第23話 白い手紙のない霧――霧窓と雹鞘、薄声の秤
霧は、夜更けの端でいつも先にやって来る。
砂井の面に星が一つ、二つと沈みはじめ、窓鐘が浅く二度凹んだあたりで、空と地の間に白い薄布が降りてきた。
それは絵の具で塗った白ではない。指で触れば濡れ、胸で吸えば冷たく、目で追えば境界を忘れさせる。線がぼやける。層が混ざる。窓は曇り、穴は埋まりたがる。
「霧は、紙の敵だ」リサが低く言う。「印は霧に滲む。標語は輪郭を失って札になる準備を始める」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、短・長・長・短の上に浅い休をひとつ重ねた。「休みを先に置けば、焦って線に戻ろうとする心が、座へ戻る」
マルコは薄板に大書した。「空棚 v2:霧窓/雹鞘/薄声の秤。維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料、複製自由」
レオンは霧の縁で膝を折り、砂面に指先で円を描く。
《玻璃霧》を更に薄く砕いた粉を《灰蜜》で溶き、透ける膜を作る。
「霧窓だ。窓は曇るもの。ならば曇るための窓を先に置く」
霧窓は四角でも丸でもない。楕円の輪郭が少しずつ揺れている。角に乾孔、その内側に更に細い孔(霧孔)を新設した。
霧孔は風を通さない。通すのは拍だけだ。短・長・長・短の骨に合わせて、ごく微量の湿りが吸って吐いてを繰り返す。
エリスが指先で霧窓の縁を撫で、「伏せ半拍」を霧孔へ置く。音になる前の息が、濡れた膜に帰宅の道を描く。
砂市の外縁では、嵐市の幟が霧割の札を掲げはじめた。
「視界保証一刻銀貨二枚」「霧切通りの優先券」「迷失時の救助優先順位・売出し」
薄布の裾から、銀の鈴を付けた男たちが、腰に黒い鏡を着けて歩く。鏡は霧を跳ね返し、周りだけが不自然に乾く。
ガイウスが眉を寄せる。「乾きは線を招く。霧は座らせないといけない」
レオンは頷いた。「霧を座らせる窓。そして――雹鞘の準備だ」
◇
東の空の白い裂け目が、霧の布の裏で粒を育てていた。
雹は稜だけでなく角がある。角は札になりたがる。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》と《聖樹樹皮》の粉を練り込み、粒のための鞘を作った。
「雹鞘――粒鞘を束にする」
鞘は網のように編まれ、節のところにわずかな返しがある。落ちてくる角が刺にならず、丸になって座へ変わる。
ガイウスは空を見上げ、雷鞘杭のいくつかに雹鞘の網を結んだ。
リサは風棚の第三段から薄い筋を降ろし、霧窓と雹鞘の節が拍で同期するよう整える。
「薄声の秤を」エリスが言った。
霧は大声を嫌い、沈黙の遮断も嫌う。必要なのは、薄い声。
マルコの板に、細い罫線が引かれる。「薄声の秤=無音譜の霧版。目盛りは『息の数』。刻字はしない。撫書だけ」
無名番が霧窓のそばに立ち、撫書で「ここまで見える」「ここから見えない」を絵だけで記していく。
文字は霧で滲むが、絵は滲んでも座を保つ。読むのではなく、座るのだ。
嵐市の男たちが黒い鏡を霧へ向けた。
鏡は霧を拒み、空気を乾かす。
乾いた帯に線が生まれ、札が歩いてくる。
「線は檻」エリスは静かに言い、霧窓の霧孔へ伏せ半拍をもうひとつ足した。
霧は鏡の側を避けるのではなく、鏡の周囲へ薄く座るように変わる。
乾きは檻になれず、座の外縁に丸まった。
「霧切通を買え!」鏡の男が叫ぶ。
その時、霧窓の角の乾孔が、赤子のように一度泣き凹んだ。
無名番がすぐさま掃き出しの印を薄声の秤へ写し、「鏡の帯→座の外縁」と絵で追記する。
マルコが高く掲げる。「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。無料」
鏡の男は舌打ちし、鏡を下ろした。
◇
霧が厚みを増してくる。
雲簾の節は霧の重みで低く座り、滴窓の返しは蒸と滴の境をやわらかく撫で続ける。
そこへ、霧を商う別の連中が現れた。
霧借家。
小さな幕屋の中に良い霧が詰めてあり、「上質の安堵」「泣ける霧」などと銘を謳う。
幕の内側には細い文字がびっしりと彫られ、入る者の胸がその文字に合わせて沈むようになっている。
「霧を札に」リサが眉をひそめる。
「霧は歌だ」レオンが首を振る。「器へ文字を押すな。口へ戻す」
エリスは霧窓の縁で擬窓を開き、耳の内側の窓を幕屋の前へ薄く敷く。
薄声の秤が「歌」を撫書で示し、幕屋の文字は口へ戻った。
入っていた人々は目を瞬き、「ここで泣く必要がない」と言って幕から出てくる。
無名番が開放帳・空版に絵を一つ。「霧借家→歌へ還元」
「雹が来る」ガイウスが立ち上がる。
霧の上、白い裂け目が硬さを増し、粒の影が簾の奥で跳ねた。
レオンは雹鞘の網をもう一段、雲簾の下へ降ろし、節の返しを強める。
エリスは胸で和鞘拍に粒返を足し、リサは風紐の帰還線を踵返しと同期させる。
最初の粒が雹鞘へ当たり、刺は丸に、角は座になった。
乾いた痛みは帰宅の合図に翻訳され、子の頬に落ちた雹は冷たいだけになった。
嵐市は雹札を取り出した。
「雹の被害補償。加入者には先に修繕を」
マルコは開放帳に絵で返す。「修繕=掃除。先も後も無料。手順直しだけ先」
司は歯ぎしりして札をしまい、代わりに霧税の紙を掲げた。「視界確保のための費用」
その時、窓鐘が浅く三度凹み、薄声の秤の端がやわらかく光る。
視界は確保ではなく、座で足りる——その合図だった。
◇
霧の中に、無色の旗が混ざった。
索主会の使者である。
女監とは別の若い吏が、薄い紙片を配り始める。
「霧の事故報告はこの様式に。署名は表で。窓の設置は申請制」
マルコは紙片を受け取り、霧でにじむ様をしばらく眺めてから、静かに返した。
「表は霧に向かない。裏でいい。申請は掃除を遅らせる」
吏は眉を顰める。「責任の所在を明確に」
エリスが薄声の秤を指し示す。「責任は座で明確になる。なおるのを見る。——窓は多く」
吏は納得しかねる顔で去りかけ、霧窓の角で足を止めた。霧孔が吸って吐くのに合わせ、胸が意図せず深くなったのだ。
彼は短く礼をして、紙片に「裏」とだけ書き足した。
そこへ、霧印を掲げる者たちが現れた。
霧の流れを読み、家紋や商紋の輪郭を霧で描いて売る。
「霧の字は一刻で消える。だから安全」
安全ではない。霧の字は印であり、印は前に出る。礼を後に押しやる。
リサが舌打ちし、ガイウスが一歩踏み出しかける。
レオンは止め、霧窓の縁で小さな穴をひとつ、置いた。
霧穴。
穴は湿りを嫌わない。にじみを座に変える。
霧印の輪郭は自分で崩れ、座の縁へ溶けた。
「印は外」マルコが静かに言い、開放帳の端にまた絵をひとつ足す。
◇
霧が厚い朝は、声も色も味も薄くなる。
薄声の秤のそばで、人々は撫書に絵を足し、霧窓の乾孔はときどき赤子のように泣き凹み、掃除の合図を出す。
白い手は掴まない楕円を霧の高さに合わせて下げ、子どもでも踵返しが自然に出るよう輪郭を散らす。
玻璃師団の工匠長は、空洞球に雫ではなく霧の詩を薄く彫り、「彫りは歌で、器は窓」と教える。
静盟の者たちは、吸わない黙を霧の中で続け、楔は霧穴の横で濡れているだけだ。
その静けさへ、別の音が滑り込む。
薄声を測るふりをして、声を買い集める商い。
薄声の秤のそばに、細長い筒を持った男が立ち、「あなたの薄声を安全に保管」と囁く。
筒の口は逆押しの器だ。撫書の上に置けば、絵の線が札に化ける。
エリスが穏やかに近づき、筒の縁へ和鞘の撫で返しをそっと乗せる。
逆押しは撫で返しで座へ転がり、筒は口を閉じてただの棒になった。
男は苦笑し、棒を肩に担いだ。「預かるのは薄声じゃない。退屈だな」
老婆が笑う。「退屈は礼の母だよ」
◇
その頃、空の上で雹が歌い方を忘れかけていた。
霧はうたを促し、雹は叩打を誘う。
嵐市は最後の札として、雹の歌い場と称する舞台を立てた。
雹歌を歌い上げると、雹が避けるという触れ込み。
舞台の下には薄い線が巡り、逆押しの共鳴が仕込まれている。
リサが眉を細め、「歌を札にする最短ルート」と吐き捨てる。
レオンは霧窓を舞台の四隅に置き、霧孔を舞台裏の穴へ繋いだ。
エリスは胸で無音譜・霧章を開き、薄声の秤に沿って休みを増やす。
ガイウスは雹鞘の節を舞台の梁に結び、歌が刃にならないよう撫で返しを仕込む。
舞台の上で歌われた雹歌は、鳴らずに撫でになり、叩打は座へほどけた。
観衆の肩が一斉に落ち、雹は刺を忘れ、粒であることに飽きて、霧へと戻りはじめる。
嵐市の司は、そこでようやく幟を下ろした。
「札は霧に滲む。礼は残る」
マルコが板に刻む。「嵐市→札縮小/霧借家→歌還元/霧印→霧穴で崩し/雹歌舞台→撫で返しで座」
索主会の若い吏は、霧の端でしばらく黙り、「裏」の字をもう一度書いた。
◇
午後、霧は薄くなり、滴窓が金糸の内側で細い凹みを一度、二度と作る。
飲める雨が、無料のまま座に変わっていく。
遊牧の子は撫書の端に「みえないけど、ある」と描き、白い手は掴まない楕円を片付け、玻璃師団は器に歌の順番だけを教える。
静盟は楔を拭き、天幕の残骸の影を座として確保し、「吸わない」の稽古を続ける。
そこへ、砂の縁から別の幟が来た。
白墨会——霧の消線を売る連中。
砂にも空にも描ける白墨で、臨時の線を引いて、終わったら消すサービス。
「線を消す。安全」
エリスは微笑した。「消すより、座を置く」
レオンは霧窓の余白に小さな穴をいくつか置き、線が消えるのではなく座に沈むよう誘導する。
白墨会の若き職人が目を見開き、白墨の棒を握り直した。「消す前に座らせる……退屈だが、美しい」
「退屈は骨だ」マルコが頷く。「骨がなければ踊れない」
◇
夕暮れ。
霧は山棚の沈黙と海棚の鞘に馴染み、空棚v2の雹鞘は稲妻の残滓を撫で返し、滴窓は一滴を白く返した。
薄声の秤は、もう撫書でいっぱいだ。
「ここまで見える」の線は子どもの背丈で増え、「ここから見えない」の線は人の膝の高さで座っている。
観測窓・空版の欄には、「霧借家→歌」「霧印→穴」「雹歌舞台→座」「霧税→撤回」の絵が並び、欄外には、無名番の小さな字で「なおった」とだけ書かれている。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の畝を並べた。
「空棚 v2:霧窓(玻璃霧+灰蜜/霧孔+乾孔/伏せ半拍)/雹鞘(喉殻薄革+黒雲母+聖樹粉/粒鞘網・節返し)/薄声の秤(撫書・無音譜霧章)。
嵐市:霧割→霧窓で座/雹札→手順直し優先/霧税→撤回/雹歌舞台→撫で返し。
索主会:表→裏/申請→掃除優先。
白墨会:消線→座化。
標準更新=窓(霧窓)/穴(霧穴)/半拍(伏せ・薄声)/開放帳(撫書可)。維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料」
紙は乾き、霧は薄く、風は次の季節の拍を待っていた。
ガイウスが肩を伸ばし、遠い地平を指す。
「北東に灰の市。灰を札にして燃やさない契約を売る。火の話だ」
リサが口笛をひとつ。「炎を鞘に。煙を窓に。灰を畑に」
エリスは骨鐘に指を置き、静かに頷いた。「火棚の支度を。火は札になりやすい」
マルコは板に新しい見出しを刻む。「次:火編/火棚 v1=火鞘/煙窓/灰畝」
砂井の縁で、老婆が杖を鳴らす。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、砂に小さな穴をひとつ、そっと押した。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に温い匂いを覚えた。
「火にも礼がある?」
レオンは微笑む。「ある。燃やさずに温める礼。鳴らさずに返す礼と同じ骨だ」
窓鐘が浅く一度凹み、帰宅の合図を夜へ溶かした。
夜が降りる。
霧は座り、雹は丸まり、薄声は秤で撫で書きのまま残る。
開放帳の端には、遊牧の子の絵で小さな焚火が描かれていた。
その火は、まだ燃えてはいない。
退屈が薪を並べ、礼が火口を撫で、骨がその上で拍を待つ。
「——耕そう」
レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影で薄く覆い、折返で短へ還した。
霧窓は凹み、雹鞘は静かに揺れ、薄声の秤はなおったの絵を抱いたまま眠った。
季節はまた増える。
畑は、見えない朝にも、確かに芽を出していた。