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【一葉編】4:xx13年5月19日

先月、ましろと初めて会ってから、その後もたびたびCORDアプリや電話でやりとりしていた。

彼女は第一印象からずっと、あたたかく寄り添ってくれる人だった。

自然な内容で話を続けてくれて、こちらが分からないような話題であっても、

乃亜がわかるように話をまとめてくれたり、興味を抱かせてくれるような言い方をしてくれたりと

とても気遣いと優しさに富んでいる人だと思った。

おかげで最初は少し緊張もあったが、徐々にそういったことは薄まっていき、

次第に緊張せず、自然と話が出来るようになっていた。


そんな中、中間テスト明けに、以前言っていた、ピクニックに行こうと誘ってくれた。

乃亜はそれを帰宅時間に受け取り、すぐに承諾した。

日付を決め、乃亜は胸がくすぐったくなって帰り道に笑みがこぼれていた。


その日の夕食。

並んだ今日の献立のメインは生春巻き。

春雨や細切りの胡瓜や人参、アボカドやエビ、もやしなど、たっぷりと野菜が入ったそれ。

またほかに蒸し鶏とトマトを胡麻ダレで和えたサラダや、卵と舞茸の中華スープなどがならぶ。

乃亜はスープを一口飲む。

風味豊かな舞茸の香と卵のほんのりとした甘みが鶏ガラスープによく合っている。

ちらと視線を正面にいる兄に向ける。

目の前に並んだ食事を全部ひとりで作るその手際は、いつ見ても鮮やかに思えた。

自分がこんな風に作れるとは思わないけれど、先月、ましろに背を押されたのだ。

乃亜はあの時肩に触れたましろの手の感触を思い出す。


 「あの、兄さん、ましろから、中間試験明けに、

  出かけようと、声をかけてもらったんですが……」

 「ん、ああ。こないだ来た時に話していたやつか」

 「はい、それで、……その……」

 「弁当だろう?」

 「あ、その、余計な、手間をかけるというのは、分かってるんです。

  兄さんがひとりで作った方が、速いでしょうし、私は、お料理は、したことない、ですから……」


どんどん声が小さくなっていっている気がする。

ましろに背を押されていながらも、なにか言い訳じみたような声になっていた。

しかし静はゆるく首を振る。その表情は微笑ましそうに見守る目だ。


 「誰だって最初はそんなものだ。簡単なものから始めればいい。

  それに、手間だなんて思ってないからな。

  教えてやるから、一緒にやってみよう」

 「はい……!ありがとうございます、兄さん」


それに心底安堵して、それと同時に喜びが湧き上がってきた。

少しは自分にもなにか出来ることが増える。

もし覚えられたら、兄の負荷を少しは減らすこともできるかもしれない。

頬を紅潮させ喜ぶ乃亜に、静は苦笑いを浮かべた。


 「たいしたことじゃない。そんな気にするな。

  ……弁当か、なにを入れたい?」

 「え、あ……いえ、どれが簡単かも、私には分からないので……」

 「ああ、そうか。よし、夕食が終わったら考えるか。

  さっさと食べてしまおう」

 「はい、ありがとうございます」


少しの申し訳なさを感じつつも、楽しさや喜びを胸に抱き乃亜は食事を進めた。




そして、当日。中間テストが終わったあとの日曜日、5月19日。

乃亜は肩掛けのショルダーバックと、

お弁当や飲み物、一人用のレジャーシートを手提げに入れて玄関先に立っていた。


 「行ってきます、兄さん」

 「ああ、気をつけてな。日差しもあるから、ちゃんと水分取るんだぞ」

 「わかりました」


普段学校に行くときよりも軽い足取りでドアを開けて出ていく。

場所は少し離れた駅前のバスから15分ほどの行ったところの公園だ。

途中待ち合わせは難しいため、公園の入り口で待ち合わせということになっている。

5月も半ばとなり、陽気は格段にあたたかい。

いくらか慣れた住宅街を歩く中、ふと薔薇の香りが漂ってきた。

思わず足を止める。

黄色や白の薔薇が咲く住宅のフェンスに自然と頬が緩む。

再び歩き出すが、普段はあまり気にならない道々、庭先の花や木々の緑に目が行く。

陽射しの中を歩いていると少し暑さを感じるが、

吹く風は涼しく心地よい。

爽やかな5月の陽気の中、乃亜はバスへと乗り込む。


バスに乗って15分。

停車するバス停の名前を2度、3度と確認する。

ほかに下車する人がいないようで、少し緊張しつつ降車ベルを鳴らす。

やがてバスが止まり、乃亜はバスから下車した。

到着した公園の入り口にはまだましろは来ていない。

彼女は電車で来ると言っていた。

スマートフォンで時刻を確認すると、待ち合わせの11時よりまだ少し早かった。

他の通行の邪魔にならないよう、入り口の端によってましろを待つ。


公園は大変に広い。

子供向けの遊具もあるようだが、その大半を占めるのは広場だった。

歩きやすいように、またはベビーカーなどがすすみやすいように

舗装された道が公園の中を幅広く仕切っていく。

道でいくつか区分けされているようで、ゆっくりと歩いて散歩するのも楽しそうだ。

公園の中はすでに何人もの人がいる。

自分たちと同じように、レジャーシートを広げている人もいれば

小さな子供を連れた家族ずれ、あるいは子供だけで遊びに来ている子らもいる。

子供と言っても年齢層は幅広い。小学生らしい子もいれば、

自分とさして歳に違いがないような子もいる。


 「乃亜ー」


声がかかり公園の方から駅の方への道に向けると、ましろが駆け寄ってきた。

黒髪を首の後ろで結んで、今日はキャップをかぶっていた。


 「ごめんね、待った?」

 「いえ、大丈夫です」

 「よかった。じゃあ、いい場所、探しに行こっか」

 「はい」


明るく笑う彼女につられ、こちらも朗らかに微笑む。

ましろは明るい日差しの中だと、一層眩しく見えた。


二人で並び、場所を探す。

レジャーシートは持ってきているが、できればベンチのほうがいい。

けれど木陰のようになっているベンチはすでに利用中だ。


 「やっぱりベンチは無理そうだね。

  レジャーシート持ってきた?」

 「はい。指示していただいて助かりました」

 「こういう時はあったほうが便利だしね。使わなくても、荷物になるでもないし」


あらかじめ持ってきた方がいいと言われていたのだ。

言われなければ、乃亜は思いつきもしなかっただろう。

舗装された少しやわらかさを感じる道を歩く中、よさそうな場所を見つけた。


 「少し斜めになってるけど、このあたりでも平気だと思う?」

 「たぶん……これくらいなら平気じゃないでしょうか……」

 「日陰のほうを優先したいよね」

 「そうですね、今日は陽射しも強いですし」

 「だね。よし、ここにしよう」


二人はそう決め、大きな木の下に場所を定めた。

広々とした原っぱの端に面したその場所は、木の下だからだろう、少し地面は傾いている。

しかし耐えられないほどのものではない。

ましろに続いて乃亜も荷物からレジャーシートを取り出す。

二人で並べてそれを敷き腰を掛けた。


 「ちょっと陽射しはあるけど、天気よくてよかったね」

 「はい。とても気持ちがいいです」

 「乃亜、日焼け止め、ちゃんと塗ってる?」

 「え、いえ……」

 「貸してあげるから、塗った方がいいよ。乃亜肌白いから、赤くなったら勿体ない」

 「いえ、でも……いいんですか?」

 「もちろん。私から言ったんだもの。

  でも、あとで帰りにドラックストア寄って行こう?

  これから紫外線キツくなるし、さすがの静も、そのあたりあまり気が回らないと思うから」


それに関しては乃亜自身も頭が回っていなかった。

乃亜は、基本的にあまり外出したこともなく、

そういった肌ケアのようなものも意識していない。

しかし、これからはそういったことも自分で気にしていかなければならないのだろう。

乃亜は荷物から日焼け止めクリームを取り出そうとしているましろに目を向けた。


 「あの、ましろ……」

 「なに?」

 「その……あとで、お店に行った時に……、お、教えてくれませんか……?」

 「日焼け止め?」

 「は、はい、……それと」

 「ああ、スキンケアとかそういうことかな?」

 「そ、そうです。私ひとりだと、なにを、どうしていいか……」

 「そうだよね、それこそ、静じゃちょっと分からないよね」

 「いえ、兄さんは私に色々してくださってるので……!

  ただ、私も、それくらいは……自分でできないと、いけないと、思うので……」

 「うん、分かってる。これから覚えていけばいいんだよ。

  じゃあドラックストア行った時、一緒に色々見てみよう」

 「はい……!」


ほっとし、どこか気持ちが晴れやかになった。

ましろが差し出してくれた日焼け止めクリームを手に取る。

一応長袖を着てはいるため、腕は薄くでよい。

顔にも軽く塗り、首の裏などにも塗った方がいいなど、

ましろに言われたとおりに塗っていく。


 「ていうか、なにもケアしてなくてその肌かぁ……」

 「え?」

 「いや、可愛いよぇ、乃亜は。実際、中学でもモテるでしょ?」

 「え、い、いえ、そんなことないですよ……?」

 「本当に?」


ましろは信じられないと言う様子で眉をひそめている。

しかし乃亜こそそれを受け入れられない。


 「学校では、クラスの女の子たちと一緒にいますし、

  男の子たちと話す機会はあまりありませんから。

  ……私自身も、どう、話したらいいか分からないので、

  他の子たちにお任せしてしまっていて……」

 「お任せ?」

 「いえ、なにか、こちらに声をかけてきてくれるときは、

  他の女の子たちが、お話してくれていて、私には気にしないでいいと……」

 「あ、あー……成程ねぇ……」

 「なんですか?」

 「いやあ、うん、わかる、乃亜、そういう感じするし、私でもそうするなぁ……」

 「え?」

 「ううん、たぶん本当に乃亜は気にしないでいいと思う」


乃亜は疑問符を頭上に浮かべながら首をかしげている。

そんな乃亜をよそに、ましろは正しく、乃亜の学校生活の状況を察していた。

乃亜は気づいていないが、おそらく大変にモテている。

それも男子以上に女子にだ。

それはましろも理解できる。

乃亜はどこか守りたくなる雰囲気がある。

線が細く儚げな様子で淑やか。自分から何かを主張することはないし、

話すことは少ないだろうが、それは逆に言えば聞き上手とも受け取られる。

受け答えは丁寧で朗らか、決して人を悪くいうことはない。

そうしておそらく、女子たちに男子からしっかり守られているのではなかろうか。

とはいえ自分も乃亜と同級であればそうしていた気がする。

不思議そうな顔をしている乃亜の髪を撫でた。


 「乃亜はできればずっとこのままでいてほしいなぁ」

 「はい?」

 「ううん、なんでも。

  じゃあ、乃亜がまともに話す男って静くらい?」

 「そう、ですね……あ、いえ、兄さんの友人というか、親友の、人もでしょうか……」

 「静の親友……、ああ、煉矢さんだっけ?」

 「あ、そうです。兄さんから聞いてますか?」

 「少しだけね。なんか借りが一向になくならないって」

 「ああ……。でも、煉矢さんはそういうつもりはないようで……。

  優しい人なんです。だから……私にも、色々お気遣いいただいていて……」


ここしばらくのことだけではない。

以前から、本当に色々と、兄を通して気遣ってもらっていると思う。

第一、自分にとって彼は、一生かけても返しきれないほどの恩義がある。

それだけでも本当に感謝しているのに、今でも時折、多忙な兄を助けてくれてるようだ。


 「私は詳しくは知らないけど、まぁ、その人や静に囲まれてたら、

  そりゃ同世代の男には興味持たないよなぁ」

 「それは、どういう……?」

 「ふふ、なんでもないよ。

  さて、じゃあそろそろ今日のメインイベントに入ろうか」


ましろが気を取り直したように言うので、乃亜も戸惑いつつも同意する。

それぞれ荷物の中から、今日のメインイベント、弁当を取り出した。


乃亜の弁当はごく小さい。

15センチほどの幅で、クリーム色の楕円形。

特に柄や模様などはないシンプルなサイズである。

ましろの弁当箱はそれよりも大きいサイズだったが、

更に三角形の可愛らしいポーチもついていた。


 「予想はしてたけど、乃亜のお弁当小さいねぇ。

  これだけ?」

 「はい。私にはこれで十分で……。ましろのそのポーチは、おにぎりですか?」

 「そう。家で剣道やってるでしょう?体が資本だし、しっかり食べたいから。

  じゃあ、開けよう。せーの、でね」

 「あ、はい」

 「せーの!」


それぞれ足の上に置いたお弁当の蓋を開ける。


乃亜の弁当はサイズも小さいこともあり品数は控えめだ。

一口サイズの丸いおにぎりが2つ。

たまごのふりかけがまぶされていいる。

5,6cmほどのちいさい鮭の切り身、ほうれん草、

アスパラのベーコン巻、隙間を埋めるようにブロッコリーが置かれていた。


ましろの弁当はそれより品数は多く、

ミートボールに卵焼き、ほうれん草とベーコン、それにコーンが入った炒め物、

小さい容器にはいったスパゲッティ、黒ゴマのかかったブロッコリーなどが並んでいた。


 「乃亜のお弁当かわいいじゃないか。

  自分で作ったんでしょ?」

 「は、はい。兄さんに、教えてもらいました……」

 「静は料理上手みたいだしねぇ。楽しかった?」

 「はい、とても……!」


本当に楽しかった。

何を入れるかを一緒に考えて、一緒に買い物にいき、

作り方を教えてもらいながら一緒に作った。

丁寧に教えてくれたおかげで大きな失敗もせず出来上がったときは感動さえした。

けれどそれと同時に、楽しい時間が終わったことに少しだけ寂しさも覚えた。

乃亜はそれを呑み込んで、ましろの弁当にも目を向けた。


 「ましろのお弁当、とても美味しそうですね」

 「ありがとう。スパゲッティだけ冷凍なんだけどね」

 「普段は自分で作ってるんですか?」

 「時々かな。だいたいは母さんが作ってくれてるけど、母さんが朝忙しい時とか」

 「そうなんですね……」


ほんの少し羨ましい気持ちになった。

忙しい時に、代わりに自分がやると言い出せることが。

のどの奥でどうしても止まる。乃亜はまぶたを少し落として自分の弁当を見る。


 「乃亜?」

 「あ、いえ、なんでもないです。食べましょうか」

 「……、そうだね、食べようか。

  ああ、そうだ、今日のミートボール美味しくできたんだ。よかったら乃亜、食べてみない?」

 「え、でも、そしたらましろの食べる分が減りますから……」

 「じゃあ、おかず、交換しようよ」

 「えっ?!」


思わずのけぞった。

ましろは冗談のつもりはないようで、にこりと笑っている。


 「でも、その、私初めて作ったので、美味しいかどうか……!」

 「じゃあ私が乃亜の手作りの最初だ。ラッキー。将来の乃亜の彼氏に自慢できる」

 「え、そ、え……?!」

 「ふふ、勿論乃亜がイヤなら無理強いはしないよ。

  でも、美味しくなくてもそれはそれ、今日の楽しい笑い話になるよ。

  一緒に「失敗したね」って笑っちゃえばいいんだよ」

 「し、失敗した、と、笑う……?」

 「そう。で、次は失敗しないからって、次の約束するの。

  美味しかったら、次はもっと美味しいの作るって、また約束するんだよ。

  どう?楽しそうでしょ?」


木漏れ日がきらきらとましろの琥珀色の瞳を照らしている。

本当に太陽みたいなひとだ。

乃亜は目を丸くし、大きく見開いた目からぽろぽろと鱗が落ちた気分だ。

心地よい五月の風が乃亜の髪を揺らす。

失敗して怒られないどころか、笑ってしまえばいいなんて。


ましろは乃亜の様子を見て笑みを深くし、改めて乃亜の弁当の中身を覗き込んだ。


 「乃亜のおかずも美味しそう。

  アスパラのベーコン巻きってシンプルだけど美味しいよね」

 「……っあ、えと……、こ、交換……しますか?」

 「ふふ、嬉しい。そうしよう」


たがいの弁当の蓋に、交換したおかずをそれぞれ乗せる。

乃亜はましろの作ったミートボールをそっと取り上げ、

いただきます、と小さくつぶやいてかじりつく。

一口サイズには少し大きい。

じゅわりと甘酸っぱいタレがとたん口の中にひろがり、目を大きくする。

ケチャップらしい甘酸っぱさは不思議と白いご飯が欲しくなる味わいだった。


 「美味しいです……!」

 「乃亜のアスパラ巻も美味しいよ、とっても!」


はっとして振り向けば、ましろの弁当の蓋に置いたそれはなくなっていた。

どうせなら食べたところを見たかったが、彼女は満足げだ。

乃亜はくすりと笑ってもう半分のミートボールも口にする。

美味しい。

兄のつくる食事とはまた違う味わい。なんだかとても嬉しい。

胸の奥の方があたたかい心地になる。


 「ねぇ、乃亜、美味しかったから……?」


ましろは楽し気に次の言葉を求めている。

乃亜は箸を持った左手を口元に当て、笑う。


 「次は、もっと、美味しいものを作ります」

 「ふふ、お互い、約束ね」

 「はい、約束です」


二人は揺れる木漏れ日の下、互いに顔を見合わせくすくすと笑う。

また次、同じように過ごせる。

今度もまた、兄に料理を教えてもらうのは心苦しいが、

それでも今は、また次の約束がただ嬉しかった。


二人はそのまま中学のことや日常のことなどを話しながら、

普段よりもゆっくりとしたペースで食事を終えた。

初めて作った弁当はそれなりに美味しくできたと思う、というのが乃亜の感想だ。

帰ったら静にこのことを伝えよう。

そして、次はもっと美味しく作りたいと伝えよう。

乃亜はその湧き上がる気持ちを抱きながら、弁当を片付けようと、

蓋を閉じた弁当にゴムのバンドを止めようとした。


 「うわああんっ!」


子供の泣き声が二人の耳に届いた。

走っていた子供の一人が転んだらしい。

男の子が火が付いたように泣きだしていた。


その声が聞こえた途端、身体が硬直した。

手に持っていたゴムバンドが、ぽとりと地面に落ちた。

まばたきができない、喉の奥で呼吸が止まる。

全身の血が凍り付いたような気さえした。

どく、どく、と耳に心臓が移動したのかと思うほどに鼓動がはっきりと聞こえる。


大丈夫、違う、問題ない、ただ子供が泣いているだけ。

おかしなことじゃない、悪いことじゃない、普通のことだ。

自分に強く強く言い聞かせる。


   "大丈夫か?"


今より少し高い少年の声を思い出す。すがるように。

大丈夫、だいじょうぶ。

そう繰り返す。押し込める。必死に。


 「大丈夫だよ」


背中に触れられた手と、すぐ横から確かに聞こえる声にはっとした。

ましろは穏やかな笑みを浮かべて、こちらの顔を見ていた。

その優しい琥珀の瞳に見つめられ、こわばっていた肩から力が抜けた。

ましろは目を細め、たっと子供の方へと駆けて行った。


 「転んじゃったの?大丈夫、ほら、いい子だねぇ」


ましろはその子に手を貸し立ち上がらせる。

突然現れた見知らぬ少女に、小さな子供はぽかんとして泣き止んでいた。


 「元気いっぱいでえらいねぇ。

  ほら、ママがあそこにいるよ。ひとりでいけるかな?」

 「……ま、ママっ!」


子供は焦ったように駆けてくる母親の元に、転んだとは思えない勢いで走り出していた。

母親は子供を抱きとめ、少し離れたところから、ましろに向かって頭を下げていた。

ましろは会釈だけしてそれに応える。

子供もこちらに元気よく手を振って、それに手を振って返している。


乃亜は唖然とその様子を見ていた。

ましろは再び自分の横に座る。

目の前で起きたことを整理しきれないでいると、

ましろは離れていった子供の方に目を向けたままだ。

その横顔はとてもやさしい。


 「転んでけがするのは、親としては心配するかもだけど。

  でも、元気いっぱいでいいよね。

  子供は泣くのが仕事って言うし、ね?」

 「!」


泣くのが仕事。泣いていい。

乃亜はその言葉が胸の奥にしみこんでいくのを感じる。


少し前まで過ごしていた場所で、大きな手が頭を撫でたときのことを思い出す。

もっと大きな声で泣いたっていいぞ、そうあたたかい笑みで言ってくれた。

今の日常がすすんでいくにつれ、どこか忘れかけていた気がする。


 「ええ、きっと、そう、ですね」


乃亜はなにか泣きそうな気持ちになりながら、ぐっとこらえて

ましろに向かって笑いかけていた。

その笑みは、今までましろが見た中で、一等、明るく輝いていた。


ましろは本作最強のセラピスト。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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