【風の行方編】73:xx17年11月14日
学校からの帰路、乃亜はスマートフォンを電車の中で見ていた。
特に新着の通知はなく、CORDアプリは沈黙したままだ。
目を伏せ、車窓の向こうで流れていく景色を眺める。
少し曇った空は気持ちをも沈ませていくようで、
紅葉した木々の色が、一層、今の乃亜の懸念を深まらせていった。
___……煉矢さん……。
先週の日曜日、乃亜は静やましろ、煉矢の四人で、
全国大会向けのステージドレスを購入するため繁華街へ出かけた。
ドレスは無事に決まり、少しお茶でもして帰ろうかとなったとき、
予想だにしない友人との再会があった。
煉矢に誘われ出向いたアメリカのカルハイツ大学。
その日本をテーマにしたイベントの音楽ステージで、
共にセッションした三味線奏者であるニコラウスとの再会だった。
彼はとても素晴らしいアーティストだ。
日本人に馴染みのある三味線と言う楽器を、あまりにも鮮やかに弾きこなしていた。
今思い返しても彼の腕前は素晴らしいと心底思う。
それと同時に、練習中は気さくに話しかけてくれ、
リンディやリアムと共に楽しい時間を過ごさせてくれていたと思っている。
そんな彼は、三味線の師に誘われ、イベントステージに立つために日本に来たらしい。
かつての自分と似たような経緯での来日だが、
そのステージに一緒に出てほしいと熱烈に誘ってきた。
乃亜としてはニックとのセッションは楽しかったし、
今、あの時とは違う気持ちでまたセッションできるというのは興味深い。
しかし残念ながら今はコンクールの直前だ。
申し訳ないが他のことに目を向ける気にはならない。
そしてなにより戸惑ったのは、あの熱を帯びたような眼差しだ。
彼はこちらのヴァイオリンを高く評価してくれている。
ただそれだけのことだと分かっているが、それでもその眼差しには少し困る。
なにより、再会と同時に抱きしめられ、両手を握られたこと。
それが、乃亜の心にしこりを残していた。
それと同時に思い出すのは、ニックが立ち去り、四人となったあとの煉矢の様子だ。
普段からさほど口数が多いわけではないが、
それでも普段より一層言葉は少なく、
また、別れる時もあまりこちらを見なかった。
そして、今日まで連絡がない。
普段であれば、二、三日に一度はなにかしら連絡を取り合っていた。
他愛のない雑談やコンクールの練習のこと、そんなことをやりとりするだけだったが
それでも乃亜にとっては心躍る時間だった。
だが今はそれがない。
単に忙しいだけなのか、
それともなにか、理由があるのか。
乃亜にはその理由はどうしても、分からなかった。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
玄関を開けて帰宅を告げると、室内から静の声がした。
静は自室のドアを開け、こちらに顔を見せてくれた。
「おかえり、乃亜」
「兄さん、ただいま帰りました」
「だんだん寒くなってきたが、大丈夫か?」
「歩いていれば、さほど」
静は9月の半ばくらいから自宅にいることを増やしてくれていた。
修士論文の作成や準備で兄も忙しいはずだが、
夏に集中的にデータ解析や実験を行っていたこともあり、
今は殆ど家でも問題ないとのことだ。
それをそのまま信じていいのか少々不安ではあるが、
それに関しての押し問答は、もう秋口に飽きるほどしている。
家のことの殆どを任せてしまっていて心苦しいが
今はもう、乃亜は大人しく従うほかなかった。
「コンクール前に風邪をひかないようにな」
「はい、ありがとうございます」
心配してくれる兄に礼を言って、乃亜は自室へと向かった。
確かにここ最近ぐっと気温が下がってきた気がする。
風邪で満足な演奏ができないなどしたくはない。
乃亜は兄からの言葉をよくよく胸に刻む。
自室で着替えをして、鞄に入れたままのスマートフォンを充電器に差し込む。
画面にはやはり、新着のメッセージはない。
溜息を一つ吐き出した。
宿題を済ませるために机に教科書やノート、筆記用具を並べる中、
机の上に置いたままにしていた緑のチケットが目に入った。
『響鳴~SHAMISEN FUSION ~』
そう書かれたイベントタイトル。
日時は来週の日曜日、場所は都内某区にある区民ホールのようだった。
様々な楽器とのセッションというのは乃亜にとっても大変に興味深い。
正直見に行きたい気持ちは強かった。
ヴァイオリンの練習もしたいところだが、
あまり熱を入れすぎると昨年の二の舞になりかねないことは乃亜も自覚している。
一日中ずっと練習というのは、兄にも心配をかけることも分かっていた。
だからこそ、行こうと思えば行ける。
だが、一人で行けるかというと、それは少し気が引ける。
ニックのことは決して嫌いではないし、
むしろ友人としては好印象だ。
同じ音楽を愛する者として親しみを感じているし、
彼の演奏は素直に尊敬に値すると思っている。
しかし、彼の少しばかり過剰なスキンシップは、
乃亜自身、あまり気分がいいものではないのだ。
___好きな人以外に、あんな風に……されたく、ないもの……。
煉矢以外に、過剰に触られたくない。
ごく当然のその想いが、乃亜がイベント鑑賞に行くことを決めかねさせていた。
乃亜は机の前から離れ、スマートフォンに視線を向けた。
時刻は17:20頃。まだ煉矢は仕事中だろうか。
少し考えて、乃亜はCORDアプリを立ち上げ、メッセージを打ち始めた。
自身の中の制御しきれない感情を自覚して約十日近く経過していた。
それを自覚したその日はあまり眠ることができなかった。
しかしそれでも翌日から仕事だったのはありがたかった。
余計なことを考えず、ひたすらに仕事に集中することで意識を逸らすことができたからだ。
同僚たちはどこか鬼気迫る様子の煉矢に驚いていたが
煉矢自身はそのことを自覚していない。
就業中はそれでいいが、仕事を終え、帰路につき、自宅に戻ると
再び思考は自身の内側へと深まっていくのだから厄介だ。
それでも日が経過するに従い、自分の中でなんとか冷静にはなってきていた。
というよりも、諦念に近い。
打ち消すどころが、コントロールさえ難しい、彼女への深い欲。
自分の中にそんなものがあったことに驚くばかりだが、
もはやどうしようもないと諦める他ない。
自覚してすぐに彼女に連絡を取っては、余計なことを言うような気がして連絡を避けていた。
繊細な彼女に、こんな醜い自分をさらしたくはなかったからだ。
今日もまた仕事を終え、外で簡単に夕食を済ませて自宅へと帰宅した。
一日中ろくに休憩も取らず集中していたため疲労感がある。
鞄を置いてコートをかけ、ネクタイをほどく。
ふうと息を吐き出して鞄にしまったままのスマートフォンを取り出した。
仕事中から帰路に至るまで殆ど確認していない。
いつもであれば特に気にせず、さして減っていないバッテリーを充電するため
充電器に差すところだが、一件の新着メッセージが入っていた。
少し驚いてそれを開く。
まさかという思いで開ければ、案の定、乃亜からのメッセージだった。
『今度の日曜日のニックさんのイベントですが、
一緒に行ってくれませんか?』
そのメッセージは、煉矢の心をまたかき乱した。
乃亜からの誘いに対する喜びは間違いなくある。
自分を頼りにしていることへの優越感や
なにより、彼女の傍にいたいという欲求が満たされていく。
だが今の自分は、それだけで終わってくれない。
行き先がニックの参加するイベントだということに対して、
またあの、自己嫌悪すら抱く感情が湧き上がってきたのだ。
何故そこなのだという不満、
ニックの元に行くということへの嫉妬、
終いには、乃亜への疑念さえ感じる始末だ。
本当に、嫌気がさすほどの身勝手さである。
煉矢はくしゃりと前髪を握りしめた。
それでも、行かない、という選択肢はない。
彼女の元にいたい、という気持ちがどうしても上回る。
『構わない。一緒に行こう』
返信すれば、ややあって既読がついた。
時刻は22:00を過ぎた頃だ。
『ありがとうございます。
開始が15:00かららしいので、最寄り駅に14:30でいいですか?
すぐ近くみたいなので』
『ああ、大丈夫だ。改札を出たところでいいか』
『はい。楽しみにしています』
その楽しみというのは、どういった思いでの楽しみなのだろうか。
そんな邪推をしてしまうことがもはや腹立たしい。
普段であれば心躍る乃亜とのメッセージのやりとりのはずなのに
どうにも心の葛藤が消えない。
沸き起こるその想いが、普段なら書かない一文を、
煉矢に書き起こさせ、送信させていた。
乃亜はほっと息を吐いた。
少し間が空いたが、いつも通りにメッセージのやり取りが出来た。
ルームウェアに着替え、ベッドに腰かけながら
CORDアプリの文面を見つめ、笑みを浮かべる。
ニックは煉矢にとっても友人であるはずだし、
あの過剰なスキンシップを考えると、煉矢に傍にいて欲しいと思ったのだ。
ただもし、自分がなにか粗相をしてしまって、
彼が付き合い方を考えているのではという思いも消せなかった。
だからいつも通りに返信してくれたことに、心から安心感を覚えたのだ。
スケジュールアプリに予定を登録していると
追加のメッセージの通知が入った。
いつもであれば待ち合わせの予定を決めて終いになることが多いため
乃亜は小首をかしげてCORDを開きなおした。
『もしニックと会うようなら、一人で会うな』
そのメッセージに、乃亜はしばし固まった。
ジワジワと頬が熱くなってくる。
こんな言葉を言われたのは初めてだった。
まさか、という思いが湧き上がる。
思い込みか、自意識過剰か。
そうも思うけど、先日の煉矢の様子と合わせて考え、
いよいよ乃亜は耐えきれず、口元に手をあてがった。
___嫉妬……してくれてるの?
だとすれば喜んでいいわけがない。
自分が故意にしたことではないとはいえ、彼の気分を害したのだ。
けれどどうしても湧き上がる思いが消せず、
乃亜は必死に緩みそうになる口元を引き締めた。
まるで本当に、特別な関係になれたようで、嬉しかったからだ。
しかしそのメッセージに、乃亜はどう返信をしていいか分からず、
ついに返信をすることは出来なかった。
乃亜と煉矢がCORDにてメッセージのやりとりをしている頃。
ましろもまた、静とCORDで連絡をとりあっていた。
今は受験勉強の合間での休憩だ。
机の上にはいくつかの参考書が重なり、手元のノートには計算式がびっしりと書かれていた。
先ほど持ってきたホットレモンの入ったカップが湯気をたて、
勉強に疲れた身体を癒すように、甘酸っぱい香りを漂わせている。
静もまた、夜は自身の修士論文の制作にとりかかっており、
互いに時間を決めてのメッセージのやり取りは良い休憩になっていた。
『そういえば、こないだもらったチケット、行くか?』
静が言っているのは先日嵐のようにやってきて、
特定の人物に嵐を巻き起こして去っていったアメリカ人の彼から貰ったものだ。
ましろは少し考え、返信を打った。
『ちょっと余裕ないかな。
乃亜のコンサートに行きたいし、別の日は勉強に集中しなきゃ』
『まぁそうだろうな。俺も正直余裕はあまりない。折角もらったところ悪いが』
『乃亜と煉矢は行くのかな』
『さっき、共有してるスケジュールアプリに登録されていたから
乃亜は行くようだぞ。
煉矢も誘っているんじゃないか』
それを見て、ましろは少し眉を寄せる。
あの時の煉矢の様子は忘れていない。
『なら私たちはいいんじゃないかな』
『そうだな』
その後もしばらくメッセージをやり取りして休憩時間が終わった。
ましろはスマートフォンを机の脇に片した。
だがシャープペンシルを持つ手はなかなか動かない。
先日の煉矢と、乃亜、そしてニックの様子を思い返す。
ましろはかつて煉矢に、乃亜にとっての灯台になってほしいと告げた。
乃亜が煉矢に恋愛感情を抱いていることは知っていたし、
当時煉矢とはまだ正式に面識はなかったけれど、
それでも乃亜から聞く話からして、決して乃亜を蔑ろにしているようには見えなかった。
乃亜のことをあたたかく、優しく導く、そんな人だと思っていた。
そして直接知り合ってからもその印象は変わっていない。
___あなたは、乃亜の灯台のままで終わる気?
おそらく、そうはならない。
あの時の煉矢の様子はそんな柔らかなものではなかった。
もし煉矢の中に、深い嫉妬や、独占欲のようなものが渦巻いているのだとしたら
きっと彼の心はそれこそ、大嵐のようなありさまだ。
灯台であった彼が、今度は巨大な嵐のただなかにいる。
そんな暗い嵐の中、導けるのは、ただ一人だ。
「ねぇ、乃亜。
今度は、乃亜が灯台になる番かもしれないよ」
ましろは独り言ちて、ちいさく笑みを浮かべた。
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