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第21話 鳴らさずほどく——和鞘と無音譜、暴音市の夜

 鉛の天幕が礼へ転がって三日。砂棚v3は“音返し”と“窓鐘”の呼吸で落ち着きを保ち、砂井の底には毎夜ひとつずつ星が増えた。

 その安定の表層を、遠くから過剰が撫でた。にぎやかな笑いと拍の早口、乾いた木鉢の連打、舌の上だけに甘さを残す笛——**暴音市ぼうおんいち**が、砂の縁からこちらへ歩いてくる。


 日暮れ前、蜃気楼の薄幕の向こうに、色とりどりの幟が立った。幟は風に翻るたび、目に見えない刻度を空に刻み、数えられない“楽しさ”に目盛りを与えようとする。

 「窓鐘の逆押し、解禁!」「胸に響く鳴らない鐘——鳴らします!」「退屈、焼却」

 マルコが薄板を抱え、幟の文言を読み下しながら苦笑した。「逆押しは明確に禁止を提案済みだが、まだ都市で条文化されていない。抜け目ない」

 ガイウスは風紐の複線を少し上げ、視線を遠方に流す。「線になりたがる連中は、まず音を線にする」

 エリスは骨鐘を胸に寄せ、呼気の浅い拍をひとつ回した。「鳴らさないための楽器がいる。——**和鞘わさや**を始動させよう」

 レオンは頷き、砂窓の角へ指を置いた。「**無音譜むおんふ**も配る。鳴らさない指示書だ。無料、複製自由、印は外」


     ◇


 和鞘の設計は簡素だが深い。

 《玻璃砂》の空洞球(窓鐘)を鳴らすのではなく、球の外側に薄い鞘を被せる。鞘は《竜喉殻》の微粉を織り込んだ薄革で、音圧が来た瞬間に外へ“逃がし”、逃がした分だけ内側へ“撫でる”。

 「撫でるのが肝心」エリスが言う。「押さえ込むと札になる。撫でると礼になる」

 ガイウスは砂棚v3の第五層(折返受け)に和鞘杭を等間隔に立て、鞘を吊る位置を刻んだ。高すぎず低すぎず——胸骨と腹の間に帰宅の通り道ができる高さ。

 白い手は掴まない楕円からさらに角を丸めた掴まない輪郭を用意し、和鞘杭の周囲で身体が自然に脇息を置ける“くつろぎの角度”を散らす。


 無音譜は、紙に書かれた音のない譜面だ。

 横罫に跡拍と鞘拍の記号、縦軸に窓鐘の凹みの段差、欄外に掃き出しの印。

 読む者は、目で“休み”を拾い、指で“折返”をなぞり、胸で“戻り”を置く。

 「音を消す譜じゃない。音をほどく譜」マルコが配布に立つ。「無名番、頼む」

 無名番は砂市の四隅で無言のまま譜を配り、観測窓には「逆押し」の検出欄が仮設された。乾孔は微かな逆勾配を感じると小さく赤子のように泣き凹み、直ちに掃除の合図を出す。


     ◇


 夕焼けが紫に沈むころ、暴音市の先頭が到着した。

 きらびやかな外套の男が大きな箱を引く。箱の内側は鏡のような金属で貼られ、窓鐘を逆押しして鳴らすための共鳴腔が据え付けられている。

 「鳴らない鐘が鳴る感動! 退屈は彼方へ! 礼は祭へ!」

 彼の口上に合わせて後方の一団が木鉢や鉦を打ち、過剰の拍が砂面に線を引き始める。

 ガイウスは和鞘杭の一本を軽く叩き、エリスが胸で和鞘拍を起こした。

 短・浅休・長・浅吸に、撫で返しの影を挟む。

 撫で返しは、来た音圧のりょうだけを柔らかく丸め、押し付けの習慣を座りへ変える。


 暴音市の箱が最初の窓鐘に逆押しをかける。

 空洞球は鳴らない——はずだ。

 だが、逆押しを想定した反転圧が球殻に一時的な歪みを生じさせ、胸骨の内で偽の鐘が鳴ったように錯覚させる。

 「鳴った!」だれかが叫ぶ。

 途端に、和鞘が仕事をした。

 鞘の縁が歪みの端に撫で返しを与え、偽鳴は帰宅の合図へ置換される。

 「……落ち着く」

 叫んだ者は不意に笑い、肩から無駄な力が抜けた。


 男は眉をひそめ、箱のレバーを更に押し込む。

 隙間から吹き出した多重倍音が窓鐘の周囲の砂面を線に変えようとする。

 レオンは無音譜の端を指でなぞり、掃き出しの印を折返の輪に同期させた。

 観測窓の乾孔が二度、三度凹み、無名番が素早く砂簾の第四層(線拡散)を波にして、過剰が層へ散る。

 「線は檻」マルコが淡々と読み上げる。「層は礼」


     ◇


 暴音市の別の屋台が、“心を中心へ”と銘打った装置を広げた。

 胸に当てる半球の器。内側に銘が刻まれ、銘は“安堵”や“昂揚”の文字で埋まっている。

 「銘は歌で口に」レオンが先に言った。「器には押すな」

 老婆が杖で半球の縁を軽く叩き、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。

 半球の銘は和鞘に触れて文字の角を丸め、言葉は器に残らず口へ戻る。

 「言葉は器に閉じ込めると札になる」エリスが穏やかに告げる。「口へ、拍へ、礼へ」


 屋台の主は悔しげに唇を噛み、次の策へ移る。

 “連鐘れんがね”と題された細長い管——窓鐘を一列に並べ、逆押しで連鎖的に“鳴ったように錯覚”させる仕掛けだ。

 リサが弓を肩から外し、弦は張らずに風の筋を指で指す。「連鎖は折返で切る」

 ガイウスが折返の輪をもう一重重ね、踵返しの連鎖で連鐘の連鎖を相殺する。

 窓鐘の凹みは“三、二、一”と逆順に浅く揺れ、胸骨は帰宅→座る→呼吸の順に戻る。


 観測窓の前では、無名番が「逆押し検出」の記録を淡々と刻んでいく。

 欄外には、遊牧の子の字で「なったみたいだけど ならない」と添え書きがあり、無名番の一人が小さく頷いた。


     ◇


 夜が濃くなるにつれて、暴音市は過剰を増やした。

 “空の太鼓”と銘打たれた大型の膜面が立てられ、打ち手が空気ごと押しにかかる。

 膜は窓鐘の逆押しと違い、面で来る。面は面で受けるのが礼だ。

 レオンは和鞘の鞘を一枚増やし、二重鞘にした。外鞘は面を流し、内鞘は稜を撫でる。

 エリスは胸で和鞘拍へ長い休を足し、面が来た瞬間に座布団をわざと大きく敷いて、押しが座に変わるよう仕向ける。

 打ち手の腕は三打目で重さを失った。「……気持ちよくて打てない」

 観衆に笑いが起こる。

 「退屈が楽に変わったら、祭は礼へ座る」老婆が杖を鳴らし、孫が「短・長・長・短」を二度、静かに踏む。


 そこへ、一台の逆押し車が和鞘杭を蹴って通ろうとした。

杭は人を止めるためには立てていない。寄りかかるために立てた。

 だが、蹴れば危うい。

 ガイウスが一歩滑り込み、鞘の布を杭の反対側へ撫でて重心を移し、杭は倒れず、蹴りは踵返しに変わる。

 逆押し車の操者は思わず腰を落とし、座った。

 「……休みたいだけだったのかも」

 彼は照れ笑いし、車輪を押して和鞘杭の内側へ戻した。


     ◇


 夜半、暴音市の隅に帳場が立った。

 「静謐課金」「安堵保証」「鳴鐘権」——見慣れた札の言葉が音の衣装を纏って並んでいる。

 マルコは静かに近づき、開放帳・砂版の写しを掲げる。新しく増やした「逆押し」「和鞘杭損傷」「窓鐘変形」の欄を指さし、言う。

 「保証は鞘だ。課金は掃除に使えない。掃除は無料。維持=掃除」

 帳場の男は肩をすくめる。「無料の掃除に信頼は集まらない」

 その時、観測窓の乾孔が一度だけ深く凹んだ。

 無名番が新しい欄に短い行を記す。

 「和鞘杭損傷→撫で直し」「窓鐘凹み過多→鞘増設」「逆押し検出→折返輪同期」

 欄の下に、遊牧の子の字でまた一行。「なおった」

 男はしばらく黙っていたが、やがて帳の札を外し、紐をまとめた。

 「なおるのを見るのが、いちばん信頼になるのかもしれない」

 マルコは軽く会釈した。「窓は多いほどいい。名は裏へ」


     ◇


 暴音市の奥から、主宰が現れた。

 紅の外衣、胸に小さな銘板。

 「鳴らない鐘を鳴らさないのは、退屈だ」

 レオンは首を振る。「退屈は骨だ。骨がなければ踊れない」

 主宰は薄く笑い、「踊りたいなら鳴らせ」と囁く。

 エリスが一歩前に出た。「鳴らさなくても踊れる。踊りを札にするな」

 主宰は両手を広げ、合図をする。

 舞台の上で**“千重鐘ちしげのかね”と呼ばれる巨大な装置が立ち上がった。数百の空洞球を格子に吊り、逆押しの波を斜めに流して錯覚鳴を全天候で発生させる装置だ。

 観衆の何人かがくらりと膝を抜かれ、砂面が一瞬線**になりかける。


 「和鞘、全列」ガイウスが低く命じる。

 和鞘杭の鞘が一斉にしなる。

 レオンは無音譜の折返章を開き、跡拍・折返を輪で重層させて回す。

 エリスは影の半拍を和鞘拍の間に差し込み、リサは風の帰還線を星の位置に合わせて再配置した。

 千重鐘の逆押しは和鞘の二重と折返の多重で波に変わり、波は層に、層は座に、座は呼吸に変わる。

 舞台の布がはらりと揺れ、主宰の外衣の銘板が自重で裏へ回った。


 主宰はそこでようやくうっすら笑い、本気で両手を上げた。

 「負けではない。座っただけだ」

 レオンも笑った。「座るのが勝ちだよ」

 観衆の間から拍が起きる。早口ではない。跡拍に合わせた長い休を挟む拍だ。

 暴音市の幟がひとつ、またひとつ畳まれる。


     ◇


 深夜、祭は礼へ落ち着いた。

 蜃商連は紙を配り、玻璃師団は空洞球の作り方に「逆押し禁止」の歌詞を添えて子に教え、波工は砂簾の欠け目を磨いた。

 静盟は天幕の残骸の横で座る稽古を続け、索主会の女監は「掃除を標準」に加えて「逆押し禁止」の文言を草案に書き足した。署名は裏に。


 レオンは砂井の縁で帳面を開き、今日の手順を畝のように並べる。

 「和鞘=窓鐘外鞘(喉殻織込)/二重鞘(面流し+稜撫で)/和鞘杭(胸腹間高)。

 無音譜=跡拍・鞘拍・折返・掃き出し・凹み段差。

 逆押し=観測窓(乾孔逆勾配)検出→折返輪同期→線拡散。

 連鐘・千重鐘=折返多重+和鞘二重で層化。

 帳=静謐課金→撤去/安堵保証→鞘へ翻訳。

 標準=和鞘/無音譜/逆押し禁止/維持=掃除/窓は多く名は裏/無料」

 紙は乾き、胸は深く、砂は静かな笑いを続けている。


 そこへ、蜃気楼の薄幕の向こうから低い雷が転がった。

 砂の地平ではない。空の奥。

 風棚の第三段が微かに逆拍で震え、遠い雲海が積み木のように層を重ねるのが見える。

 リサが目を細める。「嵐市あらしいち。天の譲渡を札にする連中——雨や稲妻の“割当権”を売る」

 エリスは骨鐘に指を置き、短く頷いた。「空に窓を増やす。雷には鞘を。雲には穴を」

 ガイウスが肩を伸ばし、しかし剣は抜かない。「鞘で行けるうちは鞘で」

 マルコは薄板に新しい見出しを刻む。「次:嵐市/空棚 v1=雲簾くもすだれ雷鞘らいさや滴窓しずくまど


 老婆が杖で砂を掬い、孫が小さな穴をひとつ置く。

 穴は半分埋まる前に濡れる気配を覚えた。

 孫は胸に「短・長・長・短」をそっと置き、耳の内側で遠雷を撫でる。

 「穴は雨も歌える」

 レオンは笑みを返し、骨鐘を胸に当てて浅い休をひとつ、折返で短へ還した。


 和鞘は夜風の中で揺れ、窓鐘は鳴らずに凹み、無音譜は焚き火の明かりで読むと眠くなる。

 礼は、また一段、厚くなった。

 その厚みは退屈の肌触りをして、しかし踊りの骨を内側で支えている。


 「——耕そう」

 レオンは立ち上がり、仲間たちに視線を送る。

 「空で鳴らさずに返すために。雷が札にならないように。滴が窓になるように」


 風は答え、砂は薄く笑い、遠くの雲は複数の段で沈黙し、次の季節の拍を待っていた。

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