【凪編】44:xx16年6月25日
ズキ、と左手が痛む。
いつものようにヴァイオリン教室へ向かう足がひどく重い。
初めてだった。休みたい、いきたくないと思った。
けれどどうしてもそれは許されないとも同時に思い、
乃亜は重い足取りでヴァイオリン教室のインターホンを押す。
いつものように水野に迎え入れられ、
レッスン室へと入った乃亜は、水野がいつもと変わらない様子なのに少し安堵した。
挨拶をしてヴァイオリンを取り出している中で声がかかった。
「この間のコンクールはどうだったかしら」
それを確認するのは当然の話だ。
乃亜は内心どきりとしながらも、表面上いつもと変わらない様子で、
それこそ笑みさえ浮かべて振り返った。
「なんとか通過しました」
「そう!よかったわ。心配していたんだけれど、通過したのならなによりね」
その言葉をそのまま受け取れたらどれだけ楽だったろうか。
結果と共に送られてきた講評の文字列が忘れられない。
「講評についてはどう?
今後のレッスンにも関わるから、出来たら教えて欲しいんだけど」
それは事前に言われていたことだ。
だからこそ足取りも重かった。
しかし否といえるわけもなく、乃亜はスマートフォンを取り出し
メールを開いた。
希望のように見えた地区予選通過の知らせとは一転して
こちらの心を真っ黒に塗りつぶしたその内容。
ズキ。
添付ファイルを開く手が震えそうになるのを必死にこらえ、
胸の奥がジリジリと痺れるような痛みを感じながら、開く。
そしてそれを水野に差し出した。
水野はスマートフォンを受け取り内容を確認する。
しかし思ったよりも彼女の表情は変わらなかった。
読み終わり頷いて、スマートフォンを乃亜に戻した。
「なんとなくこういう内容かなとは思ってたの。
……本予選の課題曲は、カルメン幻想曲とタイスの瞑想曲よね」
課題曲として指定された曲は【サラサーテ:カルメン幻想曲】。
それに加えて自由曲を1曲と言うことだったため、
コンクールに出場すると決めた4月ごろに水野と相談して決めたのが
【マスネ:タイスの瞑想曲】だった。
本予選ではそれらを演奏することになる。
「一応今からなら曲を変えることはできるけれど、どうする?」
「え……」
つまりタイスの瞑想曲を変更するかと言うことだ。
カルメン幻想曲はヴァイオリンの技巧をこれでもかと入れ込んだ難易度の高い技巧曲。
一方でタイスの瞑想曲は技巧よりも
歌い上げるようなメロディを重視し、深い感情、表現力が重要視される。
4月の時点では、後者は乃亜にとって得意分野であり問題は一切なく、
むしろ超技巧曲とされる前者の曲で多少ミスがあったとしても挽回できるという話さえしていた。
そのため本予選に進んだならば、カルメン幻想曲を中心にレッスンする話をしていた。
だが、今はその話は大きく反転してしまった。
先の講評をそのまま受け取るのならば、
今の乃亜にとってタイスの瞑想曲こそ大きな課題になってしまっている。
乃亜はそれを瞬時に理解し、目を伏せた。
「ここしばらくのレッスンを見ていても、あなたの技巧はあなり上達しているし、
あえて技巧曲を重ねるのも悪い判断ではないと思う。
……ただ、あなたがそれでよければ、だけれど」
その言葉の裏に秘められた意味は分かる。
表現力を欠いた状態、それを受け入れて、そちらに進むことを認めるかということだ。
思わず息を吸い込み否としたくて顔を上げた。
認めたくない、そう思ったからだ。
しかし顔をあげ、水野の顔を見たとき、その気持ちは急速に萎んでいく。
切なそうな、こちらを憐れむような、そんな悲し気な笑みだった。
ここに通い続けて、水野薫子という先生の性格は把握しているつもりだ。
彼女は本当にこちらの身に寄り添って話をしてくれる。
だからそんなつもりはない。
無理をしないでいい、というそういった気遣いによるものだ。
そう頭では理解している。
しかし、どうしても、良いように解釈できない。
水野の顔から、お前には無理だと、言われているような気がしてしまった。
乃亜は見開いていた瞼を落とし、ゆっくりと首を下げた。
「……変えます」
それに水野は少し痛々しい様子を見せたが、頷いて承諾した。
ぽん、と肩に水野の手が乗る。
乃亜はそれに促されるように顔を上げた。
「来週から期末試験のようだし、そのあと夏休みにも入るでしょう。
これからしばらく、レッスンは二週おきにしましょう」
「……でも、本予選は8月の半ばで……」
「ええ、だから7月いっぱいだけ。
8月に入ったら、またいつも通りにね。
少しヴァイオリンから離れるのも、良いと思うのよ。
スランプ脱却のためにはね」
水野としては心底気遣う言葉なのは間違いないのだ。
確かにそれから離れることも重要だと、以前調べた時に確認している。
しかし、乃亜はそのとき想像したのだ。
ヴァイオリンを手放すという状況。
手足がしびれ、身体の中でぐちゃぐちゃになるような不快感だった。
乃亜は水野の提案にうなずきはした。
しかしその実、どうしてもそれだけは受け入れられなかった。
その後、レッスンでは水野と自由曲について検討し、
【クライスラー:中国の太鼓】を選んだ。
曲変更についてはその場で申請も済ませた。
家に帰ってから、一人でできる気がしなかった。
楽譜を水野から貰い、帰り際にコピーして帰宅した。
心になにか大きな穴が空いてしまった気持ちを抱きながら自宅の玄関ドアをひく。
明かりのついたリビングからの光。
暗い廊下の向こうの明かりがひどくまぶしく感じて、
乃亜は思わず目を細くした。
どこか虚ろに靴を脱ぎ、薄暗い廊下を歩く途中で視線を無理やり上へと上げた。
こんな状態、兄には見せられない。
「ただいま帰りました」
「お帰り、乃亜」
兄は変わらない様子で微笑んでくれた。
それがひどく心を落ち着かせてくれる。
乃亜も自然と笑みを浮かべることができた。
ダイニングテーブルに並んだ夕食。
今日は焼き鯖と茄子の煮びたし、豆苗と鶏ささみ、大根のサラダだった。
二人で一緒に食べることがここ最近減っている。
それは仕方がなかった。平日、兄は忙しくしている。
だからこの時間は乃亜にとって心地よいものであり、
一週間で一番落ち着く時間でもあった。
兄の話を聞いたり、学校でのことを話したりとしながら進む食事。
時折、箸を持つ手が痛んだが気にならなかった。
心に空いた穴のことを忘れさせてくれる。
乃亜はそう感じていた。
「今日水野先生にコンクールのことを話したんだろう?」
安らぎの時間が唐突に終わってしまった。
乃亜は表情を全身の力をもって固めた。
しかしわずかになにかが漏れ出てしまったらしい。
兄は軽く首を傾げた。
「どうかしたか?」
「いえ、本予選で演奏する曲を変えたので、それを思い出しただけです」
嘘ではない。
「今からだとあまり練習の時間がないんじゃないか?」
「そんなに長い曲じゃないですし、
私にはそちらの方がいいだろうと、先生と相談して決めたんです」
それも、嘘ではない。
どうか、どうして変えたのかは聞かないでほしい。
微笑みながらそう話しをすると、静は納得したように頷いた。
「成程な。
本予選は日曜だし、俺も見に行くから、楽しみにしてる」
どうか聞かないでと願った祈りは天に通じたらしいが、
ある意味ではそれ以上の絶望を乃亜に与えた。
あの姿を、兄に見られる。
嫌だ。
「あの、まだ予選ですから、無理には……」
「無理じゃないぞ。盆休み中だから大学も閉まるし、プロジェクト自体も休みだ。
だからなんの憂いもなく、見に行ける。
ましろもその頃には全国大会は終わっているし、煉矢も行きたいと言ってたな」
その言葉は乃亜にとってまるで、死刑宣告のようだった。
表情を取り繕うように必死に口の中を噛む。
じわ、と鉄の味が口の中に広がる。
目の奥の方がツンと痛い。
身体の中がかき乱されていく。
左手の手首がわずかに痙攣した。
「みんなお前を応援してる。
だからなにも不安にならず、やってくるといい」
「……はい、頑張りますね」
ただそれに微笑んで頷く。
口に含んだ味噌汁が、口の中の傷に沁みる。
血の味と混ざったそれの味が、よくわからなくなっていた。
新しい曲の練習をしたいからと、静に断りを入れて乃亜は自室に入った。
嘘ではない。
実際、今日からの新しい曲なのだ。
楽譜を譜面台に置き、電子ヴァイオリンの電源を入れ、イヤフォンを耳に差し込む。
この曲は5分程度の曲ではあるが技巧としては様々なものが取り入れられ
決して難易度の低い曲ではない。
太鼓の名が示すように1音1音はっきりとしたメリハリをつけ、
更にテンポよく、素早く、正確に指を動かす技術は必須だ。
弓を弦の上で跳ねさせるスピッカートとよばれる技術や、
細かい音を弾むように演奏するサウティエ、弓の動きも複雑だ。
表現力がない。
音に感情が感じられない。
音符を追っているだけ。
なにひとつ分からなかった。
以前とてそれが出来ていたという気がしないのに
それが出来なくなったと言われても分からない。
出口の見えない迷路に迷い込んでいる。
しかも先に進んでも、その先に光があるとは限らない。
静も、ましろも、煉矢も、自分のヴァイオリンを聴いて笑っていた。
感動さえしてくれていた。
けれど今の自分には、きっと。
「……いっ!」
突然の鋭い痛みに思わず呻いた。
思わずヴァイオリンを落としかけ、とっさに弓を持つ右手でそれを押さえた。
しゃがみ込みヴァイオリンを床に滑らせるように置く。
乃亜はその痛みに眉を寄せ、痛みが走った左手を見た。
指先ではない、手首だろうか。
ジンジンと痛むそれは今までの時折あった痛みとは異なる。
右肩の重さもあわせて感じながら、
弓を置いた右手で手首をもみこむ。
指先がぴくぴくと、意識しないところで痙攣するように動いているのを見ながら
乃亜はここにきて、ようやく、自分の身体がおかしいことに気付いた。
表現力がないと言われたから、
だから技巧に適した曲を選んだ。
それさえも奪われるのか。
乃亜は涙がせりあがるのを、奥歯を噛みしめて必死にこらえた。
" 少しヴァイオリンから離れるのも、良いと思うのよ "
冗談ではない。
水野の言葉を強く拒否した。
ヴァイオリンを手放すことは身が裂かれそうなほどに苦しい。
その理由はひとつだった。
" ヴァイオリンを弾いてる今のお前は、あのころにはいなかった "
煉矢に言われた、自分が一歩踏み出せるようになった言葉だ。
ヴァイオリンを限れば、手を伸ばすことを許されたと感じたのだ。
だがそれは逆に言うならば。
乃亜は床に座り込み、まだ少し鈍痛のする左手を右手で握りしめ、額にあてがった。
「……また、悪い子に、戻っちゃう……」
絞り出すようなつぶやきはひどく掠れていた。
ヴァイオリンがなくなったら、これを手放したら、
またあのころの自分でしかなくなる。
それは今の乃亜にとって、最大の恐怖だった。
そんな時だった。
スチールデスクに置いておいたスマートフォンが震えた。
乃亜はどきりとして顔を上げた。
痛みの落ち着いた左手をを確認し、立ち上がってスマートフォンに目を向ける。
CORDアプリの新着通知。
ロックを解除して開き、開いたチャットルームの一覧に、乃亜は泣きそうになった。
『コンクールの地区予選突破、おめでとう。
それを祝って、というわけじゃないが、
こちらも落ち着いたからな。
以前言っていた通り、食事にでも行かないか?』
日本に戻ってきてから、久し振りの連絡だった。
日本に戻る日を連絡してくれて、その時に食事に行こうと誘ってくれた。
それを受け取ったとき、これ以上ないほどに心がときめいて、嬉しかった。
アメリカでの、夢をみているような日々。
楽しいことばかり、というわけではないが、
それでもあの日々を共に過ごして、ずっと隣にいてくれて、
僅かながらも、距離が縮まったような気がしていた。
そしてそれは自分ひとりの気のせいと言うわけではないと感じられた。
けれど、今は。
煉矢は日本に帰国後、新しい賃貸物件の内見や、
大学や行政的な手続きなどに追われ、やけに忙しないひと月をようやく終えていた。
ほんとうはもう少し前倒しできる予定だったが、
思っていた以上に新しい賃貸物件探しに難航していたのだ。
だがなんとか帰国後ひと月以内の入居ができたことは幸いだ。
期間内にマンスリーマンションは無事に解約できた。
これといった特徴もないシンプルな1Rの部屋。
家具付の部屋にはすでにテレビやローテーブル、パイプベッド、
洗濯機や冷蔵庫といった最低限の家電・家具はそろっている。
今年で大学を卒業し、就職活動を始めることになるため
またそう遠くないうちに引っ越す可能性があるからだ。
静にいつか話したように、最低限の条件さえクリアしていればこだわりはない。
そうしてようやく諸々のことが片付いたため、
煉矢は乃亜に連絡をとることにした。
パイプベッドの上に腰かけ、乃亜へ短く伝えたそれ。
すぐに既読がついたが、返信はまだかかるようだ。
煉矢はどんな様子か想像し、微笑ましく感じて、小さく笑う。
アメリカでの日々は煉矢にとっても忘れられない。
彼女と共に過ごしたたった一週間はあまりにも鮮やかに、
自分の記憶に残っている。
最後の日に、彼女から贈られたAmazing Grace。
光の差し込むリビングで、ヴァイオリンを微笑みながら奏でる姿は美しかった。
銀髪が光に照らされ輝き、慈愛に満ちた笑みは祈りを捧げる聖女にさえ見えた。
そして自分の心に確かな想いを灯した。
しかしきっとそれは、もっと以前からあった。
気付いたきっかけがそれだったというだけのこと。
が、話はそれでは終わらない。
乃亜が日本に帰ってから、共に過ごした一週間を思い返し、
ふとした瞬間に見せる頬を赤らめる彼女の姿に気づいた。
どこか潤んだ瞳、赤い頬、戸惑ったような声、ひどく嬉しそうな顔。
それの意味することに、気付くな、という方が無理だ。
そうと理解した当時、さしもの煉矢も少しばかり動揺した。
だがすぐに、湧き上がってきたのは喜びだった。
帰国して落ち着いたら、今度はちゃんとデートに誘おうと思いいたった。
帰国の日が決まり、それをすぐに連絡して、食事にかこつけたデートの約束を取り付けた。
反応としては上々。ひとり部屋でほくそ笑んだものだった。
そしてようやくそれを実現できる。
やがて、返信があった。
問題ないであろうという小さな確信もありつつ、どんな反応だろうとチャットルームを開いた。
「……は?」
そこに書かれていた内容に、煉矢は唖然とした。
『ごめんなさい。しばらく、連絡しないでください』
明確な、拒絶だった。
頭が真っ白になり、指先が柄にもなく震えた。
「……乃亜?」
デートの誘いを拒否されたこと以上に、煉矢の中に湧き上がったのは彼女への危惧だ。
留学中も、その前も、乃亜からはなにかと相談されることがあった。
共に暮らしている静や、過去のことを深く知らない友人では
相談するのに多少ためらいがあったための消去法かもしれないが、
それでも繰り返し、不安定な心境になると、相談してきていた。
そんな彼女が、自分との連絡を自ら断った。
なにかひどく胸騒ぎがする。
すぐに返信しようと考えたが、連絡するなというメッセージに阻まれる。
自分が連絡することで、一層、深く追い詰めるようなことになったら。
煉矢はその懸念をどうしても打ち払えず、
返信も、通話も、結局することができなかった。
ベッドの上に置いたスマートフォンのディスプレイに、涙がぽたぽたと落ちていく。
その横に両手をついて、シーツを強く握りしめるが、
涙が落ちることはどうにも止められなかった。
ベッドの上で自分が送ったメッセージが、自分の心もひどく切り裂いたのだ。
「……ごめん、なさい……煉、矢さ、……っ」
乃亜はあふれる涙が止まらなかった。
しかしそれでも、どうしても、今は煉矢に会いたくなかった。
声さえも、聞くことが怖かった。
___あなたが、笑って見てくれていた乃亜は、もう、いないの……。
きっともうどこにもいない。
残りかすのような自分を、大好きな人には、見られたくない。
「れ、んや、さん……、煉矢さん……っ」
自分からの拒絶。
もうなかったことにはできない。既読はついた。
これで彼は連絡してこない。
自分が望んだことだ。
しかし、どうしても、溢れる涙がおさえられない。
溢れる想い、アメリカでの思い出、それらがどうしても、消えてくれない。
消えてほしい。
消してほしい。
いなくなった自分ごと。
乃亜はそれを切に祈りながら、それでも消えないそれに一晩中、泣いた。
ここしばらくの中で一番書いていてつらかった……。
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