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【凪編】53:xx16年8月20日

オルゴール館を出た四人は、湖近くにあるショッピングエリアに立ち寄った。

地元の名産品やお土産まで色々と並んでいたが、

今日の夕飯はコテージで作ろうという話をしていたためだ。


コテージの中には2口コンロのキッチンが用意されており、

食器や調理器具、基本的な調味料については管理棟から借りることができ、

米については1合単位で購入できるのも確認している。

折角そういった場所があるのだからと今朝方そういう話になった。

名産品の並びを見て、献立を考えるのは静が中心だ。

最初は乃亜と共に暮らすためということもあったが、

気付けば趣味の一つのようになっていたらしい。

それをましろが楽し気に、食べたいものを提案して購入を進め

四人は車でコテージへと帰宅していた。


帰宅した時刻は17:00を過ぎていた。

乃亜はましろと共にあてがわれている部屋へと戻った。

購入したのはガラスの美術館で購入した紫陽花を模したガラスのインテリアだ。

世話になっている水野への土産ものである。

きちんと梱包されているため壊れることはないと思うが

念のため、服と服の間にそれをはさんでしまうことにした。


そしてもう一つ。

黒い小さな手提げに入れられたそれに目が向く。


 「どうしたの?」

 「あ、いえ、なんでもないです」


黙り込み動かない自分を不思議に思ったのだろうましろだったが

特にそれ以上はなにも言わなかった。


 「乃亜はこのあとどうする?」

 「そうですね……」


ほんとうであれば兄と共に夕食づくりをしたい。

けれどこの腕ではそれは難しいことはよく理解していた。


 「少しこのまわりを散歩してきます」

 「ひとりで平気?」

 「はい、大丈夫です。そんなに遠くには行きませんから」


ましろは頷いて部屋を出て行った。

おそらく静の手伝いをするのだろう。

二人が自宅のキッチンで並んで料理をしていることは

乃亜ももう幾度も見ていたことだ。


少しだけ羨ましい気持ちを感じつつ、

乃亜は一人になった部屋で、黒い小さな手提げを引き寄せた。

白い箱に入れられたそれ。

取り出して白い箱を開ければ、

ビロードに白い羽根が描かれたオルゴールがあった。


   " 今度は、俺がお前に贈っても構わないか? "


きゅ、と胸が締め付けられる。

服に触れたとたん、その下にあるペンダントが揺れ、

小さな音を立てた。

乃亜は思わず、ペンダントのチェーンを強く握った。


あの時の眼差し、言葉は、どういう意味なのだろうか。

まっすぐ射抜くような、少し熱を帯びた赤い視線。

そこに、なにか意味はあるのだろうか。

そう思ったが、即座に否定し首を振る。

自分の思い上がりだ。気のせいだ。


 「……ただ、私が、好きだから……」


それに起因する思い込みだと、

乃亜は熱い吐息を吐き出し、それをもとの袋の中へと戻した。


部屋を出てリビングに戻ると、

すぐ近くのキッチンで静とましろが並んでいた。

二人の仲睦まじい様子を見るのも久しぶりな気がする。

乃亜はそれに微笑ましさを感じつつ、声をかけた。


 「私、少し散歩に行ってきます」

 「ああ、ましろに聞いてる。気をつけてな」

 「はい」


リビングにもダイニングにも煉矢の姿はない。

二階の部屋にいるのかもしれない。

乃亜は一度、そちらの方を見て、玄関へと向かい、外へ出た。


17:00を過ぎていくらも涼しくなってきた。

まだ空は明るい。

しかし太陽は確実に傾いており、夕焼けとはいかないまでも、

空の青は少し薄くなっているように思えた。

日中の高い位置からの陽射しとは異なり、

ブナの林は傾いた太陽の光を受けて、その影を斜めに描いている。


昨日兄と共に話した東屋が見える。

少し小高い丘になっているそこは草原が広がり、

深い山や他のコテージ、ブナの林、空だけがあった。


今見えている景色だけではない。

この旅行中に見て、聞いて、感じたことひとつひとつを思い返す。


流れる風、皆との穏やかな時間、虫の音、草木のさざめき、鳥の声、広大な景色、

青い空、青い山、ショッピング街の弾むような雰囲気、

色鮮やかな店の品々、街路樹の木漏れ日、ハーブの香り、

味わったことのない食事たち、花の色、香り、ガラスのきらめき、

水の流れる音、波紋、そしてオルゴールの音。


この旅行の中で、自分の心の中の陰鬱としていたものは殆ど晴れたように感じる。

乃亜は深く空気を吸いこみ、そしてすべて吐き出すように息を吐いた。


見つめる景色は美しい。

この旅で五感全部で感じた様々が、乃亜の心を確かに大きく開放した。

もう大丈夫。

乃亜は自然とそう思え、微笑んでいた。


もう少し歩いてから戻ろう。

そう思い踵を返した時だった。


首にかけていたペンダントの感触がないことに気付いた。


 「え……っ?!」


ペンダントは首にかけていた。

外れるわけがない、と思うが右手で首をなぞってもその感触はない。

乃亜はくるりと回って周囲を見渡し視線をさ迷わせるが

それらしいものは見当たらない。


今日の乃亜の服はVネックのフロントボタンのワンピースだ。

ウエスト周りはギャザーになっているが、締め付けはほぼない。

もしチェーンが切れて落ちたのなら、服の隙間から地面に落ちてもおかしくはない。


さっと血の気が引く。慌てて足元を確認し、

今来た道をゆっくりとたどる。

あのラリマーのペンダントは、乃亜にとって宝物以外の何物でもない。

草原の中を俯きながらゆっくりと眺めていく。

どうか見つかってほしい、泣きそうになりながら目を凝らした。


 「……あっ!」


見つけた。

草の上に無造作に落ちている水色の石にほっと安堵し、

拾うべき聊か慌てて右手を伸ばした。


 「いっ!」


ビキ、と右手がとたんにつった。

左手が使えない分右手を使っているが、

そもそも右手も決して無傷ではない。

思わず膝をついてその痛みに耐える。

指先が痙攣している。出来たらマッサージをしたい。

しかし左手は使えない。

乃亜はその痛みが引くのを待つしかなかった。


 「乃亜、どうした?」


ぎくりとして顔を上げた。

少し慌てた様子で駆け寄ってきたのは煉矢だった。

乃亜がしゃがみ込んでいることに驚いたのだろう、寄り添うように肩に触れた。


 「大丈夫か?」

 「は、はい……」


何があったと視線が問うている。

乃亜は目を逸らして右手を見た。


 「……その、右手が、つっただけ、です……」

 「だけ、じゃないだろう。手を」

 「あ……」


煉矢はそっと乃亜の右手をマッサージするようにもみほぐした。

温かく大きな手は、何度も自分を助けてくれた手だ。

解きほぐしてくれるのは手だけでなく、心もそう。


それに緊張とときめきを感じていると

ややあって手のつった感覚は収まってきた。


 「あの、もう、大丈夫です……」

 「他に痛むところはないか?」

 「はい……ありがとうこざいます」


手が離れ、ほっとしながらも少し残念さも感じてしまう。

乃亜は右手を引き、胸元に手を戻した。

そこで、そもそもこうなった理由に気付き、

まだ草の上に転がるペンダントに目を向けた。


 「……これは」


どきりとした。

顔を上げると煉矢の視線もそちらに向いていたからだ。

落として、失くしかけたことがバレた。

折角もらったものなのにと、罪悪感が胸をかき乱す。

けれど煉矢はそれを静かに取り上げて、どこか懐かしそうに目を細める。


 「……持ってきていたのか」

 「……はい。……あの、」


落としてしまったことを謝罪しようとするが

そのペンダントを見つめる眼差しが優しく、乃亜はそれに言葉を失くした。


 「チェーンが切れてるな」

 「あ、はい……ごめんなさい……」

 「謝ることなんかない。

  露天商から買ったものだし、付け替えればいいしな」

 「はい……」


差し出され、回復した右手にそれが乗せられる。

チャリ、と切れたチェーンが小さい音を立てた。


 「気に入ってくれているなら、何よりだ」

 「そ、それは……っ、……大切な、思い出の、ものですから……」


勢いあまって、あなたからもらった、という言葉が出そうになった。

それは喉から出ることはない。

握りしめるそれを胸に抱いた。


二人の間を流れる風。言葉が続かない。

煉矢は胸にペンダントを抱く乃亜を見つめ、

視線をそっとそらした。


乃亜から感じられる好意には気づいている。

アメリカでの日々にしても、この旅の道中でも。

そしてその想いは、同じ色のものを自分もまた抱いている。

しかし、それをこの場で口にするのは少し違うと考える。


乃亜の心はこの旅の中で随分癒えたのだろう。

しかし、そこに自分が入り込む余地があるのかは疑問だ。

自分のことやヴァイオリンのこと、

家族である静のこと、そういったことだけで手一杯だ。

下手に踏み入って、また乃亜の心を揺らしたくはなかった。

少なくとも、今も、自分に対する好意は消えていない。

それが分かっただけで十分だと煉矢は考えている。


一人自分の気持ちを整理し終え、煉矢は踵を返した。


 「そろそろコテージに戻るぞ」

 「……あのっ、煉矢さん……!」


後ろ姿は一歩踏み出すより先に止まる。

乃亜は自分の口からでた声が、思ったよりも大きかったことに戸惑いつつ、

今が最後の機会だと、自分に言い聞かせた。


 「連絡、くれたのに……

  あんな、勝手な、返事をして……ごめんなさい……!」


頭を下げて言い切った。

帰国の日を教えてくれて、食事にまで誘ってくれたのに

楽しみにしていると言ったのに、

連絡しないでと一方的につながりを絶った。


当時、どうしても煉矢と会うのが怖かった。

本質だと言ってくれた自分がいなくなった。

もう認めてくれない気がした。

あんな無様な自分を見せたくなかった。

この人にだけは、見られたくなかった。


けれどそれはすべて自分の都合だ。


 「ごめんなさい……!

  ひどいことを、言いました……あなたに、っ、ごめんなさい……」


頭を下げてごめんなさい、と繰り返す乃亜に、

煉矢は最初は少し驚いたが、どうして彼女がこの旅の最初の頃、

どこか自分と距離を空けようとしていたのか理解した。

怒っているとでも思ったのか、それとも幻滅されたとでも思ったのか。

いずれにしても、拒絶していたのではなく、

拒絶したことを気にしてのことだったと気付いた。


震えて頭を下げる乃亜に歩み寄り、その肩に触れた。


 「なにも気にしていない。

  ……むしろ、俺の方こそ、無遠慮だった」

 「そ、んなこと、ないです……!

  わたしが、一方的に、あなたを……、

  っあなたに、会うのが、怖かったんです……!」

 「怖い?」


そこまで口にするつもりはなかった。

しかし感じた肩のぬくもりと気遣うような声に、

奥底に込めていたものが溢れた。止まらなかった。


 「……あのイベントステージで、できていたのに、

  わたし、あんな風に、出来なくなって……

  どうしても、前みたいに、あなたが、見てくれていた、

  あのときのように、ヴァイオリンが弾けなくて……!

  そんな姿、見られたく、なくて……!」


溢れた感情は涙になって落ちていく。

今でも燻る心の奥にあるヴァイオリンに対する不安。

体の不調以上に、戻ったときへの恐怖さえ溢れた。


 「あなたは私に、ヴァイオリンを弾く姿も、私自身だと言ってくれた。

  あのステージの写真をみて、私、こんな風に弾いてたんだって気付いて……。

  だから、私、同じように、やろう、とした、のに、

  ……っでも、弾けない!

  あなたが笑って見てくれていたあの姿で、もう、わたし……!」

 「……そう、だったのか」


いくら体調が戻っても、またあの姿の自分には戻れない。

煉矢が笑って見ていてくれた姿には戻れない。


乃亜自身気づかないうちに、

自分のヴァイオリンに対しての深い悩みを口にしていた。

乃亜の心の根底にあったのは、

煉矢が笑ってみてくれていた自分でなくなったことへの恐怖ひとつだった。


初めて聞く乃亜のヴァイオリンに対する悩みと不安、恐怖。

それを聞いていた煉矢は愕然としていた。

自分が言った言葉こそが、乃亜のスランプのきっかけと作ったのではないか。

あの時、自分のヴァイオリンに対して

どれだけ周囲から称賛されても不安を抱き、常に緊張している様子だった乃亜。

父から言われた言葉もあり、

自分なりにそれに対して励ましのつもりで言葉をかけた。

それ自体は間違ってはいなかったと思っていた。

事実、そのあとのステージでは、乃亜は輝くようだった。


しかしそれでも、乃亜を真実追い込んだのは自分だと明確に気付いた。


 「……薬師先生と話して、わたし、自分が、音楽が好きって、気付いたんです。

  ヴァイオリンを弾くのも、歌うことも。

  でも、体が治って、また弾けるようになっても、

  あのときのステージのように、弾けるのか……分からないっ。

  ……それが、怖いんです……!」


乃亜の今の不安、恐怖、そして自分の発言が、乃亜をスランプに送り込んだ事実。

それをすべて察して、ここでようやく、

ましろが、乃亜の心の灯台になってあげて、といった意味を理解した。

彼女はここまで明確にすべてを把握していたわけではないだろう。

だがそれは間違いなかった。

確かにそうだ。自分にしか出来ない。

自分こそがならなければならない。

乃亜の思いをきいて、彼女の闇を払えるのかわからないが、

それでも出来るのは自分しかいない。


煉矢は涙をこぼす乃亜の身体を抱きしめた。

いつかのアメリカでの時のように。

華奢な背中と肩を自分の腕の中へと閉じ込める。


それに乃亜は目を見開いた。

頭を抱き込まれ、髪を撫でられ、寄せられる頬の感触。

乃亜の涙は完全に止まった。


 「……乃亜、あのときのステージの動画が、リアムから送られてきたんだ」

 「……リアムさん……から?」


もうどこか懐かしい響きだ。

乃亜はどきどきと音を立てる心臓を感じながら、

視線だけ煉矢の顔に向けた。


 「ああ。お前がリンディの代役を勤めたときからのな。

  さっき、見直していたんだが、ステージでのお前は、

  見たことがないほどに楽しそうに笑っていた。

  それはもう、心の底から、楽しそうに」


それは写真でもみている。

そして二度と、なることができない自分の姿だ。


 「……お前は、楽しかったんじゃないのか?」

 「え……」


続いた言葉に伏せた目が開かれる。


煉矢は少し身体を浮かせ、見開かれた乃亜の瞳を、

すぐ上からまっすぐ見つめる。

綺麗な青緑の目の端、涙のあとを親指で拭ってやった。


 「勇気を振り絞ってリンディの代役を名乗り出たあの曲のときも、

  ニックとのセッションも、

  そしてお前が皆を先導するように弾いていた、最後の曲も。

  お前は、心底楽しかったから、あんなステージができたんだろう?」

 「!」


楽しかったから、できた。

自分が楽しいと感じていたから。


多くの人にとっては、当たり前の話に違いない。

しかし乃亜にとってはそうではない。

当たり前ではないのだ。

乃亜にとって、好き、も、楽しい、も

いずれも明確にその名前で呼んでいいかもわからないことが多いのだ。

自分の中から湧き出てきたその感情こそ、

乃亜にとってはなかなか認識できないものだった。


乃亜は煉矢の言葉に、顔を伏せ、目を閉じて、

ステージでの記憶を思い返した。


 「……たの、しかったです」

 「ああ」


色鮮やかによみがえってくるあのステージの記憶。

短い時間だったが、言葉も国籍も越えて、

音楽を通して確かな友情を築けた人たちだった。

いっしょにステージに立った人も、そうでない人も、

裏方に徹していた人も、全員、本当に親しくなれた。


 「リンディさんの代わりでしたけど、

  一緒にステージにたった、エマさんたちはとても優しくて、心強くて……。

  エマさんとマリーさんの掛け合いはとても素敵で、

  私にも、笑って笑顔を向けてくれて……、

  楽しくなってきて、思わずちょっと、アドリブ入れてしまったんですよね。

  ニックさんとのセッションは、……ふふ、ニックさん、

  あんなやさしいのに、演奏だと、ちょっとムキになってたんです。

  挑発されたなって思ったら、私も、つい……」

 「音響役が苦虫をかみしめたような顔をしていたらしいな」

 「ええ、聞きました。ふふ、でも、それも、なんだか、楽しくて、

  私、あんなヴァイオリンを速弾きしたの、初めてでした。

  最後の曲は、まるで……まるで、奇跡みたいな、時間、でした……」


閉じた瞳から涙がにじむ。

それは止まらず、ポロポロと涙がこぼれた。

けれどそれは悲しみからではなかった。


 「弾いていたら、みんながわって期待と興奮で見ていて、

  お客さんたちも、歌い始めてくれて、

  私、嬉しくて、楽しくなってきて、もっと歌ってほしくなって」

 「ステージ上を歩いて、皆を引き上げていたな」

 「あんな風に、ヴァイオリンを弾きながら歩くなんて、初めてでした。

  お客さんたちだけじゃなくて、シンガーのエマさんたちも

  ステージにやってきて、みんなで大きく歌ってくれてたんです。

  私……あんなに、楽しくて、興奮して、

  笑って、ヴァイオリン弾いたの、本当に、はじめて、で……

  はじめて、弾き終わったあとも、満たされた心地になり、ました……」


楽しいから、楽しくヴァイオリンがひけた。

ああ、そういうことだったのか。

乃亜はようやく、長い闇に光が差し込んだことに、気づいた。


乃亜は閉じていた瞳を開けた。

ずっと暗い中にいたような気がする。

長い長い、暗いトンネルを抜け、ようやく、明るい場所に出られたような気がする。

瞼を上げたそこには、優しい、赤い瞳。

本当に、いつでも暗いところから、自分を引き上げてくれるのはこの人だ。


乃亜は涙でぬれた瞳で微笑んだ。


 「……私が感じている思いのまま、ヴァイオリンを弾けばいい……。

  ただ、それだけのこと、だったんですね……」


目を細めて笑ってくれている。

きっと、次にヴァイオリンを弾く時、またこんな風に笑ってくれる。

そう乃亜は確信さえ抱き、抱き締めてくれる煉矢の胸に

そっと身体を寄せた。

煉矢もまたそれを受け入れ、ただ慈しむように、

乃亜の身体をもう一度抱きしめた。



やがて少し空がいくらか夕暮れの色になりつつあることに気付いた。

二人はどこか離れがたく感じながらも離れ、

共にコテージに並んで歩いていく。


 「煉矢さん、イベントの時の動画、このあとみんなで見ませんか?」

 「ああ、いいな。実は散々、静に文句を言われていたんだ」

 「え?」


二人はコテージへ戻る道を歩きながら話す。

煉矢はうんざりした様子で言った。


 「お前の晴れ舞台を何故動画の一つにもおさめなかった、とな」

 「ああ……、あのときは、色々ありましたから」

 「そういうことだ。そのあたりの事情は、少々厄介だからな。話さずおきたい」

 「……そうですね」


最後のステージ自体は楽しかったのは間違いない。

しかしそうなったのには、事情があったのだ。

細かなことを話せば、リンディの監禁未遂やアヴァのことも話さなければならない。

それは二人にとってもあまり仔細を話したいことではなかった。


少し歩みが遅くなった乃亜の三歩ほど先を歩いた煉矢は振り返る。


 「……乃亜。ひとつ、訂正しておいてくれ」

 「はい?」

 「俺は、お前がヴァイオリンを弾いていたから笑って見ていたんじゃない」

 「え……?」

 「お前だから、だ」

 「………、えっ……」


たっぷり3秒その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

頬に熱が集まり、その意味を理解したと察した煉矢は

少し意地の悪い笑みを浮かべ背を向けた。


 「さあ、戻るぞ」

 「え、あ、……れ、煉矢、さん……?!」


残念ながら、それ以上の言葉の追求はできなかった。




コテージに戻るとすでに夕飯は出来上がりかけていた。

ダイニングテーブルに並んだ食事は先ほど購入したものを中心に並んだ。

近隣の野山で取ったキノコを使った炊き込みご飯、

地元ブランド鶏を使った鶏の照り焼き、

名産の野菜を土産物屋でかったドレッシングで和えたサラダ、

近くの湾で取れたカマスや金目鯛の干物、

湯葉と三つ葉の味噌汁。

久し振りに兄の手料理を心から楽しめ心底満足した。

四人の腹の中に綺麗にすべて収まったあと、

食後にアメリカでのイベントステージの動画を見た。


備え付けられているテレビとペアリングし、

大きな画面でソファやダイニングチェアに腰かけて四人で見る。

乃亜が最初ピアノを弾いていることに静たちは驚いていたが、

急遽ピアニストが出演できなくなったため、

代理として出たのだというと、静は特に驚いていた。


ニックとのセッションは皆興奮して見ていた。

三味線とヴァイオリンのセッションなどそうない。

乃亜自身、当時を思い出すととても楽しかったし、

ニックの様子も思い出して笑ってしまうくらいだ。


そして最後の曲。

少しずつ、少しずつ歌声が重なっていく。

乃亜は自分の姿を、写真ではなく、動画という形で見る。

ああ、楽しそうだな。

乃亜は客観的にもそう思った。


楽しかったから楽しく弾ける。

当たり前のことだった。

自分の思うように、変に感情を込めようとするのではない。

ただ感じるように弓を弾き、全身で歌えばいいだけの話だった。

そこに気付くまでに、随分と遠回りをしてしまった。


観客も含めた大合唱となっているシーンの傍ら、乃亜は煉矢をちらと見る。


向こうもそれに気づいたらしく視線が向き、少し目元が細められる。

その目を逸らすことはもうしない。

乃亜も微笑み返すことができた。

抱き締めてくれたぬくもりは忘れない。

先ほどの言葉だって忘れない。

今はもう、自分の彼への想いも、否定しないし、拒むこともしない。


これが私、動画で大きく歌い上げ、弓を弾ききる自分。

今の自分の顔は、思い切り笑うあの顔と、同じ顔をしている。


乃亜はようやく、自分に対して、これが私、と言える気がした。





煉矢と別れ、ましろを家まで送り、自宅に戻る頃には、

もう空はいくらも暗くなっていた。

蒸し暑さを感じる室内で、静と乃亜はエアコンにて空調を整えつつ、

旅行に持っていった荷物や着替えなどの片づけを二人でしてしまう。

左手が動かせない乃亜のフォローを静がする。

出掛けた時にはなかった光景であり、二人の表情は明るく楽し気だ。


片づけがひと段落し、時刻はもう18時を回っている。

静はキッチンに足を向けた。


 「乃亜、夕飯はなにか適当なものでいいか?

  さっき道の駅でいくらか買ったから、それを使って」


帰り際に寄り道した道の駅では、野菜などの地元特産の食材だけでなく、

温めたり焼いたりといった、少しだけ手を加えれば食べられるものも買っていた。


 「私も、手伝いたいです」


乃亜がカウンター越しにキッチンに立つ静に応える。

それに静ははっとして、乃亜の顔を見た。妹は微笑んでいる。


それは二人にとってあまりにも日常的なやりとりだ。

学校から帰り、家に静がいるときは、

乃亜はいつも夕食の支度の手伝いを名乗り出ていた。

その日常の光景に、ひどく懐かしさを感じて、静は微笑み返した。


 「……休んでいていいんだぞ?」


いつもと同じような返しをする。

乃亜も気づいたように、にこりと笑う。


 「私が、したいんです。……兄さんと、料理」


いつもと同じような言葉に、もう少し付け加えて返すと、

静はふっと小さく噴き出した。


 「左手に、負荷をかけない程度にな」

 「ふふ、はい!」


二人の家に、以前のような、否、

以前よりもより確かな、『家族』の日常が戻ってきた。



凪編終了。次回からまた新章です。


煉矢と乃亜は付き合ってません。もう互いに気持ちバレバレだけど。次回からこの二人にいよいよスポットライトがあたってまいります。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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