【風の行方編】70:xx17年10月29日
思い返せばかなり慌ただしい日々だった。
10月に入り、まず最初に差し迫ってきたのは中間テストだった。
乃亜は今年も引き続き、特待生としての成績を維持するため学業にも
注力していかなければならない。
1年生であったときよりも格段に難易度は上がったし、英語に至っては実技もある。
英語については問題ないが乃亜にとって難易度が高いのは理数系の教科であった。
兄が物理学者としての道を進んでいるというのに、自分にはその才能がわずかもないらしく、
数学や基礎内容の理科系科目についてはかなり苦しい。
2年になり文理選択として文系を選んでいるものの、
カリキュラムでは理科系基礎科目は必須となっており、泣く泣く物理基礎を選んで半年。
試験勉強では兄に教えてもらいながらなんとか及第点には収まっている。
そうして迎えた中間テストだが、なんとかクリアし、
翌週張り出された上位成績者一覧では学年4位だった。
ほっとしたのもつかの間、今度は修学旅行が翌週に迫っていた。
通常の授業もあるが、一部の授業がなくなり、
修学旅行先となる長崎や熊本、福岡について、グループごとにテーマを設けての
グループワークの時間が設けられた。
その時間ではテーマに沿った調査を行い、
また、修学旅行先で実際に取材するための質問や訪問先などの選定を行う。
それをもとに現地で行動することになるのである。
乃亜の参加しているグループでは長崎のキリシタンの歴史についてがテーマと定まり、
そこからは授業のグループワークだけでなく、
放課後に図書館へ行ったり、インターネットで調べたりと時間をかなりかけることになった。
それ自体はとても有意義で、友人たちとも話しながらの時間は楽しかった。
だが内心では、徐々に迫って来るヴァイオリンコンクールの練習時間が取れず正直焦った。
どうしても練習時間を確保したくて、日をまたいだ時間まで練習してしまったときもあった。
(尚、気付いた兄にしっかりとお叱りを受けた)
真面目に修学旅行先にヴァイオリンを持っていきたいとも思ってしまった。
とはいえそんなことは無理だと承知しているのだが。
そして迎えた修学旅行はとても楽しかった。
友人たちと過ごす時間も楽しいものだったが、それ以上に、
見知らぬ土地に訪問するということ自体、乃亜にとっては大きな糧になった。
なにか大きく、心が広がった心地がしたのだ。
歴史ある様々だけではない。
そこに住む人々、街の喧騒や明かり、営み、あらゆるものが
乃亜の感性を大きく広く押し上げていた。
そして修学旅行の日程を最初に聞いたときから、密かに楽しみにしていたのは
最終日に設けられたオーケストラの生公演だった。
複数の高校を招待してのその特別公演に、乃亜は内心興奮しっぱなしだった。
本格的なコンサートホールでの公演を聞いたのは2回目だ。
格式高い伝統的なクラシックコンサートは、
修学旅行中に感じ広がった乃亜の感性に、さらに大きな刺激を与えた。
そうして修学旅行から帰ったのは、10/21。
ヴァイオリンコンクール、ブロック本選の一週間前である。
今日くらいは休んだらという兄の言葉を押し切って当然ヴァイオリン教室には行った。
なにせ本当に時間も余裕もないのである。
なにより、旅行で感じた様々をヴァイオリンにも結び付けたくて仕方なかった。
どうやらそれは間違いではなかったらしい。
水野は乃亜の演奏を聴いて、
間が空いていたとは思えない、と驚くほど、演奏の仕上がりに目をむいた。
そして迎えた。
ユースクラシックコンクール、ブロック本選大会当日。
場所は奇しくも、懐かしいあの場所だった。
静と共に訪れたあの場所。
だがあの時と全く状況は異なっている。
以前、訪れた時は自分はあくまで観客の一人だった。
音楽に対する気持ちも、湧き上がってくる感情がなにかも
理解しきれず、受け入れられず、翻弄されていたように思う。
まだ兄と暮らし始めて一年も経過していなかった時期だ。
一人で立つことにも不安があり、常に兄の傍から離れるのが怖かった。
それから、三年半以上が経過して今。
あの時と同じように静が運転する車に揺られている。
しかし、かつて自分が乗っていた助手席にはましろが座り、
自分は後部座席に、そしてその隣には煉矢がいる。
小さな鞄ひとつを持っていた手には、今はヴァイオリンケースを抱えていた。
「前にも行ったことあるんだっけ、今日の会場」
助手席に座るましろが、隣の静に尋ねた。
「ああ。もう三年以上前か。
別のコンクールの、ガラコンサートだったな」
「へぇ。なかなか、感慨深いね、乃亜も」
「そうですね……。あの時の自分が聞いたら眩暈を起こしそうです」
あの時、自分もあの場に立って、その先を見たいと思ったのだ。
けれどそれはあまりにも遠い世界だと思った。
自分には望むことさえ烏滸がましい、そう思った。
だからずっと奥底に押し込めてしまおうと考えていた。
けれど今は違う。
手を伸ばしていいと言ってもらえたからだ。
ちらと隣に座る煉矢を見る。
窓枠に肘をつき、頬杖をついていた彼は視線だけこちらに向け目元を細めた。
乃亜はそれに笑みを深くする。
その耳には、煉矢からもらったクリスタルガラスのイアリングが光る。
勝ち抜けるかはもちろん分からない。
けれど出来る限りをすると決めた。
___煉矢さんの、隣に立てる自分になりたい。
待っていてほしいと告げた。
待っていると言ってくれた。
このコンクールで、結果が出せたら、
ほんの少しは、彼の隣にいてもいいと、自分で思える気がしたからだ。
乃亜は視線を前に向ける。
間もなく到着する、かつて観客として訪れたその場所が見えてくる。
今度は出場者としてそこに立つ。
不安や緊張はあるけれど、なぜか、震えはなかった。
心地よいヴァイオリンの音色の響く会場内。
その一部にて、静やましろ、煉矢の三人は席についていた。
三人にとって、乃亜と深くかかわるまでは、クラシックは決して身近なものではなかった。
けれど今はそれぞれに耳にする機会が格段に増えたのは確かだ。
無論、歴史あるすべての曲を網羅できているわけもないが
それでもまったく知らないよりははるかに楽しめていると感じる。
ひとりの出場者の演奏が終わる。
三人も観客のひとりとして演奏者に拍手を送った。
間もなく乃亜の出番だ。
今月の冒頭、乃亜の予選結果が判明する日。
三人が集まったことを、乃亜はしきりに申し訳ないと言っていたし、大仰だと繰り返していた。
しかしましろが言ったように、去年の夏を思い起こせば
それは決して大げさなどではないのだ。
当時の乃亜はスランプをきっかけとして、
自身の思うようにヴァイオリンを弾くことができず深く悩んでいた。
しかも直前、煉矢に誘われたイベントでは
見たことがないほどに生き生きとヴァイオリンを奏でていた。
そこからの落差もあったのだろう。
乃亜はどん底まで落ち込んでいた。
だからこそ、今こうして乃亜が晴れやか様子でヴァイオリンを奏でていることは感慨深い。
昨年のコンクールでも予選には通ったが、
けがにより出ることがかなわなかった次のステージ。
それに、今度は万全の状態で出場しているのだから、尚のこと。
それを見に来ないという選択肢は彼らにはなく、
前回集まったときに早々にチケットの申し込みを決めた。
静が一括で購入することまで決まり、乃亜はさらに恐縮していたが
乃亜はそろそろ、自分たちがどれだけ思っているかを理解したほうが良いと、
全員がそれぞれ苦笑いを浮かべてたものだ。
「エントリー番号、18番。
東京地区、斉王乃亜さん」
三人はその名前にそれぞれ反応を示した。
静は椅子に座り直し、ましろは少し身を乗り出し、煉矢は組んだ両手に力を込めた。
ステージ上に、伴奏者を務める水野と共に乃亜が登場する。
おそらく着るのは最後になるだろう、ラベンダー色のドレスを着て
予選と同じようにハーフアップで髪をまとめている。
ただ違うのは、耳につけたクリスタルガラスのイアリングがあることだ。
会場の中で、煉矢はそれに気が付いた。
少し離れているがかろうじて肉眼で見える距離の席だったのは幸いだ。
ステージの照明に、そのイアリングはよく映える。
ましろが先日言っていた通り、煉矢が乃亜のコンクールを見るのは初めてだ。
アメリカのイベントステージとは違う、漂う緊張感。
その中で、乃亜は可憐なドレスを着て、それでもまっすぐにステージ立っている。
思わず、目を細め、笑みが深くなったのは仕方がない。
余りに眩しく、胸に宿った想いが刺激されたのだから。
「自由曲、マスネ:タイスの瞑想曲」
その曲は、去年のコンクールで、乃亜が表現力がないと酷評された結果、
演奏を諦めた一曲だった。
本来、技巧よりも表現力が優れている乃亜だったが、
昨年はそれがスランプにより失われ、別の技巧派の曲に変えることにしたのだった。
しかし今回、それを乃亜は選んだ。
煉矢にとって、コンクールの結果は正直二の次だ。
夏の旅行で知ったスランプの原因。彼女の深い悩みと不安。
それは解消されたのは間違いないが、
それでもこの目でしかとそれを確認したかった。
乃亜がどう言おうと、スランプに追い込んだのは自分の言葉だったのだから。
春先、彼女は言った。
" 私、コンクールで、きっと、成果を出して見せます "
" だから、もう少しだけ……時間をもらっても、いいですか? "
あまりにも美しい、気高い顔立ちで。
いくらでも待つと決めた。彼女が自分の心に、ヴァイオリンに、自信を持てるようになるまで。
このコンクールで望んだ結果が出なくとも、いくらでも。
ただ願い祈るのは、乃亜が思うように、ヴァイオリンを奏でられること。
ただそれだけだ。
煉矢がそう祈りながら見つめる先、
乃亜は小さく息を吸い、ヴァイオリンを構えた。
【クライスラー:レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース Op.6】
雨だ。
観客たちはそう直感した。
それも昼間にも関わらず、深い暗雲によりもたらされる雨。
轟轟と降るものではなく延々と同じ一定のペースで降り注ぎ続ける長雨は
どこかのすたれた廃墟を濡らし続けている。
かつてそこで何があったのか知る由もない。
人工的に組まれた石の壁、苔むした石、それらの間から無造作に伸びた雑草。
必要以上の水を与えられた花は地面に横たわり、
暗い空の下で首を垂れて晴れ間を望む。
雨はやまない。
止まない雨はないなど言うが、止んだとき、そこに誰もいないのでは意味がない。
そこに希望はない。けれど絶望さえない。
ただあるのは濡れて黒くなった石の壁ばかり。
そこであった出来事を知るのは、角がとれ、ひびが入った石の残骸だけ。
雨は降り続けている。
地面にできた水たまりに波紋を絶えず起こしている。
けれど音が消え、波紋を起こす水たまりに、かつての記憶が広がっていく。
子供の笑顔、人々の営み、他愛ない世間話、人の往来、歌声、足音。
ごく当たりのまえの日常のような景色が、音のない雨の波紋にかき消されていく。
雨は止まない。
繰り返し映ってはかき消されていく。
まるでそれは当たり前などではない、容易く消えると諭すように。
かつてここにあった営みが、かつてここにあった平穏が、一瞬のうちに消えたように。
誰もいない廃墟の雨は止む。
かつての色鮮やかな景色を、最後の雨粒が波紋を起こし消して、
水たまりに最後に映ったのは、暗い空、ただそれだけだった。
雨の代わりに拍手が広がる。
どよめくような拍手だった。
ステージに立つ儚げな雰囲気の少女が、こんなにも深く、
なにか背筋が冷たくなるような演奏をしたのだから無理もない。
少女は伴奏者へ視線を向けた。
次の曲は自由曲、観客たちは今の演奏の余韻に浸りながらなにか緊張を抱き、
固唾をのんで始まるのを待った。
【マスネ:タイスの瞑想曲】
先ほどの曲が、重厚さと奇怪とさえ感じる技巧の曲であるならば
この曲は深い美しさと神秘性、高い表現力を求められる曲である。
先ほどの演奏からも分かる、こちらに語り掛けてくる響き。
それはこの曲、こういった曲こそ、彼女のヴァイオリニストとしての真髄なのだと感じさせた。
どこか心に陰鬱な思いさえ感じていた観客たちの心に、
そっと花が咲いたのだ。
先ほどの暗い、雨が降り続ける廃墟の中に、そっと光が差し込んでいく。
首を垂れ、雨に濡れ、しおれかけていた花の一輪。
それに差し込む光はあまりにも美しく慈悲深かった。
祈ることも、救いを求めることさえできなくなった小さな美しいもの。
ただ許しを請うばかりに首を垂れるそれに差し込む光。
光はそれを救う。
あたたかな一筋の光は、雨に濡れ、拭うことさえできない涙を乾かし、
手を差し伸べるように明るく照らしている。
花はその光に戸惑う。
けれどまっすぐに伸び続けた光は、ついには花を裏切ることなく差し込み続け、
やがて小さな花は再び空へと立ち上がっていく。
そこにあるのは途方もないほどの慈愛と、感謝の祈り。
花は咲き、風に揺れる。
風は花の愛を空へと伝えるように、緩やかに高く、吹きあがっていく。
その一陣の風は、昏い雲さえ散り散りに、雨に濡れた廃墟に、光が次々と差し込んだ。
全出場者の演奏が終わった。
乃亜は衣装のドレスを着たまま、控室にて待機を続けていた。
今は休憩時間。審査員が全国大会へ進む出場者の審査を行っているところだ。
今回このブロック本選に出場しているのは30名を越えると聞いている。
その中から全国大会に出場できるのはたった4名。
演奏を終えて、出来ることはもう祈ることだけだ。
自信などない。けれど出来ることなら。そういう祈りである。
かつての自分では望むことは出来なかった。けれど、今は。
耳に光るイアリングに意識が向く。
___あの人の想いに、応えたい……。
応えられる自分になりたいと望んでしまったのだ。
「出場者の皆さん、間もなく結果発表です!
ステージにお願いします!」
乃亜はスタッフに言葉に顔を上げ、
他の出場者と同様にスタッフに続き、部屋を後にした。
ステージ脇で待機していると、会場では、司会の人間が結果発表を伝えている。
ざわざわとしていた会場は静かになり、
司会者はさらに続けた。
「それでは出場者の皆さんの入場です。皆さま拍手でお迎えください」
波のような拍手に迎えられ、乃亜を含めた出場者たちはステージの上へと出ていく。
あらかじめ説明されていた通り、ステージの各所に小さな白いテープが張ってある。
それぞれそこに立つようにという指示だった。
出場者がステージに二列で並ぶ。
乃亜は右側の端、その前列だった。
観客たちが結果を期待して待っている様子が伝わって来る。
両手を身体の前で組み、緊張で震えそうになる身体を抑えつける。
司会者が本日の審査員を紹介し、そのうちの審査員長を務めたらしい人物が
本日の感想などを話しているのを聞く。
しかし緊張からか、申し訳ないが頭に入らない。
「……ありがとうございました。
それでは、審査結果の発表に移ります」
いよいよである。
乃亜は両手を組む手に力を込めた。
「この関東ブロック本選大会から全国大会へ進出できるのは、4名です。
名前を呼ばれた方は、ステージ中央までお越しください。
発表は、エントリー番号順に行います」
司会者はポケットにしまっていた一枚の用紙を開く。
かさかさという紙の擦れる音でさえ、緊張感を高めてくる。
「一人目……エントリー番号4番、結城 悠さん」
呼ばれた人がステージの中央に移動する。
男性だった。
「続きまして二人目、エントリー番号7番、朝倉 怜央さん」
近くで息を飲んだ声がした。
エントリー番号順なのだから、
彼の番号より下の人はもう望みはないということになるからだ。
乃亜の番号は18番。
残りが何人いるか分からない。
この番号は予選のときからの継続だからだ。
「続きまして三人目、エントリー番号11番、柊木 奏多さん」
残り一枠。
心臓が耳元にきているかのように煩い。
震えが収まらず、唇の裏を必死に噛み、それを抑え込もうとする。
やはり無理なのかもしれない。
そんな不安が爆発的に広がっていく。
「では、最後の一名です」
あの人の想いに応えたい。
応えられる自分になりたい。
乃亜は必死に祈り、願った。
「エントリー番号18番、斉王 乃亜さん」
「っ!」
息を飲んで顔を上げた。
硬直していた身体がしびれ、乃亜は聞き間違いかと思ったが、
間違いではない。他の人は動かない。
乃亜は泣きそうな気持を必死に押し殺しながら、ステージの前に立った。
「以上の四名の皆さん、おめでとうございます。
全国大会でも、本日以上の演奏を期待しています!
以上を持ちまして、全日本ユースクラシックコンクール、
ヴァイオリン部門高校生の部、関東ブロック本選大会を終了いたします。
ご来場の皆さん、誠にありがとうございました!」
拍手が大きく響いている。
その音、響きが聞こえるたび、自分の中にも大きな波が沸き立っていくようだ。
どきどきとした心臓の音、体が熱くなり、呼吸がおかしくなりそうだ。
通った。
湧き上がってくる感動、興奮、高揚感。
それを抱きながら見つめる会場に、静たちの姿を見つけた。
静、ましろ、煉矢。
三人も喜びに笑みを浮かべている。
かつてはこの状況に不安が恐ろしさのようなものがあった。
しかし今はそれはない。
あるのはただ、歓びだ。
乃亜はすべての感情が歓び一つに統一され、彼らに向けて、大きな笑顔で応えた。
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