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第19話 石粉路の折り返し――走路商と、砂棚v2

 夜が完全に降りきる前、南西の地平を横切る黒い帯は、ひと息ごとにわずかずつ太った。

 月の薄明が砂面を銀に撫で、帯の縁で粒がざわめく。近づくほど、砂の音は消え、代わりに擦れた石の囁きが耳の奥で増える。

 「石粉いしこだね」リサが弓を背で組み替え、足裏でさわさわと確かめる。「砂に石の粉を混ぜて固め、線にする。路にしちゃう」

 ガイウスがしゃがみ込み、指先で暗い粉をつまむ。舌へ持っていく前に、エリスがそっと首を振った。

 「名粉に似てるけど違う。止める味がする。――息を立ち止まらせるようにできてる」

 マルコが薄板に走り書きし、声に出す。「走路商=石粉路(固定跡)/通行権販売/折返免許――折返点で銅札。無料は『安全でない』の標語で封じられる」


 夜気が冷たさを増すころ、黒い帯の上を台車隊が滑ってきた。

 車輪は木、板は布を重ね、下腹に石粉を撒く仕掛けがある。進むたび、帯は更新され、線は太る。

 先頭の男が肩章を鳴らし、明るい口調で呼ばわった。

 「走路商連そうろしょうれんでござい! 石粉路は酔いも迷いもない。折返免許を買えば、砂棚なんて不要!」

 砂市の外縁で焚き火を囲む遊牧の一団に視線が集まる。道具に疲れた目は、安心の線を欲しがる。

 老婆が杖で砂を撫で、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。浅い休が砂面をそっと撫でる。

 「線は安心に見える」老婆の声は小さいが遠くまで届く。「けれど、線は檻にもなる」


 レオンは一歩前へ出た。砂窓の角に指先を当て、乾孔にほんの短い息を落とす。

 「砂棚 v2を敷く。線を層に、層を習慣に、習慣を礼に」

 マルコは即座に板へ刻み込む。「砂棚 v2=簾層×5(足裏滑/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/跡拍・折返おりかえし


 エリスは胸の奥で跡拍・折返を組む。

 短、浅休、長、浅吸、――そこで折り、短に戻す。

 途切れになりかける中腹に、やわらかな踵返しを置く拍。折返点で休みが先に来るように配する。

 「折返が『休む許可』になる」と彼女は小さく言った。「免許はいらない。礼がある」


 ガイウスは風紐を二重に張る。一本は進行、一本は折返。

 紐は目に見えないまま、風の筋に座り、矢印ではなく曲線で方向を示す。

 白い手の斥候は柱の影に掴まない輪を幾つもつくり、折返す体の重心が自然に低くなるよう、輪の高さをわずかに変えた。


 砂棚v2の第四層――線拡散の簾は、細い玻璃砂の縁が規則的に欠けている。

 線が触れると、縁の欠けで波になり、帯は幅を失い、面へと散る。

 第五層――折返受けの簾は、引っかからない起伏が連なる。

 踵が軽く取られ、休みを先に思い出す。

 「逃げ場を先に置く」リサが頷く。「線が捕まえる前に」


     ◇


 走路商の先頭車が砂棚の手前で止まった。

 肩章の男がにこやかに帽子を持ち上げる。

 「無許可で路を改変はおやめを。折返免許の範囲外だ」

 マルコは板を掲げる。「開放帳・砂版。石粉路の渇き・目眩・倒れ・戻りの記録を誰でも。第一の罰=手順直し。無料」

 男は笑みを崩さず、紙束を広げた。「安全基準を満たす唯一の路は当社です。無料は危険。もし事故が起きたら、誰が責任を?」

 「窓が責任を割る」レオンが静かに返す。「観測窓・砂版を増設する。窓は多いほど、偽りが小さくなる」

 エリスは砂窓の角に乾孔をひとつ増やし、掃き出し拍を折返に合わせて短く三度流す。

 曇りは自分で拭え、責任は分割されずに拡がる。

 男の笑みの端が硬くなる。「標準が遅いと、人は死ぬ」


 そこで、遊牧の女隊長が一歩前に出た。

「昨夜、石粉路で転んだ子を抱えて来たのは、うちだ。折返免許を買ったが、折返点を過ぎたら有効でないと言われた」

 肩章の男は目を伏せ、帳付に目で合図する。帳付は書式を翻しながら平然と言った。「券面に記載のとおりです」

 女隊長は笑わない。「券面を砂は読めない」


 レオンは砂棚v2の第四層へ指を滑らせ、線拡散の波を石粉帯の縁へ送った。

 黒い帯は幅を失い、走路商の台車の車輪が馴染みを失って振動する。

 「路は道具であって檻ではない」マルコが読み上げる。「折返は権利ではなく礼。免許は紙へ戻れ」


 ガイウスは風紐の折返線を一段下げ、ここを通る体が勝手に踵を下ろすように、欄干の陰を重ねた。

 白い手の輪は膝の高さでやわらかく、止まる前に休む癖をつける。

 エリスは跡拍・折返を市全体へ薄く回し、リサは見えない穴を折返点の手前へ散らして刃の衝動を抜く。


 走路商の男が口笛を鳴らすと、後方から黒い幕が四方から滑ってきた。

 走路囲そうろがこい――線を囲って面にして通行料を従量化する仕掛けだ。砂私室の路版。

 「囲いは窓で破る」エリスが即座に擬窓を胸で開き、耳の内側の窓を砂面の上に敷き詰める。

 レオンは乾孔を並列に連結し、吸って吐くを同期させる。囲いの幕は曇りを保てず、自分で自分を透かす。

 黒い幕は質量を失い、夜風に畳まれた。


 「無料は責任をぼかす」肩章の男はなお言う。「事故が起きたら――」

 そこで、観測窓の前にいた無名番が板を指で叩いた。

 「起きたら、『手順』を直す。まず直す。罰は手順に。名を罰さない。札にもしない」

 開放帳・砂版の欄外に、無名の手が加筆する。「昨夜の転倒→砂棚v2 導入/折返線 下げ/偽窓 中和。再発なし」

 肩章の男の笑みは消えた。

 「標準は敵じゃない」レオンが静かに言った。「礼儀の標準だ。窓、穴、半拍、開放帳。印は外。無料。複製自由」


     ◇


 夜半。

 石粉路は線であることに疲れ、砂棚v2の第四層で波になってほどけ、第五層で休みになって座った。

 走路商の台車は線を失い、面の上で迷子になる。

 エリスが胸で鞘拍を一度深く回し、レオンが砂窓の角をなぞる。乾孔は三度、吸って吐き、曇りは拭われる。

 ガイウスは風紐の複線に沿って歩調を乱さず、白い手は掴まない輪を解き、見晴らしへ置き換えた。

 走路商の帳付が紙束を抱え直し、肩章の男が静かに両手を上げた。

 「撤収だ。線は夜に弱い」

 「礼は夜に強い」老婆が笑って言う。「眠りは礼の姉だよ」


 彼らが去ると、砂上に黒い帯は残らず、薄い癖だけが残った。

 癖は跡へ、跡は路へ、路は習慣へ、習慣は礼へ。

 遊牧の喉歌が穏やかに伸びる。跡拍・折返は歌の折りにのり、鞘拍は火の温度を低く保つ。

 玻璃師団の工匠長は砂窓の乾孔に耳を近づけ、子どもへ囁いた。「穴は歌えるね」

 子どもは笑い、「窓も歌える」と答えた。


     ◇


 夜明け前、砂の温度が最も低く、星が耳の内側でかすかに鳴る時間。

 レオンは砂井の縁に座って帳面を開いた。

 「砂棚 v2:簾層×5(足裏滑/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/掴まない輪(膝高)/観測窓増設(乾孔同期)。

 跡拍・折返:短・浅休・長・浅吸→折り→短。

走路商:石粉路→線拡散で解体/走路囲→擬窓+乾孔同期で透過/折返免許→礼へ還元。

 開放帳・砂版:転倒→手順直し→再発なし。

 標語更新=『線は檻、層は礼』」

 紙は乾き、砂は青く、風はまだ眠い。


 ガイウスが歩いてきて、砂井に腰を落とした。

 「南東から騎影。旗は索主会。都市から委任状を持ってくるだろう。索引の所有だ」

 マルコが頷き、薄板を叩く。「王都にも同じ手が回り始めてる。呼気索引の保守契約を『安全』の名で囲う」

 エリスが砂窓の角に指を置き、「窓を都市へ増やす」と言った。「空の窓、水の窓、石の窓、砂の窓。窓は多いほど礼が噓に負けない」

 リサは南東の薄明を見つめ、低く口笛をひとつ。「楽しくなってきた」


 肩章の男が戻ってきた。昨夜より静かな顔で、旗も肩章も降ろしている。

 「線で商いをするのは、楽ではあった。畑は退屈だ」

 老婆が笑い、「退屈は楽の土だよ」と答えた。

 「路を直すなら、窓の掃除を手伝いな」孫が砂窓の角を指さす。乾孔は小さく吸い、吐き、薄い曇りを自分で拭った。

 男はうなずき、砂簾の束を肩に担いだ。「砂棚の第四層、波の作り方を学ばせてくれ」

 マルコは板に一行加える。「走路商→波工なみこうへ転業希望。手順公開。無料」


     ◇


 朝日が砂の縁を黄金にし始めたころ、南東から索主会の騎影が砂塵を高く上げて迫った。

 旗は無色の布、織り目に極小の文字。胸には小針。

 先頭の女が名乗る。「索主会 都市圏第七監だいななかん、代理。呼気索引の維持管理を中央で預かる契約を持ってきた」

 「預けない」マルコは即答した。

 女は眉ひとつ動かさない。「無料は脆い。窓は曇る。穴は埋まる。半拍は途切れる。都市は事故を恐れる」

 レオンは砂窓の角を叩いた。乾孔は軽く吸って吐く。

 「掃き出しは無料だ。脆さは掃除の仕事だ。所有の仕事ではない」

 女は馬から降り、砂棚の縁へ膝を折った。

 「所有ではなく保証を」

 「保証は鞘」エリスが胸を撫でる。「鞘は札にならない。礼だ。――鞘拍を標準にする」

 ガイウスが風紐の複線を指さす。「折返は免許ではなく礼。見て歩いてみろ」


 索主会の一行はしばらく砂棚を歩いた。

 踵がときおりやわらかく取られ、休みが先に来る。線は波にほどけ、囲いは曇りを自分で拭う。

 女は戻り、短く言った。

 「都市は窓を欲しがる。掃除を恐れる。だから、掃除を標準に書く」

 マルコの目がわずかに笑う。「書けるか?」

女は無色の旗を畳み、砂井のそばに置いた。「書く。ただし、窓は多く。無名番は厚く。名の署名は裏に」

 エリスが頷く。「礼が表。名は裏」

 レオンは渡し符の束の上に紙片を一枚置いた。

 「維持=掃除」。無料。複製自由。


     ◇


 日が昇り切る前、砂市の中央で小さな祝が始まった。

 遊牧の鍋に塩と小麦、玻璃師団の器に薄い茶、白い手は掴まない輪の新しい結びを子どもに教え、走路商改め波工は砂簾の縁を削って波の作り方を練習する。

 蜃商連の帳付は渡し符の束を抱え、「影は礼」と三度繰り返してから笑った。

 砂井の縁で、老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。

 乾孔は吸い、吐き、曇りは拭え、跡は路へ、路は習慣へ、礼は標準へ。


 レオンは骨鐘を胸に当て、砂市の騒めきをひとつ深い息で丸めた。

 「砂は跡を嫌うが、記憶は嫌わない。記憶は礼に座る。礼は無料で広がる」

 遠く、古塔の鳴らない鐘がわずかに共鳴し、風棚の第三段が低く応え、海棚は潮を抱き直し、河棚は粘りを整え、山棚は沈黙を保つ。

 礼儀の標準は砂にも根を持った。


     ◇


 夕刻前、南の空が澄んだ。

 砂の向こう、線と面の議論が収まった地平の更に先に、黒い影が細く立った。

 「鉛の天幕なまりのてんまく」リサが囁く。「音を吸う。窓も、穴も、半拍も吸って黙りを遮断に変える一帯」

 エリスは静かに首を傾ける。「沈黙を所有する別系……黙府の奥座敷か、あるいは別の名」

 マルコは板に新しい見出しを刻んだ。「次:鉛の天幕/音吸いおとすいりょう対処。砂棚 v3=音返し(おとへん)/窓鐘まどがね/折返の輪」

 ガイウスは剣にそっと手を置き、しかし抜かない。「剣はいらない。鞘で足りるなら、そのほうがいい」

 老婆は杖で砂を掬い、孫がその上に小さな穴をそっと置いた。

 穴は半分埋まり、しかし埋まる前に音を覚えた。

 「穴は歌える」孫が言う。

 「穴は鐘にもなる」レオンが微笑んだ。「鳴らないまま、鳴る」


 彼は帳面の最下段に、太い手で書いた。

 「線は檻、層は礼。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=許可ではなく礼。無料」

 骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。

 そこに浅い休をひとつ置き、折返で短へ還す。

 跡拍・折返は砂市の隅々へ広がり、疲れは落ち、迷いはほどけ、線は波に、波は層に、層は礼になった。


 季節はまた増える。

 畑は、砂の上でも、線の上でも、層として芽を出した。

 次は、音だ。

 吸われる音に、穴の鐘を。

 礼の骨に、静けさの歌を。

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