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コバルトブルーの空に灰色の虹が出る

作者: 霧途雲

 〈コラッタはこんらんしている!わけもわからずじぶんをこうげきした!〉


 昼間はずっとポケモンをしていた。バイトはなかった。バイトは夏休み中であれば大抵昼の十一時から夕方の七時まで、喫茶店でキッチンをやっていた。大学がある期間は平均で六万ちょっと。長期休暇には十万を超えた。

 でも昨日やめた。特に理由はない。本当に理由はなかった。だから今日は昼間のあいだじゅうずっと、空っぽになった時間をそのままポケモンに充てたのだった。目がしょぼしょぼして脳みそがぐらぐら揺れる。力の入らない足を引きずって水道まで行き、グラスに一杯、水を一気飲みしてげっぷを一つ。やれやれ、もともと生きてるだけで何も問題なんかなかったのに。

 〈コラッタはこんらんしている!わけもわからずじぶんをこうげきした!〉

 頭の中からゲームのチャンネルが抜け切れていない。僕しかいない部屋の僕しか座ったことのないソファに身を投げ出す。ベストな角度で扇風機がファンをからから回している。脂ぎった髪が凪ぐ午後七時十二分、まるで息切れした馬のような扇風機の羽の音を聞きながら僕の瞼はゆっくり閉まる。視界は真っ暗闇。でも大丈夫、少しの辛抱だ。僕はその闇に耐える。僕には最初からわかっている。その孤独な虚無が過ぎればすぐに極楽浄土が訪れるのだ。全身の筋肉がひとりでにほぐれてきて、そして不随意に一度、ぴくりと痙攣する。そこですとんと意識のスイッチが落ちて、ついに、それはそれは綺麗な青空が一体に広がる。そう、これが夢だ。

 染みや皺が一つもない鮮明なブルー。もちろん雲だってない。空ののびのびとした青色を邪魔できるのはあいつ以外にはいないのだと僕は知っている。この夢はいつもの夢だから。視点は角度を少しずつ少しずつ下げていく。そこには強い陽光を受けた銀色のビル群がにょきにょき生えている。どのビルもここから遠い場所にあるから、たぶん大きいものなんだろうということ以外、はっきりしたイメージを僕に求めることはしない。ビルたちの窓はちらちらと目障りな光を照り返すけれど、その鱗の様に行儀よく並んだ窓は皆よそよそしいくらいでさえある。

 どくん、どくん、どくん。僕は鼓動を感じる。誰の鼓動だ?規則的でブレのない正確な拍動。どくん、どくん、どくん。それは空気振動で耳に届くというより、身体の内部から湧いてくる音だった。腹時計が時を刻む音だろうか。どくん、どくん、どくん。いや、違う。腹時計に秒針はない。いや、世界中のどこを探したってこんなにうるさく時を刻む時計なんて見つからないだろう。どくん、どくん、どくん。どくん、どくん、どくん。そうか、やっぱりこれは僕の心臓の音だったのか。そう気付くまでに途方もない時間がかかってしまった。

 かかったのは時間だけじゃない。とうとうあいつが来たのだ。そいつは銀色をしたビルの草原からのそりのそりと宙を昇っていく。緩やかで不気味な曲線を描きながら、灰色の虹はどんどん空を昇る。音は無い。やがて極大値に到着すると、奇妙な虹は少しも急ごうとせず、反対側の草原へ頭を仕舞い込んだ。そのせいで結局コバルトブルーの空は二つに裂かれてしまったのだ。どくん、どくん、どくん。鼓動はまだ止んでいない。遠くの空には平板な灰色の虹が出ている。時間が掛かり虹が架かった。あとは一体、何を懸けたらいいんだろう?

 再び扇風機のファンの音。遅れてゆっくりと瞼が開く。脂ぎった髪。誰も座ったことのないちんけなソファ。僕は壁掛け時計で時刻を確認する。五時五十一分。……ん?ああ、そうだった。壁掛け時計はずいぶん前から壊れて止まっていたんだった。いつからだったっけ?僕はジーンズの右ポケットから携帯電話を取り出して、サブディスプレイで時刻を確認する。午後十時三分。意外と長く眠っていたみたいだ。シャワーを浴びよう。

 僕は熱いシャワーで全身の汗を流した。髪もシャンプーを使って入念に洗った。ついでに髭も剃った。壁のタイルの間の水垢が妙に気になったけれど、今からそれを除去するのはさすがに面倒だからやめた。

 半乾きの髪を風にさらそうと思って狭いベランダに出た。上半身は裸で、肩にバスタオルをかけ、下は高校時代の部活のジャージを適当に穿いた。バニラの棒アイスを齧りながら安っぽい夜景を見渡した。ぼろアパートの三階から見える景色の悲惨なことといったらない。でも僕にはそれ以外、本当にやるべきことが思いつけなかった。外はまだ暑かった。アイスは半分食べたところで溶けてきて、持っている指に垂れた。僕は慌ててそれを吸い、残りの半分を一口に入れた。こめかみの痛みが引くまでのことは覚えていない。僕はべたついた人差し指とべたついた親指でつまんでいた木の棒をベランダから捨てた。棒は重力に飲み込まれるようにして下のコンクリートに落ちた。もちろんそれは目で確かめたんじゃない。からん、という音が僕に棒が落ちたのを教えたのだ。下はもう闇のものだったから。

 ベランダの戸を閉めてクーラーをかけることにした。今日はもうこれ以上扇風機を働かすわけにいかない。乾いた臭いとともに冷気が部屋を満たすのには時間はかからない。この部屋はそんなに広くない。カーテンを引き、メールの着信を確認し、テレビをつけた。着信は一件もなかった。一通りチャンネルをまわして、一番ましな番組を見るともなく見ていた。お笑い番組だった。たいして面白そうじゃない恰好をした二人組が出てきて、二分弱くらいの短い時間の中にまるで蝉みたいに叫び声を詰め込んで、それでたいして面白いこともしないままステージを降りた。次に出てきたのは見た目こそ派手なピンの芸人だったけれど、相変わらず中身は散々だった。やれやれ、人を不快にさせることは芸人の仕事じゃないだろうに。あんたらが頑張ってんのは百も承知でこう思うんだから、世話ないや。

 僕はテレビをつけっぱなしでポータブルゲーム機の電源を入れる。最近のやつじゃない。僕が小学生の時に流行った、今のに比べて格段に原始的なゲーム機だ。白黒の単純なゲームは画質もカセットのサイズも滑稽なくらいだけど、出来なくはない。少なくとも悲惨な空白の時間を潰すには不足ない代物だった。僕はこれ以外、ゲーム機の類は持っていなかった。これだって今日偶然発見したからやっただけだ。

接触が悪くて二回電源を入れ直した。画面の明度を調節して〈ポケットモンスター〉のロゴがちゃんと見やすい明るさになるようにした。そして僕は軽い虚脱を覚える。本当に軽い虚脱。セーブデータが全部飛んでいる。こんな時間にこんなモチベーションで初めから冒険をやり直せって言うのか。たまったもんじゃない。僕はゲームボーイをフローリングに放り投げた。衝撃で画面を黒い線が何本か横切った。それから何やら画面がひとりでにかちゃかちゃ切り替わるのが見えた。頭の奥の方が急にずきんと痛くなった。今日いきなりゲームをやりすぎたせいかもしれない。昨日僕はどうしてバイトを辞めたんだろう?本当に理由がわからない。どうして好きでもないゲームを七時間もやり続けたんだろう?なぜ空に灰色の虹が出なくちゃならなかったんだろう?

 〈コラッタはこんらんしている!わけもわからずじぶんをこうげきした!〉

 ゲーム機の画面はもう真っ白になって死んでいた。僕はそれを拾い上げて電源スイッチをオフにし、机に置いた。たぶん明日はやらないだろう。おそらく明後日も。


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