フィオナの再出発 ~見下されてきた結界術士は、正しく評価される場所へ行く~
この部屋で行われる仕事は、失敗すれば責められ、成功しても忘れられる。
◇
早朝の魔力調律室には、人影がなかった。
灯りを落とした室内には、魔機の低い唸りだけが響く。
本来なら、この時間に来る者はいない。
それでも、フィオナ・ラングはいつものように足を運んだ。
机には報告書が十件積まれ、背後では五本の魔力線が調整を待っていた。
精製炉の奥で、補助魔石が淡く光っている。
フィオナは一枚目を手に取り、数値を確かめた。
問題はない。
だが、そのままでは使えない。
手を付ける者がいない以上、自分がやるしかなかった。
下準備は済んでいる。
肝心の判断だけが、頼まれた形跡を消されたまま、フィオナの机に残されていた。
手を止めれば、この区画が落ちる。
問題が起きれば、責任は必ず動いた者に向けられる。
名義の担当はいる。けれど、現場の担当はフィオナ一人だった。
見直し案は出た。紙の上で止まり、現場には来なかった。
帳尻は合っていることにされている。だから誰も見に来ない。
見られるのは紙と数字だけだ。
周囲は、フィオナがそこに立ち続けることを当然としている。
手を止めればすぐに崩れる。
なのに周囲は誰一人として危機感を持たない。
崩れたときに責められるのは、『何もしなかった者』ではない。『動き続けた者』だ。
指は止めない。
止めた瞬間に壊れる。
視線は数値だけに落とす。
成果は残らない。
責任だけ残る。
四年前、十七歳のフィオナは国家直属の結界術士に任命された。
王都中央防衛区。王国を支える四大術式のうち『防』を司る第三部署だ。
選ばれるのは、成績と実技の双方で抜きん出た者のみ。
孤児院育ちのフィオナにとって、その配属は奇跡に近い出来事だった。
しかし、その重責を認める声はなかった。
評価は上司のものになる。
残るのは、外へ出す報告だけだった。
「これ、ちょっとだけ見てくれない?」「時間あるときでいいから、片付けてくれる?」「あの件も頼むね」「代わりに書類出しておいて」「ついでに整理しておいて」──最初に頼まれたのは、ほんの小さな雑務だった。
最初は断る理由も分からず受けただけだった。
一件引き受ければ、次の依頼は当然のように置かれる。
そうして記録整理や補助魔石の管理など、本来は分担されるはずの周辺業務までが、いつの間にかフィオナの担当として扱われるようになった。
どれも正式な分担表には載らず、誰の責任にもならない形で積み上がっていった。
断ろうと考えたときもあった。
しかし、言葉にする前に周囲の視線が刺さった。
誰かが置いていった仕事を拾い、隙間を埋めるように動くのが、いつしか習慣になった。
やがて、それは『当たり前』になった。
誰も「それはあなたの仕事ではない」とは言わない。「あなたの仕事でしょ?」と言外に示しながら、無言のまま次の依頼を積み上げてくる。
成果は上司の名で提出された。
作業記録には実施者名を記す欄がなく、誰が手を動かしたかは残らない形式だった。
ただ現場では、調整結果の癖や判断速度から『誰が触ったか』を察する空気だけが、暗黙の了解として共有されていた。
調整した術式が採用されても、会議で称賛されるのは別の職員だった。
フィオナの席には、拍手も視線も落ちてこない。
一度だけ、その矛盾を指摘したことがある。
しかし上司は鼻で笑いながら「勘違いじゃない?」と返しただけだった。
その言葉で、自分という存在ごと塗りつぶされた気がした。フィオナは小さく頷き、黙った。それ以外に選べる道はなかった。
言葉にできない違和感が、内側に残り続けた。
理不尽だと分かっていても、声をあげれば『扱いにくい人間』と印を押される。失敗すれば、責任は真っ先に自分に落ちるのに。
怖かった。
だから、言わなかった。
言えなかった。
そんなことに時間を割る余裕は、どこにもなかった。
今のフィオナにとって、何より大切なのは仕事を完遂することだった。
それでも、前に進めた。
理由は、彼。愛する人であり、恋人だ。
職場で出会い、最初は距離のある挨拶だけだった。けれど、休憩室で渡された温かい茶や、作業終わりに交わした短い言葉が積み重なり、少しずつ距離が縮まっていった。その小さな優しさが、フィオナには救いだった。
そんな彼から「付き合ってほしい、俺を支えてほしいんだ」と言われた瞬間、胸が熱くなった。そう思える日が来るとは期待していなかったから。
フィオナは、彼に誇れる自分でいたかった。
だから誰よりも努力を重ねてきた。
理由は、孤児として生きてきた過去にある。頼れる家族も、帰れる場所もなかった。物心ついたころから身を寄せた孤児院は、冷たい空気と諦めの匂いがこびりついた場所だった。
泣けば叩かれ、泣かなければ「冷たい」と責められる。何をしても褒められず、役に立っても叱られる。
そんな経緯から決めたのだ。誰にも頼らず、自分の力で立つ、と。
奨学生になるために、必死で勉強した。机に突っ伏したまま朝を迎えた日もある。眠気で文字が滲んでも、手だけは止めなかった。
そして飛び級を果たし、成績を積み上げたのは、ただ胸を張りたかったから。
この代償は、友人ができなかったことだろうか。同年代とは話がかみ合わず、年上からは『気を遣う存在』として扱われた。
誰かにあからさまに無視されたことはない。
だけど、呼ばれてもいない輪のそばに立つ居心地の悪さを、何度も飲み込んできた。
存在しているのに、気配だけが透けていくような感覚。『いないもの』のように扱われる日々の苦しさを、フィオナは骨の髄まで知っていた。
必要とされているはずなのに、存在は認められない。その矛盾は、心の深いところで少しずつ軋んでいった。
だからこそ、彼に「いてくれて嬉しい」と言われると、心が満たされた。
自分がここにいていい、と。そう思えた、数少ない瞬間だった。
だから今日も、休日の早朝に職場へ来た。
本来なら休めるはずの日に、それでも足を向けたのは義務感ではない。あの人のために『役に立てる自分』でいたかったからだ。
「祖父の体調が悪い。そばにいてやりたいのに仕事を放りだせない」と言う、優しい彼の仕事の肩代わりで。
彼の祖父は、孫の顔を見ているためか経過が良いらしい。そして、「まだ安心できない」と彼は言った。
その結果、正式な引き継ぎや分担変更が行われないまま、一年近く彼の仕事の一部を引き受け続けていた。
第三部署では慢性的な人員不足を理由に、細かな業務再配分は後回しにされるのが常態化していた。
誰も気づかない積み重ねだった。
──それを、あのころの自分は『愛情の形』だと信じていた。
◇◇◇
休日明けの午前、作業を終えたフィオナは報告書を抱えて資料室へ向かった。
扉を押し開けた途端、棚の奥から声が転がってきた。
「もう書類作成ばっかりで嫌になっちゃう」
女の声。若く、甘えたような響き──後輩のブリアンナだ。
書類の期限は守らず、内容も杜撰。親のコネで結界術士を名乗っている男爵令嬢だった。
どうやら誰かと話しているようだ。
「またフィオナにやらせれば?」
耳の内側で熱いものが逆流した。心臓がひどく強く打った。怒りとも悲しみともつかない感情が形を成さず暴れていた。
言葉を返す男の声は、聞き間違えようがない。
ヴィンスだ。第三部署で調整役を務め、会議や人員の段取りを回している男。
現場の負荷も把握している立場だ。
そして、フィオナが信じていた恋人──そのはずだった。
「そうしよっかなあ」
「ああ、それがいい。上手く使って賢く生きなきゃな」
「だよねえ。ていうか、フィオナ先輩なんて、ただの便利な人なのにぃ。あはっ、笑っちゃう。あなたのこと、結婚前提の恋人って思ってるじゃない。この前、『ヴィンスのこと支えたい』とか言ってて、笑いそうになっちゃった」
「便利屋だって気づかないでいてくれるのはいいんだけどな、勘違いはよしてほしいもんだ。孤児と結婚なんてさ」
記録用紙が手の中でぱり、と小さく鳴った。
「とか言ってぇ、ほんとは好きだったりするの? 先輩のこと」
「まさか。便利だから『恋人ごっこ』してるだけ。俺はブリアンナみたいな女の子が好きだよ。明るくて、とびきり可愛い女の子」
棚の陰で、フィオナは固まったように動けなくなった。
足音を立てたら、気づかれる。でも、今ここで顔を出す理由も、言葉も、何も浮かばない。
「それにさ、フィオナってなんか、ほら、『女』って感じしないだろ?」
「ひどぉい。あんなのと比べないでよぉ」
あははは。ははは。
笑い声が響いた。軽くて、嘲るような音。
さっきまで当たり前に存在していたはずのものが、指の間から崩れ落ちていく感覚だけが残った。
心が遠のいた。
足元だけが現実で、立っていることがつらい。息の仕方が分からなくなる。
理解したくない。
それでも、言葉ははっきり意味を結び、否定を許さなかった。
どうして? と、問いが浮かぶ。
答えはもう耳に届いている。
これが現実なのだと、ヴィンスとブリアンナの声が告げていた。
記録用紙を抱え込むように握り、一歩だけ下がった。
紙の角が皮膚に食い込む。
だけど離さなかった。
崩れ落ちなかった証を、手放したくなかった。
次に何をすればいいのか、考えようとして、思考が止まった。
仕事の段取りも、明日の予定も、頭に浮かばない。
代わりに残ったのは、『これまで積み上げてきたものは何だったのか』という空白だけだった。
支えにしていた言葉が、内側から剥がれ落ちていく──『役に立てば、ここにいていい』。
その前提が、音もなく崩れた。
扉を開けたときより音を殺し、何事もなかったふりをしてそのまま足を速め、廊下を抜ける。呼吸は浅く、速い。
視界が水気を帯びた。涙ではない、と何度も心の中で否定した。
泣いてはいけない。
泣いたら負けだ。
惨めさを証明することになる。
そんな役割まで与えられてたまるか。
「……もう『便利な私』は終わりよ」
その声は誰に向けたものでもなく、自分へ落とす決意の言葉だった。言葉にした途端、胸の内側で何かが崩れ、別の何かが立ち上がった。
◇
泣く暇も、怒る時間もない。
逃げたい気持ちと、それを許せない自分がぶつかっていた。
自分自身への問いが頭の中で渦を巻く。
本当に、このままでいいのか。逃げるのは弱さか。それとも、ようやく自分を守れるようになった証か。
決意は、一度で形になったわけではない。
立ち止まり、迷い、同じ問いに何度も戻った。
最後に残った言葉は、一つだけ。
ここで終わらせて、人生をやり直す。
求めるのは、努力がきちんと報われる場所だ。
今、動かなければ、『便利な雑用女』のまま。
声を飲み込み、我慢し、努力すれば報われると信じ続けても報いはない。
覚悟を決めて、フィオナは動き始めた。
◇
目を向けたのは、隣国メルン公国。
魔術制度を改革し、術士の待遇改善に積極的な国だと、以前から耳にしていた。
公的な募集は年に数度。国境を越えて採用される者もいる。狭き門だ。
職場の誰も出勤しない指定休務日を使い、準備に取りかかった。
机いっぱいに広げた通達と規約を前に、思わず息を吐いた。
一枚目を読んだだけで、条件の厳しさが分かった。
手順は複雑で、求められる精度も高い。
理解できない箇所に行き当たるたび、苛立ちが溜まった。
一度椅子に背を預け、目を閉じる。
逃げたら、また同じ日々に戻る。
その考えが、頭から離れなかった。
ページを閉じることはできず、もう一度開く。
辞典を引き、文を整え、必要なものを一つずつ揃えていった。
推薦状が必要だと知ったとき、白紙の便箋の前で、しばらく手が止まった。
それでも、かつての師の顔が浮かび、ようやく手紙を送ることにした。
だが、封筒を閉じる直前で、手が止まった。
本当に、頼んでいいのか。その問いが浮かんだ。
自分のために誰かに頼るのは、慣れていない。
弱みを見せるのは怖い。
でも、今ここで頼らなければ何も変わらないと分かっていた。
震える指先で封蝋を押す。
今度こそ、『諦めたくない』という気持ちが勝った。
師からの返事が来るまで、三日と待たなかった。
短く、「頑張りなさい」と添えられた言葉が、涙で滲んだ。
メルン式の文書形式に合わせるため、魔法言語辞典を片手に徹夜で書き直す日もあった。
自分の経歴を『自慢げ』と取られず、かつ的確にアピールする表現を探して、何度も何度も書き直した。
そして、ついに──
「フィオナ・ラング殿。貴殿を、メルン公国西境防衛局における第一級術士として、正式に任命いたします」
魔通信機の向こうの声は、儀礼を帯びた硬質な調子だった。
けれど、その一言が、これまでの人生を認める印のように響いた。
通話が途切れたあと、何もない部屋で一人、声もなく涙をこぼした。
嬉しさでも、悔しさでもない。
終わったはずなのに、心が追いついていない感覚だけが残っていた。
◇
フィオナは、本格的に退職の準備に入った。
二か月前、正式な辞職願を上司に提出する理由は『私的な都合』とだけ書いた。
引き留められるとは思っていなかったけれど、多少は何か言葉があるかもしれないと身構えていた。
しかし、そんなことは杞憂だった。
上司は書類の体裁だけを確かめ、内容には踏み込まず、「あっそう」とだけ頷いただけだった。
「引き継ぎ資料は残していきますので」
「ええ? いらないよ。君の作業って、補助とか整理だろ? 慣れた子に回せばいいから」
一瞬、言葉を理解できなかった。
今までの日々は何だったのか、と脳が追いつかない。
「……私が辞めても、問題ありませんか」
「もちろん。君の替えなんてたくさんいるよ」
「……」
その声に、焦りも罪悪感もなかった。
日々の業務が滞らず回っていた以上、上司にとってフィオナの役割は、確認する必要のない前提に成り下がっていた。
その声音は、『今までフィオナが何を担っていたか』を本気で理解していないものだった。
フィオナは「はい」とだけ答えた。
その言葉の裏に、何年分もの疲労と諦めが沈んでいることに、彼は気づかなかった。
「できれば、退職の件は……周囲には、しばらく内密にしていただけますか?」
「はいはい、分かった分かった」
上司は何も考えていない顔で頷いた。
すぐに忘れるのだろう。
この職場にいたことも、成果も、顔も、名前も。
それでいい。
むしろ、それが望ましかった。
上司への報告が終わり、席に戻ると机には、報告書がまた積まれていた。
差し出し元の署名はどこにもない。まるで、最初から『誰がやったか』など重要ではないと言われているようだった。
「フィオナ先輩なら分かるでしょ? 置いときますねえ」
通りすがりのブリアンナの声は軽い。
頼みごとですらなく、呼吸のように自然に積まれていく。
「……担当者署名がないわよ」
「あ、そうでした? でも先輩なら分かるじゃないですかぁ? 皆さんもそうしてますし。書かなくても困りませんよね?」
その通り。ブリアンナも周囲も困らない。
なぜならその仕事を、黙って処理し続けてきたのがフィオナだったから。
「……そう。分かった」
「じゃあそういうことで、よろしくお願いしまぁす」
笑いながらブリアンナは去っていった。悪気など、本当に一片もない声だった。
資料の山を見下ろし、フィオナは長く息を吐いた。
ここでは、最後の瞬間まで、自分は『都合のいい誰か』のままなのだ。存在感は、便利な手足としての枠を超えない。
誰も、本当の意味で自分を見ていなかった。
その日の帰り際、ヴィンスが廊下の曲がり角で待っていた。
「今日も少しだけ手伝ってほしいんだ。祖父の様子が良くなくてさ。今はそばにいてあげたいんだ。だから……いいよね?」
言葉より先に、当然のように寄せられた視線が答えを要求していた。
その声音は、かつてと変わらない優しさをまとっていた。
けれど、その奥にある意図はもう見失わない。
「持っている仕事が手いっぱいで……もう手伝えないの。これからは自分の仕事は自分でしてもらえる?」
言った瞬間、空気が変わった。
ヴィンスの眉がわずかに動いた。笑みを保とうとしているのが分かる。
今まで一度も向けられたことのない種類の沈黙だった。
「そこをなんとかさあ、頼むよ。な? こんなこと頼めるのはフィオナだけなんだよ」
そう言うと、ヴィンスは一歩踏み込み、触れようと手を伸ばしてきた。拒否される可能性など、考えたことすらないような仕草で。
ぱんっ、と乾いた音が響いた。
ヴィンスの頬にフィオナの手の跡が赤く浮かぶ。
反射だった。気持ち悪いと思った。触れられたくない、と。
「……何するんだよ」
彼の声は低く、苛立ちが混じっていた。いや、これが『素』なのだろう。
「あなたが私に求めていたのは、恋人じゃない。都合のいい手伝い相手でしょ?」
言葉は淡々としていた。怒りではない。もう燃える感情は残っていない。
ヴィンスは鼻で笑い、肩をすくめた。
「……じゃあ終わりだな。別れよう。でもまあ、謝るなら許してやるよ。どうせ、俺以外にお前を選ぶやつなんていな──」
「分かった、別れましょう」
短く返したその言葉に、もう迷いが一欠片も残っていないのを自分でも理解していた。
胸のどこにも痛みはなかった。
ヴィンスが「信じられない」とでも言うような顔をしたが、返事を待つこともなく背を向けた。
◇
二か月後。
退職届の最終承認を受け、身分証と職員印章を返却し、フィオナはリカスラータ王国を離れた。
返却した職員印章は、思っていたより小さく、重さはなかった。
◇◇◇
メルン公国・西境防衛塔。
初日、門前に立っていたのは、西境防衛塔の責任者でありメルン王家の王弟殿下だった。
硬さではなく礼節をまとう姿で、その眼差しに曖昧さはなかった。
隣には近衛騎士が立っていた。
「術式調律に関する記録は確認した。書類だけでなく、現地で実施した実技試験と即時調整への対応も見ている。前任地からの推薦状の内容とも照合した。作業精度は基準値の一二〇%を超えている」
返事が喉の奥で止まった。
褒められたことに戸惑い、反射的に否定の言葉が浮かぶも、それを押し戻す。
目の前の人物は、お世辞でも気休めでもなく、ただ事実を告げている。その確かさに、体の芯が少しずつ温まっていくのを感じた。
「期待に応えられるよう、努力いたします」
王弟殿下の一言が、ずっと内側で冷えたままだった心に火を点けた。
経歴を正確に把握し、正面から評価し、言葉にして伝えてくれる。
そんな当たり前のことが、どれほど久しぶりだったか……もう思い出せない。
◇
ここでの日々は、一つひとつが驚きだった。
分担は明確に決められているが、書式や判断基準は前任地と異なり、慣れるまでは戸惑いもあった。
それでも成果は記録に残り、貢献は隠さず共有された。
調律作業には最新の補助機構が揃っていて、長時間の無理な勤務は、むしろ禁止されていた。
初めのうちは、信じきれなかった。
机の端に置かれた作業割り当て表には、自分の名前だけが雑務扱いで並んでいることも、手書きの付箋で仕事を押し付けられることもない。
分担表は誰の目にも見える場所に掲示され、責任者の署名がある。
証拠があるというだけで、こんなにも世界は違うのかと気づく。
そのたびに、足元がふわつくような感覚に襲われた。
定時になって周囲が自然と席を立つたび、何かを忘れているような気がした。
机に残る自分が正しく、帰っていく彼らが間違っているように感じた。
本当は彼らの方が正しいのだと、頭では分かっていた。ただ、それを認める心の準備が追いついていなかっただけだ。
その葛藤は、しばらく消えなかった。
けれど、上司に言われた言葉でフィオナは考え方を変えることになる。
「帰らないのか? 明日倒れたら困るのは君じゃなくて塔だぞ?」
そこには当然のように『君は必要な人材だ』という前提があった。その言葉が、ひどく沁みた。
フィオナの考えは、時間と共に変わり始めた。
肩の力が抜けて、呼吸が深くなる。
疑う癖が消えたわけではない。
それでも、信じてもいいと思える瞬間が、以前より増えていた。
……これが、求めていた職場なのだろうか。
仕事が落ち着いたタイミングで、同僚たちが「歓迎会をしよう」と声をかけてくれた。
魔力理論の話で盛り上がり、最後には「実際にそれ、試してみようよ!」と皆で新式展開を立ち上げた。
意見を述べれば耳は傾けてもらえる。それだけのことが、こんなにも嬉しいのだと、初めて知った。
仕事が終わると、不思議な静けさが残った。
疲労ではない。達成のあとに残るのは余韻だ。
その感覚を、名前をつけるように馴染ませながら、歩く足取りが自然と軽くなるのを感じた。
気づけば、休日の朝も少しずつ楽しみに思えるようになっていた。
◇◇◇
メルン公国にきて四か月が経ったころ、休暇の朝に、同僚から勧められた店を探しに市街へ足を向けた。
だが、地図の看板と通りの表示が一致せず、フィオナは道の真ん中で立ち止まった。
焼きたてのパンの香りが漂う路地を眺めながら地図を確認していると、名前を呼ぶ声が届いた。
「ラング術士?」
「あっ……ニール様……」
振り返ると、塔で王弟殿下の傍らに立っていた近衛騎士のニールがいた。
鎧も剣も帯びていない。休日仕様の軽い身なりだった。
「迷われているように見えた」
淡々とした声。失礼でも好意的でもない。ただ職務の延長のような響き。
「このあたりは道が入り組んでいる。初めてなら案内しよう」
一瞬迷った。
人に頼る習慣は、まだ身についていない。
それでも、この国では『助けを求めること』が弱さではないと、少しずつ理解し始めていた。
その小さな確信に背中を押され、フィオナは小さく頷いた。
ニールは歩幅を合わせて先導する。
余計な会話はなく、必要な説明だけが簡潔に紡がれる。
「ここが市場通り。生活用品ならほとんど揃う。午後になると混むから、午前に来るといい」
「ありがとうございます。助かります」
礼を言うと、ニールはほんの一拍遅れて視線を向けた。
「……職務上、塔の術士が困るのは避けたい」
感情を押し隠した声音。
けれど、その横顔にはわずかに柔らかさがあった。
フィオナが返事に迷ったまま黙ると、ニールが視線だけ向けた。
「新任の術士は皆、迷う」
慰めでも励ましでもない、経験からこぼれた言葉。
「そこだ」
示された先には、同僚が話していた店の看板が風に揺れていた。
フィオナが礼を言おうとしたとき、ニールが短く言葉を添えた。
「入るのなら混む前がいい。ここは評判がいい」
そのまま立ち去る気配だったが、店先の行列を見て一拍だけ歩を止めた。
「では」
「あ、あのっ……もし、お時間があるなら。一人では少し心細くて……ご一緒していただけませんか?」
言い切ったあとで、自分でも理由が分からず息が詰まった。
誘うつもりはなかったのに、言葉が口先までこぼれていた。
なぜ誘ったのか自分でも整理できず落ち着かないでいると、ニールが横目でこちらを見る。
「……俺が甘味好きだと、どこかで聞いたか?」
「えっ」
意外すぎて、思考が一瞬止まった。
堅物な近衛騎士の口から出る言葉として、あまりに予想外だった。
「い、いえ、聞いてません」
「……す、すまない……てっきり……」
「まあ……ふふっ」
意外な言葉に緊張が解かれ、店内へ案内され、気づけば席に着いていた。
運ばれてきた皿の上には、小さなタルトと蜂蜜のかかった焼き菓子が並んでいた。
ニールは淡々とフォークを入れたが、その仕草は丁寧だった。
「お仕事のときとは、雰囲気が違いますね」
思わずこぼした声に、彼はわずかに目を瞬かせた。
「甘味の前で威圧しても仕方がない」
「そうですね。うふふ……あ、ごめんなさい、笑ってしまって……」
「いい。ラング術士に他意がないのは分かる。その代わり、俺が甘味に目がないことは他言無用で頼む」
「ええ。誰にも言いません。秘密にします」
「助かる」
表情はほとんど変わらないのに、声色だけがわずかに和らいだ。それがこの短い時間を特別なものにしていた。
言葉が途切れても、不快にはならなかった。
店内の賑わいが遠くにあるように感じられ、言葉より空気のほうが会話になっていく。
タルトを口に運んだ瞬間、息が自然と深くなっていることに気づいた。
身構えなくてもいい国が、確かにここにある。
その実感が、ゆっくりと心の中に沈んでいった。
◇
塔での生活が始まって数週間、顔を合わせるたび、ニールは簡潔に声をかけてきた。
「書類の提出先は東棟だ」「その術式図は、俺が運ぶ」
必要最低限。それ以上でも、それ以下でもない距離。
けれど、その線引きは拒絶ではなく、配慮から生まれたものだと次第に分かってきた。
「あの、ありがとうございます……」
ニールは表情を変えなかった。
ただ、一拍だけ視線が揺れた。
「……いい。気にするな」
その言葉は淡々としているのに、不思議と支えられている気がした。
◆◆◆
一方、リカスラータ王国では、中央防衛区『防』第三部署の一部運用で不具合が連鎖し、上層部に報告が上がり始めていた。
第三部署が受け持つ供給網の一系統で、再調整手順が共有されないまま歪みが重なっていく。
数か月にわたって未提出の報告が積み上がり、補助魔石の精度も低下していった。
その前段階として、微細な数値誤差の報告が内部で握り潰されていたことを、監査官は後に把握する。
調律ミスが断続的に続き、最終的に該当系統の運用は停止に追い込まれていた。
廊下の片隅では、ひそひそ声が飛び交っている。
「……王議会が監査官を派遣したって本当か?」
「責任の所在を明確にするまで、問題の系統は運用停止命令が出たらしい」
「第三部署のやつら一体何をしてたんだ……?」
定例報告会議では沈黙ばかりが続き、提出されたはずの資料はどれも空欄や誤字のまま放置されていた。
主任補佐が記録石を再生しながら顔を歪める。
「……これ、ラングが調整したあとに更新されてない。誰も触ってないのか?」
沈黙が広がる。視線は書類と机を往復し、誰一人として答えようとしない。
第三部署では、該当系統の担当班を中心に焦りが広がり、職員たちは互いに責任を押し付け合っていた。
それは突発的な事故ではなかった。
長年積み上げられてきた運用の歪みが、限界を越えただけの結果だった。
「ラングがいないと、あの系統が回らない」
誰かの呟きに、空気がさらに重く沈む。
その言葉を否定できる者は、この場にいない。
「今さら誰が代われっていうんだよ」
「この調整式、誰が作ったんだ!? どこにも書いてねえんだけど!?」
「え? フィオナ先輩が整備してたって聞いたけど……俺、あの人の手順知らないし」
「じゃあ誰か分かるやついるのかよ!」
「分かる人、いる? ……いない? 本当に誰も?」
「なんで誰も知らねえんだよ!? なあ、あんた把握してたんじゃねぇのか!? 直属の上司だろ?」
「わ、私は……ラングに任せていて……」
怒声と焦燥、責任の押しつけ合いが、執務室のあちこちで飛び交う。
「ヴィンス、これどうすんのよ!? これ、私じゃ無理よ!」
「無理って言うなよブリアンナ! ……俺だって、分からない!」
二人の顔は青ざめていた。
その場にいた誰一人として、代案を出せなかった。
混乱は収まらず、責任の所在だけが宙に浮いたまま、事態は上へと持ち上げられた。
数日後、処分が下った。
ブリアンナは全ての術務から外され、親のコネで得ていた立場も失い、物品管理を担当する倉庫係へと回された。
評価には不適格と記され、再び術務に戻る道は閉ざされた。
ヴィンスは調整役を解任され、判断権限を剥奪されたまま、責任も裁量も与えられない雑務要員として配置された。
肩書を拠り所にしていた彼にとって、その立場はもはや誇れるものではなかった。
いつも都合のいいときだけ頼っていた『便利な存在』が、もういない。
その穴を埋めようとして初めて、押しつけていた作業の重さに気づいた。
「これ、ラングさんが残してくれた引き継ぎ資料?」
「ああ! それを見よう!」
「……でも何一つ理解できない……何が書いてるのか分からない……」
「はあ? なんで?」
「今まで全部ラング先輩に丸投げしていた証拠だ」
「任せていたつもりなんかじゃない……」
そう言いかけた声は弱く、言葉の行き場を失った。
任せていたのではなく、押し付けていたのだと気づくには、あまりにも遅かった。
「読めるはずなんだ……」
書類はある。
手順も残されている。
だが、そこに記されているのは、正式記録として認められていた範囲の骨組みだけだった。
現場では、その都度の判断と経験に基づく微調整が積み重ねられ、それを記録として残す仕組みが存在しなかったため、理解できる者は、いつの間にかフィオナ一人だけになっていた。
更新は即時対応を優先した現場判断で積み重ねられ、その多くが正式記録に反映されないまま運用されていた。
判断基準を共有されていない以上、誰一人として現行の系統を正確に再現できなかった。
『理解できない』のではなく、理解しなくても誰かが代わりに背負ってくれていた。
新しい手順は都度変わる。
しかもその判断基準は、担当者の経験と即時判断に依存していた。
それが三度続けば、記録だけを読んでも再構築できない別物になる。
崩れていくのは術式だけではなかった。
信頼も日常も前提も、そのすべてが、フィオナ・ラングというたった一人の術士に支えられていた。
それが失われて初めて、全体が成り立っていなかったことが露呈した。
上層部には、もはや退職記録しか残っていない。「引き留めるべきだった」と、誰もが口にした。
問題が表面化してから初めて、王議会は監査官を派遣した。
日常運用には関与していなかった彼らの判断は、制度と責任の整理にのみ向けられていた。通達は淡々としており、そこには情けも猶予もない。
『必要な人材を、正当に評価せず、役割も責任も曖昧なまま酷使し、結果として失ったのは、そちらである』
それ以上の交渉は許されなかった。
それだけの文で、全てが終わっていた。
もう遅かったのだ。
第三部署は担当範囲の再編を命じられた。
技術的には立て直し可能と判断されたが、王議会は予算と責任問題を理由に、継続を認めなかった。
特定個人の即時判断に依存した運用形態は、再建よりも解体した方が安全だと判断されたためだ。
問題の系統は第一部署と第二部署へ切り分けて移管された。
一度は、上層部の一部で再招集案も検討された。
しかし、水面下で行われた外交折衝は不調に終わり、本人への接触が検討される前に、メルン公国との正式雇用契約に基づき、丁重な辞退の返答が届いていた。
フィオナがいる日常は当たり前で、替えがきくと思い込んでいた。
だが、ようやく理解した。
当たり前にそこにいた人間ほど、失ったあとに残酷な空白を残す、と。
過小評価し、見下し、便利屋として扱ってきた結果が、今この混乱となって返ってきていた。
◆◆◆
街の喫茶店。
紅茶の香るカップを片手に、フィオナは今日もページをめくる。
この国に暮らし始めて、一年。
ようやく、緊張せずに『日常』と呼べる時間が増えてきた。
高く澄んだ空に、やわらかな風が流れている。
「さて、明日は設計班と調整会議ね。……ふふ、楽しみ」
声には張りがあり、目には光が宿っている。
もう、誰の影にもならない。
誰かの代わりでも、便利な存在でもない。
「フィオナ」
ふと、呼ばれた優しい声に振り返る。
そこにいたのは、休日になるとこの店で顔を合わせるのが習慣になったニールだった。聞き慣れた声なのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
「待たせたか?」
「ううん、全然」
ふと、二人の席の横を数人の客が通り過ぎた。
「──聞いたか? 例の国の一年前のやらかし」
「聞いた聞いた。でも、発表が今かよって話だよな」
「防衛区で監査が入ったなんて恥だからな。言わないってことにしたんだろうさ。ま、でも人の口に戸は立てられないから『今』なんだろ?」
「なるほどなあ。書類も術式も滅茶苦茶だったとか、責任者が更迭って本当なのかねえ」
「予想だけど本当だろうさ。人事局まで巻き込まれたって話だからな」
声は店のざわめきに紛れ、遠くへ消えた。
フィオナは振り返らなかった。
ただ、息を吸い、紅茶の香りと一緒に心の深い場所へ流す。
もう、過去に引き戻されることはない。
【完】




