【一葉編】7:xx13年11月30日
短い秋が足早に立ち去り冬が顔をのぞかせ始めた11月の終わりの土曜の夕方近く。
煉矢は自宅である1Kのマンションの一室で静かに語学の勉強を続けていた。
取り急ぎ必要なことはすべて終え、申し込みも完了しているが
仮にうまくことがすすんだとしても、満足に成しえるかは分からない。
だからこそ空いた時間を見つけては学ぶ時間は必要だ。
出来ることはなんでもやる。
そう考えるようになったのは、親友である静だけの話ではない。
しんと静まり返った室内の中、
手元に置いたままのスマートフォンが揺れる。
ロック画面にはCORDアプリの新着通知があった。
「静?」
煉矢はペンを置いてスマートフォンを手にとる。
ロック解除してアプリを立ち上げた。
『すまん、煉矢、今日の夕方から夜、時間はあるか?』
珍しい始まりだ。煉矢は内心首を傾げつつ返信を打った。
『特に予定は入ってないが、なんだ?』
『悪いが、乃亜の迎えを頼めないか?どうしてもその時間に帰れそうにない』
『ああ、ヴァイオリン教室のか?』
『そうだ。17:30頃になるともう暗いからな。
土曜だし、人混みも多い。まだ少し、一人で帰らせるのは不安があるんだ』
相変わらず過保護な、と思わないでもないが、
彼女の状況、そして静の心境を考えると無理からぬこととも思う。
『わかった。ヴァイオリン教室の住所を教えろ』
『すまん、助かる。今度なにか奢る』
『いらん』
別段礼がほしくてするわけではないのだ。
短く断りを入れて、ヴァイオリン教室の住所を待つ。
やや間が空いて住所がメッセージ欄にぽん、と上がった。
たまには礼の一つくらい受け取れ、という苦言と共に。
いらないものはいらないのだからそれに関しては無視した。
『終わりは17:30でいいんだな?
それくらいに着くように向かうから乃亜に伝えておけよ』
『ほんっとうにお前……分かった…』
画面の向こうで思い切り苦虫をかみつぶしたような顔をしている親友の顔が浮かぶ。
そう思うと、煉矢は今日初めてふっと静かに笑った。
一心不乱、けれど決して苦しい様子ではない。
乃亜は時折笑みを浮かべ、時折眉を寄せ、弓を引き続けている。
【コレッリ:ラフォリア】
教室の中を流れる旋律。
そこから感じるのはなにが胸を打つような、
服を握りしめて耐えるような切なさ、狂おしさ、悲しさ、そんなものだ。
けれど笑顔の仮面をつけて笑っている道化師が踊る。
誰もいないサーカス小屋。
霧雨。
路地の水溜まり。
濡れた猫。
揺れる落ち葉。
道化師の深いお辞儀。
まるで一つの演目を見終えたような感覚に陥ると同時に演奏は終わった。
「いいわね、指摘したところもちゃんと改善出来てる」
「ありがとうございます……」
乃亜はヴァイオリンを持ち直してふうと一つ息を吐いた。
8月から始めたヴァイオリン教室。
静とも相談し、土曜日の16時半から60分のコースで始めていた。
最初は少しずつということで30分程度のコースから始めたが、
9月には慣れ、10月から60分のコースに変更したのだ。
乃亜はコンクール志望ではないため、毎月のはじめに課題曲を決めることになっている。
実のところ課題曲は毎月変わるようなものではないらしいが、
乃亜の実力であれば、と月替わりで曲をかえるように調整したらしい。
乃亜はそれに恐縮していたが、いろんな曲を弾く方が楽しいだろうという熱意にも押された。
そして今月の課題曲は今奏でた【コレッリ:ラフォリア】だ。
「やっぱり、返す返す思うけれど、あなたの一番の強みは表現力ね」
「表現力……ですか?」
「そう。あなたの演奏は心を揺さぶるの。
まるで映画を見ているような没入感とでも言うのかしらね。
それに伴ういろんな感情が沸き上がってくるの」
「没入感……?映画……」
ぴんとこない。
乃亜は首をかしげ、左手に持つヴァイオリンを見つめた。
ヴァイオリンを始めるようになり静が購入してくれた自分のヴァイオリン。
それをいくら見ても、水野の言う言葉の答えは出ない。
「私は……普通に、弾いてるだけなんですが……」
「自然と出来てるってことよ。
さて、来月からの課題曲だけれど、なにか希望はあるかしら?」
「いえ、私からは、特には……自分のレベルがよく分からないので、
先生に決めてほしくて……」
「あなたの場合、大抵のものは練習さえすれば十分弾けると思うけれど。
……そうねぇ、12月だし、クリスマスの雰囲気があるものがいいわ」
水野はそう言いながら楽譜の棚を確認する。
ここに通いだして知ったが、あの棚の中には多種多様な楽譜がしまわれている。
それこそ名曲とよばれるクラシックから
J-POP、洋楽、有名な現代音楽のカバーまで。
音楽は楽しむもの、そういった水野の信条から集められた様々な楽譜。
それだけでなく、置かれているパソコンやタブレットの中には
比べ物にならないほどの楽譜がデータとして保管もされているらしい。
「そりすべりって曲知ってる?」
「いえ、すみません……知らないです」
「ふふ、謝らないでいいの。
子供向けの童謡になっていたりもするのよ。とても可愛い曲」
水野はそういって乃亜に楽譜をクリアファイルに入れて手渡してくる。
一枚目の楽譜をみて、いつものように音符を目で追った。
確かに軽快で可愛らしい曲だ。
脳内で流れるリズム、どこかクリスマスの鈴の音が聞こえてくるかのよう。
「いつものように、印刷してきてね。
来週、これは回収します」
「はい、分かりました」
「では今日はここまで。お疲れ様」
「ありがとうございました」
借りたクリアファイルを丁寧にトートバックに片づけ、
ヴァイオリンもまたケースに、殊更慎重にしまい、蓋を閉じた。
ハンガーにかけたコートを取り上げて着込む中、水野が告げた。
「ああ、そうだ。
年末年始にあたる28日と翌年の4日は休みになるからね」
「分かりました。兄にも伝えておきます」
「そうして頂戴。
来週プリントでも渡すから」
「はい。……では、失礼します」
「ええ、また来週ね」
荷物をもって重い扉をあけ、レッスン室を出る。
背中にヴァイオリンを背負いこむこともだいぶ慣れた。
突き当りの下足棚から靴を取り出し、上履きを脱いで持ってきている袋に仕舞う。
レッスン室は土足厳禁で、スリッパか上履きかの用意が必要と言われ、
新しく1足上履きを用意することにした。
少し荷物としてはかさむが、その方が足元が安定する気がしたのだ。
玄関を出るにあたり、今日は兄が大学に行っていることを思い出した。
なんとか帰りの迎えには間に合うと思う、と言われたが
わざわざ忙しい中迎えに来てもらうのは申し訳なさが強い。
それでも、ひとりで帰る、という一言は絞り出せなかった。
兄から感じるのは、ひたすらに心配な様子だったからだ。
でももし間に合わなければ仕方ない。
乃亜は靴を履いて、出入口のドアを押しながらスマートフォンを見た。
新着メッセージが1件。
「兄さんから……」
『すまない、迎えに間に合いそうにない。
迎えは煉矢に頼んだ』
「……えっ?」
「乃亜」
文面を把握すると同時に、正面から声が聞こえ顔を上げる。
まさに、その人がそこにいた。
驚きに唖然としたが、すぐに覚醒し、駆け寄った。
「煉矢さん、あの、兄さんから迎えって……っ」
「ああ、間に合いそうにないからとな」
「そんな、わざわざ、おやすみの日に……」
「別に用事があったわけじゃない。気にするな」
とはいえ乃亜は申し訳なさしかない。
休日にわざわざ時間を取って迎えだけのために来てもらうなど。
頼んだのは兄であるし、二人がそういった気心の知れた友人同士なのは知っている。
だがだからと言って。
乃亜が半ば混乱さえしてい中、煉矢は淡々と背を向け、
近くに止めていたらしい車の横に立った。
「乗れ。送っていく」
「あ……はい……」
茫然と立ち尽くしていても仕方ない。逆に迷惑をかける。
乃亜はそう自分に言い聞かせるように、案内されるまま、助手席に乗り込む。
躊躇いを覚えつつも乗った車の中はあたたかかった。
11月も終わりとなり随分夜は冷え込んできたのだ。
乃亜は少しホッとしながら、シートベルトを着ける。
「ヴァイオリンや荷物は後ろに置くか?」
「あ、ええと、いえ、大丈夫です。足元に置くので……」
「分かった」
手慣れた様子で運転席に乗り込み、シートベルトをつける。
ブレーキを外し、やがて車は動き出した。
すっかり暗くなった住宅街の中、煉矢は迷う様子なく車を走らせていく。
それを乃亜はどこか居心地悪く感じながらちらちらと横眼で見ていた。
「あの、煉矢さん……本当、お手間おかけして……」
「さっきも言った。気にするな」
「ですが……」
気にしないわけにもいかない。
彼の家の場所は詳しくは知らないが、それでも決して近くはなかったはずだ。
一時間とは言わないまでも、30分以上はかかっているはず。
以前自宅に来たときにそんなようなことを兄と話していたのを覚えている。
バス通りらしき道に入り、赤信号で車は止まった。
煉矢は肩肘を窓枠につけて前を見ている。
「まぁ、静は多少、過保護だと思わないでもないが……
それでも分からないわけじゃない」
「え……」
「お前を、人の喧騒で騒がしい場所を、一人で、
しかも夜に歩かせるということに対して、心配になると言うのはな」
「………」
否定はできない。乃亜は顔を伏せた。
ここで、心配はいらない、自分なら問題ない、と言えたらいいが
正直不安が大きいのが本音だ。
静や煉矢相手には、中学の友人たちにしているような、強がりはできない。
かといって、毎回こうして迎えに来てもらう。
それは静にとって大きい負担だ。
しかも今回は煉矢にまで手を煩わせてしまった。
気にするなとは言ってくれているが、簡単に割り切ることはできない。
「ヴァイオリン教室は楽しいか?」
「え、……あ、はい、そう、ですね……。
楽しいというか……はい、そう、思います……」
「歯切れが悪いな?」
「いえ、その、なんでも……ないです」
おそらく楽しいのだと思う。
けれどそう考えていいのか、まだどこか自信がないのだ。
乃亜は心の中を言語化できない。
静にも同じことを時折聞かれる。
その時は、楽しいと思う、とあいまいに答えるしかない。
本当なら、楽しい、と告げるべきだ。けれど喉に詰まってしまう。
乃亜は小さくため息を吐いた。
「楽しいんだと、思います。
でも……うまく、言えないんです」
「……ああ、そうか。そうだな」
煉矢はどこか納得したようにつぶやいた。
なにかを理解してくれたような気がして、乃亜はつい、続けていた。
「兄さんにも……せっかく、教室に通わせてもらって、迎えも来てもらって、
色々してくれているのに……その一言さえ、うまく言えなくて……」
「静もお前のそういった複雑な気持ちは、ちゃんと理解してるだろう。
お前としては気持ちが悪いだろうが、やつにそう気を使う必要はないと思うぞ」
「……そうかも、しれませんが。
でも、兄さんの負担ばかり、私、増やしてて……」
つい泣き言めいたことまで口にしてしまった。
乃亜はぐっと唇を引き締め、これ以上なにも言わないように閉ざした。
赤信号が青に変わる。
再び車は走り出した。
静かな室内。
乃亜は自分が兄に対して負担ばかりかけていることに気付いている。
なにか自分にできる、負担を減らせるようなことはないだろうか。
今日とて大学に出て、忙しくしている。
自身の研究をしながら、大学の教授からも頼まれごとをしたりと
将来に向けて色々と学び、着実に進んでいるらしい。
そんな敬愛する兄を、少しでも応援したい。
けれど自分にできるのは。
「お前が静の負担を増やしている、とは俺は思わないが、
なにか、自分に出来ることをするほかないな」
「え……?」
再び車は止まる。
右折の為のウィンカーがカチカチと室内に響いた。
「つまりそういうことだろう?
静の負担を増やしている。そう思うなら、静が普段していることを、
なにか替わってやるしかないわけだ」
「それは、分かります。でも……」
「でも?」
「………悪い子だと、言わ、れたら……」
どこかで車のクラクションが鳴った。
この車にではない。別の車に対しての軽い警告音。
乃亜が膝の上で手を握りしめたのは、その音のせいか、それとも口にした言葉のせいか。
カチカチと室内に静かに流れるウィンカーの音。
煉矢は乃亜の様子を見る。
淡々としていた様子だった彼の眉間にしわが寄り、
痛ましそうに乃亜を見ていた。
それに乃亜は気づいていない。俯いていたからだ。
「……乃亜、静は、そんなこと、絶対に思わない」
「……そう、でしょうか……」
「ああ。俺が静の立場でもそうだ。
お前が、「悪い子」だったことなど一度もない」
乃亜はそれに顔を上げて煉矢を見た。
初めて彼が苦し気な顔をしていることに気付いた。
ややあって一度目を伏せ、少し笑みを浮かべ、視線を正面に戻した。
右折用の信号が青に変わり、車は再び動き出した。
「だから、安心して、なにかしてやりたいことがあるなら、言えばいい。
……なにかあるんだろう?」
「煉矢さん……」
「予行演習だ。言ってみるといい」
ちらと一瞬だけこちらに視線が向く。
乃亜はそれにどきりとして視線を逸らし、顔を正面に戻して俯く。
予行演習。
兄の負担を減らすためにしたいこと。
「悪い子」だなんて言わない。兄ならきっと言わない。
ここまで一緒に暮らしてきて、邪険にされたり、冷たくされたことなど一度もない。
ひたすらにあたたかくて、優しくて、守り続けてくれた。
乃亜は両手を膝の上で組み、ぐっと握った。
「……あ、朝、私、はやく、起きるんです…」
「ああ」
「その間、兄さん、私の、お弁当……作って、くれていて……。
……お弁当なら、私、ましろと、でかける時、作ってるんです。
だから、少しは作れる、ように、なりました」
「ああ」
「……っ、だから、自分で、自分のお弁当、作りたいです……!」
ずっと、胸の奥でくすぶっていた言葉だ。
春にましろと一緒にピクニックに行って、そこで初めて弁当を作った。
それから何度かましろと出かけることはあって、
そのたびに兄に教えてもらいながら、少しずつレパートリーも増えた。
前はアスパラのベーコン巻がせいぜいだったが、
ましろに教えてもらったミートボールも作れるようになったし、
卵焼きも焦がさずに作れるようになった。
最近美味しかったのはシイタケの肉詰めだ。兄も美味しいと言ってくれた。
「それに、兄さんが出かけたあと、私、朝、時間があって……!
だから、後片付けも、したいんですっ。
煉矢さん、それくらいのことでも、
ほんの少しかもしれないですけど、少しは、兄さん、楽に、なりますか?」
思わず運転中の彼に声をかけていた。
柔らかな横顔だった。
煉矢はちらとこちらに視線を向け、住宅街の端に車を停める。
振り向く顔は優しい。手が伸び、頭にぽんと大きな手が乗る。
「ああ、きっとな」
「……っ、はい……!」
乃亜はそれに破顔する。ずっと胸の奥に突っかかっていた何かが解けた。
煉矢は乃亜のこぼれるような笑みを見て、どこか内心安堵を覚える。
手を離して、ハンドルに手を掛けるが、長年あの過保護な親友を見てきている身からすると
隣できらきらとした笑みを浮かべている妹分に、ひとつ忠告はしておかねばなるまい。
「乃亜、ひとつ、水を差すようで悪いが」
「はい」
「お前がさっき言ったことは間違いなく静の負担は軽くなると思うし、
あいつも喜ぶとは思う……、
が、静のことだ、受け入れるかはまた別だと思うぞ」
「え、それは……?」
「お前の手間をかけさせる、ということを嫌うというかな……」
「あ……、そ……れは………」
どうやら乃亜も多少思い当たらないでもないらしい。
明るい笑顔が急激にしぼんでいく。気の毒に思えてきた。
「まぁ、さしあたり、先ほど言った片づけか。
あのあたりは静が出かけた後なんだろう?断りを入れずにやってみてはどうだ」
「え……っ、いえ、でも、さすがに……!」
「帰宅してから片づけないといけないものが、帰ってきたら終わっている。
これに文句をいうやつはいない。保証する」
「……そう、ですかね……」
「もし万が一、億が一、なにか言われたら、俺のせいにしていいからやってみろ」
「いえ、煉矢さんのせいにはさすがに……」
なにをそんな気にすることがあるのか。
煉矢はふっと笑い、もう間もなく到着する、
静と乃亜のマンションまで車を発進させた。
そして間もなく車は二人のマンション前に到着した。
乃亜はシートベルトを外し、こちらに改めて顔を向ける。
「煉矢さん、ありがとうございました。
……私、頑張ってみます」
「ああ。あの過保護を説き伏せるのは苦労するだろうが、
なにかあれば相談に乗るくらいする」
「ふふ、兄さんにそういうことが言えるの、煉矢さんとましろくらいです」
「まぁ、長年の付き合いだからな。
……ああ、乃亜」
「はい」
「連絡先を交換しておこう。静のは当然知ってるが、お前のは知らない」
「あ、はい。そうでしたね……ええと」
CORDアプリにそれぞれお互いを登録を済ませ、
そこで乃亜は車から降りて行った。
マンションのエントランスに入るところで、こちらに頭を下げる。
それを見送って、煉矢も自宅へ戻るべく車を走らせ始めた。
いくらかぶりに乃亜と話したが、彼女は本当に会うたびに様子が変わっていく気がする。
それは間違いなく、喜ばしい変化だ。
先ほどの様子も、きっと、ずっと言いたくても言えなかったのだ。
それを口に出せたと言うのは、大きな変化と言えるだろう。
車を走らせ続ける中、川沿いの交差点に出た。
長い川にかかった橋。下がってきた気温。
赤信号で止まり、窓枠に肘をついて、ふと懐かしい記憶がよみがえる。
決していい記憶ではない。
楽しかったわけでも、嬉しかったことでもない。
しかし決して忘れられない記憶。
どこかどんよりとした薄暗い空の下で、自分はひとり、そこにいた。
大人になりたいと、漠然と考えていた子供だった。
その漠然とした気持ちが、大きく変化したのは、すべてあの出来事があったから。
あのひどく寒い日の、出来事。
次回から2話、過去編です。
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