表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/19

第17話 塔の芯に穴を――光孔と影廊、鳴らない鐘の誕生

 北西の尾根に聳える古塔は、夜明けの白に切り取られてなお黒かった。

 積み重なった石は海の塩も河の湿りも吸わず、風棚の段が撫でても微動だにしない。塔の周囲には、かつて名を刻まれた碑が半ば埋まって輪になり、その間の地面は踏み固められて季節を拒むように硬い。


 「塔は、季節の“止まり”だ」マルコが薄板を胸に抱え、視線で塔の継ぎ目を数えた。「名の硬直が石に座ってる。今日やるのは、座り方を礼に変えること」

 「芯を抜く」ガイウスが短く言う。「刃は使わない。鞘と穴だ」

 エリスは骨鐘を耳裏に寄せ、黙鞘の拍をひとつ胸で回した。塔の内側へ、声になる前の息だけを送る。

 リサは弓を背に回し、指先で空の筋を探る。「穴を四つ。風と光と息と数の窓。——名は勝手に丸くなる」

 老婆は杖を地に立て、孫の肩を押した。「塔は偉そうだが、高いだけ。畑のやり方は同じ。穴だよ」

 孫は胸に指を置き、「短・長・長・短」を踏んで、空の端を見上げた。竜の喉が遠くで低く応え、風棚の第三段が尾根の上へ薄く掛かった。


     ◇


 まずは索引だ。

 レオンは山版の呼気索引を塔周囲へ拡張した。岩鍵の鱗を塔脚の石目に沿って差し込み、伏せ半拍が連なる影の輪を描く。

 「塔の前庭」と彼は呼んだ。ここを黙る場にする。通る者がまず沈黙の礼を思い出し、名が札になる前に呼びかけへ戻る。

 マルコは開放帳・塔版を立て、項目を四つ書いた。「待ち/反響/刻印/疲労」。字が苦手な者のために印ではなく絵での記入欄も作る。無料、匿名可、第一の罰=手順直し。


 次に、塔の石肌と対話する。

 レオンは《骨灰》《黒雲母》に、竜の喉殻粉をさらに増して練り、岩鍵・芯通し(しんどおし)を作った。

 狙うのは塔の心柱——石積みの真ん中を細く上り下りする沈黙の管だ。そこへ鳴らない震えを送り込み、名の重心を外へ追い出す。

 「光孔ひかりあなを穿つ」レオンが言う。「光だけじゃない。息も、数も通す四孔だ」

 リサは北側の高い壁面に風の穴、東の肩に光の穴、南の縁に息の穴、西の継ぎに数の穴を置く位置を指で決める。

 エリスは黙鞘と鞘拍の合成を胸で回し、伏せ半拍を四孔の関として設計する。

 ガイウスは見張りを配置し、白い手と石歌の衆に「手摺を陰で作る」指示を出した。揺り籠の司祭は子守の抱き直しを塔脚の影に薄く敷く。


 塔の門は閉ざされている。

 碑盟の見張りが二人、黒衣で静かに立つ。顔は感情を見せず、胸には小さな石板。

 「干渉は違反。塔は印の祠。名は静止して守られる」彼らは同じ響きで言った。

 「印は外に」マルコが静かに返す。「拍に先立つ印は、札になる」

 「札は静止のために要る」

 「季節は動く。動くものを静止させれば、腐る」

 彼らは答えず、塔を背に沈黙した。沈黙の礼ではなく、遮断の沈黙だ。


     ◇


 穿孔は昼の光が塔の東肩に斜めに触れる時間を選んだ。

 レオンは岩鍵・芯通しの鱗片を、塔の石目に沿わせて螺旋に差し込む。

 叩かない。削らない。鳴らせない。

 伏せ半拍を使って、石の呼吸が自然に割れ目を思い出すように促す。

 エリスは胸の内で四孔節を回した。短・長・長・短の骨に、伏せ半拍を四つ——北(風)、東(光)、南(息)、西(数)。

 リサは風棚の第三段から細い梯子を塔面に落とし、白い手の斥候が掴まない鈴で足場の輪郭を見えないまま描く。

 ガイウスは下で欄干を保ち、石歌の衆が沈黙の和音を地の底で育て、揺り籠は眠らない眠りを門の前に広げる。


 最初に光孔が開いた。

 石の目がまぶたを上げるようにわずかに薄くなり、朝の白が線になって塔の腹に差し込む。

 次に風。北側の高みで薄膜が破れ、冷たい撫でが塔の内側へ流れ込む。

息は南で生まれ、数は西で目盛りを失って穴に落ちた。

 「四孔、通った」エリスが囁く。

 「心柱、触れた」レオンが答える。鳴らない震えが塔の芯をゆっくり下降し、眠っていた沈黙が礼に向かって起き上がる。


 その瞬間、塔の上部から黒い旗が一本、突き出た。

 碑盟の紋。三つの石片の上に、細い斜線が入っている。切断の印。

 「名の固定を維持」見張りの一人が低く詠唱し、袖から粉を撒く。

 粉は耳の奥に直接刺さるような反響を持ち、黙鞘の伏せ半拍を表へ引きずり出そうとする。

 「表返しだ」リサが歯噛みする。

 レオンは即座に影廊かげろうの設営に移った。

 光孔から入った光を影に変え、塔の腹に歩ける暗さを作る細長い道。

 影廊は穴の逆だ。抜けではなく、通り。明るさを沈黙へ導き、名の角を自分で丸めさせる。


 エリスが四孔節に影の半拍をひとつ足す。

 ガイウスが門の前の列を止めずに曲げ、影廊の入口を人の流れの自然に重ねる。

 石歌の衆は影の音階を沈め、白い手は手摺の代わりに陰を置き、揺り籠はうつむく安心を繕う。

 粉の反響は出口を失い、影廊の壁で吸音されて、穴に降りた。


 見張りが二歩退く。

 「干渉は……」

 「礼だ」マルコが遮る。「礼儀の標準。窓/穴/半拍/開放帳。印は外」

 「印が外にあるなら、内にあるのは?」

 「息」レオンは即答した。「名の前に息。名は札にならない。呼びかけに座る」


     ◇


 塔の内側が、歩ける暗さに変わった頃、塔守とうもりが姿を現した。

 年齢のわからない女。白でも黒でもない灰の外衣。首には細い鐘が一本、鳴らない。

 「塔は塔であれ」と彼女は言った。「名は眠る。季節は外にある。——それが私の務め」

 「務めを憎まない」エリスが歩み寄り、耳裏で黙鞘を回した。「眠りが要る時はある。今日は、目覚めが要る」

 塔守は鳴らない鐘に指を触れ、レオンを見た。「鐘にする、と?」

 「鳴らない鐘に」レオンは笑みを洩らす。「名を起こさない。息だけを撫でる。——塔が拍の外側に座るために」


 塔守はしばし黙り、やがて頷いた。

「三階に心柱の露出がある。光孔から上がれ。数は落としたが、反響の殻が残っている。——それを、穴にして」

 リサが先行し、風の穴から塔面へ取り付いた梯子を登る。白い手が陰の手摺を繋ぎ、石歌の衆が足裏の鳴らない震えを導く。

 レオンとエリスは影廊へ入り、歩ける暗さを胸で確かめながら、心柱への道を進む。

 ガイウスは外で欄干と行列を見守り、マルコは開放帳の書き込みを無名番とともに整理する。


 三階の露出は、石の円筒の内側が生々しく見える空間だった。

 反響の殻が薄く張り付き、名の角が化石のように残っている。

 「穴にする」レオンは囁き、岩鍵・芯通しを殻の継ぎ目に鱗として置く。

 エリスは四孔節から影の半拍を二つ分け、殻の内側に呼びかけだけを通す小径を作る。

 殻は、音を逃がさない道具だ。ならば、音が生まれる前の息を通す窓に変えればいい。

 「——光孔、風孔、息孔、数孔。影廊。殻穴からあな

 レオンが差し出す語に、塔守は目を閉じて鳴らない鐘を触れた。鐘は鳴らないが、心柱が微細に応え、殻が欠片になって落ちた。

 欠片は穴へ、穴は礼へ、礼は拍へ。

 そして——塔は、鐘になった。


     ◇


 外では、変化が目に見えた。

 塔の脚の影が薄く息をするように動き、塔の上の黒旗が自分で風を思い出してほどけ、灰になって舞った。

 碑盟の見張りは筆を落とし、塔守の合図に従って、黙石を押し出し、道の脇へ寝かせた。

 鳴らない鐘は、鳴らないままで人の胸を撫で始める。

 列の先頭の老人が、胸に手を当てて言った。

 「名乗らずに、通れる」

 「黙るのに、金が要らない」女の荷運びが笑った。

 子どもが影廊の入口で立ち止まり、短・長・長・短に伏せ半拍をふたつ、そっと続けてから走り出した。

 開放帳には、拙く、しかしはっきりと書き込みが増える。「疲れが落ちた」「怒らず通れた」「名が札にならない」「窓がきれい」。


 マルコは欄外に太字で加える。「反響税:廃止/黙石:撤去/塔:鳴らない鐘化/山棚 v2(影廊+殻穴)/観測輪:設置」

 塔守は開放帳の前に立ち、筆をとって、ゆっくり書いた。

 「印は外」

 そして、その下にもう一行。

 「塔は礼」


     ◇


 夕刻。

 古塔の最上段に上がると、風棚の第三段が尾根を越えて遠い海と河を同じ線で結んでいた。

 レオンは胸に骨鐘を当て、短・長・長・短。そこに伏せ半拍をひとつ置き、鳴らない鐘にそっと触れる。

 鳴らない鐘は、塔全体で無音の和音を返した。

 空の段が応え、海の棚が呼吸し、河の棚がうなずき、紙の窓が開き、土の抜け道が微笑む。

 山の沈黙は、もう遮断ではない。礼だ。

 「——耕せた」エリスが息を落とした。

 「塔が鐘になった」ガイウスが肩の力を抜いた。

 リサは弓に凭れ、空の筋に小さな穴を見つけて指で丸を作った。「穴の向こうで、星がひとつ増えたよ」


 老婆と孫が遅れて上がってきた。

 孫は塔の縁に座り、胸に拍を置き、伏せ半拍をそっと重ねる。

「怖がり、まだいる?」

 「いるよ」老婆は笑った。「でも、座ってる。礼の上に」

 塔守が隣に立ち、鳴らない鐘を胸に当てる。

 「塔守は、鐘守になれるのか」

 「守るのは沈黙じゃない」レオンが首を振る。「礼だ。——窓と穴と半拍と帳。無料。複製自由」


     ◇


 日が沈みかけた頃、尾根の向こうから別の旗が滑ってきた。

 白でも黒でも紫でも銀でもない、無色の布だ。

 近づくと、布に極小の文字がびっしりと織り込まれているのが見えた。

 「索主会さくしゅかい」マルコが低く言う。「索引そのものを所有しようとする連中。呼気索引が街で回り始めたから、取りに来た」

 旗の下から現れたのは、痩せた男と笑顔の女、そして無言の子ども。三人とも、胸に小さな針を付けている。

 男が口を開いた。「索引は秩序だ。秩序は所有により安定する。——無料の索引は、責任の宙吊りだ」

 「責任は分割されず、拡散される」レオンは海で学んだ言葉を返す。「観測窓を多く。無名番をそこかしこに。手順を先に配る」

 女は笑みを崩さず尋ねる。「手順が偽りだったら?」

 エリスが答える。「半拍が暴く。穴が落とす。掃き出し拍を足す」

 マルコが板に新しく刻んだ。「掃き出し拍(山版)=伏せ半拍×1+休×1+吸×1(耳裏)。索引石(山)へ展開」

 子どもは無言で石の窓に近づき、角の穴を覗いた。

 「見える?」孫が並んで尋ねる。

 子どもは少し考え、「聞こえる」と言った。

 塔守が微笑む。「窓は見るだけじゃない」


 索主会の男は肩をすくめ、無色の旗を巻いた。

 「所有は、礼を壊す。……今日は去る。だが、都市でまた会おう」

 彼らが去ると、風が一段落ち着き、鳴らない鐘が塔の芯で低い和音を揺らした。


     ◇


 夜。

 古塔の中腹に影廊の灯りがわずかに漂い、四方の光孔は星を一つずつ抱いたまま、伏せ半拍ごとに曇りを拭った。

 レオンは見張りの火にあたりながら、帳面を開く。

 「塔:鳴らない鐘化/光孔×4(風・光・息・数)/影廊/岩鍵・芯通し/殻穴/山棚 v2。

 反響税廃止/黙石撤去/碑盟:印外/索主会:対話・撤収。

 **掃き出し拍(山版)**展開/観測輪設置/無名番配置。

 礼儀の標準更新:窓(石の窓)/穴(角穴+殻穴)/半拍(伏せ・影)/開放帳(塔版)。」

 紙は乾き、石は白く、空気は冷え、胸の中は温かい。


 ガイウスが火に手をかざしたまま言う。「塔が鐘になったから、遠くに届く。……届くのは味方だけじゃない」

 リサが顎で南を示す。「王都から索引の所有契約の噂。紙の迷宮がまた騒がしい」

 マルコは頷く。「窓を増やし、無名番を厚くし、掃き出しを定期に回す。無料の掃除は基盤だ」

 塔守が火の向こうで微笑んだ。「塔は開いた。鐘は鳴らないまま鳴っている。——次は?」

 レオンは星の間にある暗さを探すように視線をやった。

 「塩と数と石が坐った。紙は窓を開いた。空と水は棚で繋がった。

 残るのは——砂だ。砂漠。名も印も数も石も吸い込んで、跡を消す場所」

 エリスが頷く。「穴がすぐ埋まる土地。窓が砂塵で曇る空。半拍が伸びて“途切れ”に変わる拍」

 ガイウスは剣に手を置き、しかし抜かない。「鞘は砂に擦れる。鞘拍を粗くする必要がある」

 リサは笑って肩を竦めた。「砂の上で矢は舞**う。楽しくなるよ」


 老婆が杖で石畳を軽く叩き、孫がその上に小さな穴をひとつ置いた。

「始まりは穴だよ。場所は違っても」

 孫は胸に「短・長・長・短」を置き、伏せ半拍をそっと重ねた。

 鳴らない鐘が低く応え、風棚の第三段が砂の匂いを一瞬だけ運んだ。


     ◇


 翌朝、塔脚の前庭は「黙る練習場」として早くも定着し、山道は怒声を忘れ、名乗りを捨て、息で通る列になった。

 開放帳の端には、無名の手で一行。

 「塔は礼。——無料」

 マルコはその上に、小さく穴の図を描いた。


 レオンは塔守に頭を下げ、皆へ目を配った。

 竜の喉が遠くで明るく鳴り、風棚は段を整え、海棚は潮を抱き直し、河棚は粘りを整え、山棚は沈黙を保つ。

 礼儀の標準は骨を通り、鳴らない鐘は世界のあちこちで胸を撫で始めている。

 「——行こう」

 「砂へ?」リサが笑う。

 「砂へ」レオンは頷いた。「穴が埋まる土地で、穴をどう残すか。窓が曇る空で、窓をどう拭くか。半拍が途切れに化ける前に、拍の骨を置く」


 老婆は杖で砂をすくい、孫は穴をひとつ、そっと落とした。

 穴は、すぐ半分埋まった。

 しかし——埋まる前に、礼を覚えた。

 その記憶が、次の穴の居場所になる。


 塔は鐘になり、鐘は鳴らずに鳴り続ける。

 風は段で、潮は鞘で、河は棚で、紙は窓で、土は抜け道で、山は沈黙で、そして——砂は跡の上に路を覚えるだろう。


 レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。

 伏せ半拍をひとつ、影に。

 「——耕そう。跡が消える前に。礼が残るように」


 鳴らない鐘が応え、古塔の光孔が白く瞬き、影廊の暗さが歩ける濃さに保たれた。

 尾根の向こう、まだ見ぬ砂の国で、風が一度だけ逆さに吹いた。

 季節はまた増える。

 畑は、跡のない地平にも、必ずや穴から生える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ