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第14話 河に畑を置く――低い太鼓と、数の罠

 王都が呼吸を覚え、紙の迷宮に土の抜け道が通って三日目の朝。

 東の縁は薄く橙に染まり、風棚の第一段が梢を撫で、第二段に子守の拍が、第三段に働き拍が静かに重なっていた。

 レオンは公会堂の前庭の“春”の環に膝をついて指を湿らせ、灰路の白が夜露で滲んでいないか確かめる。土鍵は冷温差で正しく応えている。呼気索引の半拍は、今日も軽い。


 マルコが小走りにやって来て、薄板を掲げた。

 「報せが二つ。良い方から行こう。――王都の南門、市場の怒声が半分に。渡し符の“穴の図”は七割の屋台で採用、無料の“縁丸め”が先に流行した」

 「よし」レオンは頷いた。「悪い方は?」

 「河港だ」マルコの目が少しだけ狭くなる。「拍泥棒の太鼓が入った。数の修道会すうのしゅうどうかいが“善なる計量”と称して、呼吸を貨幣化し始めている。名の札より厄介だ。測ることは善にもなるから」

 ガイウスが腕を組んだ。「港は動脈だ。止まれば、無料の路が痩せる」

 エリスが骨鐘の紐を軽く撫で、目を細める。「低い太鼓は、子守にも似ている。――眠らせるためじゃなく、奪うための拍」

 リサが弓を肩に回す。「様子見にしては、人が倒れすぎてるという噂だよ。舟荷の担ぎ手が午後に立てないって」


 「河にも畑を置こう」

 レオンは短く言い、王都の地図に河の帯を指でなぞった。

 「風棚の水版――“河棚かわだな”を作る。流れに段を入れ、舟拍ふなびを合わせる。呼吸を貨幣じゃなく通行に戻す」

 マルコが板に走り書きする。「河棚=第一段(浅瀬)第二段(本流)第三段(荷上げ)/骨鐘水版/土鍵→泥鍵に改修。無料」


     ◇


 河港は王都の西、城壁の外に広がる水の扇だった。

 浮桟橋が肋骨のように岸から伸び、蔵の壁はまだ新しく、そこに数の修道会の印が貼られている。丸い環の中に、三本の短い縦線――計数の意。

 太鼓の音は低く、腹の底を擦る。リズムは単純だが、半拍がわざと抜かれていて、体がそこを埋めようとして疲れる。

 橋の上には銀の輪を嵌めた柱があり、通る者の胸に細い縄がふれる。呼吸の深さが記録され、終点で銅札が精算される仕組みだ。呼吸税――そう呼ぶには巧妙すぎる。


 「上手い」マルコが苦く笑う。「悪い手の上手さだ。『測ること自体は善』の顔をしている」

 「測るのは否定しない」レオンは太鼓の拍を鼻で嗅ぎ、川面の反射を目で追った。「測ったものの置き方が問題だ。外側に置けば道具、内側に置けば檻」

 ガイウスが短剣の柄を軽く叩く。「檻を壊すのは簡単だが、明日また立つ。段を入れて、疲れが落ちる場所を先に作れ」

 「やる」レオンは頷き、河岸の石に膝をつく。「――まず泥鍵だ」


 《銀糸蘭》は水に弱い。代わりに《葦灰あしばい》を細粉にして、《灰蜜》で練り、指ほどの細い縄にした。

 縄は水に沈むと薄い膜に解け、冷温差ではなく粘性差で足裏に応える。

 「泥鍵」エリスが呟く。「土鍵の水の表情」

 レオンは浮桟橋の骨組みに泥鍵を結び、**第一段(浅瀬)**を岸際に、第二段(本流)を桟橋の下へ、第三段(荷上げ)を倉口に敷いた。

 骨鐘の水版は、鈴ではなく薄い殻で鳴らない音を伝える。

 「舟拍ふなびを合わせる。短・長・長・短に、舵の半拍」

 レオンが水版の鐘を指で弾くと、川面の小さな皺がほどけた。


 太鼓は相変わらず低く、半拍抜きで人の腹を空洞にする。

 白い手の斥候が棒を横にして現れ、鈴を鳴らさず、手摺の印を水面に落とした。

 揺り籠の司祭が舟の影に子守の抱き直しを一枚、薄く敷く。

 マルコは渡し符の箱に「河版」の標を足し、無料の舟拍図と泥鍵糸を束にして配り始める。


 最初に変わったのは、荷揚げの怒声が細くなったことだった。

 舟の舳で「せかす」声が半拍でほどけ、担ぎ手の足が泥鍵に触れて重心を思い出す。

 「……午後に眠くならない」肩に縄痕を刻んだ男が、驚いたように笑う。「疲れが落ちた」

 「落とし場を作ったからね」レオンが返す。「太鼓で空いた半拍を、河棚が抱える」

 太鼓の打ち手がこちらをじろりと見た。数の修道会の灰衣、腰に銅の算盤、首元に三本縦線の印。

 「無料は無責任だ」打ち手は低く言う。「測り、払わせ、配る。それが秩序だ。呼吸は資源、資源は有限」

 「印の順番が違う」とマルコ。「配る→測る→払うの順だ。配られない測りは、檻になる」

 打ち手は鼻で笑い、太鼓を二度連打した。半拍の抜け目が深くなる。

 エリスが骨鐘の紐を握り、「鞘拍」を水版に落とした。

 短く、半拍、長く、半拍。

 太鼓の刃は鞘に吸われ、音は厚みを失った。

 打ち手は眉を寄せ、太鼓の上に手を置いて音を殺した。

 「干渉は違反だ。こちらは王都監査院の許可を得ている」

 「その許可、拍の前に出てない?」ガイウスが乾いて問う。

 打ち手は答えず、背後の灰衣に目で合図した。灰衣は柱の呼吸縄の結び目を固くし、記録を強めた。


 「帳が来る」リサが低く言う。

 河岸の蔵の戸口から、白髭の老僧が現れた。胸に小型の算盤、腰に封蝋、背に薄い羊皮紙の束。

 「銘算院めいさんいんの院長だ」マルコが囁く。「数の修道会の頭。記すことを善とし、数で祈る者たち」

 老僧は目尻に笑い皺を寄せ、ゆっくりと頭を下げた。

 「争うために来たのではない。数を祈りの外側に置きたいのだ。呼吸のちょうを作り、浪費を減らす」

 レオンは頷いた。「数を嫌っていない。数は善だ。ただ、帳が札と手を握るのが悪い。無料の路に利子を刻むのが悪い」

 「利子は時間の値だ。時間は誰にも等しくない。早く着く者は、遅く着く者より払えばいい」

 老僧の目は澄んでいる。論は整っている。

 だからこそ、厄介だ。


 マルコが一歩出た。

「帳を公開しろ。開放帳オープンレジャに。誰でも書けて、誰でも読める帳だ。許可は要らない。署名は匿名でいい。ただし、手順は守る」

 老僧は目を細めた。「偽りが紛れる」

 「偽りは拍で落ちる」エリスが骨鐘を弾く。「半拍が拾う。息継ぎがバレを暴く」

 ガイウスが肩を竦める。「剣の世界は簡単だ。切れ味は手に残る。帳の世界も同じにしよう。手順を先に配る」

 老僧は少し考え、「試す」とだけ言った。


     ◇


 河棚の設営は午後の陽射しの中で進み、泥鍵は桟橋の影に薄く光った。

 レオンは舟拍の合図を三度流し、打ち手は太鼓の半拍抜きを二度重ね、エリスは鞘拍を割り込ませて刃先を鈍らせ、白い手は手摺を浮波に結び、揺り籠は抱き直しで舟の上下をやわらげた。

 記名士は岸壁で穴の図の渡し符を配り、工匠たちは携帯鐘(水版)を舟の梁に取り付ける位置を工夫した。

 マルコは河岸の倉の壁に開放帳を掛け、誰でも呼吸と荷の重さと拍の具合を書き込めるようにした。印は押さない。押したければ、使ってから押す。


 夕刻、最初の崩れが来た。

 上流から、名の札で飾られた祭舟が下ってくる。舳に薄紫の揺り籠の布、側板に白い手の布、櫂には輪の黒。

 「無名大市むめいおおいちだ」リサが吐き出すように言う。「名を捨てた、と言いながら札を並べに来る市」

 舟の中央で、若い語り手が声を張り上げる。

 「名を捨てよ! 札を捨てよ! 呼吸は自由だ!――ただし、自由の証明書は一人銅貨三枚!」

 桟橋がざわめき、笑いと怒声が混じる。

 老僧は眉をわずかに上げ、「市場は真空を嫌う」と呟いた。


 レオンは舟の舳先に向かって、骨鐘の基準拍をほんの短く流した。

 短・長・長・短。そこに半拍が二つ、静かに続く。

 「捜索拍?」エリスが目で問う。

 「見失った“自由”を探す拍だ」レオンは頷く。

 舟の上で叫ぶ声が半拍で息を失い、若い語り手は思わず胸に手を当てた。

 「……息が、いる」

 叫びの外側に、静かな呼びかけが座る。

 証明書の札に穴が開き、自由が札から滑り出す。

 白い手の棒が手摺を示し、揺り籠の布が抱き直しを一枚落とし、輪の黒は刃を抜けずに鞘へ帰った。

 笑い声が軽くなり、怒声はほどけ、銅貨の皿は空気になった。

 若い語り手は帽子を脱ぎ、舟の端に腰を下ろし、渡し符を一冊持って、無言で読み始めた。


 老僧はそれを見届けてから、レオンに近づいた。

 「開放帳に一つ、条件を付けたい」

 マルコが眉を上げる。「聞こう」

 「偽りの記述が見つかったとき、名を罰しない。手順を直す。――これを第一の罰とする」

 マルコは笑みを零した。「罰が手順の改善、いいね」

 「もう一つ」老僧は続ける。「呼吸税――あれはやめよう。数は残す。帳は残す。だが銅札は外す。時間の値は、半拍に置く」

 エリスが頷く。「半拍は無料だよ。――それが基盤」


     ◇


 夜。

 河棚は水面で呼吸し、泥鍵は足裏で冷たく温かく応え、開放帳には拙い字と古い字と数字と印のない署名が並び始めた。

 「午前の眠気、減る」「子守拍、舟に効く」「太鼓、怖くない」「銅貨、要らない」――簡単な記録だが、足の言葉だ。


 焚き火のそばでレオンは帳面を開き、今日の河を畝のように並べた。

 「河棚=第一(浅瀬)第二(本流)第三(荷上げ)/骨鐘水版/泥鍵(葦灰+灰蜜)→粘性差フィードバック。

 拍泥棒=半拍抜き→鞘拍で吸収。

 開放帳=公開・無署名許容・第一の罰=手順直し。

 無名大市→捜索拍で“自由”回収→渡し符配布。」

 紙は少し湿っているが、軽い。

 彼は目を閉じ、土の拍で息を合わせ、川の拍で胸を洗う。


 その時、リサが駆け寄ってきた。

 「北の尾根から狼煙! 砦のある辺境だ。灰路が黒くなってるって!」

 ガイウスの目が鋼になる。「否認の根が土に入ったか」

 エリスが唇を引き結ぶ。「季節が抜かれ始めた?」

 マルコは短く頷き、板に太字で刻んだ。「辺境・灰路黒化/季節抜去兆候。――王都は回る。砦へ分隊を戻す」

 レオンは骨鐘を握り、竜の喉が遠くで深く鳴るのを感じた。

 「河は回る。空は呼吸する。――土へ戻る番だ」


     ◇


 翌朝、分隊は二手に分かれた。

 マルコと少数の工匠・記名士・白い手は王都に残って開放帳と河棚の整備を続け、揺り籠は孤児院と第二段の子守拍を護る。

 レオン、ガイウス、エリス、リサ、リカルドは砦へ向かう。

 王都の四辻の索引石は春の香をひとしずく漏らし、土鍵は足裏で行き先を指した。

 「呼気索引、王都全体で回り始めてる」エリスが微笑む。「道が、息で見える」

 「印が拍の外側にある限り、王都は持つ」マルコが短く言い、分隊の背を押す。「砦は、骨だ。折らせない」


 街を出ると、風棚は段を広げ、竜の喉の拍は昨日より体温を帯びていた。

 河面は柔らかく、舟の帆は軽く、太鼓は細く、開放帳の新しい頁が風にめくれる音が遠くも近くも響いてくる。

 レオンは歩幅に半拍を一枚忍ばせ、灰路の白さを奥歯で噛みしめる。


     ◇


 砦は、白かった。

 門楼の石は王都へ出る前より白く、骨鐘は低く高く、合わさって鳴らない音で迎えてくれた。

 だが、南の外縁――灰路が野へ伸びるあたりで、白が灰に沈み、ところどころ黒が滲んでいる。

 「輪だけじゃない」リサが膝をつき、粉を指で拾って舌に触れる。「鉄と焦げ、腐乳に……潮。海の成分?」

 エリスが眉を寄せる。「名とも違う。手とも違う。――遠い」

 ガイウスは空を仰ぎ、短く息を吐いた。「外洋の旗が絡んでいる。塩の算師が来る」


 その時、門内から小走りに出てきたのは、見覚えのある小柄な影――老婆と孫だ。

 老婆は灰路の黒に杖でそっと触れ、指で短・長・長・短を空に描き、微笑した。

 「拍は死んどらんよ。黒は、『怖い』ってだけの色だ。畑は、怖がりと仲良うしてきた」

 孫が胸に手を当て、骨鐘の紐に触れずに笑う。

 「帰ってきたね」

 レオンは深く頷いた。「帰ってきた。――畑を、海風の手前に敷こう」


 砦の中庭で手早く準備が進む。

 「塩抜きには何が効く?」リサ。

 「《白穂草》で水を呼ぶ、《聖樹樹皮》で甘みを置き、《薄荷根》で息を広げる。――塩の算師は測りで来る。開放帳を門に貼る」マルコの声は遠いが確かに届く。王都からの伝令の板には「外洋旗・塩の算師/呼気貨・海版」と走り書き。

 「海棚を作るか?」ガイウス。

 「風棚の第三段を潮に合わせて薄く回し、土には冬を薄く敷く。乾かしすぎない“潮の鞘”だ」エリス。

 リカルドが剣の柄に手を置く。「守る剣は鞘拍で動く。――刃は出さない。叩くんじゃない。戻す」


 レオンは香炉に火を入れ、砦の南で**“潮の畑”の試作を始めた。

 灰路の白い縁に沿って、《白穂草》を微塵に、《聖樹樹皮》を薄く、《薄荷根》を糸にして混ぜ、潮の抜け道を作る。

 骨鐘は冬をほんの少し、春を多めに、半拍を抱き直しに使う。

 掴まない鈴は塩の風の縁に吊し、名の札は穴で滑らせ、輪の粉は鞘拍で吸い、手は手摺**で欄干になる。

 「――置ける」レオンは呟いた。「海の手前にも、畑は置ける」


 風が、変わる。

 外洋の方角から、細い銀の旗がひとつ、ふたつ、地平線の上に立つ。

 塩の算師の旗。

 数は善にもなる。

 だからこそ、拍の外側に置く必要がある。

 河で学んだことを、海風の前に置く番だ。


 レオンは骨鐘を胸に当て、砦の石の白さを掌で確かめ、仲間に視線で合図した。

 「耕そう。――塩の縁まで。数の底まで」


 鳴らない鐘が、砦と王都と河と空とを、一本の見えない骨で繋ぎ、ゆっくりと、しかし確かに、次の季節を呼んだ。

 遠く、海鳴りにも似た低い太鼓が、今度は鞘の中で、静かに呼吸し始めていた。

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