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第20話 音を返す穴――窓鐘と、鉛の天幕

 南の地平に細く立っていた鉛の天幕は、朝焼けの赤に染まらなかった。

 砂は温み、風は緩み、砂棚v2の簾が軽やかに上下するのに、その一帯だけは音が吸われ、色も温度も据え置きのまま揺れない。

 耳を澄ませば澄ますほど、耳の奥の皮膚が冷えていく。沈黙ではない。無音でもない。吸音だ。――黙りの遮断。


 「ここは礼が立ちにくい」エリスが細く息を吐いた。

 ガイウスは足で砂を押し、反発の感触を確かめる。「音が戻らない土地は、鞘が滑る」

 マルコが薄板に見取り図を描く。「音吸い領、幅は千歩。中央に核幕、周縁に小幕。索主会の印はない。黙府の黒でもない。……第三勢か」

 リサは遠眼鏡を細くすぼめ、天幕の継ぎに光の縁を探した。「布じゃない。鉛砂なまりすなを薄膜にして吊ってる。風紐の逆」

 老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。

 「穴は歌えるんだろう?」孫が半歩前に出た。

 レオンは頷いた。「歌を札にしないように、鞘と窓で受ける。――砂棚 v3を敷こう」


     ◇


 まず、音返し(おとへん)を作る。

 レオンは《玻璃砂》に《竜喉殻》の極細粉と《黒雲母》を少量混ぜ、微小な薄片にして《灰蜜》で膜に散らせた。

 砂面に薄く撒くと、踏圧で薄片がわずかに跳ね、吸われた音の端だけを戻す。

 「返すのは声ではなく息だ」エリスが胸で確かめる。「呼びかけの喉に戻る短い反射」

 ガイウスは風紐の複線をもう一本増やし、紐の結び目に砂の薄片を極少量つけた。「方向じゃなく帰還を示す紐」

 白い手は掴まない輪の代わりに掴まない楕円を腰高に吊し、体が反射を拾う角度へ自然に傾くようにする。


 次に、窓鐘まどがねを置く。

 砂窓の枠に《玻璃砂》の空洞球を四つはめ、角の乾孔に薄い金糸を通す。

 音が吸われると、乾孔がわずかに凹み、空洞球の内側で鳴らない打音が生まれる。――耳ではなく胸骨で感じる鐘。

 「鳴らないのに鳴る」リサが球を指で弾く。「罠じゃない、帰り道」

 マルコは観測窓・砂版の欄外に「窓鐘の凹み回数」の小目を加え、無名番に記録を頼んだ。


 そして、折返の輪。

 砂棚v2の第五層(折返受け)を、核幕へ向かう放射ではなく、同心円に編み直す。

 輪の縁に跡拍・折返の踵返しを連続で植え込む。歩くほど、戻ることが普通になる。

 「戻るのは敗北じゃない」エリスが低く言う。「礼だ。――折返は許可じゃなく習慣」

 ガイウスは輪の低い欄干に陰を重ね、止まる前に休む姿勢を体が勝手に取るよう、膝の高さへ空気のやわらかさを置いた。


 準備が整うと、レオンは砂窓の角に指を置き、窓鐘の金糸を軽く引いた。

 鳴らない鐘が胸の内でごく低く震え、音返しの薄片が砂の表面でささやきを跳ね返す。

 鉛の天幕の縁に、かすかなさざ波が立った。――吸音の表面張力がほどける兆し。


     ◇


 天幕の周縁、小幕の影から一団が現れた。

 黒でも白でもない、鉛灰の衣。胸に針はなく、手に帳もない。ただ、腰に短いくさびを数本。

 先頭の男は喉を温める仕草もなく、低い声を出した。声は出たと同時に吸われ、輪郭を失う。

 「静盟せいめい」マルコが板に刻む。「静けさを所有せず、販売もせず、ただ吸う者たち。裁可は嫌い、批准は要らぬ。礼を過剰にすると、遮断に変わる――その極」

 男は短く首を傾げた。「礼は音を止めるためにある。止まらない音は暴力だ」

 エリスが一歩出る。「暴力を止めるのは鞘。礼は座らせる。——戻すのが礼」

 男は沈思し、楔の一本を砂へ突き立てた。カチという硬い無音が走り、砂面から反射が消える。

 音返しが一瞬、帰還に失敗した。


 「楔に穴を」リサが囁く。

 レオンは膝を落とし、《聖樹樹皮》の粉を指に取り、楔の根の砂へ円を描く。

 エリスが胸で擬窓を開き、窓鐘の金糸を楔の影に通す。

 乾孔がひとつ、ふたつ、息を吸って吐き、楔の周囲に微小な空洞が生まれた。

 「楔穴くさびあな」マルコが名前を付ける。「止めの隙」

 音返しは空洞の内側だけで反射を回復し、吸音は外側へ逃がされる。

 男の眉がわずかに動いた。「吸いきれない隙を、礼と呼ぶのか」

 「座る隙だ」レオンが応える。「止めるためではなく、置くために」


 静盟の列の後方で、核幕が息を吸った。

 膜の裏側で、巨大な無音が膨らみ、砂面に影ではない暗さを落とす。

 窓も穴も半拍も、そこでは意味を失いかける。

 ガイウスが短く言う。「輪を重ねろ」

 折返の輪が二重、三重に重なり、踵返しの連続癖が核幕に向かう歩みの歩幅を縮めた。

 進むより先に戻る。戻るより先に座る。座るより先に呼吸。


 エリスが骨鐘を胸に当て、「鞘拍・砂版」に影の半拍を足す。

 短、浅休、長、浅吸、影。

 影は暗闇ではなく、座布団だ。吸音の上に薄い礼を敷き、音が暴れる前に座らせる。

 窓鐘は凹みを一度だけ深くし、鳴らない音で胸骨に帰宅の合図を置いた。


     ◇


 核幕の裏から、一つの影が滑り出た。

 細い体躯、鉛灰の外衣、手には何も持たない。

 ただ近づくだけで、周囲の砂棚の簾が揺れず、乾孔が吸えず、音返しが跳ねない。

 「核守かくもり」静盟の男が低く言う。「吸いを均す者。鈴も札も要らぬ。声を喉の前で消す技」

 核守はレオンたちの五歩手前で止まり、唇をわずかに開閉させた。

 音は出ない。だが、息も感じない。呼も吸も、天幕の中に平らに分散され、世界から抜けていく。

 エリスが眉を寄せる。「息を散らす……祈りの逆」

 レオンは砂面に膝をつき、窓鐘の球をひとつ外して手のひらに乗せ、金糸を核守の足もとにそっと置いた。

 「鐘を“窓”のまま、“穴”にする」

 球に極小の孔を一つ穿ち、凹みが吸音を飲み、飲んだ分だけ胸に帰すよう、返しをつける。――鐘穴かねあな

 核守の足もとで、砂がごくわずかに沈んだ。

 音ではなく、息が一滴、胸へ戻る。


 「戻した」エリスの声は内側だけに響く。

 「戻るは礼」ガイウスが短く相槌を打つ。

 核守の目が初めて揺れた。均された視線に粒が戻り、唇が本当にわずかに呼の形をとる。

 静盟の男が一歩進みかけ、楔を握りしめた手を緩めた。


 その時、核幕の上端がわずかに裂けた。

 風棚の第三段が高みから逆光を落とし、裂け目に白い線が立つ。

 リサが「今」と言い、風紐の帰還線を強め、折返の輪へ窓鐘の凹み回数を同期させた。

 凹みが三つ、続けて起こる。

 跡拍・折返が輪で増幅され、核幕の縁へ踵返しの連鎖が走る。

 吸いは吸い続けられず、礼に転がった。


 静盟の男が短く言った。「止まった」

 核守は足もとを見る。鐘穴が小さく光り、砂が自分で膨らんで戻るのを見届け、ゆっくりと天幕へ下がった。

 「吸い続けるのは礼ではなかった」

 彼の言葉は誰にも届かないが、窓鐘の凹みが一度、浅く揺れた。


     ◇


 核幕のこわばりがほどけると、周縁の小幕が自重に負けて砂を撫でた。

 静盟の男は楔を抜き、砂を掬って落とした。

 「礼は止めることではなく、返すことだと、今日知った。……だが、音は暴力にもなる」

 エリスが頷く。「そのときは鞘。鞘は札にならない。鞘拍を標準に加える」

 マルコが板に刻む。「礼儀の標準 v砂-3=窓(窓鐘・鐘穴)/穴(乾孔・楔穴)/半拍(跡拍・折返・影)/開放帳(音吸い欄)。維持=掃除。印は外」

 白い手は掴まない楕円を解き、風紐の帰還線に結び替える。

 玻璃師団の工匠長は空洞球の作り方を子へ教え、「鐘は耳で鳴らさない」と笑った。


 開放帳・砂版には新たな項目が並ぶ。「窓鐘の凹み」「折返輪での転倒なし」「吸音下での目眩(減少)」

 無名番が欄外に一行を加えた。「核幕→礼へ転がる。鐘穴×1。無料」


     ◇


 午後。

 砂市の端で、小さな芝居が始まった。

 題は「戻って、座って、歌う」。

 遊牧の子が折返の輪の上で走っては戻り、座っては歌い、窓鐘の凹みに手を当てて笑う。

 蜃商連の帳付は渡し符の束を軽く振り、「影は礼、影札は紙」を口上にして紙を配る。

 波工に転じた元走路商は、砂簾の第四層に波の欠け目を刻み、五層目の踵返しを子に見せて回る。

 静盟の数人は天幕の残骸の前に座り、吸わずに座る練習をしていた。楔は、穴の脇に横向きに置いてある。


 レオンは砂井の縁に腰を置き、帳面をひらく。

 「砂棚 v3:音返し(玻璃砂+喉殻+黒雲母)薄片膜/窓鐘(空洞球+乾孔金糸)→鐘穴化/折返の輪(踵返し連鎖)/風紐・帰還線/掴まない楕円。

 静盟=楔→楔穴/核幕→鐘穴+折返連動で礼へ転がる。

 観測窓:凹み回数記録/音吸い欄追加。

 標準更新=礼は返す・維持=掃除・印は外・無料・複製自由。」

 紙は乾き、砂はやわらかく、胸は深い。


 ガイウスが砂の縁へ視線を送る。「次に来るのは、逆だろう。音を増やすための祭具。窓鐘を鳴らすと言って暴音を売る連中」

 リサが笑う。「鳴らない鐘を鳴らすって? 詩としては悪くないけどね」

 エリスは骨鐘に指を置き、「鳴らさないための楽器を準備しよう」と言った。「和音をほどく鞘」

 マルコは板に見出しを刻む。「次:暴音市ぼうおんいち対処/和鞘わさや無音譜むおんふ/窓鐘規格の“逆押し”禁止」

 老婆は杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置く。

 穴は半分埋まり、しかし埋まる前にやわらぎ**を覚えた。


     ◇


 夕刻。

 古塔の鳴らない鐘が遠くで低く呼吸し、風棚の第三段が砂市の上へやわらかい線を落とす。

 河棚は粘りを整え、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保つ。

 砂棚v3は、音を返し、戻し、座らせ、歌わせずに歌を残した。


 索主会の女監が戻ってきた。

 「都市に『掃除は標準』と書き送った。窓は増やす。無名番は厚く。署名は裏に。窓鐘の逆押しは禁止する条項を提案する」

 マルコが深く頷く。「礼が法に降りるのを、急がせない。穴が先。法は後」

 女監は微笑し、砂井の水面に星の予告の光を覗き込んだ。「後を先にしない術は、退屈を愛することだ」

 老婆が笑った。「退屈は礼の母だよ」


 レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。

 そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還す。

 窓鐘は鳴らずに凹み、鐘穴は息をひとつ返した。

 無名番が開放帳・砂版の端に小さく記す。

 「鉛の天幕→礼へ。無料」


     ◇


 夜。

 砂の温度が更に落ち、音の輪郭が近すぎず遠すぎずの場所に収まっていく。

 遊牧の歌は喉の奥で回り、跡拍・折返に長い休をひとつ足して焚き火を囲む輪を広げた。

 窓鐘の凹みは時折二度、三度と浅く揺れ、そのたびに胸は帰宅を思い出す。

 砂井の底には星が一つ、二つと降りてきて、穴の周りに歌の縁が生まれた。

 子らは眠り、白い手は掴まない楕円を外し、見晴らしに換え、玻璃師団の器は音を映さない薄さに磨かれた。


 レオンは帳面の最下段に、ゆっくりと太い字で書いた。

 「礼は返す。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=習慣。鐘は鳴らず、息だけ返す。無料。複製自由。」

 骨鐘を離すと、砂のどこかで鳴らない鐘が応えた。

 その応えは耳には届かないが、帰宅の合図として、胸の内へ正確に届く。


 季節はまた増える。

 畑は、音が吸われる土地にも穴で根を伸ばし、窓鐘で呼吸を返し、折返の輪で足と歌を休ませた。

 そして遠く、まだ見ぬ暴音市のほうから、微かな過剰が笑い声に紛れて押し寄せてくるのが、窓鐘の凹みに一瞬、映った。


 「――耕そう」

 レオンは砂井の縁で立ち上がり、仲間たちへ視線を送る。

 「鳴らさずに返すために。歌が札にならないように。退屈が骨になるように」


 風は答え、砂は薄く笑い、窓鐘は凹み、鐘穴は息を返す。

 礼は、また一段、厚くなった。

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