第6話 否認をほどく歌、砦に畑を敷く
門内の空気は重く、湿っていた。否認の煙がうっすらと層になり、灯に近づけば揺らぎ、鼻腔に入れば言葉の輪郭をぼやけさせる。
レオンは鼻からゆっくり息を吸い、舌の上で苦味と甘味の位置を確かめる。《薄荷根》の涼しさが奥に、小さな蜂蜜の余韻が喉に――まだ判断は利く。
「配置、始める」
レオンは砦の中庭にチョークで線を引き、香炉を三つ据えた。門の左右、そして井戸の側。配合は《火摘み草》《薄荷根》《聖樹樹皮》。火は弱く、灰は薄い。
「“壁”じゃない、“川”だ」
ガイウスが頷き、門楼の上に弓兵を再配置する。「射点を上下に二段、交互。敵の狙いを崩す」
リサは矢束に自作の印を付けた。矢羽の一部に、霧を切る細い油筋。飛べば空気の筋が薄く光り、目には見えぬ敵の軌跡に“しるし”が乗る。
エリスは神官たちを集め、祈りの“骨”を説明する。
「名前は呼ばない。形容は避ける。……昔話の節回しで、音だけを置く。――歌いなさい。意味は後から、聴く者が与える」
戸惑いの色が混じる顔に、彼女は優しく笑った。「祈りは所有物じゃない。流れるもの。止められないなら、形を変えて流すの」
角笛が短く鳴った。
門楼の陰から、黒い靄がまた一筋、這ってくる。靄は地に近いほど濃く、人の言葉の高さを嗅ぎ分けるように揺れた。
「香を強めろ」
レオンが香炉の蓋を指二本ぶん滑らせる。乳白の煙が薄く厚みを増し、靄の縁が退く。
エリスが低く歌い始めた。
ゆらり、ゆらり――麦を梳く手つきのような拍。はじめはひとり、すぐにふたり、やがて十人の声が重なる。
意味の輪郭が曖昧な音は、否認に掴まれない。掴もうとすれば、砂のように指の隙間から零れる。
「来るぞ!」
門の外で、見えない矢が鳴った。空気が裂け、矢の“気配”が音より先に皮膚を掠める。
リサが弦を鳴らす。彼女の矢は敵の矢に重なる“高さ”で走り、空のどこかで見えない何かを弾いた。
「右上、二の的!」
見張り台の兵が叫ぶ。印付きの自軍の矢が残した薄い光筋が、谷の岩棚の影へ吸い込まれていく――そこだ。
ガイウスはためらわず命じた。「上段、三連!」
弦が鳴り、木と骨の矢が放たれ、岩棚の陰に何かが崩れた手応えがあった。
「一座、沈黙!」
煙は、なおも寄ってくる。否認は音を喰い、言葉を削り、祈りの枠を崩す。
レオンは香炉の間に白い線を描いた。石灰と《銀糸蘭》の粉を混ぜた粉――《灰路》だ。
「灰路に足を乗せて。歩幅はこの印。兵も神官も、歩くリズムを合わせる。――短く、長く、長く、短く」
土の拍子。畑の朝に合わせていた呼吸と同じ拍。
兵たちの足が灰路を踏み、音のない太鼓のように中庭に拍を刻む。
否認の靄は、拍に“芯”を見つけられない。曖昧な音塊に、曖昧なまま押し出される。
「煙、退く」門楼上の兵が呟いた。
その時、砦の奥から担架が運び込まれた。
「既存の治療に反応なし! 出血止まらず、視界の幻覚を訴え!」
レオンは駆け寄る。若い兵だ。腕に黒い紐の焼け跡が走り、傷は浅いのに血が止まらない。血は“さらさら”と流れ、身体の中の川が堰を失ったようだ。
「《銀糸蘭》の膜で塞いでも、内側からほどける……」
エリスが唇を噛む。祈りの音を変えても、血の“否認”は別の層だ。
レオンは短く考え、乾燥袋から微量の黒い粉を取り出した。《冬眠茸》だ。極少量で代謝の拍を落とす。
「ほんの針の先ほど。拍を下げる。流れすぎる川をいったん凪に」
彼は水に溶き、布に含ませ、患者の舌に触れさせた。
「エリス、声は低く。心臓の鼓動よりわずかに遅い拍で。――ガイウス、肩を固定。動脈の上を圧迫、だが締めすぎない」
指示は短く、迷いがない。
歌が低くなり、鼓動が歌に引かれるように遅くなる。
レオンはそこに合わせて、《銀糸蘭》と《灰蜜》の薄膜を重ねた。止まらぬ川は、ようやく淀みを得る。
患者の呼吸がふっと整い、色のなかった頬に薄い赤が戻った。
「……止まった」
エリスの肩からわずかに力が抜ける。
「記録する」
医務係が駆け寄り、マルコの書板――写しの規格に合わせた紙に、拍数、投与量、反応時間を記す。
「ここでも数字で護る」レオンは小さく笑う。「“奇跡は測れる”を、砦でもやる」
「君の故郷は畑か、それとも帳面か」ガイウスがからかう。
「土の上で数字を書くの、好きなんだ」
◇
日が傾く。
否認の煙は薄くなったり濃くなったりしながら、砦を舐める蛇のように揺れている。
リサは矢座の煙の配合を真似た小さな煙筒をいくつか作り、門の外に投げさせた。「目眩ましだ。相手が使う匂いを紛らせる」
ガイウスは射点と射角を三度入れ替え、敵の矢の精度を落とし続けた。
エリスの“歌祈り”は神官たちに広がり、兵たちは灰路の上で拍を刻むことに慣れてきた。中庭の空気が、少しだけ軽くなる。
「リカルド」
レオンが呼ぶと、勇者は短く応じた。彼の顔には疲労が積もり、それでも眼差しは逸れない。
「聞きたい。あの矢と煙、誰が持ち込んだ?」
「北境の市で、見慣れぬ流れ者の工匠が売っていたらしい。最初は“祈りに届く矢”だと説明し、神官の祝福に強くなると言った。……だが実際は逆だった。祝福を壊す」
「商隊は?」
「足取りを追ったが、境の向こうへ抜けた。獣人連合だけの仕業とは思えない。外の誰かが、内の誰かを使った」
リサが唇を尖らせる。「矢の編み紐の癖が、境外の織り方に近い。あんたの畑で見たやつとは違う。……多分、祈りを憎む連中の手癖だ」
エリスは視線を落とし、祈りの書の余白に短く印をつける。「祈りを憎む? 祈りは誰のものでもないのに……」
「憎しみは『誰のものでもない』を許さない」
レオンはそう言ってから、自分でも驚いた。口に出すと、土の匂いが薄くなる気がする。
「だから、やることをやろう。――否認の源を断つ。煙は“鏡”を欲しがる。言葉の表を食うなら、裏から渡す」
「裏?」ガイウス。
「畑で使っている“裏返し”。根から水をやる代わりに、葉の気孔から湿りを入れることがあるだろ。祈りも、音の裏側から浸すんだ」
エリスの瞳がかすかに光る。「やってみる価値がある」
彼らは門楼の内側、石壁のくぼみに小さな“響き袋”をいくつも吊した。羊腸を乾かして拵えた薄い袋に、微量の《薄荷根》と《白穂草》の粉を入れる。
袋は風でほとんど鳴らないが、人の胸の中でだけ音に変わる。祈りを声に出さず、内側で“感じる”。
エリスが合図し、神官・兵・市井の者――皆が目を閉じた。
呼吸が揃う。灰路の上で足裏が受ける拍が、胸の内の拍と重なり、否認の靄に“芯”が見つからない。
煙は進みあぐね、川のように香の層へ押し流される。
「今だ、外の矢座に一撃!」
ガイウスの号令で、矢が唸りをあげた。
リサの合図煙が一瞬だけ濃くなり、敵の影が輪郭を失う。
矢が岩棚の縁に集まり、黒い何かが転げ落ちる影が見えた。
門外の空気が、少しだけ澄んだ。
◇
夜。
砦の中庭には焚き火がいくつも灯り、鍋の湯気が上がる。否認の靄はまだ完全には消えていないが、昼ほどの濃さはない。
疲れがどっと押し寄せ、笑い声が慎ましく戻る。
レオンは医務所の片隅で、今日一日の記録をまとめていた。投与量、反応時間、合併症の有無、再発率。紙の上の数字は、不思議なほど温度を持っていた。そこに、それぞれの顔が乗るからだ。
「……これだよな」
背後からリカルドの声。
振り返ると、勇者は不器用に背を丸め、紙を覗き込んでいた。
「昔、お前が野営の夜にやっていたこと。俺たちは寝転がって焚き火を見て、これからの戦いの話ばかりしていた。お前はひとり、誰がどのくらい食べ、どのくらい眠り、どのくらい傷ついたか、帳面に書いていた」
レオンは肩をすくめる。「覚えてない」
「覚えてる。俺は、覚えてる」
しばし沈黙が落ち、火がぱちぱちと弾けた。
「……すまなかった」と、ようやくリカルドが言った。「要らないと言ったのは、俺だ。言い訳はいらない。判断が遅かった。お前の畑が、俺を助ける」
「畑は、誰でも助けるよ」レオンは紙を閉じ、勇者の目を見た。「次の判断を正しくする。それでいい」
エリスが笑顔で近づき、木椀を差し出す。温かいスープの匂い。《白穂草》で香りづけしてある。
「体の芯を暖めて。明日も働くのだから」
リサは壁にもたれ、弓弦を指で撫でる。「明日の風も読んどけよ。あたしは匂いを読むからさ」
ガイウスは短い休息を告げ、見張りの交代を滑らかに回す。
夜空は低く、星は少し霞んでいた。
レオンは焚き火に手をかざし、香炉の配合の微調整を書き加え、最後に「歌の拍=土の拍」と記した。
祈りは届いた。形を変え、裏から、届いた。
だが――終わりではない。
◇
夜半。
風向きが変わった。北から、皮膚にざらつきの残る乾いた風。
見張り台の兵が小さく叫び、角笛が一度、低く鳴った。
「敵影!」
門楼に駆けあがったガイウスが目を細める。谷の向こうに、灯りの列が見えた。動くたび、灯りの間隔が揃い、秩序ある行軍の匂いを放つ。
「軍だ。三列縦深。……旗は?」
リサが視力を絞る。「黒地に骨色の糸の輪。その内側に斜めの印。――見たことがない」
エリスが息を飲む。「“祈りの骨を砕く輪”……古い禁符の意匠に似てる」
レオンの背筋に冷たいものが走った。矢と煙の背後にいた“誰か”が、名を隠したまま前に出てくる。
「夜明けを待たない。今、準備だ」
レオンは香炉に新しい配合を流し込んだ。《火摘み草》を少し減らし、《聖樹樹皮》を増やす。焦りは火を強くする。火が強ければ、香は荒くなる。荒い香は風に嫌われる。――焦りを沈めろ。
ガイウスは兵を呼び、矢の配分を変える。
リサは矢羽の油を塗り直し、弦を張り替える。
エリスは神官たちに囁き、歌の音型をさらに簡素にする。音節を削ぎ、拍だけを残す。
門の外で、足音が地面の奥へ入ってきた。数えきれない拍。
否認の靄は薄い。しかし、敵の持つ“骨砕きの輪”が、祈りの骨に爪を立てるイメージが脳裏に浮かぶ。
レオンは掌を胸に当て、畑の朝と同じように呼吸を合わせた。
短く、長く、長く、短く――
「来る」
夜の闇がわずかに白み、旗の輪が風に震えた。
矢の前触れ。
レオンは低く言った。
「砦を耕すぞ」
香炉が一斉に吐息を漏らし、灰路が白く光る。
歌が、言葉にならない歌が、胸の内で満ちていく。
数えきれない足音に、砦の拍が重ね返される。
“否認”は、まだそこにある。
だが、届かない祈りなど、ここにはない。
畑は遠い。
けれど今、この砦の石の間、灰路の上、香の川の端に――畑は在る。
レオンは前を見た。
風は、こちら側にいる。




