【風の行方編】80:xx17年12月9日~12月24日
【12月9日】
「ウィーンのマスタークラスに招待された?!」
「は、はい」
全日本ユースクラシックコンクール高校生の部にて、2位という成績を残した乃亜。
今日は先のコンクール以来となるヴァイオリン教室だ。
学校の特性上、はやめに実施された期末テストを終えて
いつものように訪れたヴァイオリン教室では、
月末に行われるガラコンサートについての話が中心であった。
先方からの説明などを共有し、演奏曲についても相談した。
曲についてはあまり時間もないこともあり、
コンクールで演奏した「カッチーニのアヴェ・マリア」で決まった。
そこまではいい。
乃亜がもうひとつ相談したかったのは、水野と別れたあと起きた、衝撃の事件である。
「しかも招待した人があの月城晃先生ですって?!」
「はい……」
瞳が飛び出すのではないかというほど水野は驚愕を顕わにした。
だがしかし無理もない。
乃亜自身、当時は心臓が止まるような衝撃だったのだから。
「その、月城先生は、私がまだ若いから、
一年でも二年でもゆっくり考えればいいと
仰ってくださっていて……どうしたらいいでしょうか……」
「どうしたら……って……」
受けない、という選択肢は乃亜としても、無い。
千載一遇にもほどがある機会である。
それになにより、憧れのヴァイオリニストがそう言ってくれたのだ。
無下にするなど二重に三重にあり得ない。
水野はひとつ深呼吸をして呼吸を整え、
ピアノの椅子に腰かけた。
「……そのことにも少し関わるのだけど、乃亜さん」
「はい」
「あなたは来年高校三年生よね。大学とかは考えてる?」
「え、あ……その、漠然とですが……。
暁天総合大学の音楽学科を、とは思ってますが……」
これはまだ本格的な志望ではない。
以前から静と話をしていて、
他に希望の大学がなければという程度だ。
かの大学は芸術学部も優秀、音楽学科には、有名なヴァイオリニストも
非常勤講師として在籍していることは確認している。
それを聞いて水野は少しホッとしたようだ。
「あそこの大学なら、いいヴァイオリニストや指導者もいるわね」
「先生……?」
「乃亜さん、これはあくまで提案です。静さんともよく相談してください。
マスタークラスへの参加は大学に入ってからでもいいと思う。
月城先生もあなたがまだ高校生ということを加味して、猶予をくださったのでしょうし。
暁天大学ならヴァイオリニストとしても音楽家としてもきちんと学べるでしょう。
そのうえで、夏季休暇などを使ってマスタークラスに挑戦するの。
きっとあなたにとって大きな飛躍になるわ。
そして、ここに通うのは、来年限りでおしまいにしましょう」
「………え?」
途中までは成程と思い聞いていた。
だが最後の最後に、耳を疑うようなことを言っていなかっただろうか。
来年限りでおしまい。
その言葉を徐々に理解していくと同時に、乃亜の顔色から血の気が引いた。
「せ、先、っ、み、水野、先生……?
あ、あの、私、なにか、なにか先生に、失礼な、こと……っ!」
「まさか!あなたは私の可愛い自慢の生徒です!
そうじゃない、そうじゃないのよ。大丈夫だから、落ち着いて、ね?」
水野が想像していた以上に乃亜が狼狽えた様子を見せたのだろう。
彼女は少し慌てて立ち上がり、乃亜の両肩に手を当てた。
それに乃亜はすがるような眼差しで水野を見る。
水野は苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと、少し前から思っていたの。
私はヴァイオリンは専門じゃないし、あくまで、ヴァイオリンも教えられる、という程度。
それに比べて、あなたの才能や実力は、私よりはるか先をいくでしょう。
あなたの実力に見合う指導者の元にいくべきだって、ずっとね」
「そ、そんな……、でも、私……っ」
「本当のことよ。だから、本当は先のコンクールでおしまいにしてもいいと思ってたの」
まさかという思いに乃亜は唖然とその話を聞く。
中学1年の頃から通い始めたこの教室は、乃亜にとって居心地の良い場所に他ならなかった。
水野に出会わなければ、と思うと恐ろしい。
心から慕っているし、これからもこうしてそばで寄り添ってくれると思っていた。
「ただ、どこにいくにしても、大学の音楽科を考えているなら、
そちらでも本格的な指導は受けられるでしょう。
それなら残り一年、新しい教室を探して通うより、このままここにいてもいいと思ったの。
私に出来ることは本当にささやかだから、あなたさえ良ければだけれど……」
「いいに決まってます!」
思わず声を上げた。
普段抑え目な声が多い乃亜にしては珍しい。
それに水野は目を丸くした。
「私、ここに通えなかったら、ヴァイオリンが好きだって、
楽しく弾くってこと、きっと、失くしてました……!
私が失くさずいられたのは、水野先生のご指導があったからです!
だから、私……っ、私、ここが好きなんです……っ。
先生と、音楽について話したり、笑いながら、ヴァイオリンを弾ける、この時間……っ」
話しているうちに視界が揺れ、この上がるものに声が詰まった。
好きも楽しいも心の深いところに押し込めていた。
それを失くさず、捨てず、残し続けていられたのは、
ここで水野がはぐくみ続けてくれたおかげだ。
もしそれがなければ、今の自分はない。
ヴァイオリンという、唯一、わずかながらも自信を持てるものさえ、
乃亜はきっと失っていたはずだと心底思う。
その日々が思い返され、涙となって瞳からこぼれた。
水野は深く微笑み、乃亜をそっと抱きしめた。
「ありがとう。あなたの大切なものを守れていたのね」
「はい……っ、はい!」
「あなたのように素晴らしいヴァイオリニストの力になれていたのなら、
音楽家として、指導者として、こんなに嬉しいことはないわ。
残り一年だけれど、思い切りこの時間を楽しみましょうね」
「……っ、は、い……っ、先生……!」
残り一年。
ほんとうはずっとここに通いたい。
けれど水野の言っている言葉も、理解はできた。
だから、自分の望みはただの我儘だ。
抱き締めてくれる水野のあたたかい手。
コンクールで震える自分を、何度も励ましてくれた手だ。
本当に、最初にドアを叩いたヴァイオリン教室がここでよかった。
乃亜は心の底からそれを思い、もう一筋、涙を流した。
【12/17】
ざわざわと人々の声が漣のように広がっている。
普段静かな高校の庭園。
敷地内にあるチャペルの前、普段閉じられているドアが開かれ、
その正面にはステージを模したようにグレーの絨毯が敷かれた高さ15cmほどの台が置かれている。
その中心を照らすように照明が設置され、
開かれたドアの奥には信仰の象徴たる十字架がまっすぐに見える。
チャペルの中はランプの明かりで中央の道が照らされ、
さながら神への祈りの道のように神聖さを感じさせた。
時刻は17:00を過ぎており、
普段であればクラブ活動などで残った生徒がいるばかりだが、
今日は多く生徒や、外部の人間も含めてそのチャペルの前に詰め掛けていた。
「斉王さん、そろそろですよ。お着替え終わりましたか?」
「あ、はい……」
チャペル内の管理人室を借り、乃亜は衣装に着替えていた。
Aラインのシンプルな真っ白のドレスである。
袖は長く、襟口は大きく開き、装飾はなにもない。
髪はとくに結うことなく、耳にはクリスタルガラスのイヤリングをつけた。
ノックに返事をすると、3年生であり企画担当の生徒が現れ、
手を叩いて声を上げた。
「まぁ、素敵ですよ!とても美しいです!」
「ありがとうございます……」
乃亜はそれに気恥ずかしさから苦笑いを浮かべるしかない。
今日は高校の文化祭であるステラ祭。
2年生である乃亜は、クラスの企画を中心に活動する予定だったが
先のコンクールで2位という快挙を成し遂げたことを耳にした実行委員会に声をかけられたのだ。
ステラ祭のフィナーレに、ぜひヴァイオリンを弾いてほしいと。
最初はもちろんそんな大層な役目は自分にはふさわしくない、と断ろうとしたが
素晴らしい功績を出したのだから是非に、と
滾々と説得をされ、最後には頷かざるを得なくなってしまった。
静かなる圧に負けた、と言ってもいい。
そしてステラ祭当日、乃亜は日中はクラスの企画であるガーデンカフェに参加していた。
2年生は主に屋外企画を行うことになっており、
乃亜のクラスはこの高校自慢の庭園でのガーデンパーティを模したカフェを開いていた。
さながら英国をイメージさせるような雰囲気のカフェで、
生徒たちはクラシカルなメイド服や執事服に身を包み、
おとずれた生徒たちや外部の来校客を持て成した。
乃亜も当然、裾の長い黒のワンピースにエプロン、それにフリルキャップをつけて
他の生徒ともに配膳といった対応を続けていた。
まさかそこに、静やましろ、煉矢までくるとは思わなかったわけだが。
友人たちもそれぞれ家族が訪れたりはしていたが、
乃亜は静から、夕方のチャペルでの演奏は見に行くと聞いていた。
ましろや煉矢からも同様だ。
なので安心しきっていたが、完全に騙された気分である。
なお、テーブルにて楽しげに笑う三人に対して、
乃亜にしては珍しく膨れた顔を見せていた。
そんなことが日中にあったのち、少し早めにクラスの企画から離脱させてもらい、
乃亜はチャペルへ移動、ステラ祭のフィナーレとなる演奏の場へと向かった。
そして今である。
まもなく開始時刻。
多くの来客がつめよるチャペルのさざめきは控室となっている管理人室にも聞こえる。
乃亜はコンクールとはまた違った緊張を覚えながら、
企画担当の生徒に導かれ、チャペルの中へと移動した。
「皆さま、本日は我がステラ・マリス女学院文化祭、
ステラ祭へご来校いただきまして、誠にありがとうございます。
先生方のご協力、地域の皆さまのあたたかなご助力により、
無事に本日を迎えることができましたこと、大変嬉しく思っております。
また、皆さま方のご来校によって、大変にあたたかく楽しい一日となりました。
生徒一同を代表しまして、お礼申し上げます」
耳に優しい丁寧な声で挨拶をするのは生徒会長の三年生だ。
とても優しいおっとりとした雰囲気だが、
笑顔の圧がなかなかにお強いことを乃亜は忘れられない。
「ステラ祭の最後となります本企画でございますが、
先の11月、日本全国の学生を対象とした全日本ユースクラシックコンクール、
ヴァイオリン部門高校生の部にて、2位という快挙を成し遂げられた生徒による、
ヴァイオリン演奏となります。
彼女の素晴らしい演奏は、本ステラ祭のテーマにもあります、
光を分かち合う、ということをきっと体現してくださることでしょう」
なにやらプレッシャーがかかった気がする。
「それでは、お願いいたします」
生徒会長が下がったところで入れ違いにステージへとむかう。
最初に少し挨拶をしなければならず、
正直ヴァイオリンよりそちらの方が乃亜としては緊張が大きい。
「ステラ・マリス女学院二年C組、斉王乃亜です。
先ほど生徒会長よりご説明頂きました通り、
多くの方のご助力により、素晴らしい成績を残すことが出来ました。
この学校での日々も、間違いなく、私の大きな力となりました。
短い時間となりますが、この演奏が、そのご恩返しのひとつとなれば幸いです」
なんとか震えずに言い切ることができた。
持っていたマイクを控えていた生徒に渡し、引き換えに弓を受け取る。
不思議と、震えていた手が弓を持つとぴたりと止まる。
乃亜はそれにほっとして、ステージの上、ヴァイオリンを構えた。
録音されたピアノ伴奏が始まる。
【ヴィヴァロフ:カッチーニのアヴェ・マリア】
先のコンクールでも演奏したこの一曲。
チャペルの前で演奏するにあたりこれ以上ないほどにふさわしい一曲だ。
その荘厳にて美しい音色、すべてを洗い流してくれるような清らかなそれ。
美しい祈りの旋律は、この場に集い聴いている人々、
少し離れたところで片づけや自分の役割を果たしている生徒、教師、
すべての人々の心へ深く深く染み渡っていく。
乃亜は思いのままに演奏する。
先ほどの挨拶は嘘ではなく、建前でもない。
自分が素晴らしい演奏、成績を残すことができたのは、
間違いなくこの学校での日々も、大きな要因の一つだ。
凛としたこの学校の気風、優しく穏やかな友人たち、
コンクール前の修学旅行でも、学びや感じ取るものは多く
それは乃亜にとって大切な糧になっていた。
そういった思いをヴァイオリンで伝える。
感謝の気持ちをヴァイオリンで歌う。
そして誰よりも、愛する人々への思いがあった。
敬愛する兄、親愛なる友人、深く愛し、愛してくれる人。
コンクールの時と大きく異なるのは彼への想い。
自分への深い愛を、その心を晒して告げてくれた彼への想いは、
とても一言では言い表せない。
だからヴァイオリンで伝えるのだ。
様々な想いを、愛を、精一杯歌い上げるのだ。
聞き入る人々はただ感嘆の溜息をもらし、
中には涙を流す人さえいる。
ステラ・マリスは海の星、つまり聖母マリアを示す言葉。
この音色から感じ取れる深い愛は、まさに母なるマリアのそれであると
演奏を聴く人々の何人かは、いつしか両手を組み
その愛に応えるように祈りを捧げ始める人さえいた。
深い愛の響きは、庭園を越えて、風になり、空へと駆け上り、
そして、先のコンクール会場へと繋がっていく。
【12月24日】
盛大な拍手を受け、乃亜は深い礼をする。
全日本ユースクラシックコンクール、受賞者によるガラコンサート。
上位受賞者のみで構成されたその栄えある場に、乃亜は参加していた。
コンクールと同じオリエンタルブルーの深い青のドレスを身に着け、
耳には白い薔薇のイアリングが光る。
演奏したのはステラ祭の時と同じ、カッチーニのアヴェ・マリア。
ステラ祭の時と同様に、深い深い感謝を歌い上げたそれは、
コンクールのときよりもさらに精錬され、人々の心を深く打った。
乃亜は礼をしていた顔を上げる。
鳴り響く拍手を受けながら、その一角にいる愛する人たちの顔を一瞬だけみる。
静も、ましろも、煉矢も、誇らしげに笑ってくれている。
乃亜はそれに安堵を覚え、ステージから去った。
ガラコンサートが終わり、いつかと同じように乃亜はエントランスに向かう。
見に来てくれていた静たちと合流するためだ。
アッシュグレーのローゲージニットに黒いスカートを揺らし、
エントランスへのドアを開ける。
ロビーとの境界あたりに果たして三人は揃っていた。
「お待たせしました……!」
「お疲れ様、乃亜!」
ましろに出迎えられ、それに笑顔で応えた。
「今日の演奏もよかったぞ。
前回のコンクール本番の時よりもよかったんじゃないか?」
「そう、ですね。集中して練習できたからかもしれないです」
「自分でも納得ができる演奏だったんだろう?」
「それは……まぁ……」
煉矢の言葉には少々言いよどむ。
確かに前回のコンクールよりはよい演奏は出来たと思うが、
心からの自信をもっての肯定はなかなかできない。
それにましろはくすりと笑った。
「そこは思い切り、そうです、って言ったっていいのに」
「う……」
言葉を詰まらせた乃亜に、静や煉矢も笑い、
乃亜は少し居心地悪そうに肩を上下させた。
ガラコンサートが終わり、いよいよコンクールのすべての日程が終わったことになる。
乃亜は晴れ晴れとした気持ちで会場を出た。
時刻は17:00頃。
四人は並んで、以前と同じコインパーキングへと向かった。
前回は静の車に乗り、そのまま自宅へと帰ったが、
今日はそうではない。
静が開けた車にむかうのはましろだけである。
「で、今日は煉矢とデートしてから帰るんだったな?」
苦笑いを浮かべながら自身の車に寄り掛かる静は、
隣の煉矢の車側にいる乃亜に尋ねる。
乃亜はとたんに頬が赤くなった。
「………は、はい」
「そここそはっきりとそうです、と言ってくれ」
「うう……」
運転席側にいる煉矢がおかしそうに突っ込むと、一層頬が赤くなった。
ましろが静の車の助手席側から乃亜の様子を見て笑う。
「いいじゃない。今日はクリスマスだし、
私たちもデートしてくるんだから」
「煉矢、ちゃんと日付が変わる前には家に帰せよ」
「お前もしつこいな、分かってる。何度言うんだそれ」
「に、兄さん、あの、大丈夫ですから……」
「ああ、もし多少過ぎてもお前を怒ることはないから心配するな。
そうなったとしてもどうせヤツの所為だ」
「まだ起きてもいないことに対して冤罪をかけるな」
二人に挟まれ乃亜は居たたまれない。
静の向こうでましろがけらけらと笑っている。
その余裕を少しでいいから分けてほしい。
「乃亜、そろそろ行くぞ」
「あ、はい……。それじゃあ、兄さん、行ってきます……」
「ああ、気を付けてな」
「ましろも、今日はありがとうございました」
「うん、こちらこそ。またね」
煉矢に促され、乃亜は煉矢の車の助手席に乗り込む。
足元にヴァイオリンケースを置き、シートベルトを着けて
すぐに車は発進した。
背後では兄が肩をすくめながらも、ましろと笑い合っている様子だった。
ガラコンサートのあと、二人で出かけよう。
そう煉矢から連絡を貰ったのは先週のこと。
互いに確かに気持ちが通じ合い、晴れて恋人という関係になったが
残念ながらすぐに時間が取れるほど、乃亜に余裕はなかった。
コンクールの次の週には期末テストが控えていたし、
その翌週からは文化祭の準備と合わせてガラコンサートの練習にも
努めなければいけなかったからだ。
そうしてようやく時間がとれての今である。
「懐かしいな」
「はい?」
「去年も、クリスマスに二人でデートしたろ」
「……はい」
確かに懐かしい。
何台もの車が都会の夜道を流れていく。
街灯や車の明かり、ビルの明かりや店の照明などにぎやかだ。
そして街中がクリスマスの色に染まっている。
去年、乃亜はまだヴァイオリンが弾けない時期だった。
そんな時、煉矢が食事にと誘ってくれた。
あのときは、まだ乃亜は煉矢への想いを抱きながらも自信が持てずにいた。
自分には何もない。
けれどそのあと、繰り返し二人で過ごす時間が、煉矢からの想いを感じさせ、
それにしっかりと応えたいと思うようになったのだ。
だからこそ、コンクールで結果を出すことで、
少しでも自信を持ちたかった。
「あの時も、本当に楽しかったです」
「今日も同じ場所を歩いてみるか?」
「ぜひ。去年、本当に綺麗でしたから、また見たいです」
東京駅や丸の内のイルミネーションの輝きはいまでもよく覚えていた。
何度見てもきっと感動できる確信がある。
煉矢はちらと一瞬視線をこちらに向けた。
「今度はしっかり手を繋いで歩けるな」
「……っ、はい……嬉しいです……」
去年と同じ場所。
去年と同じ行き方。
けれど明確に二人の関係は変わった。
頬が少し熱くなる。
まさか一年後、こんな風に過ごせることになる等
当時の自分は想像すらできなかったはずだ。
あのころとて、夢のような日だったのだから。
「なんだかんだと、こうして二人で過ごすのは久しぶりか」
「そうですね……私が忙しかったですから……」
「ああ、責めてるんじゃない。
ただ、本当に久しぶりだと思っただけだ」
確かにその通りだ。
最後に二人で会ったのは、コンクールの前日。
ヴァイオリン教室の前に、会いに来てくれたのが最後だろうか。
「ヴァイオリン教室に迎えに来てくださって以来……でしょうか」
「まぁ、そうだが、デートとなるともっと遡るだろうな」
「ニックさんのイベントがありましたよ?」
「あれはデートと数えたくない」
苦々しい様子で溜息を吐いている。
乃亜はそれに苦笑いを浮かべた。
煉矢とニックの間に何があったか乃亜には分からない。
けれどおそらく、煉矢にとって苦々しいなにかがあったのだろうことは察した。
自分としても、ニックに悪感情はないが、
あの過剰なスキンシップはあまりいい思い出はなかった。
「ニックさんはいい人ですけど、あのスキンシップはちょっと……」
「はっきりセクハラと言っていいんだぞ」
「え、いえ、さすがにそこまでは……」
「俺としては不快極まりなかったが」
「わ、私だっていい気持ちはしませんでしたよ。
だから、煉矢さ……煉矢に一緒にきてほしかったんです……」
「何?」
ちょうどよいタイミングで赤信号になった。
何車線もの幅広い道を、いくつもの車が交錯しながら流れていく。
暗い車内、周囲の車や街灯の明かりが、薄明かりとなって照らしている。
「……一緒に、いてくれたら、守って、くれるかと……」
自分から拒絶出来たらいいのだが、
ニックの勢いにはいつも圧倒され戸惑っているうちに押し込まれる。
そういった状態だったため、守ってほしかった。
当時の意図を乃亜が説明すると、
煉矢は深く息を吐き出して頭を抱えた。
その様子に乃亜は焦りを覚えた。失敗したと思ったのだ。
「す、すみません、あの、自分で、
ちゃんと嫌と言えればと思うんですが、その……っ」
「違う、怒ってない。
そうじゃなくてな……お前……そういうことはもっとはやく言ってくれ……。
あの時俺がどれだけ妬いてたか……」
「え……」
妬いていた、という言葉で、あの時のメッセージはやはりそう言うことだったらしい。
今更ながらそれを理解しつつ、目を丸くしていると
煉矢の手が乃亜の髪の合間を縫い、後頭部に触れ、頭を少し引き寄せる。
それに戸惑っている間に、唇に触れるだけのキスをされた。
丸くしていた瞳がさらに見開かれ、頬に熱が急速に集まる。
目の前で赤い瞳が嬉々とした色をにじませ、微笑んでいた。
「守るさ。これからずっと。
誰にも触れさせない。お前は俺のものだからな」
「……はい、煉矢」
微笑み合う赤い瞳と青緑の瞳には、
想いを交わし合った時と変わらない、同じ熱の色が灯り続けていた。
これにて第一楽章終了となります。次回から第二楽章、舞台は大学となります。
一気に登場人物も増えて、乃亜の世界もぐっと広がっていきます。
生まれて初めて自分で手を伸ばし、愛する人の傍に居たいと願った乃亜。
自分の中に生まれた感情に翻弄されつ、葛藤しながらも、手放したくないものを得た煉矢。
二人のその後も、引き続き見守っていただければ幸いです。
第二楽章もよろしくお願いいたします。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
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