【凪編】45:xx16年7月6日~8月8日
【7月6日】
夏が本格化してきたせいか、駅にたどり着くまでの間にいくらも身体は汗ばむ。
駅にたどり着いたとき、電車を待つ合間に、自動販売機で飲み物を購入することは
別段気にするような話ではないだろう。
乃亜は駅のホームにあるペットボトルで水を購入していた。
ガコン、という音共に取り出し口に落ちてきたそれを、
利き手である左手で取り上げようとするが
ジンとする痛みに顔をしかめ、右手でそれを取り直す。
まだ電車が来るまでに5分ほどある。
購入したペットボトルをもって自動販売機から離れ、
乃亜はベンチに鞄を下ろした。
鞄の中を確認し取り出したのは市販の頭痛薬だ。
ここしばらく、毎日のように頭痛がする。
しばらくは我慢していたが、日に日にその鈍痛は強くなっている気がする上に、
夜寝てもそれは解消しない。
そもそも夜もなかなか眠れなくなっていた。
中から指定の錠数を取り出して口に放り込み水で飲みこむ。
頭痛だけでなく、幸いだったのは左腕の痛みや右肩、首の鈍痛にも効き目を発揮してくれた。
今週から服用するようになったが、こんなことならもっと早く飲めばよかった。
今日から期末試験である。
成績を落とすわけにはいかない乃亜にとっては重要な行事だ。
学校に到着する頃にはこの鈍い頭の痛みも、左腕の刺すような痛みも、
肩や首の重い痛みも緩和されていることを願い、到着した電車に乗り込んだ。
【7月14日】
ああ、まずい。
乃亜は内心それを自覚した。
「1年生で英語スピーチのコンテストに選ばれること自体は珍しくありませんが、
内容が実体験に基づいた素晴らしいもので、教師の間でも好評でしたよ」
「そう言っていただき恐縮です」
正面には自分の高校の担任教師がにこやかに話をしている。
そして自分の左隣には兄だ。
今日は高校の三者面談。
中学にあったこの時期の三者面談については高校でも継続だった。
静はどこか誇らし気に教師の話を聞いていて、
乃亜はそれに内心焦りを感じながらも微笑みを絶やさずにいる。
ただそれだけに集中している。
市販の薬の効き目が切れてきたのか、頭痛がしてきた。
それだけではない。右肩から首の後ろ、左腕もだ。
それを顔に出さないために、全身全霊の集中力をもって微笑みを作る。
「お兄様は暁天総合大学の大学院にご在籍でしたか。
ご自身の研究で若くして学会へ進出、その功績をもって早期卒業とは
本当にご立派でいらっしゃいますね」
「たまたま良いご縁に恵まれたところが大きいですが。
こちらのように素晴らしい環境に妹を預けられ、多忙な身としてはありがたい限りです」
「そういっていただけますとこちらも嬉しいです。
妹さんも大変に優秀ですから、私の期待しております。
先日の期末テストは少し順位を落とされていましたが、
先ほどお話をさせていただいた英語スピーチの内容がとても素晴らしかったですし、
特待生への影響はございませんから、ご安心ください」
それに乃亜はざわついた。
以前の中間テストでは、学年で5位だった。
そして今回の期末テストは10位。一気に5つも順位を落としてしまった。
特待生としてい続けるための条件ぎりぎりで、冷や汗をかいていた。
英語スピーチコンテストに出場したことがプラスに働いたのは幸いだったが、
成績が落ちた理由が明確で、そちらに乃亜は心を苛まれた。
分かり切ってる。
勉強の時間より、ヴァイオリンの練習に時間を割いた。
学費などで兄に負担をかけたくなくて特待生として入学した。
なのに自分のヴァイオリンの練習のためにそれを投げ捨てようとしていた。
あまりにも自分勝手な行為である。
乃亜は自身に辟易したし、心底自分に呆れかえったのだ。
左手を握り絞めようとしたが痛みでそれは叶わず、
乃亜は代わりに右手を強く握った。
あまり力が入らないような気がしたが、きっと気のせいだ。
三者面談が終わり、二人は家路につく。
「相変わらずの優秀な妹で俺は安心して面談に行ける」
「でも、期末テストが……」
「たまにはそういうこともある。気にするな」
静は何も気にした様子はなかった。
それに少しだけ安堵する。
駅へ向かう道すがら、空からは夏の陽射しが容赦なく降り注いでいる。
「今日も暑いな」
「そうですね……」
「……すごい汗だな、大丈夫か?」
乃亜は右手の甲で額からの汗をぬぐう。
背中に張り付いた汗、額からの汗、それは暑さからではないことに気付いている。
「室内が涼しかったからですよ」
乃亜はそれをごまかすように笑う。
頭痛は頭全体を覆うように響き、左腕は鈍く痛い。
はやく、薬が飲みたい。
駅についたらトイレに行こう。静の前では、薬は飲めない。
乃亜はそう思いながら駅のトイレまで頭痛による眩暈をこらえた。
【7月25日】
夏休みに入り、乃亜は一人、部屋にこもって練習を続けていた。
そんな中、練習用の電子ヴァイオリンを落としかけた。
ここ最近それが増えたような気がするが、理由は分かっている。
乃亜は左腕を右手で押さえながら、顔をしかめた。
7月に入って間もなく、ずっと続いている腕の痛み。
おそらくなにかがおかしくなっているのだ。
そんなこと、自分にもわかる。
しかしどうしても、ヴァイオリンを手放せない。
ヴァイオリンを弾けない自分など意味がない。
在る価値さえあるのか分からない。
8月14日にある本予選。
そのときに静やましろ、そして煉矢も見に来ると言っていた。
こんな無様な姿を見せられない。
三人は自分にとって心底大切な人たちだ。
敬愛する兄、心から信頼できる友人、そして、生まれて初めて好きになった人。
表現力のない、音に感情がない、平坦な演奏で、
さらに、技巧さえもぽろぽろなそれを聞かせたら。
あの優しくあたたかな人たちに、見限られたら。
痛み以上の震えが全身に広がる。
恐怖に迫られ、乃亜は再び立ち上がり、痛みを無視してヴァイオリンを構えた。
痛いのは腕ではない。
痛いのは肩や首ではない。
痛いのは、彼らにも、悪い子とみなされることだ。
それに痛みには慣れている。
幼い頃、痛みには嫌と言うほど慣らされた。
一つ深く息を吐き出して呼吸を整える。
乃亜は弓を引く。
せめて技巧くらい、完璧に弾かなければ、彼らの傍になど、きっといられない。
そんな脅迫じみたものを感じながら、乃亜はひたすらにヴァイオリンを奏でた。
【8月1日】
大学自体は講義はないが、静にとってはあまり関係はない。
大学内にて自身の研究は続けなければならないし、
春ごろから教授の手がけるプロジェクトに参加している。
もっともその教授のプロジェクトも静自身が研究を続けている分野とかなり重なるため
自身の研究にも大いに役立つところはある。
しかもこのプロジェクトは以前、ましろのことで大変世話になった
中央先進医療研究センターとの共同プロジェクトだ。
そういう意味でも真剣にならざるを得ない。
休日である土日は時間をつくるようにはしているものの
大学生としていた時よりも平日は帰りが遅くなっていた。
腕時計で確認した時刻は23:34。
妹をひとりで食事されるのは心底申し訳ない気持ちになるが
高校に入り、以前より落ち着きをみせた乃亜は
自分は大丈夫だからといってはばからない。
だが最近少し様子がおかしいようにも感じていた。
食事を共にしていてもどこか上の空だったり
以前よりも食が細くなったようにも感じる。
食事を終えるとすぐに自室へと戻ることが増えた。
間もなくコンクールがあるため練習するのは分かる。
だが、本当にそれだけだろうか。
微笑む様子は変わりない。
とはいえ、うまく言語化できない。
玄関のドアを開けて室内にはいると、
リビングの明かりはすでに消えていた。
もう休んでいるのか、そう思ったが、リビングの向こう、
乃亜の自室のドアの隙間から薄明かりが漏れていた。
まだ起きているのか。
「……乃亜?」
静かに声をかけると、ややあって扉が開いた。
ルームウェア姿の妹は頬を少し赤くし、額に髪を張り付けていた。
「おかえりなさい、兄さん」
「ああ、ただいま。まだ起きていたのか?」
「はい。ちょっと、練習に熱が入ってしまって」
どうやらこの時間まで練習していたらしい。
静は溜息を肩で吐いて苦笑いを浮かべた。
「この時間に帰っている俺が言うのもなんだが、
少し練習に時間を取りすぎじゃないか?
いくら夏休みとはいえ、あまり無理はするな」
「そうですね。……もう休むことにします」
「ああ、そうしろ。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
就寝の挨拶をして部屋の扉が閉まる。
ややあって乃亜の部屋から電気が消えた。
どうやら休むというのは嘘ではないようだと安心し、
静はリビングやダイニングの電気を消した。
キッチンの冷蔵庫から飲み物だけ取り出して、自室へと戻る。
暗くした部屋の中で、乃亜がそのまま練習を続けていることなど
静は知る由もなかった。
【8月3日】
隣駅から少し歩いた場所にある、隠れ家的な中華レストラン。
今日、静とましろはそこで久方ぶりの逢瀬を楽しんでいた。
ましろは今高校の部活の全国大会目前である。
本人はあくまでマネージャとしてであるが、自身が出ないからといって
手を抜くほどましろという女性は薄情ではない。
互いに多忙な状況のため、今日も長くデートではなく。昼食だけの短いデートだ。
しかしそれでも互いにとってはかけがえのない時間。
蒸したての点心、よだれどり、麻婆豆腐、魚と浅利の蒸し料理、エビと卵のチャーハン。
テーブルにならんだそれを小皿でとりわけながら二人は食事を進める。
「最近乃亜に会ってないけど、元気してる?」
ましろが翡翠餃子にタレをつけながら尋ねてくる。
器に取った麻婆豆腐をテーブルに置いて、静はやや目を伏せた。
それにましろが気づかないはずはない。
「どうしたの?」
「ああ、いや、どうも最近、遅くまで練習しているようでな」
確証はない。
しかし乃亜のことであるから、常習化していてもおかしくないのだ。
ましろは口にした翡翠餃子を呑み込んだ。
「コンクール、近いんでしょ?」
「まぁな。だから俺も大げさに注意するのはどうかとは思ってるんだ。
乃亜ももう高校生だし、アレコレと言われるのは嫌だろう」
自分が思っている以上に妹はしっかりしている。
なんでもかんでも自分がすべて手掛けていた頃、
乃亜は自分も手伝うと言い出して、それ以後、互いに協力しあうようになった。
子ども扱いしすぎていたと反省したのだ。
「過保護と愛情の狭間でって感じだねぇ」
「からかうな」
「ふふ、ごめんて」
ましろはウーロン茶を口にしてのどを潤す。
中華料理にほんのりと苦味のあるウーロン茶は大変に相性がいい。
「まぁ、そうだね、もし心配なら、
少し控えろくらいは言ってもいいとは思うけど、
その塩梅は、少し難しいかもね」
「どういう意味だ?」
「上手く言えないけど、乃亜にとって、
ヴァイオリンってただのツールっていう感じがしない」
ましろが思い出しているのは去年の秋のコンクール。
あの時の演奏は心底震えたし、かつて自分が病気に苦しみ、
生きれるかもわからず苦悩していた時をまざまざと思い出した。
それだけではない。
静に支えられ、あの無菌室で、ふたり見つめ合ったあの時を思い出したのだ。
あとになって落ち着いた頃、乃亜にあの時はどういう気持ちで弾いていたのかと聞いた。
本人は特になにも、という様子であったが、
よくよく話をきけば、その前後に、煉矢への恋心で悩んでいたようだとましろは察した。
その想いが、あれほどに切ない音色を奏でていたのだとしたら。
「乃亜って、ヴァイオリンを自分の言葉の代わりにしてる気がする。
あの子、言葉にしたり、自分の気持ちを訴えたりって、あまり得意じゃないでしょ」
「まぁ、そうだな」
「その代わりに、ヴァイオリンで話すんだよ。喉につかえてるものをさ。
だから、乃亜からヴァイオリンを取ったらだめな気がする」
相変わらずの言葉だ。
静は素直に感心してしまう。
確かにいきなり止めろ、休め、というのは逆効果になる気がした。
静はそれに納得し、乃亜にどのように言うか、食事を終えたあとも考え続けた。
だがそれは杞憂になった。
その夜は早々に部屋の明かりが消えたからだ。
先日の言葉で反省したのか、それとも正しくあの時だけだったのか。
静は少し拍子抜けした気持ちを抱きながら
その日は自分も早くに自室にて休むことにした。
【8月8日】
月曜日。
静は今日は午後から大学に向かう予定でいた。
夕食はどうしても一緒に食べることができないため、昼食は静が作ることにしていた。
昼食の支度を済ませて、そろそろ乃亜に声をかけようとキッチンから一歩足を踏み出したときだった。
ガコン、となにか重いものが落ちる音がした。
静は訝し気に、その音がした乃亜の部屋へと速足で向かう。
「乃亜、どうした?」
ノックとともに声をかけても反応はない。
朝食後少ししてから自室で練習すると言っていた。
静は乃亜に断りを入れて部屋のドアを開けた。
「っ?!乃亜?!」
視界の景色にいっきに血の気が引いた。
乃亜が床に突っ伏している。
先ほどの音は電子ヴァイオリンが床に落ちた音だったらしく
うずくまる乃亜の脇に、無造作にそれは落ちていた。
床にぽたぽたと落ちるのは汗と涙。
左手を押さえつける右手、うずくまる姿。
大丈夫だと微笑む乃亜の姿が、ただの仮初だったと、
静はこの時、初めて、気づいた。
筆者的にもなかなかの苦行が続いております。
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★アルファポリスでも連載中★
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