第4話 香りの壁、聖地の規律――畑を護るということ
朝の祈りが終わると、巡礼の列は自然と秩序を保つようになってきた。
神殿の臨時詰所には青い花弁の旗が掲げられ、受付の台の上には小さな木牌が並ぶ。赤は重症、黄は中等症、白は軽症。マルコの帳場では木牌が受け渡されるたびに小さな鐘が鳴り、通番が記録されていく。
「番号札三二番、前へ。胸の痛みはいつから?」
「三日前から……」
「よし、《白穂草》の蒸気吸入を。胸郭を温める。――深呼吸、ゆっくり」
レオンは患者の肩に手を添えて呼吸のリズムを整えながら、エリスの視線だけでやり取りする。祈りと薬草の間に言葉はいらない。必要なものは、互いの“間”だけだ。
ガイウスは畑の通路を騎士二名とともに巡回し、畝に入らぬよう見張る。鍛冶屋の息子――トマと名乗った――は乾燥棚の出入りを仕切り、村の主だった者がボランティアで湯釜や薪を管理している。
“畑の一日”が、少しずつ型を持ちはじめていた。
◇
正午の少し手前、マルコが帳場から顔を上げた。
「レオン、供給計画を聞きたい。王都への卸しについて、今日の時点で見込みが立つものを教えてくれ」
「《醒香葉》小束百二十、《銀糸蘭》乾燥粉二十瓶、《火摘み草》乾燥束五十。――ただし、いずれも畑の回復と植え替えのサイクルを守ることが条件だ。掘り取り過ぎれば、来月は目減りする」
「わかっている。短期の数字に飛びつくと、長期の収益が死ぬ」
マルコの眼鏡が光る。彼の声は素っ気ないが、帳面に走る筆致は正確で速い。
「対価は王都通貨で払う。他に必要なものは?」
「井戸をもう一本。乾燥室の棚増設と、軒の延長。それと――」
レオンは畑を一望し、僅かに眉を寄せた。
「“香りの壁”を張りたい」
「香りの壁?」とガイウス。
「《火摘み草》と《薄荷根》《聖樹樹皮》を低温で焚き合わせる。風の向きに沿って、香の層を作るんだ。小虫や魔物の嗅覚を鈍らせ、畑の匂いを隠す。人には心地よいが、獣には“不味い森”に感じるはず」
エリスが目を見張った。
「防壁を、香りで……面白い」
マルコは即座に算盤をはじく。
「材料は畑由来で自給できる。維持コストは薪と人員、初期設置に手間――悪くない。数値化と検証結果の記録を条件に承認しよう」
「承認?」ガイウスが口元を緩める。「誰の命令でもないだろう、監査官殿」
「数字の命令だ」マルコは肩をすくめた。「君たちは剣で護る。私は崩れぬ仕組みで護る。――彼は香りで護る、というわけだ」
◇
午後、風向きが東へ変わったのを見計らい、香炉を畑の外周に等間隔で据えた。
トマが慣れた手つきで薪を組み、灰の温度を保つ。レオンは配合した香料を薄く敷き、蓋を半ば閉じた。
ふわり、と乳白の煙が立ち上る。薄い、けれど確かな層。鼻腔の奥が少し涼しくなり、頭が軽くなる。
「すごい、森の匂いが変わりました」エリスが小さく息を呑む。
「壁というより、風の“織物”だな」ガイウスは指を煙にかざして言う。「視界は遮らず、匂いだけを撚り合わせる。戦場の幕より賢い」
「……おい、あれを見ろ」
見張りの騎士が丘のむこうを指さした。乾いた土を黒く塗るように、粒の群れが波打って近づいてくる。フォルミア――蟻の魔物だ。先日の群れとは比べものにならない数。
「数百はいるな」ガイウスの声に緊張が走る。
「“香りの壁”、試運転の相手としては分かりやすい」マルコは冷静にメモを取る。
「患者を詰所に入れて。入口は一つ。子供と老人は奥へ。――落ち着いて!」エリスは周囲に声を掛け、巡礼者の動線を整理する。
黒い群れは丘の斜面でひとかたまりになり、畑のほうへ向きを変えた――その瞬間、群れが波形を歪める。先頭のフォルミアがぴたりと止まり、触角を振り、じり、と後ずさった。
「……止まった?」
二列、三列――次々と歩みが鈍り、やがて群れ全体が“大きな円”になって畑を迂回しはじめる。香の層が、畑の匂いを風に溶かし、別の方向へ導いたのだ。
「やった……!」トマが拳を握った。
「風が変われば、群れも流れる。――追い風に乗る匂いのほうを選ぶのさ」レオンは香炉の蓋をわずかにずらし、煙の厚みを整える。「“壁”というより“川”だ。流れを作れば、生き物はそちらへ行く」
ガイウスが短く笑った。
「剣より速く、矢より静かだ。見事」
マルコは数値を記しながら呟く。
「敵対行動の発現率、零。逸走角、計測中。……これは、王都の防衛にも転用できる」
群れが遠ざかったのを見届け、エリスは胸に手を当てる。
「祈りは、護りに変わる。祈りと知恵が重なる場所……」
彼女の視線は自然と畑の中心へ向かった。レオンはただ、香炉の灰を箆で均しながら頷いた。
◇
夕刻、ひと段落したところで事件は起きた。
乾燥室の影で、若い男が荷袋に乾いた《銀糸蘭》を詰めていた。背は高く、身なりは旅の商人に見える。だが目が泳いでいる。
「何をしている?」トマが低い声で問う。
男はびくりと肩を震わせ、にやついた笑みを貼りつけた。
「おや、これは失礼。保存庫を見学していただけで」
「見学なら袋はいらない」
ガイウスの影が、いつの間にか背後に立っていた。男の手首が鉄の鉤のように固定される。
「痛っ、痛い! 勘弁してくれ、飢えてるんだ、家族が――」
「盗みは盗みだ」
「待って」レオンが静かに止める。「ここで裁きの真似はしない。……君、名前は?」
「……サム」
「サム、喉は乾いているか」
レオンが差し出した水袋を男は警戒しながら受け取る。喉を鳴らす音が、乾いた空間に小さく響いた。
「言い訳はいらない」レオンは続ける。「盗むほどに困っているなら、仕事を覚えればいい。畑は人手がいる。乾燥棚の温度管理、刻み、瓶詰め、火番、香炉の灰の見張り――対価は払う」
サムは目を白黒させ、ガイウスを盗み見る。
「本当に、雇ってくれるのか?」
「“盗まない”なら」
きっぱりと言い切ると、男の顔から悪ぶった笑いが消え、代わりに年相応の不安と安堵が混じった表情が浮かんだ。
「……働く。盗まない。誓う」
ガイウスは手を放し、短く頷いた。「働いて借りを返せ。秩序は守れ」
マルコが帳場から顔を出し、記録板にさらさらと書きつける。
「新規雇用一名。試用三十日。賃金は日払い。盗みは即時免職、出入り禁止。――覚えておけ」
サムは何度も頷いた。トマは彼の肩をぽんと叩き、乾燥室の火加減を見せ始める。
畑は、少しずつ“場所”になっていく。出会いと、規律と、赦しと。
エリスはそんな様子を眺めながら、祈りの書の余白に小さく一文を記した。
――ここは、癒やすだけでなく、やり直す場所だ、と。
◇
夜が降り始めたころ、カイルが戻ってきた。
「王都へ第一便を出す。荷馬車二台。護衛はギルドで手配した。――ところで、リカルド一行の連絡だが」
レオンは手を止める。
「“北境の砦で、未知の疫病が発生。発熱と幻覚、血がさらさらになりすぎて止まらない。ポーションは効かず、神官の祈りも通り抜ける”――そう書いてきた」
エリスの目が鋭くなる。
「祈りも通り抜ける?」
「瘴気かもしれない。あるいは、魔術的な“否認”。祈りを祈りと認めない何か」
ガイウスが腕を組み、低く唸る。
「北境の砦が落ちれば、獣人連合が雪崩れ込む。戦になる」
マルコは机に地図を広げ、指で距離を測った。
「ここから北境まで、最短で五日。荷馬車なら八日。だが――」
「飛ぶほうが早い」
誰かが言ったのかと思うほど自然に、レオンの口から言葉が出た。
「飛ぶ?」エリスが目を瞬く。
「《風種子》を使う。軽くて油を含む種だ。焼いて粉にして、香油に混ぜ、火に投じると上昇気流の帯ができる。……気球を作る。畑の布と骨組みで、小さなものなら二日で」
「気球……」マルコの目が光る。「運べる荷は限られるが、人間と薬草の選抜なら可能だ。――だが操縦は?」
「風を“読む”」レオンは畑の上を指し示した。「ここで毎日やっていることだ」
ガイウスはしばし考え、決然と頷いた。
「私が同行しよう。砦の司令に話を通す必要がある。隊長代理の権限で護衛をつける」
「私も」エリスが一歩出る。「祈りが通らないなら、祈りの形を変える。私自身が原因を見極めたい」
マルコはため息をついた。「なら私は残る。畑と流通を止めるわけにはいかない。……トマ、香炉と井戸の管理を仕切れ。サム、お前は乾燥室の火番だ。カイル、王都との連絡線を絶やすな」
それぞれの顔に、それぞれの役割が灯る瞬間。
「レオン、出立は?」
「二日。――その前に、畑の“守り”を固める」
◇
翌日、畑はさらに忙しさを増した。
トマは村の木工たちと骨組みの加工にかかり、エリスは詰所で巡礼者の祈りを“委任する”儀式の準備を進める。祈りを人に返す儀式――祈りは所有物ではないという彼女の信念が、聖地の形を変えようとしていた。
ガイウスは近隣の狩人と協議し、フォルミアの巣の動向を探らせる。女騎士の命は短く鋭く、余計な言葉を挟まない。
マルコは村の長を呼び、交易税の扱いと巡礼路の整備に関する覚書を作り上げる。紙の上に線が引かれると同時に、人の心に境界が刻まれていく。
レオンは香炉と畝の間を歩き続けた。
風、温度、湿度、葉の艶、土の匂い。耳の奥で鳴る“畑の拍子”に合わせて足を運ぶ。
――畑を空ける。その意味の重さを、体の奥が知っている。
彼は最後の畝にしゃがみ、そっと土に触れた。
「二日だけ。戻ってくる。だから、持ちこたえてくれ」
土は何も言わない。ただ、指先に温もりを返す。
◇
その夜、焚き火の輪の外から、低い羽音が近づいた。
最初は遠雷のよう。次第に大きく、地面を震わせる。
「みんな、下がって!」ガイウスの声が走り、エリスが詰所の灯りを落とす。
闇の向こう、星明かりを遮る影が現れた。大きい。翼の骨格は細く長く、帆のような膜が夜気を掴む。――竜だ。いや、竜に似た何か。鱗は黒曜石のように艶めき、眼は青白く光る。
地面が揺れ、香炉の蓋がかたかたと鳴った。巨大な影は畑の端に降り立ち、長い首をもたげる。
「敵意は……ない?」エリスの声が震える。
次の瞬間、影の胸元から血が溢れ、甘く鉄の匂いが広がった。翼の根元に、見慣れぬ矢が深々と突き立っている。矢羽には黒い紐が巻かれ、触れた空気が微かに歪む。
レオンは躊躇いなく一歩踏み出した。
「光を最低限、準備。《銀糸蘭》の粉と《眠りの花》、それに――《灰蜜》を」
ガイウスが剣を抜き、マルコが距離を測り、エリスが祈りの前口上を紡ぐ。
竜に似たそれは、痛みと疲弊に震えながらも、ゆっくりと頭を垂れた。大地を舐めるように鼻面を寄せ、かすれた息を吐く。香炉の香が鱗の隙間から吸い込まれ、わずかに呼吸が整う。
レオンは巨大な胸の鼓動を掌で感じ取りながら、矢傷を見た。
「……これは、“術殺し”の矢だ。祈りも魔法も、効きが乱される。だからポーションも祈りも通らない。――瘴気の正体は、これかもしれない」
「砦の疫病?」エリスが息を呑む。
「病ではなく、呪いの拡散だとしたら――矢の素材と術式が鍵になる。誰が作った? どこから飛んだ?」
マルコは矢羽の紐に触れ、手を引っ込めた。わずかな痺れが走る。
「王都の工房には、この編み方はない。北境か、あるいは外の……」
「推測は後だ。止血、固定、呼吸の確保。――君は眠ってくれ。大丈夫、痛みは奪う」
レオンは《眠りの花》と《灰蜜》を混ぜ、竜の鼻孔の前でゆっくりと揺らした。甘い香りが重く広がり、巨大な瞼が静かに降りる。
「今」
ガイウスが矢柄を固定し、エリスが祈りで血の勢いを抑える。レオンは矢の根元に《銀糸蘭》の粉を押し込み、周囲の組織が拒絶反応を起こさぬよう、微弱な魔力で“ほどく”。
矢は、まるで自分から抜け出すように、すう、と抜けた。
どっと血が溢れ――次の瞬間、粉が血を掴み、薄い膜となって傷口を覆う。
「呼吸、安定」レオンは胸に手を当て、鼓動のリズムを数える。「大丈夫だ。眠っていれば、回復が始まる」
闇の中で、誰かが短く笑った。
「……やっぱり来て正解だった」
声の主は、香炉の影から現れた。
背丈は高く、黒い外套。肩から提げた弓は、驚くほど古い。だが、弦は新しい。
「誰だ」ガイウスが一歩出て剣を傾ける。
外套の人物は両手を上げ、フードを外した。
刈り上げた黒髪、日焼けした頬。目は狐のように笑い、同時に深い疲労がにじむ。
「森渡りの弓手、リサ。――北境の砦からの伝令よ。砦は持ちこたえてる。でも“術殺しの矢”が空を飛び交い、祈りが届かない。……あんたがレオンだね?」
レオンは頷いた。
「畑を空ける準備をしているところだ。二日で出る」
「二日も待てない」リサは首を振った。「明後日には大軍が来る。砦は三日が限界。飛ぶなら――」
「明日だ」レオンは即答した。「香炉の管理と乾燥棚はマルコとトマに任せる。詰所はエリスの副官に。ガイウス、護衛は最小限。重さを削る」
マルコが一拍置いて頷いた。
「わかった。今夜中に荷の選別を終える。……レオン」
「なんだ」
「必ず戻れ。数字は帰還を前提として組んでいる」
レオンは笑い、香炉の蓋を静かに閉じた。
「戻る。畑は、戻る場所だ」
夜風が香の層を撫で、竜の寝息が低く響く。
聖地は静まり、しかし静けさの底で、明日のための音が組み上がっていく。
焚き火の火花が空に昇り、星の川に混じった。
畑は今日も呼吸している。
そして明日――畑は空を、飛ぶ。




