【凪編】43:xx16年6月19日/6月21日
【6月19日】
都内某所にある区民ホール。
その出入口には『全日本クラシックコンクール 首都圏予選会場』と書かれた立札が
雨よけのビニールがかぶされる形で置かれていた。
今日は朝から雨。
土砂降りというほどではないものの、ぽつぽつと絶えず降り続く雨に
乃亜は傘を差しながら会場の入り口への階段を上がる。
自分と同じようにヴァイオリンケースを背負うものたちが同じく会場へと入っていく。
今日は一人でこの予選に挑戦しなければならない。
前回のコンクールでは見学に来ていた静は不在である。
本人はなんとか予定を調整してきたがっていたが、
乃亜自身がそれを断った。
まだ地区予選であるし、兄が教授のてがけるプロジェクトで
多忙にしているのも知っていたからだ。
それでもここまで車で送ってくれたのだから感謝しかない。
また、水野も今日は不在だ。
このコンクールの予選については伴奏者は主催側で決められている。
というのも、伴奏者であるプロのピアニストもまた審査員の一人であるかららしい。
そのため水野は来ていない。
天気もさることながら、普段自分を見守ってくれていた人たちがいないというのは心細い。
その上、未だに演奏については、水野の言っていたことが理解できていなかった。
そのせいか乃亜は日々の練習時間が大幅に増えていた。
繰り返しの反復練習を徹底した。
それで水野の言っていた、スランプとやらが解消できていることを祈りながら
乃亜は会場のエントランスへと踏み入れた。
楽屋となっている会議室のひとつに通され、そこで着替えと
最終的な調律を行う。
乃亜は用意されていた更衣室に入り、いつかのネイビーのワンピースに着替える。
ノースリーブのそれは、完全なフォーマルとは言えないものの
上品な形と色合いとなっており、決してふさわしくないとは言えない。
更衣室内の鏡でそれを確認し、首元に揺れるペンダントに視線を向けた。
薄い色ながらもまるで海の波紋のような美しい模様のペンダントは
アメリカに行った時に煉矢から貰った、乃亜にとって宝物と呼べるようなものだ。
兄も水野も不在の中、せめてのお守りとしてつけてきた。
だがヴァイオリンを弾くにあたり、外す必要がある。
乃亜は首の裏側にあるチェーンの留め具に手を伸ばした。
「……っ?」
ピキ、と小さい痛みが左手に走った。
否、痛みと呼べるほどの強いものではない。
注射程度の痛みだ。
乃亜はその痛みに一瞬左手を引き下げそうになったが、
もう一度同じ動作をした際にはそれはなかった。
一瞬つりかけたのかもしれない。あとで少しもみほぐそうと考え、
乃亜はペンダントを外した。
ティアドロップ型のそれを右手で大切そうに包み、乃亜は胸元に抱きしめる。
___どうか、あなたが笑って見てくれていた私でいられますように……。
そう祈りを込めながら、ペンダントをポケットにしまった。
支度が終わったら順番を待つための別の部屋へと移動した。
既に何人もの同世代の出場者が集まっていた。
一瞬気圧されそうになるがなんとか踏みとどまり、乃亜は自分の順番を待った。
「51番、斉王乃亜さん。ご準備お願いします」
「……っ、はい」
名前を呼ばれどきりとしつつ返事をし、
乃亜はヴァイオリンをもって、小ホールの袖へと向かった。
ひとつ前の出場者の演奏が続いている。
同じ課題曲だが、演奏の内容は変わる。
考えて見れば、同じ曲であるはずなのに、
どうしてこうも人によって演奏が違うのだろう。
乃亜は当たり前のことながら初めて疑問を抱いた。
そうこうしているうちにひとつ前の人の演奏が終わった。
「51番、斉王 乃亜さん。
演奏曲、J.S.バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調 1 アダージョ』
モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲 第3番 第1楽章』」
まずは無伴奏。
乃亜は正面に座っている審査員たちに礼をする。
緊張をひとつ息を吐き出すことで誤魔化し、ヴァイオリンを構えた。
誤魔化しのきかない技巧、ここしばらくの間、徹底して練習してきた。
複数のハーモニーの表現、まるで複数の歌い手がそれぞれの音域で歌い上げるかのように
それぞれの音域を意識しながら奏でていく。
昨年から注力していたビブラートを、逆に響かせすぎず、
しかし全く響かせないというわけでもなく、音一つ一つを意識して、それを適切に流していく。
そうして1曲目が終わる。
間違いはなかったはずだ。乃亜は審査員に礼をしながら安堵の息を吐き出した。
そしてピアノ伴奏者がステージに上がる。
水野と同世代かそれより上くらいの女性の伴奏者はこちらに小さく笑いかけ、
ピアノの前に座り、譜面を広げた。
そして準備ができたようで頷く。
乃亜もヴァイオリンを構え、頷き返した。
軽快なメロディでピアノが響く。
そこに乗るようにヴァイオリンを重ねていく。
この曲はピアノ伴奏者との対話なのだと水野に言われている。
伴奏者と息を合わせながら、そのメロディを邪魔せず重ねていく。
だがそれだけではいけない。
流れるようなパッセージが多いこの曲は適切かつ素早いポジション移動が重要になる。
これも何度も繰り返し練習を行ってきた。
乃亜は練習にて磨いたそれを存分に発揮していく。
だがその途中。
「っ……」
先ほどと同じような鋭い痛みが一瞬その動きを阻害した。
十分にマッサージしたはずなのに。
しかしそれでも演奏を止めるわけにもいかない。
一瞬乱れたリズムだったがなんとか盛り返し続けていくが
その間もちくりとした痛みが左手に度々起きた。
戸惑いながらもそれでも最後まで弾ききることはできた。
審査員に対して再度礼を行い、ピアノの伴奏者の女性にも礼をする。
ステージから下がり、預けていた自分の荷物を引き取って楽屋へと戻り、
空いている席へと、乃亜は重く腰を下ろした。
演奏を終えた出場者は着替えなどを済ませて帰宅となる。
結果は明後日までに、メールで通知がされることになっていた。
そのため今部屋にいるのは乃亜だけだ。
ひどく疲れた心地で天井を見上げた。
自分の演奏を思い返す。
一曲目はミスなく弾ききることはできた。おそらく問題ない。
しかし問題は二曲目。
途中左手に襲い掛かった小さな痛み。それによるミス。
痛みといっても大したものではない。
ただあの細かなパッセージを要求されるタイミングというのは最悪だった。
乃亜は左手を見る。
今別段なんということはない。
ここしばらく練習を増やしていたから、筋肉痛にでもなっているのだろうか。
乃亜は疑念を抱きながらも、それは一瞬のことだった。
あの程度の痛みでミスをするような意識ではいけない。
まだ体に染みついていなかったのかもしれない。
そう思いなおし、今日の結果がどうなるかは分からないが
仮に進んだことを想定して、本予選の曲の練習を開始しようと考える。
着替えなければ、と思ったところでポケットに手を入れた。
右手の平に乗ったペンダントを見つめる。
" ならきっと、あの姿が、お前の本質なんだろうな "
以前の、ヴァイオリンを弾いている自分と、
そうでない自分が乖離したような感覚になっていた時、
それを瞬く間に打ち消してくれた、大切な言葉を思い出す。
彼の言っている姿は、きっとあのイベントのステージの自分だ。
静も、ましろも、煉矢も、水野も、リアムたちも、
その姿を見て、笑って、喜んでくれていた。
きっと大丈夫。
今回も大丈夫。
ラリマーのペンダントを握り、胸に抱きしめながら乃亜は祈る。
やっと、ヴァイオリンを弾くことで、自分にもなにか出来ると感じられ始めていた。
自分のヴァイオリンに皆、喜んで、期待してくれている。
けれどもしそれがただの一時的なもので、
メッキがはがれるように、大したものではないものだと、気付かれたら。
___……私に価値なんかないって……気づかれたら……。
乃亜はそれに寒気を覚えながら振り切るように帰り支度を始めた。
【6月21日】
多くの生徒が壇上のこちらを見ていることに緊張を抱く。
大講堂の舞台上、左右に5人ずつ並んだそのうちの一つに乃亜は緊張しながら座っていた。
今日は高校の英語スピーチコンテスト当日だ。
この行事は英語教育に力を入れている乃亜の高校の特色の一つだと入学前から聞いて知っていた。
自身の体験や考えなどを英語を使って3分から5分程度のスピーチを行う行事で、
毎年5月にコンテストの応募が始まり、
立候補及び推薦にて出場者が決まる。
その中で乃亜は英語教師の推薦で選ばれてしまった。
もともと英語は他の教科に比べれば得意な方であるし、
特待生はその傾向が強いということは知っていた。
しかしまさか本当に選ばれることになるとは思ってもみなかった。
とはいえ選ばれてしまったのであれば仕方がない。
特待生として入学している者の義務として受け入れ、乃亜は原稿を用意し今日に臨んでいる。
この行事では、スピーチだけでなく、質疑応答などもすべて英語だ。
単に用意した原稿を読めばよいというものではない。
そういう意味でも緊張するというのに、
そもそも多くの人に注目されることは大変に苦手である。
その上、どうも右肩が怠く、先ほどから落ち着かない。
出来ることなら少しもみほぐしたいが、
ステージ上にいる以上、そのような緊張感のない行いはできないと考えている。
「Next up, from Class 1-C, Noah Saio. Please begin.」
(続きまして、1年C組、斉王 乃亜さん。お願いします)
拍手が広がる。緊張がピークに達し身体に力がこもる。
そのせいか右肩が一瞬ひきつったような感覚を得た。
乃亜はそれを表に出さないように講演台の前に立った。
原稿を置いて礼をする。
「Hello everyone.
Today, I want to share a truly eye-opening experience I had recently.」
(皆さん、こんにちわ。
今日は、最近私が経験した、本当に目を見張るような出来事についてお話したいと思います)
この行事に出ることになり、原稿については先のイベントについて話すことに決めた。
日本の文化交流をテーマにしたかのイベントは、自分がステージに出るということに関わらず、
大変に興味深かったのは事実だ。
少しだけブース見学もさせてもらったが、現地の人が
日本の文化について、日本人以上に詳しく情熱をもって説明していたのも印象的だ。
各ブースの話や、自分が自国文化に対する知識不足があったと反省したこと、
折り紙ブースでの興味深い話などをスピーチしていく。
「……、As a Japanese individual,
it reinforced for me the profound importance of cherishing
and understanding our own culture even more deeply.
Thank you.」
(……、日本人として、自国の文化をより深く大切にし、
理解することの重要性を改めて強く感じました。
ありがとうございました)
拍手が響く。乃亜はほっと安堵した。
だがまだもう一山ある。
そう思った時、2年生の英語を担当している男性教師が立ち上がった。
「Thank you very much for a very interesting speech.
I would like to ask, did you participate in that event?
For example, were you involved with a booth?」
(とても興味深いスピーチをありがとうございました。
お聞きしたいのですが、あなたはそのイベントに参加したのですか?
例えば、ブースに参加していたとか)
「Yes. I had the opportunity to participate in the music stage,
playing both piano and violin. It was a small contribution, but I was happy to do it.」
(はい。ご縁があり、ささやかですが、音楽ステージに
ピアノとヴァイオリンで参加しました)
「That sounds like a wonderful experience you had.」
(それは素晴らしい経験をなされましたね)
「Exactly. Having warm interactions
with the local people was a truly wonderful time for me.」
(その通りです。現地の方々と、
あたたかな交流を持てたことは私にとって、とても素晴らしい時間だったと考えています)
「Thank you. Please do use that experience
to continue engaging in international exchange in the future.」
(ありがとうございます。ぜひその経験を活かし、今後とも国際交流を続けてください)
教師が席に座ったことで質問が終わったことを示す。
司会担当が拍手を促し、大講堂中に拍手の音が響き渡ったところで、
乃亜は出番の終了を把握し礼をした。
講演台に置いた原稿を左手で取ろうとしたとき、またいつもの痛みが走った。
だがそれにはもうあまり動揺はしない。
大した痛みではないこともあり、もういくらも慣れたのだ。
原稿を取り上げて、もとの座ってた席に戻る。
乃亜が席についたところで、次の登壇者が呼ばれる。
それを乃亜も拍手をして送り出す。
その間も右肩から二の腕にかけて、怠く重い感覚が抜けなかった。
英語スピーチコンテストは無事に終えることができた。
4位という成績を残すことができ安堵している。
英語教師としては上位3名に入ってほしかったようだが、
自分はまだ1年生だ。先輩たちの素晴らしい英語力にはまだかなわない。
乃亜は自宅であるマンションに帰り、いつものように自室へと直行する。
今日は火曜日なので夕食の当番は自分だ。
しかし兄は帰りが遅いらしく、夕食は不要と朝方言われていた。
着替えを済ませて先に宿題を片付けてしまう。
その着替えの途中でも、ずっと右肩が重かった。
風呂でしっかりともみほぐした方がよさそうだと感じつつ宿題を済ませる。
数学は少し苦手だが時間をかけつつ教科書を確認すればできないわけではない。
時刻は17:50。
そろそろ夕食を取らなければならなさそうだ。
元々乃亜は小食だ。
普段兄と食べる時も白米は半膳程度。
おかずの量も少なめに調整している。
今日は兄もいないことから簡単にパスタで済ませることにする。
冷蔵庫を確認し、余っていた水菜とシソ、梅干しを取り出す。
乾麺のパスタは規定の1束より1/3ほど減らして置いておく。
パスタをゆでる水を張るために鍋を取り出し水を注ぎ入れ、火にかける。
その合間にシソを千切りにして、梅干しから果肉を削ぎ取り刻む。
包丁を持つ左手がぴくりとわずかに痙攣を見せた。
「?……最近、なんだろう」
少し入念にマッサージをしたほうがいいだろうか。
そう思いながら料理を続けていく。
刻み終えたそれらを小皿に置いておき、包丁やまな板などを洗ってしまう。
冷たい水が心地よい。
ここ最近暑いからかもしれない。
フライパンに白だしをベースにパスタのソースの味を調えてしまい、
沸いた水にパスタを投入。
しばらくしてパスタが茹で上がり、フライパンにそれをいれ、さらに梅とシソも絡ませる。
さっと和えたら皿にもりつけ、最後に水菜を上からかけて完成である。
静かな室内で出来上がった和風パスタを頬張る。
梅の酸味の中にシソの風味が相まってさっぱりと頂けた。
ひとりの食卓はひどく味気ない。
けれどそんなことを言ってはいけない。兄とて忙しいだから仕方ない。
朝方も今日も遅くなり夕飯は不要と話していた際に、
心底申し訳ない様子を見せていた。
謝らないで欲しいと告げても、兄は肩を落としていた。
本当に気にしないで欲しいと乃亜は考えている。
自分も高校生になり、ある程度は一人で過ごすことはできている。
なにより、自分のせいで兄に何かを我慢したり、負荷を増やすことはしたくない。
それはここに来た時からずっと抱いている思いである。
その朝の会話の中で、兄に、コンクールの結果について尋ねられたことを思い出した。
" きっとお前なら大丈夫だ。なにせ、俺の自慢の妹だからな "
そう笑っていた兄に、その時は照れとともに嬉しさがあったが、
今その言葉を思い返し、怖さを感じた。
先の地区予選、二曲目でミスをしてしまった。
もし予選を落ちていたら。
兄はそれでも、自慢の妹だと笑ってくれるだろうか。
いつかのような、称賛してくれたヴァイオリンを弾けなくなっても。
その考えに、手に持っていたフォークが傾き、皿に音を立てる。
コンクールの結果は今日中には来るはず。
乃亜は食事を終えたこともあり、食器をシンクに片して、自室に戻った。
本来なら片づけをしなければならないが、どうにも気になってしまったのだ。
見るのが怖い気持ちが湧き上がる。
しかし見なければ先にも進めない。
乃亜はベッドの上で、充電器に差したままのスマートフォンを手に取り、
立ったまま、メールの受信トレイを開いた。
「……あっ」
差出人に『全日本クラシックコンクール事務局』、
タイトルに『地区予選結果および講評のお知らせ』とあるメールがあった。
乃亜はひとつ深呼吸してからそれを開いた。
『斉王 乃亜さま
全日本クラシックコンクール事務局です。
先日開催されました地区予選では、素晴らしい演奏をご披露いただき、
誠にありがとうございました。
厳正なる審査の結果、斉王 乃亜 様は地区予選を見事通過され、
本予選に進出されることとなりました。おめでとうございます。
つきましては、本予選の詳細を下記の通りお知らせいたします』
その文面に乃亜は息を飲んだ。
ここしばらくずっと襲い掛かっていた不安が一気に身体から抜け落ちた心地だ。
乃亜は泣きそうになりながら笑う。
こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。
「……よかった」
本当に安心した。
スランプだと言われ、以前のような演奏ができていないと考えていた。
以前のような演奏は、今となっては自分の心の拠り所のようなものだ。
兄をはじめとした大切な人たちが讃えてくれる。
煉矢が本質だと言ってくれた姿だ。
それを失っていたらと思うと恐ろしかった。
ほっとして力が抜けそうになり、ベッドに腰かける。
添付の講評についても少し怖いが確認しなければならない。
だが書かれていることは予想できている。
二曲目のミスについてだろう。
乃亜は添付ファイルを開いた。
多くの出場者に対してひとつひとつ書いているからか、
広い範囲に対して書かれている内容は数行程度だった。
文字を拡大して確認する。
「………え……」
その文面に、乃亜の顔から表情が落ちた。
『技巧については多少のミスはあったものの問題ではなく、表現力の欠如が圧倒的に課題』
『全体を通して平坦な印象。1曲目に関してはただ音符を追っているだけに思える』
『二曲目に関してミスはあったものの技術的にはさほど問題はない。
それより伴奏者に自身の解釈が通じていない。音色に感情がない』
乃亜は一度、二度、三度、と講評を繰り返し読む。
そこに書かれている内容をいくら読んでも、技巧的な問題はない、あっても軽微。
それよりも問題なのは。
硬直した身体、スマートフォンを持つ左手が、また小さく痛んだ。
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