【風の行方編】78:xx17年11月26日
外はもうすっかり暗くなっている。
都心にあるホールとはいえ、繁華街や駅から離れていることもあり、
街灯から離れれば薄暗さの方が勝っていた。
会場の外には興奮冷めやらぬという様子の観客がゆっくりとした速度で駅の方へと歩いていく。
その中、会場横に併設されている公共スペースは、
この時間人も殆ど出入りしておらず、少し奥に入れば街灯もない。
一目を避けるように、煉矢に手を引かれ、乃亜はそんな場所の一角に連れてこられた。
「……煉矢さん?」
立ち止まった煉矢に、乃亜が静かに声をかける。
煉矢は振り返ると同時に、乃亜の手を引き強く抱き込んだ。
突然の抱擁だった。
乃亜はそれに大きく目を見開き、目を泳がせるがなにかを言う前に
煉矢の身体が僅かに震えていることに気付き、言葉を飲んだ。
「……乃亜、すまない」
「え……?」
「俺がこれからいう言葉は、お前の道をさえぎるものだ」
ぎゅっとさらに抱きしめられる腕に力がこもったように感じる。
乃亜は動けない。
そのかわり、視線だけ、煉矢の顔へと向けた。
「自分でも情けない。
自己嫌悪はもううんざりするほどした。
だがどうしても抑えきれない」
「れ、煉矢さん、どう、したんですか?」
あまりにも彼らしくない。
それはここ最近もそうだったが、今日はそれが顕著だ。
戸惑いと、抱き締められていることに対する緊張で少し声が震えた。
「乃亜、俺はお前を愛してる」
息が止まる。
耳元で聞こえた、そのまっすぐな告白に
乃亜の心臓は思い切り跳ねた。
「狂いそうなほど、お前が欲しくてたまらない。
誰にも渡したくない。誰にも触らせたくない。
俺だけのものにしたい」
「れ、煉矢、さ……」
その言葉の熱が抱きしめられる強さと重なり、
呼吸さえままならなくなってくる。
乃亜を抱きしめる腕の力は弱まることはなく、
むしろ、自分の腕の中に閉じ込めるように、強さを増すばかりだった。
少し痛いほどの力だった。
しかし乃亜はそれから逃れられない。
愛の言葉はあまりに深く、乃亜の心も思考も焼いていたからだ。
「お前のヴァイオリンが人々に認められ、評価され、
お前が輝くことを望んでいた。それは確かだった。
だがお前は俺の想像以上に、大きく羽ばたこうとしている。
それは素晴らしいことだと分かっているし、俺自身も、誇らしさすらある」
乃亜がヴァイオリンを手にし、それをもって、その力で何かをなそうとした。
しかし当時、乃亜は自分の願い、望み、それをかなえようとすることに恐怖を覚えていた。
すべては過去のトラウマに起因していた。
それからどうしても逃れられないでいた乃亜に対して、
背中をそっと押したのは煉矢だった。
乃亜が過去の呪縛から逃れられるように、
もう過去のことだと、今はもう望んでいいと思えるようになったきっかけはそうだった。
それだけではない。
乃亜が大きく変わるきっかけとなったアメリカでの出来事。
煉矢の誘いであるそれがなかったら、
間違いなく今の乃亜はなかった。
スランプの時も最後に掬い上げ、抜け出すきっかけとなったのは、煉矢の言葉だった。
今こうして、輝くばかりの成長を遂げたのは、煉矢がいてくれたからだ。
乃亜はそう確信している。
「だが、その結果、俺の手が届かないほどに、
高く飛んでいこうとしている。
……そのことが、俺にはどうしても耐えられない」
「……」
「俺はこんなにも身勝手で、
お前の輝くような未来の足かせにすらなるかもしれない。
醜く、利己的で、愚かが過ぎると自分でもわかってる。
……それでも、お前を手放せない。誰にも、渡さない」
心の中にとどめようとしていた想いが決壊した。
こんな悍ましいほどの独占欲が自分にあるなんて思わなかった。
けれど先のコンクールでの乃亜の快挙、
人々からの称賛、輝くステージでの姿、
トップヴァイオリニストからの惜しみない賛辞、
ウィーンへの招待、そしてニックからの手の甲へのキス。
それらすべてをこの目で見て、暴発した。
誰にも渡したくない、自分だけのものにしたいという思いが、
乃亜を優しく包み込み、少しだけ距離の残る関係、
ある意味で生ぬるい関係を維持しようとしていたそれを完全に覆いつくした。
結果、愛する人に醜悪な姿をさらしているのが今である。
何度も抑え込もうとした。何度も何度も。
だが、どうしても消せなかった。
ニックに言われたことを何度も反芻した。
トップヴァイオリニストの男の言葉も堪えた。
彼女は本当に世界へ行ってしまう気がした。
たとえ思いが通じ合い、確かな関係となったとしても、
手が届かなくなったら、彼女が自分に背を向けて、どこかへいってしまったら。
そう思うと、気が狂いそうだった。
どこか泣きそうな声になりながらも自分の身の内を赤裸々に語る煉矢に
乃亜は意を決したように静かに声をかけた。
「……煉矢さん」
痛いほどに抱きしめる彼の腕。
それを感じ取りながら乃亜は煉矢の痛々しいまでの告白を聞いていた。
ここまで煉矢を追い詰めていたのは自分のせいだと思った。
待っていてほしい、と告げた自分のせいだ。
少し震える彼がどう思っているのか分からない。
分からないから、怖い。
なら自分にできるのは、これだけだ。
「私は、あなたに、本当に数えきれないくらい、支えられて……助けられてきました。
一番初めは、あのとき、あのひどく寒い冬の日です。
恐怖に突き動かされて、施設から逃げ出して、
どこに行ったらいいか分からない、ただ逃げたあの時、
あなたが声をかけてくれた。
覚えていますか、あの時のこと。……赤いお兄ちゃん」
もうひどく懐かしい呼び方だ。
幼い頃、乃亜は煉矢をそう呼んでいた。
静と区別するように、もうひとりの兄のように、呼んでいた。
その言葉に煉矢の腕の力が少し弱くなった。
「……久しぶりに、聞いたな、その呼び方」
「そうですね、私も久しぶりです。
いつの間にか、私は、あなたをもう一人の兄だなんて、思えなくなっていましたから」
小さく乃亜は笑う。
本当に、いつからだろう。自分でもわからない。
「あなたはいつも、私を支えてくれた。
言葉で、態度で、兄さんのことも、ずっと。
……私はいつしか、あなたをひとりの男性として……意識、してました」
「……乃亜」
「あなたがアメリカに留学すると聞いて、胸が締め付けられた。
ましろに恋をしていると言われて、あなたへの思いを自覚して、
でもあなたは遠い場所にいて、泣きはらした夜もありました。
そんなあなたに、イベントに誘われて、私の人生は大きく変わりました」
緩くなった腕の中、乃亜は煉矢の顔を見上げる。
彼は苦し気に眉を寄せている。
そんな顔はしないでほしい。乃亜は苦く笑う。
「あなたと過ごしたあの日々は、私にとっては夢のようでした。
会いたくて仕方なかったあなたとずっと一緒に居られた。
私の疲れや、目に見えない不安を察して、連れ出してくれた。
そして大切な言葉をくれた。
あの時の言葉は私にとって今でも宝物です」
あのころは、自分に向けられるヴァイオリンへの評価が
どうしても自分のことのように感じられなくて、
信じられなくて、まるで自分ではない別人へ向けられたもののように感じていた。
それと同時に、ヴァイオリンを弾いていない自分が
本当に無価値のように感じられてしまっていたと思う。
けれどそんな感覚のズレを、煉矢が正してくれだのだ。
「……結果、お前を追い詰める原因にもなったがな」
「いいえ。私が、自分の殻に気付くきっかけだったんです。
そしてその殻を破かせてくれたのも、あなたです」
愛しい人が苦しんでいるのは、見ていたくない。
何度も何度も助けてくれた。
その苦しみを、自分ができることで、少しでも救えるのなら。
乃亜は煉矢の頬にそ、と手を添えた。
「私は、あなたの傍にいるために、ここまで来ました。
あなたが好きです、煉矢さん。
私は、あなたの傍に、いてもいいですか?」
その言葉は、たしかに、煉矢の心に光をともした。
まるで乃亜が煉矢の心の灯台になったように。
頬に添えられる乃亜の手に煉矢は自らのそれを重ね、
今まで暗い感情に支配され、
自己嫌悪に陥っていた自分が掬い上げられたと感じる。
「……お前の道を、阻むかもしれない」
「阻みません。あなたがいないと、私はどこへもいけません」
「!」
いまだに消えることのない深い独占欲を危惧して告げれば
それに乃亜は間髪入れずに否定をした。
その言葉は強く、微笑みにいつもの気弱さはない。
慈愛深く、けれど強い微笑みだった。
「私が遠いところに行けると思われているのなら、
それは……あなたがいるからです」
「……っ」
それ以上耐えようもなかった。
乃亜の言葉は自分のすべてを満たしてくれる。
言葉を紡ごうとする乃亜の唇を自分の唇でふさいだ。
衝動的なキスに乃亜は大きく目を見開く。
重なっている唇の感触にただただ、思考が追い付かない。
分かるのは、長く恋をしていた、愛していた人からキスをされているという事実だけ。
そのことに、全身がとろけそうな感覚に陥る。
乃亜は煉矢の背に腕を回し、目を閉じてそれを受け入れる。
やがてキスは離れ、それぞれ瞳を開けると
赤と青緑の瞳が、同じ熱の色を持って見つめ合っていた。
愛しい。互いに感じるのはそれだけだ。
「……乃亜、俺ももっとお前を支えられるように強くなる。
お前の翼が、行きたいところにいけるように。
その時、傍で手をとれるように」
「……煉矢さん……」
「煉矢でいい。乃亜、愛してる」
ああ、笑ってくれている。
乃亜はそれがただ嬉しかった。
自分の思いが彼に届いた。届けられた。
それによって笑ってくれている。
「大好きです、煉矢……」
乃亜は涙がにじむ瞳を輝かせ、愛しい人に、愛を紡ぐ。
二人はもう一度唇を重ね、長い名前のない関係に終止符をうち
新たな一歩を歩み始めることを感じていた。
物語開始して78話、ついにメインカップル成立。長かった…。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
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