第18話 跡に路を――砂の窓と、蜃気楼の勘定
尾根の向こうで風が一度だけ逆さに吹いた日、レオンたちは古塔を後にした。
風棚は三段を保ち、鳴らない鐘は塔の芯で低く呼吸を続ける。山の沈黙は礼に整い、河は棚で粘りを覚え、海は鞘で潮を抱き直し、紙には窓が開いている。――次は、砂だ。
「砂は跡を嫌う」
ガイウスが短く告げる。「足跡は次の風で消える。道が覚えられない土地だ」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、拍を浅く回した。「半拍が伸びて“途切れ”に化ける。――途切れを休みに戻せば、歩ける」
リサは弓を背に置き、砂丘の縁で風の層を指で測った。「矢は舞うけど、狙いはのる。穴はすぐ埋まる。穴の記憶を作ろう」
マルコは薄板を掲げた。「礼儀の標準を砂の地文に合わせて移し替える。――砂窓、砂穴、跡拍、開放帳・砂版。印は外、無料、複製自由」
王都から西南へ三日。草が途切れ、礫が尽き、明るい地平が音を消して広がった。
朝の砂は固く、昼の砂は崩れ、夕の砂は冷え、夜の砂は星と同じ粒でできているかのように光る。
遠目に、揺れる市が見えた。帆も柱もない、蜃気楼の市だ。布の庇が空中に看板のように現れては消え、影だけが地面に薄く座る。
風向きが変わるたび、影は別の場所に重さを落とし、そこに人が集まって貨を交わす。
「蜃商連」
マルコが眉を寄せる。「影と涼を証紙にする連中。影の証紙一枚で『日暮れまで一定の涼』を約す、と言いながら風が変われば取り消す。取り消し料の利子が主の収入だ」
「影は無料だよ」老婆が笑った。「礼に座っていれば、風が連れてくる」
孫は胸に指を置き、「短・長・長・短」をひとつ踏み、砂へしゃがみ込んで人差し指で小さな穴を一個、押した。
穴は風で半分埋まり、しかし埋まる前に、砂粒が輪を覚えた。――記憶だ。
◇
まず、砂窓を置く。
レオンは《白穂草》の粉に《玻璃砂》を混ぜ、《灰蜜》で糊にした。砂粒に静電のような薄い抱きを与え、積極的に積もらない場所を作る。
四角い枠の角に微細な孔――乾孔をあけ、風が通るたびに砂埃を少しだけ吸って吐く。窓は曇る。だが半拍ごとに自分で拭う。
「砂窓」エリスが頷き、胸の内で拍を浅く速く揺らす。眠くなる前に息が思い出される速度だ。
「砂穴は?」とリサ。
「深く掘らない」レオンは首を振る。「掘る前に礼。――砂簾を使う」
《白穂草》の糸を《玻璃砂》で薄くコーティングし、掌大の簾を幾層も重ねて砂面に置く。
風が吹けば簾はゆらぎ、砂粒の一部だけを底へくぐらせる。穴は形ではなく習慣として残る。
「穴の記憶」リサが口笛をひとつ。「見えないのに、次の穴の居場所になる」
次に、索引を砂に結ぶ。
岩鍵の代わりに、レオンは《骨灰》と《玻璃砂》を練った砂鍵を作った。
返すのは冷温差ではなく、踏圧と滑りの差。足裏でわずかに重い、わずかに軽いを交互に返す。
「跡拍」エリスが名づけ、短いパターンを胸で回す。
短い、浅い休、長い、浅い吸。途切れになりかけた半拍を休みへ、吸いへと戻す拍だ。
ガイウスは手摺の代わりに風紐を立てた。《白穂草》の糸を《玻璃砂》で繋ぎ、目に見えないガイダンスを風に吊す。
白い手は掴まない鈴ではなく掴まない紐を腰高に張り、方向だけを示した。
揺り籠は抱き直しを砂の上で地面側ではなく空気側に敷き、熱で揺れる陽炎を眠らせる。
「開放帳・砂版」マルコが杭に括りつける板に大書した。
項目は四つ。渇き、目眩、涼、影の証紙。
「誰でも書ける。涼と渇きを数にする。偽りは跡拍と乾孔で落ちる。第一の罰=手順直し。無料」
蜃商連の若い帳付が鼻で笑い、薄紙の束をひらひらさせた。「影に保証が必要なのさ。風は責任を取れない」
「保証は鞘。鞘拍で熱を納める」エリスが胸の中で鞘拍・砂版を作る。短、浅休、長、浅吸。熱の刃を鞘で吸い、乾孔へ流す。
レオンは砂窓の角を指で弾き、跡拍の短い合図を流した。
砂の上の影が滞留せず、移る。
蜃商連の帳付が紙束を見つめ、ほんのわずかに眉を寄せた。「……影が逃げる」
◇
昼、太陽が頭上に立つ。
蜃気楼の市は濃くなり、蜃商連の影の証紙は飛ぶように売れた。
影に値がつくと、人は影を追う。追うほど、渇きが増す。
開放帳・砂版には拙い字で埋まる。「目が回る」「涼が逃げた」「影の証紙、取り消された」
マルコは板に新しい項目を追加した。「取消料」「涼の返金」――数を礼の外側に並べる。
白い手の斥候が汗を流しながら、掴まない紐の高さを調整する。
リサは砂簾の束を日陰に動かして薄い影の癖を砂面に刷り込み、ガイウスは風紐に薄い鈴をつけずに、ただ輪郭だけを増やす。
「砂棚を敷こう」レオンが言った。
風棚や海棚のように、砂の表面に段を作るのではない。砂は段を嫌う。
だから、段ではなく簾の層――砂簾を三枚、四枚、拍に合わせて交互に揺らす。
第一層は足裏の滑りを拾い、第二層は影の滞留を分散し、第三層は熱の刃を鞘に納める。
「砂棚 v1」マルコが板に刻む。
エリスは跡拍と鞘拍・砂版を半拍ずらしで重ね、陽炎の層に抱き直しを入れる。
「涼は逃げない――移る。移るなら、それを先回りで迎える」
蜃商連の市の中心から、笛が鳴った。
音は冷たく甘い。耳の内側を冷えが撫で、「ここに涼がある」と錯覚させる笛だ。
「蜃笛」リサが弦の上で指を鳴らす。「音で影を指名する」
エリスが胸の中で砂版・鞘拍をひとつ強く回し、レオンは砂窓の乾孔を三つ連ねて小さな通り道を作った。
涼は指名に従わず、跡拍に従って移った。
笛の音は空で甘く、砂で空っぽになる。
帳付が目を見開く。「音が、買えない?」
「音は買える。涼は買えない」マルコが淡々と言う。「音は紙。涼は礼」
「礼に値はつかない」老婆が杖を鳴らす。「礼は座るもんだ」
孫は砂の上で膝を抱え、小さな砂窓の角を撫でた。乾孔は砂粒を二つ吸い、ひとつ吐き、曇りを拭った。
◇
午後。
太陽の刃が傾き始める頃、蜃商連の幌の奥から別の帳が出てきた。
「涼量認証」――涼の量を単位化し、前貸しで売る。使わなかった涼は消える。
「時間の涼」エリスが眉を寄せる。
「時間は半拍で刻む」レオンが短く言い、跡拍のパターンを市全体へ薄く流した。
短、浅休、長、浅吸。
使わなかった涼が消える前に、半拍が拾い上げる。
開放帳・砂版の欄外に、無名の手で記された。「未使用涼→砂窓へ還元。――無料」
蜃商連の帳付は唇を噛み、紙束を畳んだ。「取消料しか残らない」
「取消料は掃除代じゃない」マルコが釘を刺す。「掃除は無料。掃除に値がつくと札になる」
帳付が退いた代わりに、砂の地平から灰色の幕が滑ってきた。
幕には何も描かれていない。だが、近づくほど、冷えと静けさが濃くなる。
「砂私室」ガイウスが目を細める。「砂の沈黙の囲い込み。――黙府の砂版だ」
幕の前に立つ女が微笑んだ。「一刻、銀貨三枚で涼と静。穴は保証」
レオンは一歩進み、砂窓を幕の前へ置き、乾孔を四隅にひとつずつ増やした。
「窓は扉じゃない。扉は札になる。窓は礼を通す」
エリスが胸の内で擬窓を開き、耳の内側の窓を砂の上へ敷く。
涼と静は幕に寄らず、砂窓に寄った。
女はため息をつき、幕を畳んだ。「無料は退屈なのに」
「退屈は礼の親戚だよ」老婆が笑った。「札には親戚がいない」
◇
日が傾き、風は東から西へと帯を変える。
砂棚は第二層の揺れを強め、影の滞留を抱き直し、熱の刃は鞘にほぼ収まった。
そこへ、砂丘の向こうから歌が来た。
遊牧の歌。
ラクダの鈴の鳴らない音と、喉の奥で回す共鳴が、跡拍と鞘拍の間に長い息を渡していく。
先頭の女隊長が頷いた。「路が見える。跡が消える前に、跡が路に変わっている」
レオンは笑った。「跡は記憶。路は習慣。――畑は習慣を作る」
遊牧の子が、開放帳・砂版の前で筆を握り、ぎゅっと眉を寄せてひらがなで書いた。
「のどかわかない」
マルコはその下に小さく「跡拍・成功」と記し、「蜃商連=影証紙→販売縮小」「砂私室→撤退」を追記した。
無名番は砂窓の角で掃き出し拍を三度回し、乾孔は砂粒を一つ吸って二つ吐き、曇りは自分で拭えることを思い出す。
◇
夕刻。
砂の温度が落ちると同時に、別の旗が立った。
布は琥珀色、織りは密、角に小さな針刺しの点列。
「玻璃師団」リサが目を細める。「砂を硝子に焼いて所有する派。窓を商品に変える達人」
玻璃師団の工匠長が、にこやかに近づいた。
「窓は素晴らしい。穴も美しい。標準を製品にしよう。名は入れない。銘だけだ」
マルコは肩を竦める。「銘は速度を落とす。紙でも石でも砂でも同じ」
工匠長は穏やかに笑った。「銘は歌だ。価格ではない」
エリスが窓の角で伏せ半拍をひとつ置き、「歌なら窓へ残らない」と告げた。「歌は耳に、窓は風に」
レオンは玻璃師団の板に開放帳・工法版を釘で打ち付けた。
「砂窓の作り方、砂簾の結い方、砂鍵の配合、乾孔の位置――公開、無料、複製自由。銘は歌で口へ残せ。窓には押さない」
工匠長は笑い、両手を上げた。「礼を学ぶよ。窓は礼だ」
そのとき、蜃商連の幌の陰から細い影が走った。
偽窓だ。
乾孔が逆向きに切られていて、砂とともに涼と静を吸いっぱなしにする。
「吸い尽くし窓」マルコが目を細める。「偽りを穴が吸う前に窓が吸う」
レオンは即座に砂窓の角に印ではなく粉を置いた。《聖樹樹皮》の微粉を《玻璃砂》で軽くまぶし、乾孔にわずかな「返し」を付ける。
エリスが掃き出し拍を三度回し、無名番が偽窓の前に小さな穴をひとつ置いた。
偽窓は吸いっぱなしにできず、吐くことを思い出し、ただの板に戻った。
蜃商連の帳付は肩を落として立ち去る。彼の背中は、ようやく影を追わない。
◇
夜。
星の数と砂の数が競い合うころ、風紐の上に鈴のない鈴が淡く光り、砂棚は第二層を薄く、第三層を深く保った。
砂窓の乾孔はときどき砂粒を吸い、ときどき吐き、曇りは拍で拭われる。
レオンは焚き火の側で帳面を開き、砂の一日を畝のように並べた。
「砂窓(玻璃砂+白穂草+灰蜜/乾孔×4)/砂簾×多層→砂棚 v1(足裏滑り/影滞留分散/熱鞘納め)。
砂鍵(骨灰+玻璃砂)→踏圧&滑差フィードバック。
跡拍=短・浅休・長・浅吸/鞘拍・砂版/掃き出し拍(乾孔連動)。
開放帳・砂版(渇き・目眩・涼・影証紙・取消料・返金)。
蜃商連→影証紙縮小/蜃笛無効化/砂私室撤退。
玻璃師団→工法公開へ合意/偽窓→返し粉+掃き出しで中和」
紙は乾き、砂は冷え、風は柔らかい。
ガイウスが焚き火越しに言った。「南の砂縁に碑がある。名を砂に混ぜ込む術が使われてる。跡が名で重くなる」
リサが目を細める。「砂碑。名が粒になってる」
エリスが頷く。「名は札にならなければ、砂に混じっても呼びかけで軽くなる。――砂棚を延ばそう」
マルコが板に追記する。「砂棚 v2:砂碑域対応/名粒→跡拍変換/乾孔増設」
◇
翌朝、砂碑域は薄灰色に光っていた。
砂の粒に極小の刻印が押されており、踏むと名が舌の裏に金属の味を残す。息が浅くなる。
「名の粉」エリスが舌先で慎重に確かめ、顔をしかめた。「札未満の粉。呼びかけを錆びさせる」
レオンは砂鍵の配合を変え、《聖樹樹皮》の更に細かい粉を足して**“名の味返し”をつけた。
踏めば、金属の味が微かな甘みに変わり、浅い吸が深い吸に戻る。
「跡拍・名返」
エリスが胸でひとつ回し、「呼びかけの喉**が開く」と目を細めた。
砂碑域の中央に、低い祭壇があった。
上に載るのは、硝子ではない。砂に混じった名の塊。
その前に、碑盟の術者がひとり。
彼は声を出さない。黙鞘に似た沈黙を纏いながら、砂の名を束にして影へ投げ込んでいる。
「影を名で重くして、蜃商連に貸す」マルコが低く言う。「影証紙の裏だ」
リサが弓に指をかけ、しかし矢は番えない。「穴で受ける」
レオンは砂窓を祭壇の四隅に置き、乾孔を名返に合わせた角度でひとつずつ増設した。
エリスが跡拍・名返を回し、ガイウスは風紐で薄い欄干を祭壇の外側に張る。
名は影へ落ちず、乾孔へ吸われ、跡へ薄まり、路へと戻った。
術者は一歩退き、砂を一握りつかんで舌に載せ、味を確かめ、顔をしかめた。
「……甘い?」
「甘みは礼の外側に置かれるべき味だ」エリスが静かに言った。「名の中に入ると、錆びる」
術者はしばらく黙り、それから砂を地に落として頭を下げた。
「印は外」
短い言葉。
砂碑域の色が、わずかに白へ寄った。
◇
昼下がり、砂の市に長い列ができた。
列の先にあるのは、井戸ではない。――砂井だ。
水が出る井戸ではなく、息が深くなる井。
砂窓と砂簾で周囲の熱を鞘に納めた窪みで、跡拍が足裏に休みを返し、乾孔が曇りを拭き、風紐が方向を忘れさせる。
人はそこで、喉ではなく胸で水を飲む。
「砂井、無料」マルコが板に大書する。蜃商連は遠巻きに見ていたが、やがて自分たちの幌を砂井のわきに移し、影の証紙の束ではなく渡し符の束を配り始めた。
「影は礼、札は紙」帳付が苦笑する。「紙の仕事に戻るよ」
玻璃師団は砂窓の作り方を工房帳に転記し、銘を歌で覚える術を子どもに教えた。
白い手は掴まない紐の結び方を遊牧の子に伝え、揺り籠は砂井のまわりに抱き直しの輪を薄く敷いた。
蜃笛はいつしか市から消え、代わりに喉歌が跡拍の合間に伸びていた。
◇
夕暮れ。
砂窓の角がほんのり赤く染まり、乾孔は砂粒をひとつ吸い、二つ吐く。
レオンは帳面をひらき、砂の二日を並べた。
「砂窓(乾孔)/砂簾→砂棚 v1/砂鍵/跡拍・名返/鞘拍・砂版/掃き出し拍
開放帳・砂版=渇き・目眩・涼・影証紙・取消料・返金・未使用涼還元。
蜃商連=影証紙縮小→渡し符配布へ/砂私室撤退。
玻璃師団=工法公開・銘は歌に。
砂碑=名粉→名返で中和/碑盟術者=印外。
砂井設置。――無料」
紙は軽く、砂は冷え、風は夜の礼を覚え始めていた。
ガイウスが遠くの地平を指した。「南西に黒い帯。砂の上に走る線だ」
リサが目を細める。「走路商だ。跡を固定して通行権を売る連中。砂に石粉を混ぜ、線を走らせる」
エリスは骨鐘に触れ、「跡が路になるのは礼。札で路にするのは檻」と言った。
マルコは板に太字で刻む。「次:走路商=“石粉路”対処/砂棚 v2(線路拡散)/跡拍の“折り返し”」
老婆が杖で砂を掬い、孫が穴をひとつ置く。
穴はまた半分埋まり、しかし埋まる前に礼を覚えた。
「跡は消えるけど、礼は消えない」老婆が笑って言い、孫は胸に「短・長・長・短」を置き、浅い休をひとつ、そっと乗せた。
夜が降りる。
砂棚の第三層が少し厚くなり、熱は鞘に納まる。
砂窓の乾孔が三度、やわらかく吸って吐き、曇りは消えた。
遊牧の歌が低く続き、鳴らない鐘は砂の下で――砂の跡に寄り添って――無音のまま鳴った。
「――耕そう」レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
「走路が檻にならないように。跡が路になるように」
風は答え、砂は薄く笑い、砂井は夜の星をひとつ、底に映した。
季節はまた増える。
畑は、跡の上に、路として、確かに芽を出していた。