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【青嵐編】84:xx19年4月20日

暁天総合大学音楽学科に乃亜が入学して、はや三週間。


一週目、そして二週目の頭までかけ、

入学式や健康診断、学校生活におけるガイダンス、学科ごとの授業の説明、

単位の取得や進級についてなど、こまごまとした説明会を受けた。

今まで決められた授業を決められた時間割で受けてきた高校までと異なり

自分で必要な授業を選ぶというのはなかなかに頭を使った。


同じ一年生である茉莉や空良と共に、

共有ダイニングにてあれやこれやと授業について相談したりもした。

学科どころか学部も異なるわけであるが、

一年生、二年生の場合、一般教養や外国語に関しては何単位かは必須になっている。

それらについては学部学科を問わないため、

三人は、ひとつ先輩にあたるましろや隼人の意見も参考にしながらそれらを決めた。


そうして作成した自分だけの時間割。

それを大学に提出していよいよ授業が始まったのが二週目の半ばだった。


90分授業というのもなかなか集中力を必要とさせた。

加えて、乃亜の場合は早々に実技となる授業もある。

とはいえ、乃亜にとってはヴァイオリンを弾けるその時間は楽しいものだった。

ヴァイオリンだけでなく、ピアノやソルフェージュと呼ばれる、

音楽家としての必要技能を鍛える授業も存在するし、

実技だけでなく座学の授業も存在している。

いずれにしても音楽に触れられる授業は乃亜にとって苦ではない。


苦ではないが、少々、想定外のこともあった。


そうして過ごし、ようやく一人暮らしでの生活にも慣れ始めた頃。

今日は土曜日だ。

乃亜はマンションの総合エントランスを出た。

ふわりとミントグリーンのティアードスカートが揺れる。

今日は少し風が強いらしい。


敷地から外へ出て、きょろきょろと左右に視線を向けると

左側の道に、シルバーの車が一台止停まっていることに気付いた。

運転席に座っている人物に気付き、乃亜はたっとそちらへ急ぐ。


助手席を開けて運転席に座る彼へとあいさつをする。


 「お待たせしました、煉矢」

 「大丈夫だ。さ、行こう」

 「はい」


今日は久しぶりにデートの日である。

乃亜がシートベルトをつけたのを確認し、煉矢は車を発進させた。


前回のデートは3月の半ばほどだったはずだ。

こまめにCORDでの連絡は取りあっているものの、

3月は煉矢が多忙であり、なかなかまとまった時間を取ることができなかった。

多忙な彼の負担になるのは心から避けたい。

そのため仕方ないと自分に言い聞かせていた。

とはいえ、会いたい気持ちは募っていたのだ。

こうして隣に座っているだけでそれは満たされていく。


 「私の希望で、アウトレットにしましたがよかったですか?」

 「ああ。どこに誘おうか考えていたところだったし、ちょうどよかった」

 「まさか、服が足りないと言われるとは思わなかったです……」

 「女性は特にだろうな。

  まぁ、お前の場合、高校の感覚でいればそうもなる」

 「そうでしょうか……前よりは、多少……」

 「多少、な」


言い返しにくい。

確かに服を買うということはさほどしない。

サイズもほぼ変わらないということもあるが、

乃亜自身、ファッションに興味が薄いのである。

外出用として着ているものに関しては、ましろと外出したときに

彼女に勧められての購入が主だったものだ。

逆に言えば、そういった機会がなければ購入しない。

瞳をぐるりと回していると、煉矢は小さく笑った。


 「先輩からのありがたい助言だと思って、今日のところは従うがいいさ」

 「……そうですね、そうします」

 「目的地までは40分ほどだ。ゆっくりしていてくれ」

 「はい」


雑談を重ねながら目的地へと車は向かう。

天気に恵まれ、流れる景色は穏やかだ。

休日ということもあり、空いているというほどではないにしても

それでも問題になるほどのものではない。


ほぼ予定通りの時間に到着し、駐車場に車は止まる。

車を降りながら、乃亜はふと気づいた。


 「そういえば、この車、初めて見た気がするんですが、

  カーシェアの場所、変えたんですか?」

 「いや、買った。先週納車だったし、お前が乗るのは初めてだな」

 「え、買った?え、あの、引っ越したばかりでしたよね?」

 「ばかりというほどではないけどな。元からその予定ではいたぞ」


乃亜とて引っ越しにかかる費用や車一台を購入するにあたっての費用が

そう軽いものでないのは分かる。

そんなさらりと言っていい話なのかと混乱した。


昨年、煉矢は新しいマンションに引っ越していた。

残念ながら手伝いには行けなかったが、都心から少しだけズレたマンションだったはず。

駅から少し離れている場所のため家賃は都心より安いという話は聞いているが

彼はもともと大学在学中、短期の留学をしていた。

その間、もともと住んでいたマンションは解約し、

家具なども処分していたと聞いている。

だから帰国後はそれらの基本家電や家具がそろっている場所に住んでいた。

つまり新しく引っ越すにあたり、それらの家具家電も一式購入していたはずだ。


それだけでもかなりの出費のはずだ。

加えて車である。

それも軽ではなく、いわゆるコンパクトカーと呼ばれるタイプ。


以前、空良から兄の優秀さについて言われ、

ましろと二人で感覚がズレていると話をしたが、

金銭的な意味でも色々とズレが起きそうだ。


 「住んでいるマンションの場所柄、車がないと不便この上ないしな。

  日常的に使うわけだし、毎回借りるよりはるかに効率的だ」

 「それは、分かります……けど、色々バグりそうです……」

 「ん?」

 「いえ、なんでも……」


もとより自分の周りにいる人たちは尊敬に値する

優秀な人たちだと感じていたが

一層その考えが深まった乃亜であった。




今日訪れたアウトレットモールはアパレル用品だけでなく、家電や家具、

スポーツ用品や雑貨などに至るまでさまざまなテナントが軒をつらねる複合施設だ。

既に多くの人々が、それぞれ目的の店へと流れていく中、

到着した時間が11時をすぎていたこともあり、

一足先に昼食をとることにした。

施設内のレストランフロアにある1店舗を選び、入店。

オープンして間もなかったこともあり待ち時間なく入ることが出来た。


シンプルな和定食がメニューに並ぶ店で、

どこか昔懐かしい雰囲気が漂い、店内インテリアとして和傘が花のように大きく開いて飾られ、

巨木をそのまま切り出したかのような一枚板のテーブルが中央に並んでいる。

まださほど人も入っていなかったこともあり、

二人は奥の半個室へと通された。半障子の窓からは光がほどよく差し込み明るい。

炭火で焼いた魚や肉を売りにしているらしいメニューを眺め

ふたりはそれぞれは別の魚の干物の定食を頼んだ。

冷たいほうじ茶の入った湯呑が提供され一息つく。


 「それで、大学はどうだ?授業が始まっていくらか経っただろう?」

 「ええ、そうですね。楽しい、は楽しいんですが……」


思わず言葉を濁して、小さく息を吐いた。

それに煉矢は持っていた湯呑を置いた。


 「どうした?」

 「いえ……なんというか……色々、その……戸惑うことが多いというか……」

 「? まぁ、高校の時とは違うだろうが……」

 「ああ、いえ、戸惑うのは、音楽学科の実技のほうで……」

 「は?」


心底分からないと煉矢の顔に書いている。

乃亜はいまく取り繕うことも出来ず、ここしばらくの授業の内容を説明し始めた。




音楽学科の授業は、単に専攻している

ヴァイオリンの授業を受ければよい、というものではない。

音楽家としての技能、感性を磨くという意味で、様々な講義が存在している。


座学で言うならば、例えば和声学。

簡単に言うのであれば、ド・ミ・ソなどの複数の音の組み合わせである、

和音のルールや組み合わせ方を学ぶ学問になるが

その内容は非常に奥深い。

今まで完成された楽譜を読み取り演奏するだけだったが

それを知ることによって、より楽譜への理解が深まっていくような気がしている。

また、音楽史や、中世音楽論といった学問の講義も非常に興味深い。

これらの座学は、表面的にしか感じ取れなかった楽譜の、

一歩奥へと踏み入れるような気がしている。


実技に関して言えばオーケストラの時間が週に2回設けられている。

乃亜が担当するのはもちろんヴァイオリンだが、

音楽学科に所属する多くの学生がそろい、それぞれの担当楽器を持ち寄り、

ひとつの大きな演奏を行うわけである。

今までピアノの伴奏こそあったが、基本的に一人で演奏していた乃亜にしてみれば

新鮮で刺激を受ける時間になっている。


また、アンサンブルや、副科としてピアノの時間もある。

普段ヴァイオリンが専門であるが、乃亜は決してピアノも嫌いではない。

基本的な演奏については問題なく弾くことができるが、

このあたりから、乃亜は戸惑いを抱くことになった。


最初の授業でレベル感を確認するためということだったのだろう。

自分の弾ける曲を弾くように、という指示だった。

乃亜としてはピアノは弾けるだけであり、決して専門ではない。

それはほかの学生も同じことであるが、

乃亜のそれと他の学生のそれは決してイコールではなかった。


この場にいるのは皆、基本的にはピアノは専門外であり、

ほかの楽器を専門としている学生だ。

そのため、少しだけ弾ける学生もいれば、ほぼ弾けない、

触ったことはない、という学生さえいる。

それは決して珍しいことではなく、先生は気にせず弾くようにと重ねて告げていた。


初心者用の曲とはいえ完璧に弾きこなす者、

中級者向けの曲を拙いながらも弾ききった者、

途中間違えながら、あるいはリズムを崩しながらも

それでも最後までなんとか弾いた者など、さまざまにいる中、

乃亜が選んだ曲は、【エリック・サティ:ジムノペディ 第1番】。


乃亜はピアノの前に座り、タブレットにて楽譜を表示させ、

静かに鍵盤に指先を乗せる。


細い指、小さな手、それがゆうるりと鍵盤をたたいていく。

音のない雨の情景、響きのない波紋、ピアノの音が一つずつ、

まるで失ったものを数えるかのように室内に響く。

けれどそこにあるのはただの悲壮感、寂寥感ではなく、

失ったものが与えてくれた愛おしさである。


それを聞いている学生たち、そして講師はただ唖然としてその音色に引き込まれていく。

技巧的には難しいものではないこの曲だが、

その実、この曲の本質はその表現力にこそ集約される。

一定のリズム、その響き、一音一音に込められた感情。

技巧的には簡単だからこそ、聴いている者の心をつかむことが難しいのがこの曲だ。

それを、乃亜は室内全員の心を鷲掴みにして弾ききった。


5分にも満たない短い時間を引き終えた乃亜は、

周囲が静まり返っていることに気付いた。

ほかの学生の時は、講師によって簡単な講評があり、

今後についての課題などについて話があった。

しかし、ピアノの近くで聞いていた講師は目を見開いて口を半開きにしている。


 「あ、あの……」

 「っあ、ああ、はい、ええと、ありがとうございました……!

  その、あなた、斉王さん?」

 「は、はい……!」


大変に動揺している様子の講師に不安が募り、乃亜は立ち上がる。

なにか失敗していただろうか、という心配である。

とりあえず弾き間違いということはしていなかったはずだ。


 「ええと、ピアノは、専門じゃない、ですよね……?」

 「はい、その、ヴァイオリンです」

 「あ、そう、ヴァイオリン……ヴァイオリンなの……?

  え、本当に?あ、ずっとピアノもやっていたということは……」

 「い、いえ、ピアノは殆ど……」

 「え、殆ど?」

 「その……殆ど、弾いてなくて……」


そういうと室内の学生たちも含めて大変に空気がざわついた。

講師は目玉がこぼれ落ちるのではと言うほどに見開き、

学生たちは「うそだ」「マジか」などの囁き声が聞こえる。

いよいよ不安が大きくなり、正直泣きそうだった。


 「あ、あの……なにかおかしい演奏、でしたか……?」

 「とんでもない!!これ以上ないほど素晴らしいジムノペディでしたとも!」


飛びつくように講師は叫んだ。

乃亜はそれにぎょっとして思わず身体を引かせる。

講師の女性は真面目な顔をして言った。


 「え、斉王さん、ヴァイオリンじゃなくピアノ専科に移りませんか?

  全然ピアノでもやっていけると思いますけど」

 「えっ?!」


どんな冗談だと思ったが、

他の学生たちもうんうんと深く頷いている者がいくらもいる。


 「だっ、だめです、先生!斉王さん僕らとアンサンブル組んでるんです!」

 「そうです!乃亜さんは渡さないので!私たちのアンサンブルの大黒柱なんですから!!」

 「え、えっ?!」


そこに名乗りを上げたのは室内楽の授業にて組んでいる学生だ。

その言葉に乃亜にピアノを勧めた講師は心底不服そうに「えー」などと言っている。

様子を見ていた学生らからは「ヴァイオリンもあのレベル?」「天才……?」などの

ささやきが聞こえいよいよいたたまれない。

真剣そのものという講師に平身低頭お断りし、その場は何とか切り抜けた。

授業後も、他の学生たちに「すごい感動した」「ピアノやってないというのは本当か」など

いくつもの感想や質問に追われ、乃亜はそれに照れたように笑うばかりだったが

内心は混乱と戸惑いで染まり切っていた。




 「……と言う感じで、副科ピアノは最初から戸惑いと言うか、驚いて……」

 「なんだかやけに覚えがある話じゃないか」


くつくつと煉矢は笑いながら言う。

確かに、乃亜としても後から振り返ると懐かしい心地になった。

静と初めてヴァイオリン教室にいき、ヴァイオリンを弾いたとき。

あるいは、初めてコンクールに参加したとき。

自分のヴァイオリンへの評価が信じられず、実感できず、

ただまわりの評価に振り回され戸惑っていた。


 「さすが、音楽の神様に愛されているだけのことはある」

 「止めてください……」


冗談めかしたその言葉に乃亜は頬を染めつつ恐縮しきりである。

ほうじ茶を一口含んで飲みこむ。その冷たさがありがたい。


 「ヴァイオリンならともかく……ピアノですよ?」

 「俺からしたらそこまで不思議な話じゃないが」

 「え?」


意外な言葉である。

乃亜は顔を上げ首をかしげると、煉矢は頬杖をついて

少し呆れたような笑みを浮かべていた。


 「忘れたのか?

  お前、アメリカでリンディの代わりに弾いてたじゃないか」

 「あ、あれは……また、違うベクトルというか……」

 「練習ほぼなし、見て聞いてただけであれだけの演奏、

  更にアドリブまで入れた上、あんなに観客を盛り上がらせておいて何を言う」

 「う……」

 「ふふ、根本は変わらないな、お前は。

  それで、結局そのあとはどうなったんだ?」

 「……明らかに他の方よりも難易度の高い曲が課題として出されました」

 「はははっ」

 「笑い事じゃないです……」


大層おかしいというように笑う煉矢に少し唇が尖る。

こちらとしてはヴァイオリンが専科であるのでそちらに時間を使いたい。

与えられたからにはおざなりにしたくはないが、

そこまでピアノに時間をかけられるかというとそうでもないというのに。


そうしているうちに注文した品が運ばれてきた。

乃亜の前に運ばれてきたのはカマスの干物の定食。

まだパチパチと身の脂が小さく音を立てるほどに脂ののった焼き目は

香ばしい焼き魚のよい匂いを漂わせている。

添えられた大根おろしに酢橘が彩りを加え、

添えられた副菜である人参と御坊のきんぴらに、

葱と豆腐、なめこのシンプルな味噌汁。

半盛にしてもらった白米は粒が立ち艶やかだった。


いったん会話は切り上げて食事を進めることにした。

乃亜がどれだけ規格外の天才かが大学という環境で露見したというお話。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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