に冷や汗をかきながら、呼吸を整えた。
普通ならここで読心を切るべきだ。他人の妄想に付き合う義理などない。彼には明日も領地経営の重要な会議が控えているのだから。
しかし。
(……レイジという少年が乗るヴァルキリオン。圧倒的な力を持っていたが、ゼクスというライバルが現れると言ったな。……鋼鉄の巨人同士の戦い。魔法を使わず、あのような複雑な機巧で動く兵器……少し、興味深いな)
気づけばユリウスは、リーゼロッテの脳内で繰り広げられる未知の物語の続きが、気になって気になって仕方がなくなっていた。
彼の中に眠っていた、少年のような純粋な好奇心が刺激されてしまったのだ。
(い、いや、私はただ、彼女の精神が狂っていないか、あるいはこれが特殊な暗号通信ではないかを確認するために聞いているのだ。決して、鋼鉄の巨人の続きが見たいわけではない!)
己にそう言い訳をしながら、ユリウスはさらに深く、リーゼロッテの精神へと意識を沈めていった。
『ゼクス様キターーー!! 金髪仮面! 典型的だけどそれがいいのよ! 「見せてもらおうか、連邦の新型の性能とやらを!」 キャーーッ! 悪役なのにイケボォォォ!!』
『「なにっ、速い!?」』
『ここでレイジ君が圧倒されるのよね! ヴァルキリオンの性能は上なのに、パイロットの技量で差を見せつけられる! 燃える展開!!』
(なるほど、性能差を技術で埋めるか。あの金髪仮面の男、ゼクスと言ったか……見事な戦術眼だ。私ならば右翼から回り込むが……そこから蹴りを入れるとは。大胆な動きだ)
ユリウスは執務机の上で腕を組み、完全に『機動装甲ヴァルキリオン』の戦闘シーンの考察を始めていた。
リーゼロッテの的確な(オタク特有の)実況と解説が、初見のユリウスにも物語の状況を分かりやすく伝えてくれるため、彼は驚くほどすんなりとアニメの世界観に没入してしまったのだ。
『第三話! ここで新ヒロインの登場よ!』
『第四話! 補給物資を狙った敵の罠!』
『第五話! 仲間との対立、そして和解! 熱いわ! 涙なしには見られない!!』
(……ほう。ただの戦闘記録かと思えば、人間模様も複雑に絡み合っているのだな。レイジも最初は甘かったが、徐々に戦士としての顔つきになってきた。……素晴らしい成長だ)
時間は深夜を過ぎ、草木も眠る丑三つ時。
冷酷無比な氷の公爵様は、まさかの『深夜アニメの一挙放送(脳内)』に完全に取り込まれ、一睡もせずに妻の心の声を受信し続けていた。
*****
「ふわぁぁぁ……よく寝たわぁ」
翌朝。
西翼の自室で目を覚ました私は、大きな伸びをして体をほぐした。
「昨日の夜は結局、十二話までぶっ続けで脳内再生しちゃったわね。第一クールの区切りまで見ちゃったから、途中でやめられなかったのよね。でも、やっぱり名作は何回見ても面白いわ!」
私はご機嫌な気分のままメイドに身支度を整えてもらい、朝食をとるためにダイニングへと向かった。
公爵邸の朝食は、夫婦揃ってとるのが建前らしい。面倒だが、そこは貴族の義務として割り切るしかない。
「おはようございます、旦那様」
ダイニングに到着し、私は優雅にお辞儀をした。
長いテーブルの反対側に座っていたユリウスが、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「……おはよう」
「えっ」
私は思わず淑女の仮面を剥がしそうになり、目を見開いた。
昨日、顔合わせの時に見たユリウスは、氷のように冷たく、一切の隙がない完璧な美丈夫だった。
しかし今、目の前にいる彼は……。
(め、目の下にものすごいクマができてる!? しかも、なんだか髪も少しボサボサだし、目が血走ってる……!? 一体どうしたの!? 徹夜で領地の仕事でもしてたの!?)
「だ、旦那様……お顔の色が優れないようですが、ご体調でも崩されましたか……?」
私が恐る恐る尋ねると、ユリウスはビクッと肩を震わせ、手で顔を覆った。
「……何でもない。ただの、睡眠不足だ」
(やっぱり過労!? 氷の公爵って言われてるけど、実は超絶ブラック労働環境なの!?)
私が心の中でそう同情していると、ユリウスは覆った手の隙間から、血走った蒼い瞳で私をジッと見つめてきた。
「……リーゼロッテ」
「は、はい」
「君は……昨夜、よく眠れたか?」
(え? なんでそんなこと聞くの? まさか、私が部屋で一人でテンション上がって起きてたのバレてる? いやいや、声には出してないしバレるはずがないわ)
「ええ、とてもよく眠れましたわ。公爵邸のベッドはとても心地よく、朝までぐっすりと」
私がにっこりと完璧な嘘をついて微笑むと、ユリウスはギリッと奥歯を噛み締めるような音を立て、視線を逸らした。
「……そうか。それは良かった。君が『途中でやめられなかった』せいで、私は地獄を見たというのに……」
「え? 今何か仰いましたか?」
「いや、何でもない。食事にしよう」
ユリウスは手元のコーヒー(普段は飲まないほどブラックで濃いものらしい)を一気に飲み干すと、無言でトーストをかじり始めた。
彼の頭の中では、昨夜の第十二話のラストシーン――主人公レイジが敵の巨大要塞に特攻をかける直前で「続く!」となった、あのクリフハンガー展開が頭をグルグルと回っていた。
(あの後レイジはどうなる!? 要塞の主砲が発射される寸前だったぞ! シールドは保つのか!? なぜ君は、あんな絶体絶命のいいところで急に「続きは明日の夜!」などと心の中で叫んで、一人で安眠しやがったのだ!!)
ユリウスの心の中は、続きが気になりすぎて発狂しそうなアニメオタクと全く同じ状態に陥っていた。
しかし、彼が「心の声が聞こえる」などと妻に言えるはずもない。もし言えば、彼女の警戒心を煽るだけでなく、「自分はあなたの妄想する鋼鉄の巨人の続きが見たい」という、公爵としての威厳を完全に破壊する事実を告白することになるからだ。
(……耐えるしかない。今夜、彼女が再びあの『妄想』を始めるまで、私は平静を装わなければならないのだ……!)
冷酷な公爵は、手元のナイフとフォークを震える手で握りしめた。
一方の私は、彼のそんな葛藤など微塵も知る由もなく、優雅にサラダを口に運んでいた。
(それにしても、旦那様ったら本当に人が悪いわ。愛さないって言いながら、働きすぎじゃない? 今夜は彼がゆっくり休めるように、私は私でひっそりとオタク活動に勤しむとしましょう。よし、今夜は第十三話から第二期の最後まで完走するわよ!)
私の脳内で宣言されたその『予定』を、ユリウスの能力がしっかりと拾い上げていた。
(第二期の最後まで……だと!?)
ユリウスの顔面が蒼白になる。
(第十三話から第二十四話まで……時間にしてどれくらいだ? 昨夜のペースでいけば、間違いなくまた朝までかかる。いや、しかしレイジの安否と、あの金髪仮面の正体は絶対に知っておかなければ……っ!)
冷血公爵の、知られざる受難(とオタクへの道)は、まだ始まったばかりであった。
*****
朝食を終えた後、ユリウスはフラフラとした足取りで執務室へと向かった。
公爵家の当主としての仕事は山積みだ。領内の税収の確認、隣接する領地との境界問題、王宮から回されてくる法案の精査。普段のユリウスであれば、これら膨大な書類の山を、精密機械のような正確さと速度で午前中のうちに片付けてしまう。
しかし、今日の彼は違った。
「……閣下。ユリウス閣下。こちらの書類にサインをお願いいたします」
「……あ、ああ。すまない」
腹心の部下であり、公爵家の筆頭騎士でもある側近のクラウスに声をかけられ、ユリウスはハッと我に返った。
手元の羽ペンからはインクがポタポタと滴り、真っ白な羊皮紙に黒いシミを作ってしまっている。完璧主義の彼にとってはあり得ないミスだった。
「閣下、ご体調が優れないのではありませんか? 顔色も青ざめておられますし、何より……その、目の下の隈が。まるで一睡もされていないかのような……」
「気にするな。少し、考え事をしていただけだ」
ユリウスは新しい羊皮紙を取り出し、素早くサインをした。
だが、その頭の中は領地の問題などではなく、全く別のことで占められていた。
(レイジの乗るヴァルキリオンは、メインジェネレーターの出力が限界を迎えていたはずだ。あの状態で要塞の主砲をどうやって防ぐ? シールドのエネルギーはすでに枯渇している。回避するにしても、質量が大きすぎる。……まさか、装甲をパージして軽量化を図るのか? いや、それでは次の戦闘に支障が……)
真剣な顔つきで唸る公爵を見て、クラウスはゴクリと唾を呑み込んだ。
「……閣下。もしや、隣国で何か不穏な動きでも? 閣下がそこまで深く思案されるほどの、未知の脅威が迫っているのですか?」
有能な騎士であるクラウスの問いに、ユリウスはピクリと眉を動かした。
そして、無意識のうちに、頭の中を占めている疑問を口にしてしまった。
「……クラウス。一つ聞きたい。もし、全高二十メートルを超える鋼鉄の巨人が、我々の領地に攻めてきたらどう対処する?」
「は……? こ、鋼鉄の、巨人……ですか?」
突然の奇想天外な問いに、クラウスは目を丸くした。
「そうだ。魔法で動くゴーレムなどではない。内部に人間が搭乗し、複雑な機巧と未知のエネルギーで駆動する兵器だ。空を飛び、手には光の剣を持っている。我々の誇る騎士団は、これにどう立ち向かう?」
「そ、それは……」
クラウスは冷や汗を流した。
主君であるユリウスは、決して冗談を言うような男ではない。つまりこれは、どこかの国が秘密裏に開発した新兵器の情報を掴み、それに対する戦術を自分に試しているのだと解釈した。
「……まずは、魔法部隊による一斉掃射で牽制します。しかし、光の剣を持つほどの技術力があるならば、魔法障壁も備えていると想定すべきでしょう。ならば、飛行能力を封じるために、足元や推進機関のジョイント部分などの物理的な脆い箇所を、少数精鋭の部隊で集中攻撃するしか……」
「甘いな」
「っ!」
「相手には『熱狂的な意思』がある。搭乗者の感情と機体がリンクし、絶体絶命の危機において通常の三倍以上の出力を発揮するシステム(※主人公補正のこと)が搭載されていると考えるべきだ。小細工は通用しない。圧倒的な火力で一気に沈めるしかないのだ」
ユリウスは机を拳で叩き、熱を込めて語った。
クラウスは顔面を蒼白にさせ、「さ、三倍の出力……! 感情とリンクする兵器……! なんという恐ろしい技術だ……直ちに騎士団に警戒レベルの引き上げと、対巨大兵器用戦術の策定を命じます!!」と叫び、執務室から飛び出していってしまった。
「あ、おい、クラウス! 待て!」
ユリウスは慌てて引き留めようとしたが、時すでに遅し。
部屋に一人取り残された彼は、深く、深い深呼吸をしてから、両手で顔を覆った。
「私はいったい、何をやっているんだ……」
妻の脳内に響く架空の物語に毒され、現実の騎士団に存在しない巨大ロボットへの対策を命じてしまうなど、狂気の沙汰である。
だが、あの『ヴァルキリオン』という物語には、それほどまでに人を(少なくともユリウスを)惹きつける不思議な魔力があった。
最初はただの監視目的だった。妻が何を企んでいるか探るためだった。
しかし、リーゼロッテの脳内に広がる映像は、圧倒的な緻密さと熱量を持っていた。国家間の複雑な政治的思惑。兵士たちの葛藤。愛する者を守るために戦火に身を投じる若者たちのドラマ。
それは、日々醜い権力闘争の裏側ばかりを見せられてきたユリウスにとって、ひどく眩しく、そして胸を熱くさせる『英雄譚』そのものだったのだ。
「……今夜だ」
ユリウスは時計を見つめ、呟いた。
「今夜、第十三話が始まる。私はあの物語の結末を、しかと見届けねばならない」
もはや、妻の監視という大義名分はどこかへ消え去っていた。
彼はただ純粋に、次の放送(読心)を心待ちにする一人の熱狂的なファンと化していた。ユリウスは夜に備えて、いつもなら絶対に飲まないような強壮剤入りの特濃コーヒーをメイドに命じ、執務を強引なスピードで片付け始めた。
*****
そして、夜。
公爵邸に静寂が訪れた頃。
「ふふふ……お風呂にも入ったし、ストレッチもしたし。完璧なコンディションね」
西翼の自室。私は最高級のシルクのナイトガウンに身を包み、ふかふかのベッドにダイブした。
政略結婚の初日こそ緊張したが、旦那様であるユリウス様は宣言通り私に全く干渉してこない。昼間、庭園ですれ違った時も、彼は酷く険しい顔で何やらぶつぶつと呟いており(「やはり装甲パージか……」とか聞こえた気がするが気のせいだろう)、私には一瞥をくれただけだった。
本当に素晴らしい環境だ。これなら、誰にも邪魔されずにオタクライフを満喫できる。
「さて! 昨日の続き、ヴァルキリオン第十三話から再生開始よ! 主人公のレイジ君の生死やいかに!?」
私はウキウキと目を閉じ、脳内再生ボタンを力強く押した。
『――君は、生き延びることができるか』
お馴染みのナレーションからの、緊迫したアバンタイトル。
私は完全に意識をアニメの世界へとダイブさせた。
――一方、東翼の私室。
ユリウスは、執務机に用意した大量の書類(カモフラージュ用)と、三杯目の特濃ブラックコーヒーを前に、椅子に深く腰掛けていた。
部屋の鍵は厳重に閉め、「明日の朝まで何があっても入室するな」と使用人たちに厳命してある。
(来た……!)
ユリウスは目を閉じ、西翼にいるリーゼロッテの精神へと波長を合わせた。
直後、昨夜と同じように、激しい主題歌と彼女の熱狂的な『実況』が脳内に流れ込んでくる。
『「うおおおおおっ! まだだ、まだ終われない!!」』
脳裏に浮かぶのは、圧倒的な質量を持つ要塞の主砲が、主人公レイジの機体に迫る絶望的なビジュアル。
『ここで! ここで来ました奇跡の共闘!! ゼクス様の機体が盾になるのよぉぉぉ!!』
『「勘違いするなよ、坊や。お前を倒すのはこの私だ。こんなところで死なれては困る」』
『キャアアアアッ!! ツンデレライバル最高!! 共闘熱すぎ!!』
「な……んだと……っ!」
ユリウスは思わず机から身を乗り出した。
昨夜、あれほど憎み合い、殺し合っていた敵国のエースパイロット、ゼクス。彼が自らの機体を盾にして主人公を庇うなど、戦術的に見れば全くの非合理だ。
だが、リーゼロッテの脳内から伝わってくる強烈な『熱』と感動が、ユリウスの心にもダイレクトに流れ込んでくる。
(敵将を庇うだと……? い、いや、しかしこれは……! 共通の強大な敵を前にしての、一時的な同盟。騎士道精神……っ! 馬鹿な行動だが……なぜだ、胸が……熱い……!)
ユリウスは無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
これまでの彼の人生において、他人の声を聞くことは『苦痛』でしかなかった。
他者の心は、ドロドロとした欲望の吹き溜まりであり、触れれば触れるほど心が汚されていくような感覚があった。
しかし、リーゼロッテの心はどうだ。
彼女の心から溢れ出してくるのは、純粋な『歓喜』『興奮』『感動』、そして架空のキャラクターたちに向けられる無償の『愛』だ。
その感情の波を浴びていると、ユリウス自身の凍りついていた心までが、ポカポカと温められていくような不思議な錯覚を覚えた。
『第十四話! ここで新機体のお披露目よ!! その名もヴァルキリオン・ゼロ!! 重力制御システム搭載!!』
『「こいつ……空を、飛べるのか!?」』
(重力制御……? 風魔法の応用ではないのか。質量の概念を書き換えるというのか!? なんという恐ろしい技術……!)
ユリウスは手元のメモ用紙に、無意識のうちにヴァルキリオン・ゼロの装甲の構造式(アニメの設定画通り)をスケッチし始めていた。
『第十五話! ついに明らかになるゼクス様の正体! 実は敵国の王族であり、レイジ君の幼馴染のお兄さんだったのよ!!』
『「嘘だ……あなたが、ゼクス兄様だなんて!」』
(な、なんだってーーー!?)
ユリウスはガタッと立ち上がり、椅子を倒しそうになった。
(王族が自ら最前線で仮面を被り、パイロットとして従軍していたというのか!? それほどまでに人材が不足しているのか、あるいは内部での権力闘争による左遷か!? だが待て、幼馴染の兄ということは……!)
ユリウスは頭を抱え、部屋の中をウロウロと歩き回り始めた。
政治的陰謀、血の繋がった兄妹の悲劇、そして立ちはだかる巨大な運命。彼の知る貴族社会のドロドロとした陰謀劇が、さらにスケールアップして展開されている。
『あああ、切ない! 切ないわぁ! このまま第十六話に突入よ!!』
リーゼロッテの熱気も最高潮に達している。
ユリウスもまた、息を呑んで次の悲劇的な展開を待ち構えていた。
激しい戦闘。散っていく命。次に来るのは、きっと血を洗うような重厚なドラマに違いない。
『――第十六話。白熱! 南の島のバカンス大作戦!!』
(……ん?)
ユリウスの足がピタリと止まった。
『キターーー!! 水着回キターーー!!』
リーゼロッテの脳内から、それまでの重苦しい空気を完全に吹き飛ばす、陽気でトロピカルな音楽(BGM)が流れ始めた。
そしてユリウスの脳裏に共有された映像は――。
青い海。白い砂浜。そして、布面積の極端に少ない色とりどりの布(水着)を身に纏った、女性キャラクターたちの姿だった。
『「もう、レイジのばか! どこ見てんのよ!」』
『「べ、別に見てねえよ! お前のそんな……水着姿なんて!」』
(なっ……!? な、ななな、なんだこれは!?)
ユリウスは激しく動揺し、顔を真っ赤にして後ずさった。
(南の島? バカンス? 今、世界大戦の真っ最中ではなかったのか!? なぜ彼らは、あのような破廉恥な格好で海辺ではしゃいでいるのだ!? しかも、先ほどまで生死の境を彷徨っていたというのに!)
ユリウスの論理的思考回路が、盛大なショートを起こしていた。
『ああっ、ヒロインのミカちゃんのポニーテール水着姿、尊い……! そしてここで、まさかの敵国の女スパイもバカンスに混ざるというお約束展開!』
(敵国のスパイ!? なぜ拘束しない!? 一緒にビーチバレーをしている場合ではないだろう! すぐに尋問にかけるべきだ!! リーゼロッテ、君はなぜそんな呑気に「尊い」などと喜んでいるのだ!!)
ユリウスは必死に心の中でツッコミを入れるが、当然リーゼロッテに届くはずもない。
彼女の脳内では、見事なプロポーションの女性キャラクターたちが、無駄に作画コストの注ぎ込まれた「揺れ」や「水しぶき」と共に、キャッキャウフフと戯れる映像が延々と再生されている。
(くっ……! 見るな! 私は、私はそのような破廉恥な映像を見たくて彼女の心を覗いているわけではない! 目を閉じろ、私! ……いや、目は最初から閉じているが、脳内に直接流れ込んでくるのだから防ぎようがない……っ!)
ユリウスは真っ赤になった顔を覆い、机に突っ伏した。
氷の公爵様ともあろうお方が、生まれて初めて見る『アニメのお色気水着回』の強烈な刺激に、完全にノックアウトされていたのである。
『いや〜、眼福眼福。シリアス展開の間の箸休めとしては最高よね。さあ、気を取り直して第十七話! ここから最終決戦に向けて一気に加速するわよ!』
約三十分間の拷問(?)が終わり、再び物語は苛烈な戦争の現実へと戻っていった。
ユリウスはぜぇぜぇと肩で息をしながら、再び顔を上げた。
(や、やられた……。予想外の精神攻撃だ。だが、ここからが本番……。レイジたちはついに、敵の帝都へと侵攻するのだな)
深夜の公爵邸。
静寂に包まれた屋敷の中で、一人熱狂するオタク妻と、それに強制的に付き合わされながらも、完全にその物語に魅了されてしまった冷徹夫の、奇妙な『共有体験』はさらに深まっていった。
*****
夜明け前。
空が白み始め、小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃。
『……っ!』
ユリウスは息を呑み、固く握りしめた拳を震わせていた。
物語は第23話。最終回の一つ手前、いわゆる「ラス前」の絶望的な展開を迎えていた。
『「レイジ……君は、君の信じる道を……行け……っ!」』
敵の圧倒的な物量を前に、これまで苦楽を共にしてきた先輩パイロットが、レイジをかばって特攻を仕掛けたのだ。
閃光に包まれ、散っていく僚機。
悲痛なレイジの叫び声が響き渡る。
(……馬鹿な。あの歴戦の勇士が、ここで死ぬというのか。見事な自己犠牲だ。しかし……あまりにも……)
ユリウスの胸の奥で、経験したことのない鋭い痛みが走っていた。
彼はこれまで、部下が戦死の報告を上げてきても、冷徹に「そうか、遺族に年金を手配しろ」と事務的に処理してきた。
だが、この架空のキャラクターの死には、どうしようもなく心が揺さぶられていた。
なぜなら。
『うぅ……っ、ぐすっ……。先輩ぃ……!』
彼と精神を繋いでいるリーゼロッテが、心の底から悲しみ、泣いていたからだ。
ユリウスに流れ込んでくるのは、単なる映像ではない。彼女の深い悲哀、キャラクターを喪失した絶望感、そして涙の熱さまでが、まるで自分のことのように伝わってくる。
(リーゼロッテ……君は、泣いているのか)
ユリウスは、西翼の方角を見つめた。
ただの政略結婚の道具。氷のように冷たいだけの自分に、最初から諦めたような顔で「干渉しないで」と言った女。
だが、彼女の心の中は、これほどまでに豊かで、感受性が強く、そして温かい。
これほどまでに純粋に、他者(架空の存在だが)の痛みを我が事のように悲しむことができる女性を、ユリウスは他に知らなかった。
(……君の心は、美しいな)
ユリウスは無意識に、そう心の中で呟いていた。
『……でも、悲しんでる暇はないわ! 最終話! 第24話! レイジ君、先輩の命を無駄にしないで! 泣いても笑っても、これが最後よ!!』
リーゼロッテの心が、悲しみを乗り越えて再び熱く燃え上がる。
ユリウスもまた、姿勢を正し、彼女と共に最後の戦いを見届ける覚悟を決めた。
最終話。
全てを賭けた、ヴァルキリオン・ゼロと敵の巨大要塞との最終決戦。
作画は限界を突破し、神がかった動きでロボットたちが宙を舞う。
ユリウスの心拍数も限界まで跳ね上がっていた。
『「俺たちの……明日を、返せぇぇぇぇっ!!」』
『いっけぇぇぇぇ!! トドメのハイパー・ビーム・キャリバーァァァァッ!!』
光の奔流が、巨大な要塞を貫き、大爆発を起こす。
そして、ゆっくりと崩壊していく要塞を背に、ボロボロになったヴァルキリオンが朝日を背にして佇む、完璧なラストシーン。
『……ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ』
リーゼロッテの心から、深すぎる、そして極上の満足感に満ちたため息が漏れた。
『最高。やっぱりヴァルキリオンはロボットアニメの金字塔だわ。……でも、一つだけ不満があるのよね』
(不満? なんだ。これ以上ないほど完璧な結末だったではないか)
ユリウスが心の中で問いかける。
『ここで終わっちゃうのが寂しすぎるのよ! 続き! 劇場版の『逆襲のゼクス編』があるのに! あれを見ないと、私の中のヴァルキリオンは完結しないのよ!!』
(なっ……! げ、げきじょうばん!? 続きがあるのか!?)
ユリウスは目を見開いた。
『でも、さすがにもう外が明るくなってきたわ。徹夜は肌の敵だし、今日のところは寝ましょう。……ああ、早く明日の夜にならないかしら。劇場版、超楽しみ……むにゃ』
リーゼロッテの意識が、徐々にまどろみの中へと溶けていくのが伝わってくる。
そして、完全に彼女の「放送」が終了し、ユリウスの脳内には静寂が戻った。
「……」
窓の外を見ると、すでに朝日が眩しく輝いていた。
ユリウスは、完全に冷え切った三杯目のコーヒーを見つめ、静かに呟いた。
「……げきじょうばん、とは何だ」
冷酷無比な氷の公爵様は、こうして完全に、底なしの『沼』へと足を踏み入れてしまったのである。
*****
三日目の朝。
公爵邸のダイニングルームには、かつてないほどの異様で重苦しい空気が漂っていた。
「だ、旦那様……本日は、その、お顔の色が昨日にも増して……」
「気にするな。少し、考え事の範囲が広がっただけだ」
テーブルの向かいに座る私を、ユリウスは焦点の定まらない虚ろな瞳で見つめていた。
目の下には、もはや一国の危機を三日三晩徹夜で乗り切った宰相のような、深くどす黒い隈が刻まれている。銀糸のような美しい髪も心なしかパサついており、あの『氷の公爵』の威厳はどこへやら、完全に憔悴しきった亡霊のような有様だった。
(な、なんなの!? いくら仕事熱心とはいえ、二日連続で完徹!? しかも私を見る目が、なんだかすごく……ギラギラしてるというか、血走ってて怖いんですけど!)
私は内心でドン引きしながらも、淑女の笑みを崩さずに温かい紅茶を啜った。
「旦那様、領地の経営も重要ですが、お体があってこその公爵家ですわ。本日は執務をお休みになられては……」
「休むわけにはいかない。私には、見届けねばならない『結末』がある」
(結末? 隣国との重大な条約交渉でも大詰めを迎えているのかしら。やっぱり大貴族の当主って大変なのね。私みたいに夜通しロボットアニメを一気見して「最高ゥ!」とか叫んでるだけのニート妻とは大違いだわ)
私は心の中で全く的外れな感心と少しの罪悪感を抱きながら、カリッとトーストを齧った。
すると、ユリウスが不意に身を乗り出し、食い入るように私を見つめてきた。
「リーゼロッテ。君は……今日の夜はどう過ごすつもりだ?」
「へっ? よ、夜、ですか?」
私は思わずナイフを取り落としそうになった。
「干渉しない」という契約だったはずだ。なぜ夜の過ごし方を聞いてくる? まさか、初夜も二日目も放置してしまったから、貴族の義務として今日こそは『そういうこと(子作り)』をしなければならないとでも言い出すつもりか!?
「あ、あの! 私は夜は、一人で静かに、その、自己研鑽といいますか、趣味の時間に充てたいと考えておりまして! 決して旦那様のお手を煩わせるようなことは……!」
「一人で、趣味の時間を。……そうか。ならば良い」
私の必死の拒絶(?)を聞いたユリウスは、なぜか心の底からホッとしたように息を吐き、微かに口角を上げた。
「趣味は大いに結構だ。邪魔はしない。むしろ、存分にやりたまえ。……途中で眠気に負けたりしないよう、体調管理だけは万全にしておくことだ。途中で打ち切られるのは、私も……いや、君自身も本意ではないだろう」
(……? よく分からないけど、夜更かしして趣味に没頭しても文句は言わないってことね? 氷の公爵様、意外と放任主義で理解あるじゃない!)
「ありがとうございます、旦那様。お気遣い感謝いたしますわ」
私が心からの笑顔を向けると、ユリウスは少しだけ眩しそうに目を細め、また無言でブラックコーヒーを喉に流し込んだ。
*****
同日、昼。
公爵邸の執務室にて、ユリウスは側近の騎士団長クラウスからの深刻な報告を受けていた。
「……閣下。昨日ご教示いただいた、未知の巨大兵器『鋼鉄の巨人』に対する防衛網ですが、直ちに国境の砦に魔法防壁の増強と、対空魔導砲の配備を命じました」
クラウスの悲壮な覚悟を帯びた報告に、ユリウスはピクリと眉を動かした。
(しまった。昨日、アニメの展開に当てられてつい架空の兵器の対策を命じてしまったのだった。このままでは騎士団が幻の敵に向けて無駄な国費を浪費してしまう)
「……クラウス。その件だが、防衛網の構築は一旦保留とせよ」
「なっ、なぜですか!? 『感情とリンクして三倍の出力を出す』という恐るべき兵器なのです! 今すぐに対策を打たねば、領地が火の海に……!」
「鋼鉄の巨人は、破壊された」
ユリウスは、昨夜の第二十四話(最終回)のラストシーンを思い浮かべながら、ひどく厳粛な声で告げた。
「敵の巨大要塞と共に、な。我々の領地に攻めてくることはもうない」
「は、破壊された……!? いったい誰が!? 我々の手の届かぬところで、国家規模の軍事衝突が終結したというのですか!?」
「ああ。多くの尊い犠牲の上にな……」
ユリウスが伏し目がちに呟くと、クラウスも言葉を失い、静かに頭を垂れた。
執務室に、架空のキャラクターたちを悼む奇妙な沈黙が流れる。
「……しかし、閣下」
「なんだ」
「その巨大兵器の残骸、あるいは技術情報だけでも回収すべきでは? もし他の国がその『鋼鉄の巨人』の残骸をサルベージし、修復してしまえば……」
(修復……だと?)
ユリウスの脳裏に、電撃が走った。
昨夜、妻のリーゼロッテは確かに言っていた。
『劇場版の逆襲のゼクス編がある』と。
最終回で主人公レイジと共に宇宙の塵となったはずのライバル、ゼクス。彼が逆襲してくるということは、すなわち彼が生き延びており、新たな機体(あるいは修復した機体)で再び戦端を開くということではないのか。
「……あり得るな。いや、むしろ奴ならば、必ず戻ってくる」
「や、やはり! では直ちに探索部隊を……!」
「案ずるな。それは我々が手出しすべき領域ではない。今夜……そう、今夜全てが判明する」
ユリウスは執務机の上のカレンダーを睨みつけた。
映画。劇場版。
一話三十分のアニメとは違う、長編の物語。おそらく二時間、いやそれ以上の長丁場になるかもしれない。
これ以上の徹夜は公爵としての執務に支障をきたす。しかし、ここまできてゼクスの逆襲を見届けないなど、男として、いや一人の『ヴァルキリオンファン』としてあり得ない。
「クラウス。今日の午後の予定は全て明日に回せ。私は今から仮眠をとる。そして今夜、私の部屋には絶対に、何があっても近づくな」
「か、閣下……まさか、一人でその『ゼクスの逆襲』とやらを迎え撃つつもりですか!? 危険すぎます!!」
「私にしかできない戦いなのだ。下がれ」
勘違いの果てに涙ぐむ忠臣を追い出し、ユリウスは一人、決戦(オタク妻の脳内上映会)に向けて体力を温存すべく、ソファに横になった。
*****
そして、運命の夜。
「ふふふふふ……きたわ、きたわよォ!!」
西翼の自室。
私はベッドの上で枕を抱きしめ、足をバタバタとさせて興奮を抑えきれずにいた。
「テレビシリーズ完結から三年後に公開され、当時のオタクたちの涙腺を崩壊させた伝説の劇場版! 『機動装甲ヴァルキリオン〜逆襲のゼクス〜』!! ああ、脳内でいつでも高画質で見られるなんて、転生して本当に良かった!!」
私は部屋の灯りを魔法で薄暗く落とし、ベッドに深く沈み込んだ。
「よし、上映開始!!」
――同時刻。
東翼の自室で、ユリウスは執務机ではなく、あえてリラックスできる一人掛けの革張りソファに深く腰を下ろしていた。
サイドテーブルには、ポットいっぱいの熱いブラックコーヒーと、糖分補給のためのチョコレートが山盛りに置かれている。
(さあ、来い。リーゼロッテ。君の心の中に広がる、あの熱き魂の物語を……私に見せてくれ!)
ユリウスが目を閉じ、精神の波長を西翼へと合わせた、その瞬間。
『ジャァァァァン!!(※映画特有の重厚なオープニングロゴの音)』
ユリウスの脳内に、今までの一話完結のシリーズとは明らかに違う、フルオーケストラによる荘厳なBGMが鳴り響いた。
(な、なんだこの音の厚みは……!? これまでの音楽とはスケールが桁違いだ!)
そして、リーゼロッテの脳内から、興奮度マックスの実況が叩き込まれる。
『キターーーー!! 劇場版クオリティの神作画!! 冒頭からいきなり宇宙空間での大艦隊戦!! はやい、カメラワークが速すぎて目が追いつかない!!』
『「各機、散開しろ! 敵は……たった一機だぞ!!」』
ユリウスの脳裏に共有された映像。
それは、テレビシリーズの最終回から数年後。平穏を取り戻したはずの宇宙空間で、たった一機の真紅の機体が、正規軍の艦隊を単機で蹂躙していく絶望的な光景だった。
(あの赤い機体は……まさか!)
『ゼクス様ァァァァ!! 生きてた! やっぱり生きてたのね!! しかも専用の新型機「クリムゾン・ヴァルキリオン」に乗って!! か、かっこよすぎるぅぅぅ!』
(ゼクス……! やはり生きていたか! しかし、なぜだ! なぜ彼は再び剣を取った!? 最終回で、あれほど平和を望んでいたではないか!)
ユリウスはコーヒーカップを握る手を小刻みに震わせた。
『「私は帰ってきた。この腐敗した世界を、完全に浄化するために」』
『キャアアアッ! ゼクス様の演説シーン!! そうなのよね、テレビシリーズの後、結局政治家たちは何も変わってなくて、民衆が苦しんでるのをゼクス様は許せなかったのよ! だから、自らが「悪」となって全てを壊す道を選んだの! 痛いほどわかるわ、その不器用な正義感!!』
リーゼロッテの解説(という名の愛の叫び)により、ユリウスは敵将ゼクスの真意を瞬時に理解した。
(……なんと悲しい男だ。自らの手を血で染めてでも、世界を変えようというのか。私にも、領地を治める者としてその苦悩は痛いほどよく分かるぞ、ゼクス……!)
冷徹な為政者であるユリウスだからこそ、ゼクスの抱える「政治の腐敗への絶望」というテーマが、深く心に刺さっていた。
彼もまた、貴族たちのドロドロとした欲望に嫌気がさしていたからだ。
物語は、ゼクスの凶行を止めるため、かつての主人公レイジが再び立ち上がる展開へと進んでいく。
『レイジ君、すっかり大人になっちゃって……。あんなに熱血バカだったのに、今では部下を率いる落ち着いた隊長さんよ。でも、瞳の奥の熱い炎は消えてないわ!』
(そうだ、レイジ。お前が止めるしかない。ゼクスの悲しい決意を止められるのは、かつて共に戦い、そして理解し合ったお前だけだ……!)
ユリウスは完全に感情移入し、心の中でレイジに声援を送っていた。
映画は中盤に差し掛かり、ゼクスの真の目的が明らかになる。
『「地球に、巨大隕石を落とす……!?」』
『そう! これよ! 逆襲のゼクスといえばこの超展開! 腐敗した特権階級が住む地球を、隕石落としで物理的にリセットしようとする狂気の作戦!!』
(い、隕石落としだと!? なんだそのスケールが狂った作戦は! 星そのものを破壊する気か!? ゼクス、いくらなんでもそれはやりすぎだ!!)
ユリウスはあまりの衝撃に立ち上がり、部屋の中をウロウロと歩き始めた。
(質量兵器……。魔法による攻撃ではなく、ただ純粋な巨大な岩塊を重力に引かせて落とす。これほど恐ろしく、防ぎようのない戦術があるだろうか。……天才か、奴は!)
ユリウスの軍略家としての血が騒ぐと同時に、物語のスケールの大きさに完全に圧倒されていた。
そして、映画はいよいよ最終決戦――地球の軌道上に浮かぶ巨大隕石での、レイジとゼクスの一騎打ちへと突入する。
『「ゼクス! なぜ分からない! 人は、分かり合えるはずだ!」』
『「遅すぎたのだ、レイジ! この世界は一度壊さねば、生まれ変わることはない!」』
赤と白のヴァルキリオンが、隕石の表面で激しく剣を交える。
神がかったアニメーション。火花を散らす剣戟。そして、二人の男のイデオロギーのぶつかり合い。
『ああっ、どっちの気持ちも分かるから辛い! レイジ君の信じる希望も、ゼクス様の抱える絶望も!』
リーゼロッテの心から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる悲しみが伝わってくる。
ユリウスの目にも、いつの間にか熱いものが込み上げていた。
(そうだ……人は、他人の心など本当には理解できない。だからすれ違い、傷つけ合う。私の能力がその最たる証拠だ。だが、それでも……この二人は、拳を交えることで互いの魂を理解しようとしている!)
そして、クライマックス。
レイジはゼクスを打ち倒すことに成功するが、巨大隕石の地球への落下コースはすでに確定してしまっていた。
『「隕石の落下は止められない……。これで、私の勝ちだ、レイジ」』
『「ふざけるな! 俺は、俺たちの明日を諦めない!!」』
主人公レイジは、ボロボロになった自分の機体ただ一機で、落下する巨大な隕石を押し返そうとする。
絶対に不可能な物理法則の壁。機体が摩擦熱で真っ赤に焼け焦げていく。
『ああああああっ! 来た! ヴァルキリオン屈指の名シーン!』
『「こんな石ころ一つ、ヴァルキリオンで押し出してやる!!」』
(レイジ……っ! 馬鹿な、そんな質量を単機で止められるはずがない! 逃げろ、お前が焼け死んでしまうぞ!!)
ユリウスはソファの肘掛けを強く握りしめ、顔を歪ませた。
しかし、その時。
レイジの無謀な行動を見た、敵味方問わず全ての兵士たちが、レイジの機体に次々と取り付き、一緒に隕石を押し返し始めたのだ。
『「なんだ!? なぜ敵の機体まで!?」』
『「地球が駄目になるかならないかなんだ、やってみる価値はありますぜ!!」』
(……っ!!!)
ユリウスの全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
敵も味方も関係ない。
憎しみ合い、殺し合っていた者たちが、「星を守る」というたった一つの目的のために、己の命を顧みずに行動を共にしている。
他人の心は醜い。人間は欲望の塊だ。そう思い込んでいたユリウスの価値観を、根底から粉砕するような熱すぎる光景が、そこにはあった。
『うぅぅっ……ぐすっ。ここ、何回見ても泣けるのよぉぉぉっ! 人間の持つ光……可能性の光が……っ!』
リーゼロッテの心の中で、極限の感動が爆発する。
それに共鳴するように、ユリウスの目からも、一筋の美しい涙がツーッと頬を伝い落ちた。
『「人の心の光を見せなけりゃならないんだろ! うおおおおおおおおっ!!」』
レイジの叫びと共に、ヴァルキリオンの全身から眩いほどの緑色の光が放たれ、その光が隕石全体を包み込む。
そして、奇跡が起きる。
落下軌道にあった隕石が、その光に弾き返されるように、地球から遠ざかっていったのだ。
静寂。
そして、エンディングテーマの静かで優しいメロディが流れ始める。
『……終わった。ああ、終わってしまった』
リーゼロッテの心から、深い感動と、祭りが終わった後のような強烈な喪失感が伝わってくる。
ユリウスもまた、ハンカチで乱暴に目元の涙を拭いながら、大きく息を吐き出した。
(素晴らしい。なんと素晴らしい英雄譚だ。……人間の心の光。私は今まで、他人の心の闇ばかりに目を向けていた。だが、人間にはこれほどまでに気高く、熱い想いを抱くことができるというのか……)
ユリウスは、これまでの自分の人生観が180度変わってしまったような錯覚に陥っていた。
他人の心を覗くのが苦痛だった彼が、今夜は、リーゼロッテの心を通して『最高の世界』を体験させてもらったのだ。
『ふぅ……。泣きすぎて目が腫れちゃったかも。でも、最高だった。……さて、明日は何を観ようかしら。ファンタジー系で『魔法少女まじかる☆ルル』の全話一気見もいいわね』
(……ま、まほうしょうじょ、だと?)
感動の余韻に浸っていたユリウスの脳に、全く未知の単語が叩きつけられた。
(まじかる、ルル……。なんだそれは。鋼鉄の巨人の次は、少女が戦うというのか? しかも魔法で? 全話一気見……だと……?)
ドクン、とユリウスの心臓が跳ねた。
ここで読心を切るべきだ。今日はもう、十分すぎるほどの感動をもらったのだから。
しかし。
(……いや、知らねばなるまい。このリーゼロッテという女性の心の中には、まだ私の知らない未知の英雄譚が眠っているのだ。夫として、妻の心の奥底を理解するのは当然の義務……っ!)
もはや完全にオタクの沼に全身まで浸かってしまった冷徹公爵は、狂気にも似た渇望を瞳に宿していた。
「……行くか」
ユリウスは立ち上がり、深夜の静まり返った廊下へと足を踏み出した。
向かう先は、西翼。
妻、リーゼロッテの部屋である。
*****
「はぁ〜、泣いた泣いた。最高だったわ……」
ベッドの上で目をこすりながら、私は大きなあくびをした。
時刻は深夜三時を回っている。
『逆襲のゼクス』は本当に神作だ。脳内再生だから画質も音質もブルーレイ並みだし、誰にも邪魔されない最高の環境。
「さて、明日の夜のラインナップも決まったし、そろそろ寝ようかしら」
私が毛布に潜り込もうとした、その時だった。
コンコンコン。
「え?」
静まり返った部屋のドアが、ノックされた。
こんな深夜に誰? メイドなら「おやすみでしょうか」と声をかけるはずだ。
「……ど、どなたですか?」
私が警戒しながら尋ねると、ドアの向こうから、低く、少し掠れた声が聞こえた。
「私だ。ユリウスだ」
「ひゃっ!?」
私は毛布を跳ね除け、慌ててベッドから飛び降りた。
旦那様!? なぜこんな深夜に!? まさか、初日と二日目を放置したから、三日目の夜に強行突破で『夫婦の営み』をしに来たの!?
「干渉しない」って言ったのはそっちじゃない!!
「あ、あの! 旦那様!? 今はもう深夜でして、わ、私はもう寝るところで……!」
「すまない、リーゼロッテ。どうしても、君と話がしたくて来た。開けてくれないか」
その声は、昼間の冷徹な彼からは想像もつかないほど、どこか切羽詰まっており、熱を帯びているように聞こえた。
(ど、どうしよう。開けないとドアを物理的に破壊されそうな勢いなんですけど……!)
私はガウンの襟元をギュッと握りしめながら、恐る恐るドアの鍵を開け、少しだけ隙間を作った。
「……なんでしょうか、こんな時間に」
隙間から顔を覗かせると、そこには信じられない光景があった。
氷の公爵と呼ばれるユリウス・フォン・クライスが、髪を少し乱し、目を真っ赤に充血させ、頬には微かな涙の痕跡(!)を残したまま、私をジッと見つめていたのだ。
「だ、旦那様!? どうなされたのですか!? その目、泣いて……!?」
「リーゼロッテ」
ユリウスはドアの隙間に手を入れると、グッと扉を開け放ち、一歩部屋の中へと踏み込んできた。
そして、私の両肩をガシッと力強く掴んだ。
「ひぃっ!」
「教えてくれ。……『人の心の光』とは、本当に隕石を押し返せるほど温かく、強いものなのか?」
「……はい?」
私は自分の耳を疑った。
人の心の光? 隕石?
それって、さっきまで私が脳内で見ていた『逆襲のゼクス』のレイジのセリフと展開では……?
なぜ、彼がその言葉を知っているの?
「あ、あの……旦那様? 何を仰っているのか、全く理解が……」
「隠さなくていい。私は、全て知っている」
「全、て……?」
まさか。
私が前世の記憶を持つ転生者であること? それとも、毎晩脳内でアニメを見ていること?
ユリウスは熱を帯びた蒼い瞳で私を真っ直ぐに見つめ、信じられない告白をした。
「私には、他人の『心の声』が聞こえる能力がある。……そして私は、この三日間。毎晩、君の頭の中で繰り広げられる『鋼鉄の巨人』の物語を、君と共に体験していたのだ」
「…………」
「…………」
数秒の、完全な沈黙。
私の思考回路は、隕石を押し返すヴァルキリオン以上の負荷に耐えきれず、完全にフリーズした。
心の声が、聞こえる?
私が、頭の中で見ているアニメの映像が、彼に駄々漏れだった?
つまり。
『主人公のレイジ君カッコいいいいい!!』
『キャアアアッ! ゼクス様ァァァ!!』
『水着回キターーー!! 尊い!!』
『うぅぅっ……ぐすっ。ここ、何回見ても泣けるのよぉぉぉっ!』
あの、限界オタク丸出しのクソ恥ずかしい実況と、限界化して泣き叫んでいた私の心の声が、全て、この美貌の冷徹公爵様に受信されていたということ……!?
「あ……ああ……」
私の顔は、一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。
恥ずかしさで死ぬ。いや、今すぐ窓から身を投げて社会的に抹殺されたい。
「ご、ごごご、ごめんなさいぃぃぃぃ!! 気持ち悪いですよね!? 妻が毎晩頭の中で謎の巨人が戦う妄想して一人で興奮してるなんて! すぐに実家に帰ります! 離縁してください!!」
私は両手で顔を覆い、しゃがみ込んで泣き叫んだ。
しかし、ユリウスの反応は私の予想を遥かに超えるものだった。
「離縁だと? 馬鹿なことを言うな!」
ユリウスはしゃがみ込んだ私に合わせて膝をつき、私が覆っていた手を優しく、しかし力強く退けさせた。
「君の心に広がるあの世界は、決して気持ち悪い妄想などではない。私は、あそこまで気高く、熱く、そして純粋な魂の物語を知らない。……レイジとゼクスの戦いを通して、私は人間が持つ可能性の光を見せてもらったのだ」
「え……?」
私が呆然と彼を見上げると、氷の公爵様は、まるで少年のように目を輝かせ、私の手を両手でギュッと握りしめてきた。
「リーゼロッテ。私の能力のせいで、君のプライバシーを覗き見してしまったことは謝罪する。だが……私はもう、あの物語の、いや、君の心の中から生み出されるエンターテインメントなしでは生きていけない体になってしまったようだ」
「ええええええっ!?」
「だから、お願いだ。私を……君の『脳内上映会』の、専属の同伴者にしてくれないか?」
王国の筆頭公爵が、没落寸前のオタク令嬢に対して、真夜中に目を潤ませながら『アニメを一緒に(テレパシーで)見せてくれ』と懇願している。
シュールすぎる。どう考えてもおかしい。
だが、彼に握られた手の温かさと、その真っ直ぐすぎる熱意は、決して嘘ではないことが分かった。
「……旦那様。一つ、よろしいですか?」
「なんだ、何でも言ってくれ」
「明日の夜から上映予定の『魔法少女まじかる☆ルル』は、途中から魔法少女たちが次々と悲惨な死を遂げる、かなりエグい鬱展開のダークファンタジーですが……旦那様のメンタルは耐えられますか?」
私が真顔でそう尋ねると、ユリウスは一瞬目を見開いた後、ゴクリと唾を呑み込み、力強く頷いた。
「望むところだ。君が悲しむ時は、私も共に悲しもう。絶望の先にある希望の光を、二人で見届けようではないか」
なんだか、ものすごくカッコいいことを言っているが、対象は『深夜の魔法少女アニメ』である。
「……ふふっ。あははははっ!」
私は耐えきれず、吹き出してしまった。
冷酷無比で、人間嫌いで、誰にも心を開かないと言われていた氷の公爵様。
そんな彼が、私のオタク趣味に完全に感化され、目を輝かせている。
「分かりましたわ、ユリウス様。ならば、明日からはベッドを共にしましょう」
「っ!」
「いくらテレパシーが使えるとはいえ、隣にいた方がより鮮明に、私の『念』が伝わるでしょう? それに……一人でアニメを見るより、終わった後に感想を語り合える『オタク友達』がいた方が、絶対に楽しいですから」
私がそう言って微笑むと、ユリウスの美しい顔が、初めて見るような純粋な喜びでパッと明るくなった。
「……ああ。よろしく頼む、私の愛しい妻(同志)よ」
*****
それから数ヶ月後。
王都の社交界では、一つの噂がまことしやかに囁かれていた。
「ねえ、お聞きになった? あの氷の公爵様が、最近すっかり奥様に骨抜きにされているとか」
「ええ! 毎晩のように奥様の寝室に入り浸り、朝まで愛し合っているらしいですわよ。おかげで公爵様、いつも寝不足で目の下に隈を作っておられるとか……」
「まあ、なんて情熱的なの……!」
もちろん、その真相は『毎晩二人でベッドに並んで寝転がり、手を繋ぎながら(※テレパシーの感度を上げるため)朝まで脳内アニメを一気見しているだけ』である。
最近では、ユリウス様もすっかりオタク用語に精通し、「昨日のルルの作画は神だったな」「あのモブの伏線回収はエグい」などと、朝食のテーブルで熱い感想戦を繰り広げる始末だ。
「リーゼロッテ。今夜はついに『異世界転生スローライフ〜気ままな冒険者〜』の最終回だな」
「ええ、ユリウス様。ハンカチの準備はお済みですか?」
「当然だ。特濃コーヒーも二本用意してある」
冷徹だった公爵様の心は、深夜アニメと私によって完全に溶かされた。
今日もまた、私たちは誰にも内緒の、秘密の『脳内シアター』の幕を開けるのだ。




