【風の行方編】67:xx17年8月8日
燦燦と注がれる真夏の太陽の光。
毎日変わらず容赦のない暑さが続いている。
しかしその暑さをものともしないほどに、
九州地方のとある場所では大きな盛り上がりを見せていた。
「礼!」
審判の力強い声が響き渡る。
試合会場の左右それぞれには、赤の面紐をつけた選手、もう一方には白の面紐をつけた選手が
相手への敬意とともに闘志をもって深く礼をした。
赤の選手は対戦相手を知らない。
白の選手は昨年までは出場していなかった無名の選手だ。
事前に調べた話では、昨年までマネージャーをしていたとのこと。
そんな選手が、個人戦の準々決勝にまで上り詰めたというのだ。
どんな奇跡だと苦く笑った。
しかし相対するとよくわかる。
生半可な覚悟やただの運でここに立っているのではないということが。
面の合間から見える鋭い眼光は、まるで猛禽類のそれ。
暗い闇の中で、呼吸も、殺気も、闘志も、すべて、あまりにも静かに潜ませ、
獲物を狙い、着実に急所を突こうとしてくる。
「始め!」
審判の号令と共に、白の選手が動いた。
その動きはあまりにも流麗にて速い。
まるで水が流れるように自然であり、無駄がなく、見る者を欺く速度で間合いがつめられ、
試合開始の前から猛禽類の眼差しに囚われていた赤の選手は反応が僅かに遅れた。
パァン!という激しい音ともに、確かな一撃が面をとらえた。
「一本あり!」
審判の腕が迷いなく白の選手を示す。
会場がどよめくと同時に、近くで見ていた瑠璃紺の髪の青年がぐっとガッツポーズをした。
何が起きたか、赤の選手が理解したのは審判が一本を告げた時からだった。
あまりにも速い。あれが元マネージャー?意味が分からない。
戸惑いが消えないまま、元の位置へと戻る。
赤と白、それぞれが位置につく。
「始め!」
二本目の合図。
しかし今度は白の選手はすぐには動かない。
まるで機をうかがうように、わずかな動きのブレもなく、ただ息を殺してこちらの動きを見ている。
見ている。
見られている。
面の内側で、暑さからではない汗が、頬を伝う。
赤の選手が動く。しかしそれは簡単にいなされる。
隙を作るための攻めは容易く着実に防がれ、隙など一切見せない。
むしろならかからめとられているような悪寒を感じる。
そしてそれは正しかった。
意を決し飛び込もうとしたその瞬間だ。
白の選手はまるで空間を滑るようななめらかな動きで一気に間合いを詰めた。
「小手!」
白の選手の叫びは確実にそれを打ち付ける。
「一本あり!勝負あり!」
息を殺して眺めていた瑠璃紺の髪の青年が歓喜の声を上げた。
だがそれはすぐに近くにいた指導者にたしなめられる。
両選手はそれぞれ元の位置につき、深く礼を交わした。
コートの外へと歩く白の選手は、瑠璃紺の青年の元へと向かう。
「会場で騒ぐなよ、隼人」
「悪ぃ!でも大目に見ろって!」
面の向こうでくっと笑う。
会場の端、自分の荷物のあるその場所で小手を外し、自由になった手で面を外していく。
面を外してふぅと息を吐き出して隼人を見たその素顔は、
琥珀の瞳の輝く、あまりにも美しい顔だった。
汗のしたたる頬、清々しい表情、誇らしささえにじませる笑み。
隼人は込みあがる気持ちを、満面の笑みに乗せ、拳を彼女に対して突き出した。
「ギリギリだったけど、やっと帰ってきたな、ましろ!」
「ああ、待たせたな、隼人!」
ましろは突き出された拳に自分のそれをたたきつけた。
大病を患い剣道から離れて3年。
ましろはついに、正式に選手として復帰した。
高校で必ず再開するという願いは、最後の一年だけだったが
それでも確かにこうして叶った。
ましろはこの日、最初で最後のインターハイにおいて、個人戦三位の成績を残した。
『結果報告!三位!さすがに三年のブランクは大きかった。
悔しいけど、大学でリベンジかな。
忙しいのに、昨日連絡してくれてありがとう。
嬉しかったし、力になったよ。今度は私の番。
とはいっても、必要になるのは9月以降かな?
私も引退だし、今度、家に行くよ』
愛しい恋人からのメッセージに静はふっと笑う。
三位という結果は決して悪い結果ではなく、ましろも悔しさはあるだろうが
それなりに納得はしていることは文面からも分かった。
通常の期間に比べいくらも静かな大学カフェの一角。
ぽつぽつとしか席に人がいない中、テーブルに置かれた空の皿と、
グラスに汗をかいたアイスコーヒー。
カラン、と氷が小さく音をたてるそれをとり、ストローを咥える。
静は今年、修士課程の仕上げとして修士論文の作成に着手している。
自身の研究対象に対してこの二年の研究結果、
更に教授のプロジェクトへの参加で得た知見と発見、
それらに対して繰り返し実証実験を繰り返しデータの収集を行っていかなければならない。
本来であれば秋ごろまでかけてじっくりそれらに取り組み
解析・執筆へと進むのだろうが、静の場合そう悠長にしていられない事情があった。
9月から愛する妹が再びヴァイオリンコンクールに挑戦する。
それもあまりにも大きな才能を広げさせての挑戦だ。
今まで乃亜が挑戦したコンクールは二回。
初めての挑戦の際には本人は自身の実力を自覚していないまま、
戸惑いながらの挑戦だった。
そして二回目はスランプによる不調、その結果、過剰練習による故障として途中辞退で終わった。
そして今回。
スランプを経て、ヴァイオリンとの向き合い方が大きく変わった。
そんな妹は、2月にヴァイオリンを再開してから
毎週嬉々として教室に通い、自宅でも練習している。
そんな妹をサポートしてやりたい気持ちがどうしても強かった。
実際、自分が学会に初めて立った大学2年の時から彼女は家のことを手伝うようになった。
それによって自分がどれだけ助かったかしれない。
今思い返すと確かにやりすぎたったと反省しないでもないが、
当時の自分にとって、妹は圧倒的に守るべき者だったのだから仕方がない。
家事が当番制になったあとも、どうしても手が回らないことが多かったのは自分の方だ。
それをなにも苦ではないという様子で当番を代わり
当番でないときも手伝いを申し出てくれたことなど数知れない。
そんな妹が、ついに本格的にコンクールに挑戦する。
今度こそ、妹のやりたいことを、思い切りやりたいようにして欲しい。
よって、9月から11月にかけてはなるべく自宅にいたいのである。
少なくとも自宅にいれば合間合間で家のことをこなすことが出来るからだ。
そのため8月は集中して実験やデータ収集を徹底し、
朝イチから研究室に顔を出して夜遅くになって帰るということを繰り返している。
いい加減休憩に行けと、たまにこうして教授に追い出されることもあるが。
壁際にかかった時計の時刻を見れば15:10になっていた。
休憩に行けと追い出されて30分ほど。
遅い昼食も取れたので研究室にそろそろ戻ることにする。
食べ終わった食器を返却台に戻して静はカフェを後にする。
研究室への道すがら、ふと、乃亜の様子を思い返した。
妹とは夏に入り、朝しか顔を合わせていないのだ。
長期休暇だというのに相変わらず寝坊とは無縁で朝の早い妹は
変わらず共に朝食を作って共に食べてくれる。
それはいい。
だが気になるのは自分が家にいない現在だ。
カフェの外に出ると容赦のない陽射しが降り注いできた。
室内の涼しさから一転して猛烈な暑さに顔をしかめる。
むわりとした湿度の高い夏の気候が、どうしても去年の夏を思い出させてくる。
静にとってそれはもはや軽いトラウマだ。
自分に気づかれないように練習を過剰に行い続けた結果、
ヴァイオリンを弾けないほどに腕を痛め、
苦痛に倒れて床に這いつくばる姿を見せた乃亜。
そしてヴァイオリンを禁止されたときの蒼白な顔。
朝起きた時、家から忽然と消えていた時の絶望。
思い出すだけで、今でも気持ちは陰鬱となるほどだ。
今はあのころと明らかに心境も異なるのは理解しているが
逆に、いい意味で夢中になりすぎて練習しすぎてやしないか。
毎朝それを確認するも、妹は苦笑いで大丈夫だと笑うものの、
かつてそれに気づかなかった静は自分の洞察力を信頼しきれない。
静は日陰で足を止め、しばし考えてスマートフォンを取り出した。
正直、少しばかり、気が乗らない。
が、頼れるのは彼しかいないのも事実である。
気が乗らないのは、未だ返済目途の立たない借りの数のせいではなく、
どうも妹が彼に対して、以前とは違ったなにかを抱いているような気がしているからだ。
とはいえ、妹が無茶をすることと比べれば呑み込める。
複雑な兄心を押し殺し、静はCORDを起動した。
『悪いが、時間がある時でいい。
乃亜がちゃんと休んでいるかみてやってくれないか。
お前も仕事があるだろうし、本当に出来る範囲でいい』
煉矢は日中に受信していた静からのメッセージを、会社帰りの電車の中で読んでいた。
タイミングがいいのか悪いのか。内心笑ってしまう。
スマートフォンに表示された時刻は18:20。
まだ外はいくらか明るく、流れていく街の景色を
ドアのガラスに反射する、ダークグレーのスーツを着た自分の姿越しに見送っていく。
入社して約4ヶ月。
まだまだ新人と呼べる立場の自分は先輩社員に同行しながら様々ことを学ぶ毎日だ。
研修で学んだとはいえ実際の業務はあまりにも多岐にわたっている。
知識も思考の広げ方もあらゆる意味で足りていない。
とはいえ環境としては決して悪くはないと考えているため不満はない。
今は愚直に着実に、力をつけるだけである。
行きの満員電車に比べればいくらも余裕のある電車に揺られる中、
肩に掛けた革製のビジネストートバックに片づける。
車内アナウンスが目的の駅が次だと告げたからだ。
電車が止まり下車していく波にのって自らも降りる。
ここしばらく帰りが遅く、そのため今日は定時で退社した。
もっとも向かう先は自宅ではなく、どちらかと言えば反対方向だ。
待ち合わせ場所は駅の改札前。
チェーン店のコーヒーショップ前で待ち合わせとしていたが、まだ彼女の姿はない。
18時半待ち合わせにしていたからそろそろ来るかと思ったが、
外に面したコーヒーショップのアクリル窓の向こう、
カウンター席にその姿を見つけた。
ノートと参考書らしきものを並べて、
シャープペンシルを動かしている様子は集中しきっており、
窓を挟んで正面にいるこちらに気づく様子はない。
小さく笑い、CORDアプリを立ち上げた。
『前』
手元に置いたスマートフォンが震える。
乃亜はそれに視線を向けて新着メッセージを確認すると、
今日これから会う予定にしている煉矢からだった。
まったく文脈が見えず、首をかしげ、メッセージに倣って前を見る。
カウンターテーブルの向こう、アクリル窓越しに、
軽く手を上げて笑う煉矢がいた。
思わず叫びそうになった。
スマートフォンに表示されている時刻は18:28。待ち合わせの2分前だった。
慌てて筆記用具をペンケースにしまい、参考書とノートと共に鞄に片づける。
荷物を肩に担ぎ、まだ1/3ほど残ったコーヒーのグラスを返却口に戻して、
少し小走りに店の外へと出た。
「すみません、煉矢さん……!」
「いや、今着いたところだし、大丈夫だ」
少しおかしそうに笑う彼に恥ずかしくなり、目を泳がせる。
今日は早く帰れるから夕食を一緒に、と声をかけてくれたのは煉矢だった。
そのメッセージを自宅で受け取った乃亜はヴァイオリンの練習中だったが中断。
すぐに支度をして家を出た。
とはいえ時間があまりそうであることも分かっていたので
コーヒーショップで宿題や予習を進めることにしていたのだが、
思ったよりも集中してしまっていたらしい。
「レストラン街でかまわないか?」
「はい」
「なら行こう」
ゆったりとしたノーカラーの白のフレアブラウスの裾を揺らし
促されるままに、乃亜は煉矢の横を歩きだした。
乃亜の地元駅から同じ路線の少し離れた駅。
普段ましろと出向いている駅とは別、より都心に近いその駅ビルは、
平日にも関わらず多くの人で賑わっていた。
時刻としては帰宅時間にかさなるともいえるときであるから仕方ないのかもしれない。
駅ビルの最上階にあるレストラン街には、
家族連れからカップル、学生らしき集団、仕事帰りの人々などが
希望する店を探すように歩いていた。
二人もそれに倣い、ややあって和食の店を選んで中に入った。
幸い二人ということもあり並ばずに入ることができた。
席について水やおしぼりと言ったものが並べられ、
メニューを確認して注文する料理を選ぶ。
乃亜は冷たい梅おろしうどん、煉矢は刺身定食をそれぞれ注文して一息つく。
「こうして会うのは先月ぶりか」
「そう、ですね。私も期末試験がありましたから」
春以降、二人は時折こうして時間を見繕い、会うようになっていた。
だがそれは簡単なことでもなかった。
煉矢はある程度自分で時間の調整が出来ていた大学生の時とは違い、
平日は特に時間がなかなか取れない。
乃亜は乃亜で、平日はともかく、土日についてはヴァイオリンの練習に注力していた。
コンクールで成果を出す、そう心に決めてから
以前よりも一層内容を濃く、集中して練習を続けるようになっていた。
結果、互いに時間を合わせるのは容易ではなく、
月に一度か二度程度しか会うことができないのが現実であった。
「あまり時間がとれなくてすまないな」
「いえ、煉矢さんこそ、無理はしないでください。
今日も、ご自宅と反対方向なのに、来ていただいて」
「俺がそうしたかったんだ。
帰っても仕事の勉強くらいしかすることはないしな。
お前と過ごせるならそちらを選ぶ」
頬杖をついて見つめてくる目が細められる。
とくんと小さく心音が鳴り、乃亜は頬を染め微笑んで返した。
「ところでヴァイオリンの方はどうだ。
土日、特に練習に時間を使っているんだろう?」
「あ、はい。
ひとしきり、暗譜では演奏できますが、
ただ、細かいところが自分では納得がいっていなくて……」
元々楽譜がなくても曲を聞いていれば弾くことは出来る。
乃亜にとってそれはさほど難しいことではなかった。
しかし原曲を深く聴けば聴くほど、自分の内から湧き上がる感情や思いまで
そのまま音色として奏でることができるかと言われればまた別だ。
「先生には褒めていただけるんですが、どうにも……」
「集中するのはいいが、去年のようにならないように気を付けてくれよ」
「それは、もちろん……」
初めてどこか煉矢の視線が訝しむようなものになった。
乃亜は慌てて弁解する。
「本当です。月に一度ですが、検診には行ってますし、
今でも整体には通ってます。自分なりにマッサージしたり……」
「そうは言うが、お前も静と同じで、集中したら周りが見えなくなるタイプだろう?」
「兄さんほどじゃないと思うんですけど……」
「俺から言わせればいい勝負だ」
どこか呆れた様子で言われ、乃亜は瞳をぐるりと回す。
実際そこまで無理をしているつもりはないし、
自分とて、昨年のことは本当に反省しているのだ。
同じことを繰り返したくないのは同じなのである。
「ああ、そうだ。乃亜、今度、日曜に家に行っていいか?」
「……えっ?」
泳いでいた瞳が止まり、煉矢を見る。
彼は呆れた様子を消し、先ほどと同じような柔らかな眼差しでこちらを見ている。
一瞬何を言われたか理解が追い付かず返事ができないでいる乃亜に
煉矢はふっと笑い続けた。
「静から、お前がちゃんと休んでいるかみてやってほしいと言われてな」
「に、兄さん……から、ですか……?」
「普段なら過保護だなと思うところだが、
去年のことを鑑みれば気持ちは分からないでもないし、
なにより、大腕を振ってお前と過ごせる」
「……っ」
頬に急速に熱がこもっていくのが分かる。
思わず目を逸らして視線をさ迷わせ、うるさいほどに心臓が高鳴っている。
膝の上で組む両手を握りしめることでそれに耐える。
しかし、追撃の手は緩まなかった。
「会いに行く」
告げられた言葉に顔を上げる。
煉矢の熱を帯びた眼差しは、煩いほどに高鳴る心臓にとどめを刺してくる。
吐息が漏れた唇を引き締め、逃げるように視線をさ迷わせるも、
正面の席から感じられる視線からは逃れられない。
「……待って、ます」
観念して絞り出した声はひどく小さくかすれていたが、
了承の意を示す言葉は、確かに煉矢に届いた。
夕食を終えて乃亜は煉矢と別れ、自宅へと帰宅した。
時刻は21:00近いが、兄からは今日も遅くなるから先に休むようにと連絡があったため
自宅はがらんとしていて誰もいない。
自室に戻り、ベッドに腰かけたところで、
乃亜は深く息を吐き出すと共にベッドに倒れ込んだ。
「……っ、ど、うしよう……」
両手で頬を顔を抑え込み、さきほどのことをおもいだす。
ここしばらく会えていなかったので煉矢に会えたのは本当に嬉しい。
けれど次はいつ会えるだろうかと思ってもいた。
そのなかで、日曜日に会いにきてくれることになってしまった。
日曜日はヴァイオリンの練習に当てている日だ。
だから初めから会えるなんて考えてもいなかった。
しかしそんな日に、まさか来てくれるなんて。
理由が自分がちゃんと休んでいるかどうかみててほしいという、
兄からの依頼と言う点はいささか腑に落ちないものの、
それでもなんであれ、来てくれるという。
それ自体はとてつもなく嬉しい。
ただ、春以降、煉矢からの言葉はひどく、甘さを帯びてきている気がするのは気のせいか。
その甘さは自分にとって、一つ一つが致命傷だ。
今でさえ、思い出すと心臓がばくばくと煩く、頬が熱い。
「……私の心臓、もつかな……」
はぁ、と吐き出した吐息はひどく熱かった。
新章です。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
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