【風の行方編】69:xx17年9月20日/10月1日
【9月20日】
緊張で弓を持つ手が震える。
乃亜は先ほどから何度目か分からない溜息を吐き出していた。
全日本ユースクラシックコンクール。
このコンクールは日本国籍を持つ小中高生を対象とし、
ヴァイオリン以外にもピアノをはじめとした各楽器ごとに部門が分けられている。
今日は日本各地をブロックごとに分けた予選会であり
ヴァイオリン部門の高校生の部が現在進行中となっている。
いくら前回とは心持ちが違うからと言って、乃亜自身の性格が大きく変わったわけではない。
もう間もなく自分の順番が来るのを、
遠くにかすかに聞こえるヴァイオリンの響きが実感させていた。
出場者控室、と書かれた広い会議室のような場所の一角でその時を待つ。
身に着けているのは去年と同じラベンダー色のミドル丈のドレス。
髪はハーフアップにし、リボンのついたバレッタでとどめていた。
「乃亜さん、大丈夫?」
共に控えていてくれる水野が声をかけてくれた。
乃亜は椅子に腰かけながら泣きそうな顔で水野を見上げると、彼女は苦笑いを浮かべた。
「ふふ、その様子は最初のコンクールと同じね」
「き、緊張して……それに、本当に私……」
「大丈夫。去年とも、最初のコンクールとも、何もかも違うんだもの」
「……でも、先生」
水野は乃亜の肩にそっと手をあてた。
その手のあたたかさに視線を落とし、もう一度水野を見る。
彼女は力強く微笑んでいる。
「緊張するのは仕方ないわ。
でも、あのころとは違う。
あなたは、大好きなヴァイオリンを弾きに来たの」
「あ……」
「大好きなヴァイオリンを、思い切り楽しみなさい」
その言葉は乃亜の心の奥、緊張の向こう側にある感情を揺らした。
昨年の夏の出来事、先日の薬師の施設での出来事。
それらが明確に思い出されていく。
「18番、斉王乃亜さん!いらっしゃいますか!」
「あ、は、はい!」
開かれたままの扉から声がかかる。
心臓が跳ねるままに立ち上がり、返事をすると、
名を呼んだスタッフらしい青年が頷いた。
「ステージ脇にお願いします!」
「はい……!」
ぽん、ともう一度肩に手を乗せられる。
水野はもう一度力強く笑いかけてくれた。
ステージへと歩いていく。
前の番号の出場者がヴァイオリンを奏でていく音が大きくなってくる。
歩きながら、昨年のコンクールを思い返していた。
あの時ここに立っていたのは自分ひとりだった。
観客席に兄はいなかった。
伴奏も見知らぬピアニストだった。
けれど今は観客席には予定を調整してくれた兄がいて、
伴奏には自ら名乗り出てくれた水野がいる。
あの時と同じドレスを着ている自分は、外見はほとんど変わっていない。
音に表現力がないと酷評された去年のコンクール。
確かに、あのころは、ただなにかを模倣しようとしていた気がする。
アメリカのイベントで演奏していた自分になろうとしていた。
あのステージでの経験はあまりにも色鮮やかで、鮮烈で、それに倣おうとしていた。
自然に出来ていた、胸の内から湧き上がったままに奏でていたものを
意図的にしようとしても駄目だった。
けれど当時はそれが分からなかった。
好きという感情も、楽しいという感情も、
そうと名をつけるのを避けていたのだと今ならわかる。
「エントリー番号18番、斉王乃亜さん」
番号と共に名前が呼ばれる。
ひとつ息を吐き出して乃亜はステージの上へと歩いていく。
まばらに人の埋まる観客席、その一角に静の姿を見つけた。
少し心配そうに、こちらを見ている。
真正面には審査員が並ぶ。
乃亜は深く礼をした。
好きと言う感情を知った。楽しいという感情を知った。
薬師が話していた。
音楽を使って自分の感情、心を表現している。
ヴァイオリンこそ、自分の心を思い切り表現できるものだ。
乃亜はヴァイオリンを構える。
まずは無伴奏。
この曲は、昨年のコンクールでも演奏した曲だ。
伴奏はなくとも、背中の向こうにいる水野の存在が頼もしい。
その顔に、もはや緊張は見られなかった。
ただ歌い上げよう。
感じたままに、歌いたいように、思い切り。
乃亜は笑みさえ浮かべ、弓を引く。
【無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調 1 アダージョ】
感じられるのはどこか切ない響き。
敬虔なる者による深い深い主への祈りの歌だ。
身動き一つしない祈りの前に、薔薇窓から光が差し込まれていく。
誰もいない空間、冷たい石の上に膝をつけ、誰も答えない祈りを捧げる。
しかし、どこからともなく流れる風がその者の頬を撫でる。
まるで見守っているように、まるでその祈りに耳を傾けるように、髪を揺らし、空気を流し、
あらゆる孤独を掬い上げるその風に、祈りを捧ぐ者の頬に涙が落ちる。
その涙は演奏を聴く誰かの頬のものであった。
まるでここではないどこかに引き寄せられたかのような錯覚を起こした者は、一人や二人ではない。
庶民的な会場のステージ、その上に立つ少女がヴァイオリンを一度下ろして礼をしている。
静まり返った会場の中、アナウンスが次の曲を告げる。
【H.ヴィエニャフスキ:スケルツォ・タランテラ Op.16】
銀髪を揺らし、少女は背後の伴奏者へ視線を向ける。
互いにうなずき合い、そして少女は再びヴァイオリンを構える。
先ほどのような静寂にある音とはまるで違う。
情熱的とさえ感じるその音楽の奥にあるのは密かな妖しさ。
愉快で軽快、誰もに笑顔を浮かばせるような賑わい、
それはまるでいつ街に来ていたか分からないサーカス。
道化師たちの派手な演目、人々は見たことのないような摩訶不思議な演出に酔いしれる。
時に激しく、時に優美に、時に妖しく、時に滑稽に、そして時に、不気味に。
ヴァイオリンの音が演者たちを駆り立て、
人々を奇怪な夢の世界へと誘っていく。
こちらにおいでを引き込まれる、その手を取りそうになる。
誰もがはっとしたところで演奏が終わった。
ぱち、ぱち、とまばらな拍手が加速的に広がっていく。
少女は演奏した内容とは比べ物にならないほど
気の弱そうな雰囲気を漂わせ、安堵をにじませる笑みで礼をした。
【10月1日】
ピンポーン、と軽快なインターホンの音が室内に響く。
ソファに座っていた静、ダイニングチェアに座っていた乃亜、それぞれが顔を上げる。
静が膝の上にのせていたパソコンローテーブルに戻し、乃亜を制して立ち上がる。
「はい」
ボタンを押して声をかける。
「あ、静。こんにちわ」
「ああ、今開ける」
ましろの声だった。
乃亜はそれに少し照れ臭さを覚え苦笑いを浮かべた。
「なんだか、申し訳ないような……」
「お前にしたらそうだろうが、俺がましろたちの立場でも同じことをするぞ」
「えぇ……」
困り顔を浮かべる乃亜に静はくすりと笑う。
本人からすれば、否、乃亜の性格からすればそう思うのも分からないでもない。
だが昨年のことを知っている側からすれば、気になるのも当然である。
やがて玄関のベルが鳴った。
静がリビングから玄関先へと向かうのを見送り
乃亜はテーブルの上に置いたスマートフォンで時刻を確認した。
14:30。
先日行われたコンクールのブロック予選。
その結果が本日15:00に発表されるのだ。
発表についてWebサイトにて公開され、出場者は各自割り当てられたIDによって
その合否を確認することになっていた。
そのことをましろに伝えたところ、気になるから家に行くと言い出した。
しかもだ。
「なんだ、煉矢も一緒か」
「下でちょうど会った」
「そういうこと」
玄関で聞こえた声にどきりとした。
どうせなら煉矢にも声をかけると言い出したのである。
さすがに大げさにしすぎだと言ったが、
ましろはむしろ呼ばない選択肢の方がない、と言い切った。
加えて、どんな結果になったとしても一緒にいて欲しいでしょ、と言われ、
もう乃亜は白旗を上げる他なかった。
静は二人を連れだってリビングに戻ってきた。
「やっほー、乃亜」
「ましろ、煉矢さん……」
「想像通り、なんともいえない顔をしてるな」
「今日はずっとこうだ」
「乃亜らしいねぇ」
三者三様に笑いを浮かべられ、乃亜は居心地が大変悪い。
「だって、その、大仰すぎませんか……?」
「去年の自分の状態を思い出して言ってくれる?」
「全くだ」
「う……」
それを言われるとなにも言えない。
去年の夏、静だけではない、ましろにも煉矢にも大変に心配をかけた自覚はある。
乃亜は言葉を詰まらせ、瞳を泳がすほかない。
「乃亜、ちょうどいい。少し休憩しよう」
「はい……」
静がキッチン側からカウンター越しに声をかける。
乃亜はテーブルの上に置いていた教科書やノートを片付ける。
出していたシャープペンなどもしまい、テーブルの端に寄せた。
「試験勉強か?」
正面の席に座った煉矢がそれらを見て声をかけてきた。
こうして会うのは久しぶりだった。
「あ、はい。中間テストが目前なので……」
「少し早くない?うちはまだ1週間あるけど」
ましろが隣に座りながら不思議そうに言う。
確かに時期としては早い。乃亜はその事情を話した。
「二年生だけ一週早いんです。修学旅行があるので」
「ああ、成程。うちは北海道だったけど、乃亜の学校は行き先どこなの?」
「九州です。長崎、熊本、福岡と回るようです」
「ミッション系の学校らしいといえばそうか」
「はい。なので、10月は少し慌ただしくて……」
「乃亜はそれに加えて、ブロック本選でしょ?練習もあるし、大変だ」
「まだ予選結果は出てませんけど……」
「いやあれは通過しただろ、絶対」
静がカウンターに紅茶を入れたカップを並べる。
乃亜は眉をへの字にしつつ、カウンターからそれらを取り煉矢やましろの前に並べていく。
「兄さんのそれは身内贔屓だからですよ……」
「お前な、何度も言ってるが客席の様子も伝えただろう……」
トレーにアップルパイを乗せた皿を並べ、静はキッチンからダイニングに移動してくる。
テーブルにそれらを並べながら、静は溜息をついた。
「水野先生も絶賛してたじゃないか」
「む……」
乃亜は反撃できず少し唇を尖らせている。
それにましろも煉矢も小さく笑う。
静も席につき、不満げな乃亜に苦笑いを浮かべた。
「実際どうだったの、乃亜の演奏」
「ああ、とてもよかったぞ。
俺は音楽は素人だし、専門的な部分はもちろん分からないが、
以前見たコンクールとは、いい意味でまったく別物だった。
神々しささえ感じた」
「だからそれは兄さんだからです……」
「お前もしつこいな。客席で泣いてる人がいたとも伝えたろう」
「まぁ、こいつの場合は多少フィルターがかかっていることは否めないと思うが」
「煉矢おい……」
「お前自身はどうだったんだ?手ごたえのようなものは」
乃亜は煉矢に問われ、カップを持ちあげようとしていた手を止める。
ちらと煉矢を見ると、二人で会っている時とは違うものの、
それでもまっすぐ、見てくれる眼差しは同じだ。
「……手ごたえ、かは分からないです。
でも……去年より、その前より、ずっと……ずっと、自由に弾けた、とは思います」
そう表現するのが正しいのかは分からない。
しかし乃亜にとってはそうだった。
演奏している時、ただ身体や心が解放されるような、そんな心地だったのを覚えている。
それを聞いてましろも紅茶を手に取った。
「じゃ、大丈夫だね」
「え?」
「そうだな。なにも心配なさそうだ」
「え、え?」
「だろう。落ちる気がしない」
「な、なんでそうなるんですか?」
疑問符をまき散らす乃亜に対して、3人はひとつも心配ない様子で紅茶を啜り、
ケーキへとフォークを刺した。
乃亜の演奏が素晴らしいことは、本人以外、まったく疑問がない。
乃亜が自分に自信がないことは3人はよく知っている。
そんな乃亜が、ネガティブな意見ではなく、自由に弾けた、と言ったのだから。
その時、乃亜のスマートフォンが振動を繰り返した。
時刻が15:00になったのだ。念のためアラームをセットしていた。
どきりとしてスマートフォンを手にとる。
三人もそれに目を向ける。
いくら大丈夫と言われても、実際に結果を見るまで心配や不安は消えない。
乃亜は緊張したまま、予選結果を掲載したWebサイトにアクセスする。
少し動きが重いが、多くの人がアクセスしているのだろうから仕方ないだろう。
指定されたIDとパスワードを入力する。
ブロック予選の結果、というバナーボタンをタップする。
白い画面に遷移し、読み込みが続き、やがて。
「……っ、と、通りました……!」
心底安堵したという声色で告げられた結果に三人にも笑顔が浮かぶ。
隣にいたましろが乃亜をぎゅっと抱きしめた。
「おめでとう、乃亜!やったね!」
「ありがとうございます、ましろ……!」
「おめでとう。次はブロック本選だな。次もきっと大丈夫だ」
「煉矢さん……、はい、頑張ります」
「言っただろう。何も心配ないと。よく頑張ったな、乃亜」
「兄さん、ありがとうございます」
三人にそれぞれ祝われ、気恥ずかしくも嬉しさが湧き上がってくる。
自由に弾けたあの感覚は間違っていなかった。
ずっと続いていた暗がりが、今度こそ完全に晴れ渡ったと感じる。
あれでいい。感じるまま、自分の思うように、歌い上げればいい。
ふと、静と話をしている煉矢に視線を向ける。
暗がりにいた自分に、最初の明かりを照らしてくれたのは、正面に座る煉矢の言葉だった。
そしてその灯りは、今でも自分を導いて、包み込んでくれている。
___ありがとう、煉矢さん……。
心の中で、深い感謝の言葉を告げた。
その横顔に、目ざとく気が付いた親友が、ひとつのひらめきを得た。
「ねぇ乃亜、こないだの予選ではどんな服着て演奏したの?」
「え、服、ですか?」
「そう。前に見た時は、ラベンダー色のドレスだったよね?」
「あ、はい。えと、そのドレスです、今回も」
「それさ、変えない?」
「はい?」
ましろの突拍子もない発言は今に始まったことじゃないが、
毎度それには虚を突かれる。
乃亜が首を傾げていると、静たちもまた、会話を止めて目を向けた。
「あのドレスも可愛かったけど、あれ、中3の時のでしょ?」
「そうですが……別段サイズは変わってないですし、まだ着れますから」
「サイズ変わってなくても、顔つきとは雰囲気は変わったでしょ。
もう少しロング丈のに変えてもよくない?」
「えっ」
「ああ、そういえばクラシックのコンサートでは女性はドレスか……。
……成程、ドレスか」
なにかが琴線に触れたのか、正面に座る煉矢は口元に手を当て、
乃亜をまじまじと見つめた。
にやりと内心笑ったのはましろである。
「煉矢は乃亜のコンクール、まだ見てないものね。
可愛いし綺麗だよ、ステージ上の乃亜」
「ほう?」
「ま、ましろ、あの」
「静もどう思う?乃亜の新しいドレス」
「大ありだな」
「兄さんちょっと……」
「今のもよく似合っていると思うが、確かに少し幼さというか……。
乃亜も次の誕生日で17になるわけだし、大人びたデザインのものでもいい気はする」
「でしょ?乃亜はどう思う?」
「え、ど、どうと、言われても……っ」
何故ゆえにそんな話になっているのだ。
別に今のドレスでなにも不満はないのだが、そこまで言われると
なにかおかしいのかと不安が出てくる。
「そ、その、変えること自体は、その、異論はないですけど……」
「よし、それじゃ、今度見に行こうね」
「しかし時期的に今からだと買いに行ける余裕があまりないぞ。
乃亜も修学旅行や練習があるだろう」
「え、買うって……」
「俺たちだけで行ってもな。仕方ない。新しいドレスは全国大会か」
「だな。なら11月の頭に行ける」
「賛成。それで行こっか。買いにいく場所は」
「あの!買わないでいいです!レンタルもありますから私はそれで!」
着る本人を置いて盛り上がる三人に制止をかけるべく、思わず声を上げた。
何故買う前提で話が進んでいるのか分からない。
滅多に着ることのないドレスであるのに、価格はそれなりにする。
そんなもののために大金を使ってほしくはない。
そもそもレンタルで済ませることは決して珍しい話でもないと水野から聞いている。
そういったことを必死に説明して、購入から気を逸らせようとする。
が。
「何言ってるんだ。折角のお前の晴れ舞台だぞ。
自分の好きなものを着た方がいい。ドレスひとつ取っても妥協してどうする」
「最大限のパフォーマンスをするなら、身体に合ったものの方がいいだろう。
今回のコンクールはレベルも高いと聞いているぞ」
「滅多に着ないとか考えてるんだろうけど、
乃亜サイズ変わらないんでしょ。だったら今回限りじゃいなんだからいいじゃない」
三人それぞれの視点で綺麗にカウンターをたたきつけられた。
いずれの意見にも反論できる気がしない。
三人の言っていることはあまりにも尤もすぎた。
瞳をさ迷わせ、頬を赤くし、ややあって。
「……わ、かり、ました……」
もとよりわかってはいた。
この三人相手に、自分がかなうわけがないのである。
この3人に勝てる日は来るのか果たして。
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