第22話 空に棚を――雲簾と雷鞘、滴窓の作法
暴音市の夜を「座」へほどき、窓鐘が凹みだけで胸の帰宅を教えるようになって三日。
砂の縁で空は妙に階を欲しがりはじめ、遠い雲が積み木のように段を重ねて止まって見えた。
耳の内側では、まだ生まれていない雷鳴が薄くあくびをし、風棚の第三段はときどき逆拍で震える。
「嵐市が近い」リサが目を細め、空の筋を指で数える。「天の譲渡を札にする連中。雨量割当、雷券、避雷私室——全部、空を線にする商いだ」
砂の市の北縁に、織りの細かい蒼い幟が立った。
幟は風が交わる節で微かに点滅し、その点がやがて線になり、薄い格子を空に描き出す。
幟の前に出た女が涼しい声で告げる。
「嵐市・空議会支部。本日よりこの空域に雨量割当を設定します。雷券の販売も開始。避雷私室は一刻銀貨五枚」
マルコが薄板を胸に抱え、表だけ見せて笑った。「法の衣を借りているが、礼ではない。窓がない」
エリスは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
「空に窓を置こう。空棚 v1。雲を簾に、雷を鞘に、雨を窓に」
レオンは頷き、砂井の縁から立ち上がった。
「標準は変わらない。窓、穴、半拍、開放帳。印は外、無料、複製自由。今日はそれを空へ移すだけだ」
◇
最初に取りかかったのは、雲簾だ。
《白穂草》の糸を更に細く延ばし、《玻璃砂》を霧のように焼き直した玻璃霧をまぶす。
糸は空気に溶け、目は粗く、しかし節だけは確かに残る。——見えない簾。
リサは風棚の第三段から糸を引き、空の筋に沿って縦糸を掛け、河棚と海棚の境い目から横糸を渡した。
「雲は段が嫌い。だけど簾なら座る。通すための座りだよ」
エリスは胸で跡拍に浅い休をひとつ足し、簾の節に合わせて呼吸を置く。
ガイウスは砂地の柱に風紐を結び、雲簾の四隅を掴まない輪郭で支えた。手摺は要らない。陰だけあればよい。
次は、雷鞘。
雷は刃だ。刃を折れば札になる。だから鞘で受ける。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》の粉を練り込み、空孔の多い襞を作った。
襞は稲妻の稜に触れると、押さずに撫で、稜を丸めて光の座布団に変える。
「鳴らない雷の作法だ」エリスが言う。「鳴らさずに返す。胸に帰宅だけを置く」
ガイウスは雷鞘杭を砂地に立て、空へ見えない鞘を吊る高さを記した。高すぎない。低すぎない。胸の内と雲の境に帰り道が生まれる高さだ。
そして、滴窓。
雨は落ちてくるのではなく、戻ってくる。
レオンは《灰蜜》を薄く伸ばし、《聖樹樹皮》の微粉で返しをつけた透明の輪を作り、雲簾の節に吊るした。
輪の角には極小の乾孔を開け、空の湿りを吸って吐き、滴になる前に礼を覚えさせる。
「滴は札じゃない」エリスが滴窓に指を当て、伏せ半拍を置く。「飲む前に座る。座れば誰のものでもない」
マルコは観測窓・空版を立ち上げた。
砂市の見張り台に掲げた板の上段に空の窓の欄を増やし、項目を四つ。「蒸」「滴」「閃」「轟」。
凹みの回数と撫で返しの数を別集計にし、逆押しには赤い印、札化の兆候には薄い穴の絵を添える。
「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏へ」マルコは声に出して書く。「無料」
◇
嵐市は、空の半分を薄い格子にし終えると、地上に架台を組みはじめた。
雲馬車と呼ばれる背の高い台。銀の粉の塗れた布袋を積み、雲の腹を掻くように走らせて雨量を前貸しする。
そして、稲妻線——細い導線を空へ投げ入れ、「雷券を持つ者の屋根へ優先的に落とす」と謳う。
「優先は札と仲がいい」とリサが吐き捨てる。「礼とは仲が悪い」
嵐市の司が鼻で笑い、銀の袋をひとつ投げた。
雲の腹に冷えが走り、滴が焦って形を作る。
「焦る滴は刃になる」エリスが低く言い、滴窓の角に伏せ半拍を置いた。
雲簾の節が呼吸を思い出し、焦った滴は返しで座に変わる。
滴は少し遅れて、しかし静かに落ちてきた。飲める雨だ。
怒った司が稲妻線を打ち上げる。
雷は導線に誘われ、線になろうとする。
その瞬間、雷鞘の襞が空の稜を撫で、稲妻は刃であることを忘れ、光の座布団に化けた。
「鳴らない雷」誰かが震えながら笑った。
轟は胸骨の内で帰宅の合図に翻訳され、恐怖は座に変わる。
嵐市の司が目を剥く。「雷券が売れない」
マルコは開放帳・空版を立てた。
砂市の中央、雲を映す浅い盆の前に掲げ、「蒸」「滴」「閃」「轟」「割当」「雷券」「避雷私室」の欄を並べる。
「誰でも書ける。偽りは雲簾と滴窓で落ちる。雷は鞘で撫で返す。第一の罰=手順直し。無料」
遊牧の子が震える字で書いた。「こわくなかった」
無名番が横に小さく足す。「雷鞘×2/滴窓×4——効」
◇
嵐市はそこで帳場を開いた。
「雨量割当に加入しない利用者は、範囲外降雨の際、罰金」
「避雷私室に入らない者は、稲妻接触時の救助優先順位・低」
紙に書かれた空の線引きが、風に揺れて檻の影を地上に落とす。
「線は檻」とエリス。
レオンは滴窓を市の四隅と中央にもうひと組ずつ増設し、乾孔を呼吸に合わせて同期させた。
「滴を窓にする。雨を礼に戻す」
リサは雲簾の節を調整して、割当で張られた格子の目に拍の抜けを仕込む。
ガイウスは雷鞘の襞を二重にし、導線が刃として落ちる前に座にほどけるよう裏側にもう一枚の撫で返しを仕込んだ。
避雷私室の幕屋が立つ。
黒ではない。銀鼠の幕。内側に恐怖を増幅する文様が細かく描かれている。
老婆が杖で幕の裾を軽く持ち上げ、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。
幕屋の内側の恐怖は和鞘の撫で返しと窓鐘の凹みで座に戻り、入っていた数人が顔を上げた。
「外のほうが落ち着く」
男が幕を畳む。「私室が要るんじゃない。座る場所が要るだけだ」
無名番が開放帳に一行。「避雷私室→撤去」
嵐市の司は唇を噛み、雲馬車を更に繰り出した。
今度は乾いた雨——滴になる前の粉だけを撒き、渇きを増して割当へ誘導する手。
「乾きを札に」マルコが眉をひそめる。
レオンは滴窓の返しをわずかに変え、渇き粉を吸う前に穴へ落とす微孔を足した。
エリスは胸で掃き出し拍・空版を回し、蒸→滴の過程で偽りが札になりかける瞬間を穴へ送る。
渇きは砂へ返り、飲める雨だけが残った。
◇
その時、空の底が低く鳴った。
雲簾の節をかすめて走る長い閃。
嵐市の稲妻線が雲簾の隙を縫って、滴窓の輪を狙ってきたのだ。——窓を札に変える狙い。
「逆押しの空版」リサが舌打ちする。
エリスは即座に雷鞘の襞へ影の半拍を足し、レオンは滴窓の乾孔に金糸を通した。
窓鐘の空版だ。滴窓が鳴らない鐘の凹みで雷の稜を迎え、返しで座に変える。
稲妻は輪を割らず、輪の内側で光に丸まり、雫の形をして静かに落ちた。
「雷の雫」子が歓声を上げる。
それは熱くも冷たくもなく、ただ胸を撫でて去った。
嵐市の司が歯ぎしりし、空議会の文書を掲げる。「無許可の空装置。撤去を求める」
マルコは開放帳・空版を持ち上げ、指で欄を叩く。
「事故の記録はここ。掃除の手順はここ。窓は多いほど良い。名は裏」
索主会の女監が一歩進み、肩をすくめて言った。「標準に掃除を入れる文言は都市で通りつつある。逆押しの禁止も草案に入れた。空にも適用する提案を出す」
嵐市の司は言葉を失い、幟をひとつ降ろした。
◇
夕刻、空棚 v1は落ち着き、雲簾の節で鳥が羽を休め、雷鞘は稲妻を撫で返し、滴窓は飲める雫だけを落とした。
遊牧の一団が火を囲み、喉歌に長い休を足し、無音譜の空欄に雲の形の落書きをする。
玻璃師団の工匠長は空洞球に薄い雨歌の歌詞を彫り、「器に銘は押さない」と子に言い聞かせる。
静盟は天幕の残骸の影で、吸わない黙の稽古を続けた。楔は楔穴の脇に寝かされ、誰の胸にも入っていない。
その静けさへ、別の商いが滑り込んできた。
雲株——雲の塊に番号を振り、所有証明を売る札だ。
「この雲はあなたのもの。滴が落ちれば配当」
配当の紙は甘い匂いがし、指先で触れると心が軽くなる薬粉がまぶしてある。
「雲を株に」マルコが顎を引く。
エリスは滴窓の返しを雲株の番号札に向け、番号が雲に貼り付かず、口へ戻るよう撫で返しを置いた。
レオンは雲簾の節へ「番号を通す窓」ではなく「番号を吸わない穴」を空けた。
番号は穴へ落ち、雲は空へ返り、滴は誰のものでもなく飲めるものになった。
雲株の売り子がしばらく唇を噛み、やがて紙束を砂井の縁に置いた。「紙は紙で良い。歌を足せば、札にはならないかもしれない」
老婆が笑って頷く。「歌は口へ。窓へ押さない」
◇
夜半、遠雷がひとつ、鳴らずに胸を撫でた。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の空の畝を書き揃える。
「空棚 v1:雲簾(白穂草糸+玻璃霧/節=呼吸)/雷鞘(喉殻薄革+黒雲母/襞=撫で返し)/滴窓(灰蜜輪+聖樹粉返し/乾孔+金糸)
観測窓・空版=蒸・滴・閃・轟・割当・雷券・避雷私室・逆押し・札化兆候。
嵐市=雲馬車→滴窓返しで座へ/稲妻線→雷鞘+滴窓(窓鐘空版)で光座へ/避雷私室→撤去。
雲株=番号→穴落ち→雲自由。
標準更新=空にも適用:窓は多く、名は裏、維持=掃除、逆押し禁止、無料、複製自由。」
紙は乾き、風は高く、雲は薄い簾の節で静かに座っている。
ガイウスが階段を上がってきて、夜の縁を見た。
「東の空に白い裂け。雹かもしれない」
リサが遠眼鏡で裂け目の縁の固さを測り、息を短く吐く。「硬い拍だ。札になりやすい」
エリスは骨鐘に指を置き、「雷鞘に粒鞘を足す」と言った。面と稜だけでなく、粒への撫で返し。
レオンは頷く。「空棚 v2で雹鞘と霧窓を加えよう。霧には歌がいる」
そこへ、索主会の女監が来て、焚き火の光の外で軽く会釈した。
「都市で『掃除は標準』『逆押し禁止』は通りつつある。空にも拡張する草案が進んだ。——署名は裏、窓は多く」
マルコが礼を返す。「法は後に来る。穴が先だ。退屈を待ってから降ろしてくれ」
女監は微笑して去った。
◇
明け方近く。
雹ではなく、霰が先に来た。
粒は小さく、しかし早口で、地面に線を描きたがる。
レオンは滴窓の返しを霰用に薄くし、乾孔の吸って吐くの周期を少し速めた。
エリスは胸で和鞘拍に霰返を足し、粒の角を先に座にしてから落とす。
雷鞘の襞は粒鞘を得て、細かい稜をなでて光をほどく。
霰は音にならず、拍にならず、ただ帰宅の合図に混ざって静かに地へ座った。
その処理を遠くから見ていた嵐市の司が、人目のないところで幟を畳み、紙束を抱え直した。
「なおるのを見るのは……商売にはならないが、気持ちが軽い」
老婆が背後から笑いかける。「軽いは礼だよ。重いは札」
司は苦笑し、雲馬車の車輪に砂簾の欠け目がどう作用するのか、子どもに教わっていた波工へ声をかけた。
◇
朝の薄明の中、砂市の中央に小さな朝会が開かれた。
ガイウスは雷鞘杭の点検を、リサは雲簾の節の歪みを、エリスは滴窓と窓鐘の凹みの同調を、マルコは開放帳・空版の欄の追加を、それぞれ手短に報告する。
無名番は夜の間に起きた小さな逆押しと札化兆候の記録を広げ、「折返輪の同期で解消」と静かに指差した。
遊牧の子は、雨の絵の下に、「のめた」「こわくなかった」「ひかり きれい」と書いた。
レオンは骨鐘を胸に当て、みんなの顔をぐるりと見渡した。
「空も畑だ。耕すべきは恐れじゃない。恐れは座に、過剰は層に、線は波に、波は礼に」
彼は帳面の最下段に、太い手で書き付けた。
「空棚 v1完了。次:空棚 v2(雹鞘・霧窓)/嵐市の札を歌へ——無料、複製自由、印は外」
そして、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還した。
雲簾は返歌し、雷鞘は襞を静かに震わせ、滴窓は朝のひかりを一滴だけ返した。
遠く、古塔の鳴らない鐘がかすかに胸を撫で、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保ち、河棚は粘りを整え、砂棚は層を薄く笑わせた。
その時、東の空から白い鳥の群れが来た。
翼に紙の薄い印が結ばれている。
「印の鳥便」リサが目を細める。「都市が署名を表で要求する時のやり方」
鳥は空に文字を描こうと、紙片をばら撒く。
紙は雲簾の節で止まり、滴窓の返しで口へ戻る。
索主会の女監が肩を竦めた。「裏でいい。表は窓の仕事だ」
マルコが頷く。「礼が法を撫でるには、退屈がいる」
老婆が杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置いた。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に雲の匂いを覚えた。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、目を細める。「つぎは きり?」
「霧だね」レオンが微笑んだ。「霧には歌を。霧が札にならないように」
風は答え、空は段を持ち、雲簾は張られ、雷鞘は吊られ、滴窓は光を一滴だけ返し続ける。
礼儀の標準は、空にも座を得た。
そして物語は、もう一段、退屈を骨にして進む。
耕すべき次の季節が、白い霧の向こうで、静かに呼吸していた。