第11話 風棚に路を――空の関所と、無料の鐘
東が薄桃にほどけ、砦の影が一枚ずつ重なりを外していく。
レオンは見張り台の上で、夜通し引いた図面を胸板にあてがい、風の層の厚みを指先でなぞった。第一段は梢の高さ、第二段は谷を渡る帯、第三段は気球が往来する空の道。各段に骨の鐘の変調が対応し、竜の喉が柱になって上を支える――それが彼の描いた“風棚”だった。
「喉、いける?」
竜は青白い瞳を細め、短く返信するように胸郭を膨らませてから、低い拍を三度鳴らした。空が、見えない鎹で止められたみたいに“引っかかる”。
「よし」レオンは頷き、木の梁に取り付けた携帯鐘(空版)の紐を引いた。
鳴らない鐘は鳴らないままだが、胸骨の奥に“空側”の拍が立ち上がる。短く、長く、長く、短く――地上と同じ拍だ。ただ、その波は上へ向かって傾斜している。
ガイウスが階段を上がってきた。
「北西に煙。王都からの気球隊だ。二台は物資、もう一台は文官……印の匂いが強い」
リサが欄干から身を乗り出し、弓を抱えて目を細める。「あれだね。紙の束を抱えた……“名”の匂いまで乗ってくる」
エリスは骨鐘の紐に軽く触れ、呼吸をひとつ深くした。「渡してから取り上げに来るようなものは、来ないでほしいけど」
マルコは帳場を持って上がってくる。薄い板に留めた書付には、昨夜の合意――設計公開、複製自由、王印なし――の文言が見える。
「迎え入れる。空は既に市場にされつつある。こっちの“無料の道”を、実物で示す」
風が一段、二段と、棚を踏みしめる足音のように層をつくる。竜の喉の拍が柱となり、やわらかい“梁”がかかる。
遠く、三つの球皮が朝日をすべって近づいてきた。籠の横木に白い布が翻り、王都の色。その脇で、細い札束が日を反射し、見る者の目を刺す。
「下に降ろす前に、“上の関所”だ」レオンは図面の端に描いた印を指さす。「第三段に骨鐘を二基、逆位相で置く。名の札は“縁”で止める。通るのは息と拍だけ。書類は降ろしてから」
「関所……関所を無料にするの、斬新だね」リサが笑った。
「関所が無料じゃなかった時代なんて、歴史にはいくらでもあるよ」とマルコ。「だが今は戦。速度は善。関所は“減速のための技術”ではなく、“札を滑らせるための技術”に変わる」
合図の烽が焚かれ、気球隊は砦の上空で速度を落とした。
「王都使節、風棚に入る!」
見張りの声が響き、レオンは骨鐘(空版)の紐を軽く弾く。胸の中で、透明な階段を上る感覚が走る。
第三段の入口に設えた“鐘幕”が、見えない薄布のように漂い、籠へ絡もうとする札の縁を滑らせた。札束の一部がほどけ、紙片が陽光の中で舞い落ちる。
「おっと」籠の縁から、りゅうりゅうと巻毛を揺らした文官が身を乗り出し、紙を拾おうと手を伸ばす。
「落とすと、上では拾いにくいですよ」レオンは声を張らず、風に乗せるように告げた。
文官は目を瞬き、稚気の残る顔に作り笑いを浮かべる。「便利な関所ですね。王都が管理してよろしいでしょうか?」
ガイウスが即座に返した。「不要。無料の道は、誰のものでもない」
「ええ、ええ、理念は素晴らしい。しかし、安全の担保という観点から――」
「安全の担保は標準だ。設計の公開と手順の訓練、数字の記録。――印ではない」マルコが割って入る。
文官は肩を竦め、「話は地上で」とだけ残し、三台の気球は順々に第二段、第一段と降りてきた。
◇
着陸は滑らかだった。
ただ、一台だけ、籠の横木に見慣れない金具が取り付けてある。薄い金の輪に、極小の札。
レオンは近寄る前に匂いを嗅ぎ、眉をわずかに動かした。「通行の札だな。風脈の“利用権”を売るための印だ。上で札を読み取り、通過を記録する――料金は後払い、遅延は利子」
文官は胸を張った。「効率よく資源を回す手段です。空は広いが、無限ではない。秩序ある料金により、善き速度を——」
「速度は料金で作らない。拍で作る」
レオンの声は平らだ。
「札は速さに見えるが、足から熱を奪う。骨の鐘と灰路と香の川は、踏む者に体温を戻す。無料は施しではない。基盤だ」
文官が返答を探している、その時だった。
砦の上を、薄紫の布飾りを傘にした軽気舟が横切った。風棚の第二段に乗らず、第三段をかすめ、急峻な角度で切り込んでくる。籠の縁から垂れる札筋が、光の糸のように風を縛り、別の軽気舟の帆を絡め取った。
「札の関所だ!」リサが叫ぶ。
見れば、札筋の先には、細身の飛行器が四つ、風棚の外側で通行税を徴収している。払わなければ、帆を縛り、籠の制御索を絡め、姿勢を崩す。
「上の市場はもう開店済み、ってわけだ」マルコの声は冷たい。「しかも未届け」
ガイウスは短く命じた。「救出。――レオン、上を滑らせられるか」
「滑らせる。風棚を“連ね梯子”にする」
レオンは竜の喉に掌をあて、拍を一段深くした。第三段の梁に“段差”を作り、骨鐘を三基、半拍ずつずらして弾く。
見えない階段が空に現れたように、札筋の絡みがほどけるすべりが生まれる。
「今だ、引け!」
ガイウスの号令で、王都の気球の一台が絡め取られた紐を切り、風棚の段差へ滑り込む。
リサは矢ではなく、蜜粉の袋を投げ、札筋の“結び目”に穴を開ける。
エリスが胸の内で空の裏歌を回し、名が貼り付きにくい“息の呼びかけ”を空へ送る。
絡め取られていた帆が一枚、二枚、ふっと自由を取り戻した。
軽気舟の船頭がこちらへ帽子を振る。頬の煤が涙の筋を作っていた。
「空の渡し符、出す」
マルコの声で、配布隊が動いた。携帯鐘(空版)と図解の「風棚の潜り方」、そして“通行札に対する滑り加工”の紙が手渡されてゆく。
文官は呆気にとられ、やがて口を開いた。「……王都宛の緊急通達を発す。空の課税は即刻停止、風棚の設計は王都工房へ共有。札の関所の撤去要請」
「通るとは思っていないが、記録は残る」マルコはうなずき、紙を差し出す。「ここにも記録がある。市場が速度を壊した証拠だ。公開する」
◇
混乱が収まった後、砦は短い休息に入った。
レオンは竜の喉を撫で、拍の張りを確かめる。
「無理をさせすぎたか」
竜は目を細め、低く鳴いた。大丈夫、という音だった。喉の深いところで骨鐘が共鳴し、風棚の柱が“体に変わって”立っている。
エリスが近づき、水を差し出す。「喉の拍が、少し高い。子守の畑の拍と重なってきた」
「空にも子守が要るのかもしれない」レオンは笑みを零し、携帯鐘の子守版に小さな尾翼を付けた。「気球や旗竿で揺れる風に、鐘が喉で“眠らない着地”を作るように」
そこへ、白い手の旗の斥候が姿を見せた。
「掴む者」リサが小さく警戒の合図を出すが、彼らは棒を立て、鈴を鳴らさないまま近づいてくる。
先頭の男は、昨日と同じ平板な微笑を浮かべた。
「上で名が札を貼った。あなた方は滑らせた。……我らは掴まない。掴めないからだ」
「掴まないのは賢い」とガイウス。「だが、支えることはできるはずだ」
男はわずかに首を傾げる。「支える?」
レオンは骨鐘を示した。「鐘の拍の間に鈴の**“余白”を置いてくれ。掴むのではなく、『そこに何もない』ことを指し示すだけでいい。名も輪も、余白を嫌う」
男は静かに頷いた。「我らは手**だ。空の手摺になれるかもしれない」
彼は棒に巻かれた布をほどき、鈴を一本、砦に置いていった。「掴まない鈴だ。鳴らないが、触れの輪郭を残す」
エリスは鈴を掌にのせ、微笑む。「触れの輪郭……祈りの外側の祈りに、合う」
◇
夕刻、王都の気球隊は荷を下ろし終え、文官は飾りの少ない顔になった。
「理解したつもりでいました。印で秩序が作れると。だが、ここでは拍が秩序だ。札は、その外縁で紐のほつれを集めるだけ……」
マルコはうっすら笑った。「印が悪いのではない。印だけが悪い。印の前に手順。手順の前に拍。拍の前に息。――この順のまま紙にして、王都へ持ち帰れ」
文官は深くうなずき、最後に問いをひとつ。「誰の功績として記すべきでしょう?」
ガイウスが一歩進みかけ、リサが肩で笑い、エリスが首を振る。
レオンは焚き火の灰を指でつまみ、紙の端に落とした。
「名を要らない。必要なら、『畑の標準、砦版』とだけ。――それで十分だ」
「了解しました。“名”を貼らない記録は、むしろ王都では新しい」文官は冗談めかしたが、その目は真剣だった。
◇
夜半、風が一度入れ替わった。
竜が喉で合図を送り、風棚はぎしりともいわずに棚替えをした。
レオンは見張り台で帳面を開き、今日の出来事を短く刻んだ。
「風棚稼働/第三段“鐘幕”→札滑り良好/通行札→滑り加工で中和/空の渡し符(図・携帯鐘・息合わせ)配布/白い手=“手摺”協力/王都=印の前に手順……」
文字は火に乾き、紙は呼吸するみたいに波打った。
エリスが隣に腰を下ろし、空を仰いだ。「輪は今日は来なかった。名は来た。手は来た。……三者が同時に来たら、どうする?」
「季節で包む」レオンは即答した。「春と秋の環を空にも置く。子守の畑を第二段に、働く拍の畑を第三段に。――そして、土に降ろす路はいつでも開けておく。空で迷えば、地へ」
ガイウスが上がってくる。「北の尾根で動き。輪の旗、小隊規模。白い手と記名士が間を通る。市場の取り合いが始まった」
「取り合いの間に、無料の路を通す」マルコが応じる。「争う者は路を塞ぎたがる。塞ぐほど、無料の価値は上がる」
「皮肉だね」リサが口笛を吹く。
「皮肉は肥料みたいなもんだ」レオンは笑った。「臭いが、育ちを早くする」
遠い暗がりで、小さな光が二つ、三つ、揺れた。
リサが目を細める。「合図だ。森の季節の環、何箇所かに来訪者」
「行く」レオンは立ち上がった。「畑見回りは、農家の一日」
◇
森の“春”の環に着くと、そこには粗末な旅装の若者が二人、膝を抱えて座っていた。
骨鐘の下で、彼らの呼吸は浅く、指先が震えている。
「札に貼られた?」エリスが静かに問う。
若者の一人は頷き、腕の内側を見せた。薄い墨の筋が皮膚の上で光り、痛みが帰ってくる“道”が描かれている。
レオンは《灰蜜》に子守版の拍を重ね、薄く塗った。骨鐘を小さく弾く。
拍が蜜に入って固まる。名の筋は迷い、皮膚の上で路を失って消えた。
「戻れる」若者は呟いた。
「戻れ。無料だ」レオンは微笑んだ。
その言葉が、何よりも珍しいもののように、若者の顔に驚きを走らせた。
“秋”の窪地では、白い手の兵が一人、棒を横にして地面に余白を描いていた。
「掴まない鈴、効く」彼は言った。「輪の者が通ったが、何も掴まずに進んだ。……余白に怖れたのだ」
「怖れは、折る手にも貼る手にもある」ガイウスが短く応じる。「だが余白を怖れている限り、季節には勝てない」
「季節は掴めないからな」リサが笑った。
最後の見回りは、風棚の第一段が梢に落とす薄い風の縁。
竜が低く鳴き、星が一つ、二つ、拍に合わせて瞬く。
レオンは骨鐘の“空版”を枝に吊し、指で弾いた。
鳴らない音が、胸の内で広がり、空にも地にも、同じ土の拍が通う。
「――届く」
エリスが小さく言う。
「届く」レオンは頷く。「札より速く。旗より広く」
◇
夜明け前、砦へ戻る道すがら、マルコが歩幅を合わせてきた。
「王都便。宰相印。空課税の凍結、風棚の設計公開、渡し符の複製奨励。――紙にした」
彼は一枚の写しをレオンに渡す。
「早いな」
「速度は善だろう?」マルコは淡く笑った。「印が拍に追いついた、珍しい例だ」
「印が拍の外側に留まれば、善い印だ」
「その通り」
砦の石は、また一段白くなっている。
骨鐘は門の上、井戸のそば、乾燥棚の軒に薄く吊られ、香の川は夜露を抱いてゆっくり流れる。
竜は眠り、喉の奥で風棚の柱を保ち続けている。
渡し符の箱は空で、朝になればまた満たされる。無料は巡る。拍は巡る。季節は巡る。
レオンは井戸端で掌を洗い、冷えた水で指を綺麗にすると、帳面の最後にこう書いた。
「無料の鐘は、税より強い。
札より速く、旗より広く。
畑は上にも敷ける。」
彼は顔を上げ、風棚の三段を目で追い、それから地面の白い灰路に視線を落とした。
空と地の間に、一本の骨が通っている。
土の拍が、その骨を鳴らす。
――さあ、耕そう。
空の縁まで。名の縁まで。
朝の最初の鳥が短く鳴き、鳴かない鐘が、胸の中で応えた。