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【薫風編】39:xx16年3月30日

普段よりも早い時間に到着した大学内は、すでにどこかざわついていた。

日本の文化交流・発信を主題としたイベントの当日である。

数回出入りさせてもらっていることもあり、入校ゲートの警備員は

軽く会釈するとにこりと笑ってくれるようになった。

最初は少し怖さもあったが、笑うとどこかかわいらしいと感じてしまった。


中庭の中央にはステージ、その前にはいくつものブースができて

数多くの日本文化に関した展示や体験コーナーの準備が進められている。


イベントの開始時間は10:00頃からで、

乃亜をはじめとしたステージは12:00から行われる予定だ。

ダンスやパフォーマンスなどの内容は、

なにかしらの日本的な要素を取り入れることが条件となっているらしく

それぞれ独自の視点から取り入れたそれは見ごたえがとてもある。

乃亜の出演はだいたい12:30過ぎの予定だ。


 「Ren! Noah!」


手を上げて声をかけてくれたのはリアムだ。

彼は他のメンバーと書類を片手に準備をすでに始めている。


 「Good morning, Liam.」

  (おはようございます。リアムさん)

 「Yeah, good morning! Did you get a good rest yesterday?」

  (うん、おはよう!昨日はゆっくり休めた?)

 「Yes, thank you.

  あの、……I am sorry for taking a day off right before the event.」

  (おかげさまで。

   直前なのにおやすみ頂いてしまってすみませんでした)


休んでよかったとは思うものの、やはり直前の休みというのは少し申し訳ない。

けれどリアムは大きく首を振った。


 「No, it's alright.

  It would have been unreasonable to ask you to come

  if you weren't feeling up to it anyway.」

  (いや、大丈夫だよ。無理に出てもらうようなものだし)

 「How's the preparation going?」

  (準備はどうだ?)

 「It's coming along. Right now, each booth is getting ready.

  The event itself will start in about an hour.」

  (なんとかな。今は各ブースが準備してるところ。

   イベント自体はあと1時間くらいで開始だし)


少し疲労感は見えるものの、それでも声は弾んでいる。

彼にとっては集大成で、誰よりもイベントを楽しみにしていたらしいので無理もない。

騒めきの広がるブース周囲を見る眼差しはどこか誇らし気だ。


 「Noah! Good morning!」

  (乃亜!おはよう!)


準備室のある建物から元気のよい声が聞こえ視線を向ける。

案の定、リンディだった。


 「Good morning, Lindy.」

  (リンディさん、おはようございます)

 「早速だけど、レン、ノア借りるわ!」

 「え?」


リンディは乃亜の腕を取り、だっとそのまま引きずるように準備室へと連れて行った。

煉矢が何かを言う間もなかった。

リアムは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。


 「Sorry about this, Ren.」

  (悪いな、レン)

 「It's alright, but what's up?」

  (構わないが、なんだ?)

 「It's about the stage costumes. The stuff finally arrived yesterday.

  Noah's is the only one that hasn't been decided yet.」

  (ステージ衣装の件だよ。昨日やっとモノが届いてさ。

   乃亜のだけ決まってないから)

 「Ah... right, the plan was for the women to wear haori over kimonos.」

  (ああ……、女性は振袖を羽織るという話になっていたな)


乃亜がこちらに到着するより前、ステージの演出についての打ち合わせも進んでいた。

その中でそろいの衣装にしようとか、なにか衣装を作るか、など

色々と意見は出たが、やはりテーマに沿ったものが良いという話になり

結果、振袖をカーディガンのように羽織るという案が採用されたのだ。

振袖については中古のものや、他のクラブが所有しているものなどを借りることができた。


 「Yeah. Isn't it that in Japan, you wear furisode for the Coming-of-Age ceremony?」

  (そうそう。振袖って日本だと、成人式で着るんだっけ?)

 「Strictly speaking, it's apparently considered formal wear for unmarried women,

  but that custom is strong in modern times.」

  (正確には未婚の女性の礼装、とされているらしいが、現代はその風潮が強い)

 「I saw a little bit, but those Japanese outfits are really nice.

  I definitely want to see them in person when I go to Japan someday.」

  (少し見たけど、日本のああいう装いっていいよなぁ。

   そのうち日本に行ったら絶対に見たい)


リアムはことあるごとに、日本への渡航を話している。

今バイトなどでその資金も貯めているらしく、ただの夢物語ではないらしい。


 「I'll show you around when you come here.」

  (こちらに来た時は案内してやる)

 「Definitely!」

  (絶対な!)


こちらでもいくらか世話になったのだ。

もし日本にくるようであれば、通訳や案内程度、勝手でても罰は当たるまい。

リアムは嬉しそうに笑ったが、その直後、少し声を落として真剣な顔になった。


 「...I heard about the Ava thing from Lindy.」

  (……アヴァの件はリンディから聞いた)

 「...I see.」

  (……そうか)

 「I don't think she'd do anything during the actual event,

  but I'll keep an eye out. She came all this way, so I want her to have fun memories.」

  (本番中になにかしてくることはさすがにないと思うけど、注意はする。

   せっかく来てくれたんだし、楽しい思い出で終わらせてやりたいしな)

 「Sorry to ask, but please do.

  I'll be on guard too, but I can't exactly be there the whole time during the event.」

  (悪いが頼む。俺も警戒はしておくが、さすがにイベント中は終始とはいかん)

 「Alright, leave it to me.」

  (おう、任せろ)


本当に気の良い男である。

煉矢はリアムと別れ、準備室のほうへ向かった。


一方、準備室へ引きずり込まれた乃亜は、ハンガーにかかるいくつもの振袖に目を丸くしていた。


 「ステージ衣装は、こういう感じで、振袖を着ようってことになってたの」


リンディはそういって、自分が選んだらしい、

白金の糸で編まれたとおぼしき振袖を肩にかけた。

袖を通すも、そのまま羽織ったままにするもそれは自由。


 「ノア、これ、かわいい、にあう」

 「No! This one!」

 「This one suits you better, don't you think!」


複数の女性たちにこれはどうだ、と勧められている状況に戸惑いながら

ひとつひとつを確認していく。

少し汚れたり、ほつれているものもあるが、それでもステージで羽織る程度なら問題ないと思われる。


 「ねぇ、ノアも振袖持ってるの?」

 「いえ、持ってはいないです」

 「あら、そうなんだ。日本の女の子ってみんな持ってるものだと思ってたわ。

  なんて言ったっけ、20歳のセレモニーがあるんでしょ?

  あれでみんな着るって聞いたことあるから」

 「成人式ですね。

  もちろん、購入される方もいますが、今はレンタルが多いんじゃないでしょうか。

  振袖を日常的に着る機会はあまりないですし、一着がとても高いですから」


乃亜はそう説明しながら選んでいく。

女性たちが選んでくれたものもどれも素敵だと思うが、

奏でる曲から衣装を考えたい。

和の雰囲気のセッションと、そのあとの盛り上がりを考慮すると、もっとモダンなものがいい。


 「これにします」


選んだのは、白地に大きな赤い椿と毬の刺繍が入ったものだった。

和の雰囲気もありながら、どこか現代の雰囲気もある。

力強い柄は、いずれの曲にも合うと判断した。


 「OK! じゃあこれで全部の支度は終わりね。

  あとはノアは、イベント内をゆっくり回ったり、練習したり、好きに過ごして。

  ここには12:00くらいにはいてくれればいいと思うわ」

 「分かりました」


乃亜の振袖を衣装担当に渡しリンディは頷く。

そしてこそり、と乃亜の耳に声をかけた。


 「赤なんて、大胆ね?」

 「え……、……!ち、違いますよ?!」


好きな人の色を身に着けるなんて、と言いたいと気づいて一気に頬が熱くなった。

違う、断じてそうではない。

慌てて否定するとリンディは楽し気に笑ってウインクした。

またしてもからかわれたらしい。


 「昨日は楽しく過ごせた?」

 「は、はい……」

 「よかった!」


からかわれることもあるが、リンディは間違いなく自分を心配して気遣ってくれている。

よかった、という彼女の顔は、本当に安堵したように明るいものだったからだ。


 「それじゃ、私はブースの確認があるから、またあとでね!」

 「はい、いってらっしゃい」


リンディは明るく笑って準備室を出ていく。

それと入れ違いに、煉矢が室内へとやってきた。

ちらと壁際に並んだ振袖に目を向ける。


 「なかなか数が多いな」

 「いろんなところから借りたと仰っていました」

 「お前は決まったのか?」

 「あ、はい。なので、あとは時間まで好きに過ごしていていいと」


一応何か手伝えればと思っていたが、

ステージ演者の殆どはここで確認や練習に打ち込むらしい。

せいぜい、スタッフと兼任しているリンディくらいなものだ。


 「煉矢さんも、特に今日はご予定ないんでしたか?」

 「ああ。事前にすることはしたからな。

  あとは集計結果やアンケート結果をもらって、俺の役目は終わりだ」

 「それを課題に応用する話でしたね」

 「ああ。提出して単位が取れれば、留学カリキュラムはおおむね完了だな」


どこか感慨深そうだ。

それはそうだ。彼は二年もの間、ここで学んでいたのだから。

幸いこちらで取得した単位は日本の大学でも適用されるらしく、

卒業にはなんの問題もないらしい。

隣に立つ彼をちらと見る。

一年日本の大学で学び、将来を見据えて交換留学に申し込み、その選考に通ってこちらにきた。

日常会話だけでなく、専門用語も多い講義に食らいついて、無事にそれを完遂する。

ただただ、尊敬するほかない。


同時に、思ってしまう。

やはりどうしても、この人の隣に居られる気がしない。

あまりにも弱く、助けられなければなにもできず、

自分の価値など本当にたかがしれている。

今こうして傍にいられるのは、彼が「妹」として、見てくれているに過ぎない。


乃亜は自虐的な笑みを小さく浮かべた。


 「……すごいです」

 「なんだ?」

 「いえ、なんでもありません」


つい、口から漏れ出てしまった。

自分と彼との明確な、あまりにも大きな差を感じてしまったからだった。

乃亜は首を振り、気持ちを切り替える。


昨日一緒に出掛けて、様々な言葉をくれた。

家に帰った後もそれを思い返し、ベッドの中で涙がこぼれた。

それは決して悲しい感情ではなくて、今まで認められなかったなにかが

認められたような喜びだった。

そのせいかは分からないが、どこか今日はすっきりとした気分で朝を迎えられた。

昨日一日休んだこともよかったのだろうが、

いずれにしても、煉矢のおかげで今自分は落ち着いている。


彼に、自分が出来ることは何だろう。


乃亜がそんなことを考えていると、室内の外がにわかに騒がしくなり始めた。

時計を確認すると時刻は開始時刻の10分前。

ステージから軽快な音楽が流れ始めた。

ブースの並んだ中庭には人が次々と集まり始めている。


 「随分たくさんの人が来るんですね」

 「この地域は多種多様な人間が住んでいるし、

  異文化交流にも積極的だ。

  中でも日本は特に好意的にとらえられている印象がある」

 「そういうクラブもたくさんあるってお話でしたね」


なにか自国の文化がこういった形で受け入れられているのは嬉しいものだ。

普段そこまで意識していない自分でさえそう感じてしまう。


やがて時間になり、ステージから、イベント開始のセレモニーが始まった。

開始の挨拶をしているのはリアムだった。


 「少しブースを見てみるか?」

 「いいんですか?」

 「ああ。出演時間までまだ時間はある」


正直興味はあった。

どう言ったものが展示されたりしているのか純粋な好奇心だ。

二人は早速準備室を出てブースの並ぶ中庭に足を向けた。

室内から見ていた時もかなりの人だったが、

こうして中に立ち入るとその人数はかなりのものだ。

煉矢はともかく、自分は身長的に埋もれる。

こちらの国の人々は女性に関しても皆自分より高い。


などと思っていると、片手を掴まれた。

昨日のように、横に並ぶ煉矢が手を繋いでくれたと気付いて思わず顔を上げた。


 「はぐれたらことだからな。悪いが、辛抱してくれ」

 「は、い……」


何度あっても正直慣れる気がしない。

しかしこの人の多さ、さらに言えば乃亜は小柄だ。

はぐれないとも言い切れず、乃亜は大人しく従うほかない。


ブースには様々なものがあった。

日本で人気のアニメやゲームに関するブースももちろんだが、

乃亜にとって意外だったのは、日本の伝統文化のブースも多く展示されていたのだ。


 「伊万里焼や有田焼、漆塗り、切子ガラス、組細工まで……」

 「友禅、紬についての紹介展示か。面白いな」

 「ちょっと日本人の私も、きちんと説明できる気がしないです……」

 「同感だ。もう少し自国の文化を把握して置くべきだと、実際、困ったからな……」

 「え?」

 「いくつかのブースで翻訳の手伝いをしたんだ。

  日本独自の文化を英訳するにあたり、微妙なニュアンスのものが多くてな。

  それが適しているのか、正直かなり苦労した」

 「ああ……たしかに」


日本語は難しい、というのはよく聞く話だ。

あつかう文字の種類もさることながら、同音異義語があまりに多く、

わずかなニュアンスの違いによって扱う文字が異なるなど、

話すことはともかく、読み書きはかなり苦慮すると聞いたことがある。

それを英訳するのは、確かに至難の業かもしれない。


 「Hey, Ren!」


あるブースの前を通りかかったときに声がかかる。

二人は足を止めて振り向くと、一人の青年が手を上げていた。

そちらに足を向けると、彼はにこやかに話しかけてきた。


 「You've got a cute one with you. Girlfriend?」

  (可愛い子連れてるな。恋人か?)

 「No. She's a friend from Japan.」

  (違う。日本からきた友人だ)

 「What a cold answer. Hello, I'm Owen. Nice to meet you.」

  (なんだ、つれないな。こんにちわ、俺はオーウェンだ。よろしくな)

 「あ、Nice to meet you. I am Noah.」

  (初めまして。乃亜です)

 「オーウェンは同じ統計学部で、講義がいくつか重なっていた関係で知り合った」

 「そうなんですね」


乃亜は納得して、改めて青年のブースの中を見る。

いくつかの簡易的なテーブルの上に置かれていたものや

ディスプレイされているものはひどく馴染みのあるものだ。


 「……折り紙?」

 「That's right! Japanese origami is a wonderful culture!」

  (そうさ!日本の折り紙は素晴らしい文化だよ!)


興奮したように彼はブース内に展示されている、よく知られている折り方を示した。

折り鶴や兜、やっこなど、それらは日本でもよく知られているものだ。


 「日本の折り紙は海外ではかなり評価が高いらしい。

  俺もこっちにきて、というかこいつに聞かされて初めて知ったがな」

 「成程……」


子供の頃、薬師に教えられていくつか折ったことを思い出す。

ブースの中では、動画や説明を見ながら、一生懸命折り鶴を折るひとがいた。

たしかによく考えると折り鶴などは造形的にも美しい。


 「Oh! If you know any origami, would you mind folding it for us?」

  (そうだ。なにか知ってる折り紙があれば、折ってくれないか?)

 「……なにかここにないものがあれば、折ってほしいと」

 「そう、ですね……」


といっても有名どころはすべて展示されているように思う。

子供の頃に教わったやり方を思い出しながら、

薄紫色の折り紙を手に取り、一つずつ丁寧に折り目をつけていく。

突然日本人の少女が現れ、

するすると手元で形が作られていくことに、ブースを訪れていた人らは目を丸くしていた。

やがてそれは出来上がる。


 「Lotus flower.」

  (蓮です)

 「Wow!!」


一斉に歓声が上がった。

その声にどきりとするが、オーウェンをはじめ、周囲の人々は乃亜の折った蓮の花に興味津々らしく、

それを丁寧にとって手の中で回して見ている。


 「Amazing! I've never seen this folding method before! Origami really is infinite!」

  (すごい!この折り方は初めて見た!本当に折り紙は無限大だな!)

 「Beautiful! Hey, could you fold it one more time? Teach me!」

  (綺麗!ねぇ、もう一度折ってくれない?教えて!)

 「Oh, I want to see too!」

  (あ、私も見たい!)


わずかに聞き取れた言葉からもう一度折るように言われていると察する。

戸惑いながら圧に負けるように二つ目に取りかかる乃亜を見て、

煉矢は隣で上機嫌な様子を見せるオーウェンに釘を差す。


 「...Owen, film her hands. We can't be stuck here forever.」

  (……オーウェン、手元を動画で撮れ。いつまでも拘束させられん)

 「Ya,of course!」

  (ああ、もちろん!)


そのようなこともあったもののブースをひとしきり回り、二人は準備室へと戻った。

乃亜としては思っていた以上に日本文化への敬意のようなものを感じて嬉しかったし

自身ももっと自国の文化を知るべきと反省もした。

いずれにしてもとても楽しい時間だったと思う。


準備室に入るとなにやらメンバーがざわついていた。

リアムが眉を寄せながら電話をし、

その周囲にはリンディと共にステージに立つシンガーが集まっていた。


 「……なにかあったんでしょうか」


乃亜の肩を軽くたたき、煉矢は端末をにらむリアムに声をかけた。


 「Liem, what's wrong?」

  (なにがあった?)

 「Ren! Have you seen Lindy?」

  (レン!リンディを見なかったか?)

 「Lindy? No, I've been going around the booths, but I haven't seen her.」

  (リンディ?いや、今までブースを回っていたが、見かけていないな)

 「I see... She hasn't come back after going on her rounds.」

  (そうか……。全体の見回りに行ったまま、戻ってないんだ)


たんに戻ってこないだけならばまだ良いのだろうが

彼らが焦っている理由は明白だ。

リンディと共にステージに立つ女性が頭を抱えている。

また、乃亜が心配そうに横に並ぶ。


 「We're up first, so I called to do one last final check,

  but I can't get through at all.」

  (私たちトップバッターだから、そろそろ一回最終合わせしないとと思って連絡したのよ。

   でも全然繋がらなくて)

 「The call tone rings, though... What's she doing?」

  (一応コールは鳴るんだけどな……なにしてるんだ、あいつ)


 「リンディさんに、連絡が取れないんですか……?」


ある程度聞き取れたらしい乃亜が心配そうにこちらに確認を求めてくる。

残念ながら事実であった。


 「そうらしいが、信じがたいな……」


煉矢は彼女の責任感の強さは知っている。

この大事なときに、無意味に連絡を無視しているとは思えない。

乃亜もリンディがこのイベントに対して、情熱を持って挑んでいると感じていた。

リアムもシンガーたちも、皆一様に、リンディに対する心配が勝っているようだった。


外のステージで歓声が聞こえる。

時間を確認するとダンスパフォーマンスが始まったのだ。

つまり、時刻は11時。

音楽関連のパフォーマンスは12時を予定している。


そろそろ準備を進めなければ間に合わない。

この場の全員に焦燥感が漂い始めた。

リアムの表情に、見たことがないような焦りと不安がにじみ始めた。


 「Hey, anyone who's free, go look for Lindy!」

  (おい、手が空いてるヤツはリンディを探しに行ってくれ!)

 「Liam, you go look in the places you think she might be. You know Lindy best.」

  (リアム、お前も思い当たる場所を探しに行け。リンディのことならお前が詳しい)

 「Ren...! No, but, I...」

  (レン……!いや、けど、俺は……)


駆けだしたい思いを必死にこらえているのは、彼がこのイベントの主催だからだ。

責任者として、簡単にこの場を抜けてはならないという責任感だ。

その気持ちは分かるし、そういったところもリアムの長所だ。

しかし、煉矢は肩をたたく。

リアムははっと顔を上げた。


 「I can handle things for about 30 minutes. Just go.」

  (30分程度なら引き受ける。いいから行ってこい)

 「...Sorry, I owe you one!」

  (……すまん、恩に着る!)


煉矢に進行表や必要書類の束を渡して部屋を駆けだした。

もとよりコンサル担当としてひとしきりの内容は把握している。

何かあったとしてもある程度は対処できると考えている。

乃亜はリアムの背中を見送り、煉矢を見上げた。


 「あの、リアムさんとリンディさんって……」

 「ああ、恋人同士だ。誰よりもリンディを探しに行きたいのはあいつだろうし、

  実際心当たりが一番思いつくのもリアムだろう。

  これが一番確率が高い」

 「……はい、そうですね」


こうしていつも、相手を気遣い、背中を押すのがこの人だ。

日本にいた時も兄を支えてくれていたように。

煉矢はさして特別なことをしていないというように書類を確認している。

本当に素敵な人だと、乃亜は改めて、この人への憧憬を再認識した。


時は無常に流れていく。

戸惑うシンガーたちもそうだが、乃亜もまた、リンディのことが心配でならない。

部屋の中に漂う焦燥はピークに達していた。

隣で進行表を確認している煉矢さえ、どこか落ち着かない様子をみせている。


短い時間しか共にしていないが、ここにいる人たちは皆素敵な人たちだ。

こんな人たちが、いくらも時間をかけて今日に臨んでいる。

リンディのことも心配だが、ステージのこともそうだ。

皆がそわそわとしているなかで、部屋の扉が開いた。

全員がそちらに注目するが、底にいたのは汗を流しつつも、

表情が晴れないリアムだっだ。


 「Didn't find her, huh...」

  (見つからなかったか……)

 「Yeah... I've been calling her, though.」

  (ああ……、電話はかけてるんだけど)


リアムは煉矢に礼を力なく告げ、首を振る。

それにいよいよ、シンガーの一人が頭を抱え出した。


 「What should we do...? I'm worried about Lindy,

  and the stage time is less than 30 minutes away...」

  (どうしよう……。リンディのことも心配だし、

   ステージももうあと30分を切ってるわ……)

 「Do we perform without the piano...?」

  (ピアノなしでやる……?)

 「But that song really needs the piano to liven things up! It's a key part!」

  (でも、あの曲はピアノがないと盛り上がりにもかけるわ。キーポイントだもの!)

 「That's true... but are we going to find someone else now?

  Do we even have anyone in mind?」

  (それはそうだけど……でも、今から別の人探すの?アテある?)

 「There might be someone who can play a little...」

  (ちょっと弾けるくらいの人ならいるかもしれないけど……)


不安のせいかゆっくりと話していることで乃亜にも話は聞き取れた。

確かに、彼女たちの歌う曲は、ピアノが大事な要素だ。

曲は同じ部屋で練習もしていたのでよくわかっている。

リアムの表情は暗く、煉矢もどうするか悩んでいる。

シンガーたちは不安、また、絶望さえにじませている。

他のスタッフもどうしたものかと表情は暗く、俯いていた。


自分なら、打開できるかもしれない。

けれど、足がすくむ。

喉の奥で言葉が詰まっている

本当にそんなことをしていいのかと、誰かが言う。

自分に出来るのか、していいのか、そんな自惚れのようなことをして。


   " どうかヴァイオリンを奏でる時のお前自身も、

     お前だと言うことを忘れないでくれ "


昨日の、煉矢の言葉が、乃亜の脳裏によぎった。

ヴァイオリンを奏でているとき、自分ではそうとは感じていないが、

周囲の人々が言う、自信に満ちた堂々とした姿、だというのなら、

そしてそれも、彼が言うように、自分だと言うのであれば。


乃亜は彼の声に背中を押され、ぐっと手を握って声を上げた。


 「..……っあの、 I can play!」

  (……っ、あの、私、弾けます!)


少し震えた声は、シンガーたちはさることながら、

リアムや煉矢、スタッフたちも驚いたように目を見開いた。

足が震える。

けれどもう後には引けない。


 「I have been watching your rehearsals. So, it will be alright.」

  (皆さんが練習されているの、見てました。なので、大丈夫です)


その言葉に、シンガーの一人がハッとして、乃亜に歩み寄る。

乃亜の言葉を疑うと言うよりも、心配するような様子で声をかけた。


 「But aren't you a violinist?」

  (乃亜、でも、あなたヴァイオリニストでしょ?)

 「It's nice of you to worry about us, but it's not that simple...」

  (私たちを気遣ってくれているのは嬉しいけど、でも、そんな簡単な話じゃ……)

 「Wait.」

  (待て)


どうしたものかと迷う彼女たちを制止する。

彼女たちの懸念はもっともだ。

けれど、乃亜の瞳は、見たことがないほどに強かった。

まるでヴァイオリンを奏でているときの彼女に重なる。


 「乃亜、出来るんだな?」

 「はい。私は確かにヴァイオリンが専門ですが、ピアノも弾けます。

  皆さんの練習も見ていましたし、ヴァイオリン同様、耳で聞いて弾くのも変わりません。

  だから、やれます」


まっすぐに見つめ返してくる彼女の言葉には自信があった。

煉矢はふっと笑い、頷く。

戸惑うシンガーたちに向けて告げた。


 「Noah is a violinist by profession, but I've heard she's also good at piano.

  A first-rate artist says she can do it. You should trust her.」

  (乃亜はヴァイオリンが専門ではあるが、ピアノも得意と聞いてる。

   一流のアーティストが出来ると言っているんだ。信じてやってくれ)

 「Ren...」

  (レン……)


すこし驚いたように声を上げたのはリアムだったが、

それにかぶせるように、シンガーの一人が乃亜の手をとった。


 「...Okay, I understand. Noah, I believe in you!」

  (……そうね、わかったわ。乃亜、あなたを信じる!)

 「!Thank you!」

  (!ありがとうございます!)

 「This little girl has mustered the courage to raise her hand.

  We should put our hearts into it too!」

  (こんな小さい子が勇気を振り絞って手を上げてくれたんだもの。

   私たちも気合いれましょ!)

 「That's right! Noah, don't worry.

  We'll cover for you with our singing, even if you make a few mistakes!」

  (その通りよ!乃亜、安心して。ちょっとミスしても、

   私たちの歌声でカバーするから!)


次々とシンガーたちが同意し、部屋の中にあった絶望の空気は一気に霧散する。

そこかしこで拍手や、気合をいれるような声が上がった。

乃亜は高鳴る鼓動に感じながら、シンガーと笑顔で頷きあう。


 「Still, I'd feel better if we could rehearse at least once.

  Liam, can you adjust the program?」

  (ただそれでも、一度は合わせないと不安だわ。

   リアム、プログラムの調整できる?)

 「Leave it to me!

  Noah, can we put you and Nick's session before their performance?

  It'll be back-to-back for you, though.」

  (任せろ!乃亜、君とニックのセッションの前に入れてもいいか?

   君は立て続けになるけど)


煉矢がその内容を乃亜に伝える。

乃亜としては何も問題ない。頷いて承諾した。


 「Okay! Then let's quickly get to the final confirmation!」

  (オッケー!それじゃ急いで最終確認に入りましょ!)


シンガーたちは乃亜を連れて隣のピアノが設置されている部屋へ向かった。

その背を見送り、煉矢はどこか感慨深く感じていた。

昨日のなにかが、彼女の背を押したのか。

それともまた別の要因かは分からない。

だが、確かに、乃亜の中でなにかが変わろうとしている。それを感じたからだ。


リアムはすぐにプログラムの変更を各スタッフに伝えた。

今の様子を見ていたスタッフたちの動きはやい。

スタッフへの指示も終えたリアムは深く息を吐き出した。


 「Noah is a truly amazing girl.

  Thanks to her, it looks like we might just pull this off.」

  (乃亜、本当にすごい子だな。あの子のおかげでなんとかなりそうだ)

 「Yes, I am also surprised.」

  (ああ、俺も驚いてる)

 「We have to thank her properly when this is over...」

  (本当に終わったら感謝しないと……)

 「More importantly, it's Lindy.

  I don't want to think about it, but something might have happened.」

  (それより、リンディだ。考えたくはないが、何かあったのかもしれない)

 「Yeah...」

  (ああ……)


安堵した様子から一変、ふたたび表情が陰った。

こちらとしても暗くさせたいわけではないが、現実は見なければならない。

項垂れるリアムの肩に手を置き、続ける。


 「Just keep calling her. That's all we can do right now.」

  (とにかく電話をかけ続けろ。今はそれしかない)

 「...I know.」

  (……分かってる)


リアムは溜息をもう一度はいて端末を操作し耳に当てる。

何度もこうして電話をしているが、一向につながらない。

また今回もそうではないか、という絶望が広がる中、

ブツ、となにか電子音がして、なにか唸るような声が聞こえた。

その声は紛れもなく、彼女のものだ。

リアムは驚き顔を上げた。


 「...! Lindy?!」

  (……!リンディ?!)


煉矢も驚き、リアムに目を向ける。

リアムは何度も彼女の名を呼んでいる。

どうならなにか反応があったようだが、冷静さを欠いてはまずい。


 「Liam, put it on speakerphone.」

  (リアム、スピーカーにしてくれ)


冷静な声にはっとして、リアムは震える手でスピーカーモードに切り替えた。


 「Liam...?」

  (リアム……?)


ぼんやりとした声。

しかしまぎれもなく彼女のものだ。


 「Lindy! Where are you?! What are you doing right now?!」

  (リンディ!お前どこに?!今なにしてるんだ?!)

 「...Where...? Uh... sorry, my head isn't working...」

  (……どこ?ええと……ごめん、頭が回らないの……)

 「Huh?! What are you talking about?」

  (は?!何言ってるんだ?)

 「Liam, wait」

  (リアム、待て)


どうも様子がおかしい。

上手く頭が回らないと言っている。

煉矢は少し考え言った。


 「... Lindy, without thinking, tell me what you see.

  What can you see from where you are?」

  (……リンディ、何も考えず、見えるものを教えてくれ。

   お前がいるところから、何が見える?)

 「...Things I can see...?」

  (……見える、もの……)


せめてそれが分かるものであることを祈る。

リアムと煉矢は端末をにらみながら、リンディの返答を待った。


 「It's a dimly lit place... olive-colored curtains... lab equipment...?

  Weird models... and, like, a bear and a bird, taxidermy...? It looks broken...」

  (薄暗い場所よ……、オリーブ色のカーテン……、実験機材……?

   へんな模型……、あと、なんか熊と鳥の、剥製……?壊れてるみたい……)


薄暗い部屋でオリーブ色のカーテンが敷かれている。

オリーブ色のカーテンはどこの教室にも共通のものだ。

実験機材らしきものや、模型、そして壊れた熊と鳥の剥製がある。

それに、はっと煉矢は気が付いた。


 「...! The first lab in the old research building...!」

  (……!旧研究棟の第一実験室……!)

 「Huh?! What the heck are you doing in a place like that?!」

  (はぁ?!なんだってそんな場所に?!)

 「Do you think I know the reason?

  More importantly, we should hurry over there.」

  (理由など分かるか。それより急いで向かった方がいい)

 「A-ah. But where is the old research building...?!」

  (あ、ああ。だけど、旧研究棟ってどこだよ……?!)


旧研究棟は統計学部とデータサイエンス学部の人間しかほぼ縁がない。

以前は生物学部が使っていたらしいが、今はこの二つの学部の機材保管などに使われているからだ。

リアムは歴史学部。場所的にもほとんど縁がなく、口頭だけで理解できるほど

この学校は狭くないのだ。


 「煉矢さん」


はっとして振り向くと乃亜がいた。


 「乃亜、どうした?」

 「ヴァイオリンの調律をしておきたくて……。

  それより、リンディさんと連絡取れたんですか?」

 「ああ。だが、様子がおかしい。

  場所も、推測できる場所にいるようだ。だが、場所がわかりにくい。

  リアムや他のスタッフでは……」


部屋にいるメンバーの学部についてはおおむね把握している。

その中で旧研究棟に馴染みがあるのは自分だけだ。

しかし、自分が今乃亜の傍を離れて良いのか判断が鈍る。

アヴァの件だけでなく、突如としてリンディの代理としてピアノに挑むことになったのだ。

心細くはないかと、不安を抱いているのではないかと。

しかし、乃亜は少し考えた様子を見せて、顔を上げ、そっと自分の手を取った。


 「煉矢さん、リアムさんと一緒にリンディさんのところに行ってください」

 「……!」


両手でつかむその手はもう震えていない。

こちらを見ている瞳は、とてもまっすぐだった。


 「ずっと、私は煉矢さんに支えていただいていました。

  それに比べたらささやかですが……少しだけ、あなたの背中を押させてください」

 「乃亜……」

 「私は大丈夫です。皆さんもいます。決して一人にはなりません。

  だから、あなたのご友人を助けにいってください」


その言葉に、心が震える。

ああ、なんて。

煉矢は乃亜が取り上げた右手をぎゅっとつかみ、頷いた。


 「ありがとう、乃亜」


ふ、と笑い、背後で茫然としてるリアムに声をかける。


 「Liam, keep the phone connected.」

  (リアム、電話はつないだままにしておけ)

 「Ren?」

  (レン?)

 「I'll guide you. Hurry!」

  (案内する。急ぐぞ)

 「Got it! Noah, thanks!」

  (!わかった!乃亜、ありがとうな!)


二人が駆けだしていく背中を、乃亜は微笑んで見送る。

その後ろで、シンガーたちが乃亜の肩に触れ、大丈夫、というように笑ってくれていた。


走り出した二人は統計学部の学舎の方に向かっていた。

目的の場所は統計学部の奥にある。

今はほとんど使われていないような小道を通って行かなければならない。

背後にイベントの喧騒を聞きながら、リアムは煉矢に声をかけた。


 「I'll say it again, but that girl is really amazing!」

  (もう一度言うけど、あの子本当にすごいな!)

 「Yeah, absolutely.」

  (ああ、全くだ)

 「No wonder Lindy likes her! Just like me!」

  (リンディも好きになるわけさ!俺もそうだけど!)

 「Don't you dare lay a hand on her. Her brother is a bit of a siscon.」

  (下手に手を出すなよ。あいつの兄はシスコン気味だ)

 「My heart belongs to Lindy alone!

  Besides, before that, you'd probably bite me!」

  (俺はリンディ一筋だよ!というか、その前にお前に噛みつかれそうだけどな!)

 「Just run. You want Lindy to hear Noah's performance if possible, right?」

  (いいから走れ。リンディに、出来たら乃亜の演奏を聴かせてやりたいだろ)

 「That's right! If she couldn't hear Noah's performance,

  she'd probably regret it for years!」

  (それな!あいつ、乃亜の演奏聞けなかったら

   たぶん数年は後悔するだろうし!)


時間はあまりない。

既に時刻は、12時になろうとしている。

プログラムの順番を変えたとはいえ、せいぜい猶予は20分程度だ。

人通りのない道を走り、やがてたどり着いた旧研究棟。

今はもはや物置としての色合いが強く、

常時人がいる他の棟にくらべ、いくらもひっそりとしていた。

出入口は開け放たれていた。本来は施錠されているはずなのにだ。


それに違和感を覚えながら一階奥に存在する研究室へと向かう。

薄汚れた廊下の奥にたどり着き、少し呼吸を荒くしながら二人はその前に立った。


 「Here.」

  (ここだ)

 「Lindy, Lindy! Are you in there?!」

  (リンディ、リンディ!いるのか!)

 「...Liam?」

  (……リアム?)


室内から聞こえた声に、二人は顔を見合わせる。

リアムはドアを開けようとするがドアノブは動かない。

施錠されていることに舌を打った。


 「Lindy, unlock the door!」

  (リンディ、鍵を開けてくれ!)

 「U-uh... okay...」

  (う、うん……)


か細く声が聞こえ、身体を滑らせるような音がする。

やがて、ドア間際でがちゃりと音がした。

それと同時にリアムが焦った様子でドアを開ければ、

リンディが床に力なく座り込んでいた。


 「Lindy!」

  (リンディ!)


リアムはリンディを抱き込みその無事にひたすら安堵した。

煉矢もまた安堵の息を漏らしつつ、室内を確認する。

特に荒らされたような様子もない。

また、ちらとリンディの様子も確認するが、髪や服が少しほこりで汚れているようだが

それ以外、それこそ衣服の乱れなどの異常は見当たらない。

密かに懸念していた事態にはなっていないことに、内心深く安心を覚えた。


 「Liam... I'm sorry, I don't quite understand what... happened...」

  (リアム……ごめん、私、なにが、起きたか、よく……)

 「More importantly, are you hurt? How are you feeling?!」

  (そんなことより、怪我とかないか?気分は?!」

 「I'm not... hurt. Just, my head is fuzzy... that's all.

  I was sleeping... the phone woke me up...」

  (怪我は……してない。ただ、頭が、ぼんやりしてる……それだけ。

   寝てたの……電話で、起きて……)


寝ていた、という言葉にリアムと煉矢は顔を見合わせる。

朝の様子を知っている二人にしてみれば、唐突にすぎる。

そもそもこんな場所で寝ていると言うこと自体がおかしい。

あまりにも不自然な話に、リアムは眉を寄せ表情に険しさをにじませた。


 「Could it be that you were drugged or something?」

  (まさか睡眠薬かなにか飲まされたのか?)

 「Anyway, let's head back to the prep room. It'll be better to let her rest there.」

  (とにかく、準備室へ戻るぞ。休ませるにしても、そこのほうがいい)

 「Ah, yeah, you're right. The stage must have already started.」

  (あ、ああ、そうだな。もうステージも始まってるだろうし)

 「The stage…?」

  (ステージ……?)


二人の言葉に、リンディははっと顔を上げた。

ぼんやりとしていた思考が少しずつクリアになってきているのか

自分の状況を把握したらしく、さっと顔色を変え、額に手を当てた。


 「 ...Ah! That's right... the event, I'm on piano...!

  Oh no... what am I doing...!」

  (……ああっ!そう、そうだ……イベント、私、ピアノ……!

   ああ、もう……私、なにしてんの……!)

 「Don't worry. Noah has offered to take your place.」

  (安心しろ。乃亜がお前の代理を買って出た)

 「Noah...?」

  (乃亜が……?)


泣きそうな表情の上に、どういうことだ、と疑問符が乗る。

煉矢は安心させるように頷き、

リアムもそれに同意して、リンディの肩に手を置いた。


 「Get your head straight by the time we get there.

  Otherwise, you'll definitely regret it.」

  (向こうに着くまでに、頭しっかりさせておけよ。

   じゃなきゃ、お前絶対後悔するぞ)

 「Yeah... you're right...」

  (うん……そうね……)


リンディはふらつく足取りながらも立ち上がり、

リアムが肩を貸す形で支え、ゆっくりと歩き出した。

煉矢は周囲をそれとなく警戒しつつ、二人のあとを追う。

この場所をすぐに思い出したのは、先日ほかならぬリンディと話をしていたからだ。

その話の発端だったのは。


まさか、という思いを消しきれないまま、ステージのある中庭へと急いだ。





煉矢とリアムがリンディを研究室で見つけた頃、

乃亜は黙々と原曲を確認しながらピアノに触れていた。

皆に言ったように専門というわけではないが、それでも弾くことはできる。

練習も見ていた。ミスもなく弾くことはできる。

けれどそれだけではだめだ。

この曲はメリハリがはっきりとしていないとぼやける。

原曲をよく聞いて、その僅かな調整を徹底したい。


乃亜の様子をシンガーやニック、日本語のできるスタッフたちが見守る。

ふだんどこか自信なさげで控えめな彼女だが、

今の様子はどこか鬼気迫る。

一流のアーティストにあるような、妥協を許さないというような真剣さがあった。


 「ノア、へいき?むり、だめ」

 「ニックさん」

 「ピアノ、できてる。大丈夫、あなた、すごい。みんな、驚いてる」

 「ありがとうございます。無理はしていませんから」


心配そうに話してくれるニックに、乃亜は笑顔で首を振る。

そう、無理はしていない。

むしろ今までにないほどに、どこか心が軽かった。

音楽に向き合っているときが、自分は一番、心が軽い。

けれど今はそれ以上だ。


 「ノア、時間、もうすぐ!Let's Go!」

 「はい!」


シンガーのひとりが声をかけ、乃亜は頷いた。

譜面とヴァイオリンを抱え、シンガーたちと一緒にステージに向かう。

ステージ前はすでに多くの人でにぎわっていた。

他のパフォーマーたちが盛り上げてくれていたことは想像に容易い。


 「ノア、これ、リンディ、衣装」

 「あなた、着て」

 「はい。ありがとうございます」


別のスタッフに自身のヴァイオリンと、自分のステージ用の衣装を預ける中、

リンディが着用予定だった振袖を羽織る。

ステージ上では皆似たような色合いの衣装にする話になっていたのだろう。


シンガーの一人、エマが乃亜をぎゅっと抱きしめた。


 「ありがと、ノア。あなた、だいすき。

  がんばるね、大丈夫、ミス平気よ」

 「っ、はい!」


それに続いて他のシンガー四人も抱きしめてくれた。

本当にここのひとたちは皆優しい。

大丈夫だと言ってくれている。ひとりじゃないと言ってくれているようで本当に頼もしい。


ステージ上で司会をしている青年が、

次の曲は日本でも大ブレイクし、大きく話題になった曲。

国も人種も宗教さえも越えて、世界中で愛される名曲だと。

本当にその通りだ。


 「Let's Go!」


スタッフがステージへ誘う。

ステージの雰囲気はいつものコンクールの雰囲気とはまるで違う。

けれど大丈夫だ。ただピアノの前に立てば、自分は音楽に向き合うだけ。


ステージに現れた女性たちの中に、ひとつ小柄な少女がまぎれこんでいることに

観客たちは気づいたようだった。

乃亜はそれに緊張を感じながら、ピアノの前に腰かける。

楽譜を広げたところで、ふと観客席へと目を向けると

少し離れた場所に、煉矢やリアム、そしてリンディの姿を見つけた。


よかった、無事だった。

それに最後の心の懸念が取り払われた。

あとはもう、やり切るのみだ。


視線をシンガーたちへ。

彼女たちもリンディの無事に気付いたのか、大きく笑みを浮かべている。

互いにうなずきあい、乃亜は鍵盤に手を置いた。


この曲は、シスターに扮することで追っ手から逃れることになった女性が、

潜伏先の教会の聖歌隊と共に映画の終盤で高らかに歌い上げられる曲だ。


心地よいピアノの旋律がステージに、会場に流れていく。

ざわついていた中庭が、すう、と静まりかえっていく。

まるでさざ波が広がるように、みなが息を飲みこんだのが分かる。


聖歌隊が歌うという背景上、訳詞としては主たる神への祈りと愛を歌ったものだろう。

彼について行く。

彼こそが自分の運命。

それを賛美歌らしい緩やかな旋律で奏でていく。


最初はそう、ゆるやかに。

ただ自分の愛の対象に向けて、静かな祈りをこめて。

自分にとっては、誰だろうか。

愛というものの大きさを、乃亜にはまだ図り切れていない。

けれど、きっと、大きなものだ。まるで昨日見た海のように。


たとえどんな高い山でも、深い海でも

自分たちを分かつことは出来ない。

そう歌い上げたシンガーたちの美しい歌声。


ここで反転。

大きな風を起こす。

その細い指からは考えられないほどに、強く激しく、けれどただ歓喜を乗せて。

一気に会場全体が沸いた。


楽し気に二人のシンガーの歌声が重なる。

観客たちもその歌声、リズムに乗り、手拍子をし始めた。

ひとによっては一緒歌っている。


ただひたすらに笑顔で歌声を導くように乃亜はピアノを弾く。

シンガーたちも踊るように歌い、さらに観客たちの盛り上がりも最高潮だ。

その様子を見守るリンディたちの顔にも笑みが浮かんでいる。


高らかな声に乃亜はピアノの鍵盤を撫で、フィニッシュを迎えた。

割れんばかりの拍手と歓声はさながら映画の最終幕に重なる。

ステージではシンガーたちが大きな笑みで客席に手を振る。

乃亜はふうと大きく息を吐いた。

その手をシンガーのたちが取り囲み、立ち上がらせて観客に紹介するように見せる。

乃亜は少し照れ臭そうにしながら、シンガーたちの中央で笑った。


後ろでスタッフが苦笑いではやく戻れと言っている。

シンガーたちはおどけながら笑い、観客に手をふって乃亜と共にステージの後ろへ戻った。

乃亜は急いで次の曲の準備をしなければならない。


 「ノアありがと!あなた素敵!!」

 「Very,very Exciting!! You are Best Artist!!」

 「ノア、次、僕とセッション!がんばるよ!」

 「はい!」


そう、自分としてはここからが本番なのだ。

興奮したようなニックに促され、乃亜は振袖を変える。

そして自分の手元に戻ったヴァイオリンに手を添えると、なにか戻ったような心地がした。

赤い椿の刺された振袖。

曲に合わせるだけで、それ以外の意図はなかったけれど

彼を彷彿とさせる色に守られている心地で、乃亜は息を吐き出した。


 「Alright! Next up, a breathtaking session!

  Savor the electrifying melodies of the shamisen,

  a Japanese instrument, and the violin!」


ステージ上で司会が興奮のままに高らかに宣言する。

ニックが視線を向け、乃亜も頷く。


そしてニックが先にステージに上がる。

わぁっ、と歓声と共に、ニックの三味線が始まった。

最初は彼のソロ。

多くの人々が日本を感じさせるその音色は、静かに厳かに旋律を奏でる。

バチのリズムが徐々に早くなり、重ねて練習したそのタイミングで

乃亜もステージへと姿を見せた。


ステージに現れた少女に観客はどよめく。

先ほど見事にピアノを弾いていた少女だと気づいた人々。

しかしすぐにそれは驚きへと変わる。

ニックの視線に応じて、その三味線に乗るようにヴァイオリンを奏でだしたのだ。

それは大きな旋回する風のような衝撃だ。

三味線は例えるのなら打ち付けるような雨。

それを呑み込み、渦を巻き、ヴァイオリンはステージや会場を呑み込む。

三味線が驚きの速さで旋律を打ち鳴らせば、それに負けじとヴァイオリンもおなじリズムを奏でる。

セッション、共演、しかし時にそれは競演に近い。

互いの音を互いの音で盛り立て、引き立たせ、時に打ち消し、さらに高くへと盛り上げる。


ステージの脇ではシンガーやスタッフたちが

観客の驚きと興奮、盛り上がりにハイタッチをしたり、満面の笑みで頷いている。


そして大きな盛り上がりと共に、同時にフィニッシュを迎えた。


割れんばかりの歓声と拍手が広がる。

ブースにいた人も、スタッフも、皆大きく手を上げて盛り上がってくれている。

ニックと乃亜はにこやかに笑い、手を取り合って日本らしくお辞儀する。

そしてニックだけステージから下がっていく。

その去り際に、がんばって、と声をかけてくれた。


 「Thank you for that wonderful session!

  And now, let's have this lovely violinist

  who came all the way from Japan grace us with the finale.

  …Are you okey?」


確認の視線を向けられ、乃亜は笑顔で頷く。

司会の彼もまた、練習中、気さくに声をかけてくれた人だ。

乃亜が頷いたのを確認し、親指を上げてウインクしてくれた。

彼なりのエールだ。


 「The song is that famous tune everyone knows!

  Everyone…

  Sing 'This is me' with all your might, okay?」


絶妙な掴みだ。観客はわぁっと声を上げた。

ちらと確認すれば、伴奏のピアニストがすでに席についている。

視線を向け頷くと、彼女もそれに応えてピアノを叩き始めた。


先ほどのような力強くはやいメロディではない。

最初はゆるやかに、優しく、誰もを包み込むように。

けれど弱弱しくもあるのだ。

誰だって最初の一歩は足がすくむのだから。


だがそれを打ち破る。

奏でていくその音は一気に皆を高くへと先導する。

観客からの歌声が聞こえる。

乃亜はそれに笑い、まるでもっと、というように

ステージの上を歩きながら観客たちの歌を広げる。


ステージ上にさらにダンサーや先ほどのシンガーが現れた。

マイクもなく、ただ地声だけで高らかに歌う。

これが私、と何度も。


一瞬の静寂に静かな旋律。

映画のプロモーションさながらのように、

歓声のように歌われていた声がその瞬間止まる。

誰もが理解している。

今この場の主旋律はヴァイオリンだ。

そしてラスト、皆を盛り上げ、ともに歌い、共に笑い、一気に弓を引き上げ。


途端最高の盛り上がりと共に会場全体が揺れたようだ。

乃亜はシンガーたちに抱きしめられ、破顔して笑う。

観客たちの楽し気な笑み、いくつもの拍手、歓声。

それに乃亜はお辞儀をしてステージの裏へと帰った。


メンバーたちからの称賛、握手、様々な歓喜に包まれながら

乃亜は初めてやりきったような、満ち足りた感覚を抱いていた。




その後準備室へシンガーたちと戻ると、そこに彼らが先に戻っていた。

乃亜やシンガーたちの姿をみて、少しふらつきながらも駆けてきたのはリンディだった。


 「ノア!」

 「リンディさん、無事で……っ」


リンディは乃亜をぎゅっと強く抱きしめ、

涙を流しているようだった。背に手を当てると少し震えている。


 「ごめんなさい!ありがとう!

  本当に、本当にありがとう……!」

 「リンディさん……」


リンディの奥に目を向けると、リアムと煉矢が穏やかに微笑んでいた。

二人の姿をみてほっと安堵する。

どうやら大きな問題はなかったようだ。


 「Alright everyone, thank you so much! Thanks to you all, it was the best stage ever!

  Especially Noah, I can't thank you enough!」

  (みんな、ありがとうな!おかげで最高のステージになった!

   特に乃亜、君には感謝してもしきれない!)

 「ノ、No, I only did what I could...」

  (いえ、私は、できることをしただけですから……)

 「But what you can do is amazing! Thank you so much, really!」

  (その出来ることがすごいんだ!本当にありがとう!)


リアムにも重ねて言われ、乃亜はすこし所在なく思うが

リンディがこちらと視線を合わせてくれた。

少し目元がくすんでいるのは、涙で化粧がにじんでいるからだ。


 「ノア、リアムの言う通りよ。

  あなたは最高のアーティスト。音楽の神様に愛されてる。

  でも本当、迷惑かけてごめんね」

 「い、いえ、リンディさんこそ、大丈夫ですか?」

 「うん。あなたの演奏のおかげで、頭もすっきりしたわ。

  本当に、本当に素晴らしいステージだった。

  ありがとうね」


リンディに重ねて言われ、乃亜は少し照れながらも頷く。

そしてシンガーたちがリンディの体調を気遣う言葉をかけ始め、

乃亜はリンディたちから離れ、煉矢の元へと歩み寄った。


彼は乃亜の肩に手を置き、深く頷く。


 「よく頑張ったな、乃亜」


短いけれど、彼の言葉はどの賞賛よりも嬉しかった。

彼が招待してくれたこの地で、彼のためにできたことは、本当に嬉しい。

ヴァイオリンを近くの机の上にそっと置き、

彼の隣でぽつりとつぶやく。


 「……煉矢さんのおかげです」

 「?」

 「昨日……、あなたがかけてくれた言葉がなかったら、

  私、きっと、あんな演奏も、ピアノの代役もできませんでした」


心からそう思う。

彼の言葉が、自分の中でなにかを大きく変えたのは間違いない。

それがなかったら、ヴァイオリンは弾けても、

代役なんて、とてもではないが、言い出せなかった。


 「だから、あなたのおかけです」


見上げて微笑めば、彼は少し驚いたようだが、

すぐに目を細めて、頭を撫でてくれた。


 「お前の力になれたのなら、幸いだ」

 「はい」


見つめてくれるその眼差しが、ただ嬉しい。

そして、愛おしかった。

けれど、そのあたたかい時間は長く続かない。


誰もが興奮の声をあげている中で、かすかに、嫌な音が聞こえたのだ。

その音に全身が危険信号を放った。

思わず廊下の方を見る。

リンディとシンガーたちがその近くで談笑している。

リアムもリンディになにかを話している。

けれどその音が近づく。ダメだ。この響きはよくない。


 「乃亜、どうした?」


乃亜の表情が硬直し、青ざめたことに気付いた煉矢は乃亜に声をかける。

乃亜はぎゅっと両手を握りしめて瞬きさえ忘れ廊下を見つめている。

肩に触れその様子にさらに声をかけようとしたが、

それより早く、廊下でどよめきが聞こえた。

ドアが殴りつけられるような音が響き、室内が静まり返った。

乃亜はびくりと大きく身体を揺らす。

とっさに煉矢は乃亜の身体を引き寄せた。


ドアからはウェーブのかかった髪を乱して

鬼気迫った様子で室内をにらみつける美女が入ってきていた。


 「Ava?!」


リアムが叫んだ。

彼女は顔を真っ赤にし、手を震わせて室内の全員をにらみつけている。


 「What do you want? This area is off-limits to non-staff.」

  (何の用だ、アヴァ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ)

 「You're so annoying! Don't tell me what to do!」

  (煩いわね!私に指図しないで!)


耳障りなほどに甲高い声だ。

そのたびに乃亜が震える様子を見せ、

煉矢は乃亜を抱き込み、彼女の視界を片手で覆う。

乃亜は両手を口元の前で強く握りしめている。

はやくこの場から離脱させたいが、入り口は遠い。煉矢は舌を小さく打った。


 「What is it? Why are you all so noisy?! Why won't things go my way?!

  Lindy, this is your fault! This is all your fault!」

  (なんなのよ、なんでこうるのよ!なんで私の思い通りにいかないわけ?!

   リンディ、あんたのせいよ!あんたのせいでこんなことになって!)

 「What are you talking about...?」

  (なんのこと……?)


リンディはまったく理解ができないように眉を寄せ、首をかしげる。

アヴァはそれにさらに激高した。


 「Because you weren't obediently staying in that room,

  I ended up in a terrible situation!」

  (あんたが大人しく部屋にいないから、

   おかげであたしがひどい目にあったじゃない!)

 「In the room...? Don't tell me... you were the one who put Lindy in a place like that?!」

  (部屋に……って、まさか、お前がリンディをあんなところに?!)

 「I just slipped her a little something to make her sleepy.

  If she had just stayed put in that room, then by now...!

  But you weren't there, and I had to deal with things!

  It was the worst! Why won't things go my way?!

  Because you weren't there,

  I thought the stage would be a disaster and everyone would be disappointed in you!

  But...!!」

  (私はちょっと眠くなる薬を差し入れただけよ。

   あの部屋に置いて、大人しくしててくれれば、今頃……!

   なのにあんたはいないし、おかげで私が相手することになってさ!最悪よ!

   なんで思い通りにいかないの?!

   あんたがいないせいで、ステージが失敗して、誰も彼もがあんたに失望するって思ったのに!

   なのに……!!)


睡眠薬を差し入れた、その言葉に全員が気づいた。

リンディを陥れたのは彼女だ。

何人かが廊下を駆けだしていくのに、アヴァは気づかず、狂ったように叫び

そしてきっと部屋の奥にいた乃亜に目を向けた。


 「And you too, you little Japanese brat!! 」

  (あんたもよ、日本の小娘!!)


乃亜に矛先がむいたと気づいたニックやスタッフ、シンガーが彼女の元に駆けよる。

だがそのせいで乃亜は視界が聞かないにもかかわらず、自分に刃が向けられていると気づいた。

心音が大きく脈打ち、呼吸がしにくくなってくる。


 「You were a complete miscalculation!

  On top of everything, you're clinging to my Ren! Get away from him!

  I'm supposed to be there by Ren's side! We don't need the likes of you, you brat!!

  Just go back to Japan!! Go home!!」

  (あんたこそ本っ当に計算外!

   ただでさえ、私のレンにくっついてさ!離れなさいよ!

   レンのそこには私がいるべきなのよ!あんたなんかお呼びじゃないのよクソガキ!!

   さっさと日本に帰れ!!帰れよ!!)


乃亜にとびかからん勢いだが、彼女の前に他のメンバーが立ちふさがり、

また、煉矢は強く乃亜を抱きしめている。

それにたじろぎ、アヴァは煉矢にすがるように目を向けるが、

彼の視線は冷酷そのもので、差すように鋭く、冷たい。

侮蔑、嫌悪、そんな色で染められた眼差しに射抜かれ、アヴァは先ほどの勢いが薄れる。


 「...What? Why are you looking at me like that?

  No matter how much I talk to you or touch you, you never even glance at me.

  And now that you finally look at me, why are you giving me that look?!

  It's not fair! All the men do whatever I say!

  I'm way more beautiful than some little girl like you, right?!

  I have money, and this body of mine, you can do whatever you want with it if you wish?

  So, why?!」

  (……なによ、なんでそんな目で私を見るのよ。

   私がどれだけ言っても触っても、全然見てくれないのに。

   やっと見てくれたと思ったら、なんでそんな目で見るの?!

   おかしいじゃない!男はみんな私の言いなりなのに!

   私の方がそんな小娘より、はるかに美人でしょ?!

   お金だってあるし、この身体だって、あなたが望めば好きに出来るのよ?

   なのに、なんでよ?!)


あまりにも自己陶酔の高い発言にただただ、侮蔑だけが広がる。

なぜこんな女の言葉に耳を傾けなければならないのか。

そんな時間がひどく惜しい。

こんな女に構う暇があるなら、今腕の中で震える彼女を気にしていたい。

心底うんざりし、煉矢は初めて、アヴァに対して声をかけた。


 「…Idiotic.」

 「?!」


何度声をかけられても一切無視していた。初めてかけた言葉がこれだ。

アヴァは唖然と、その場に崩れ落ちた。


廊下が再び騒がしくなった。

警備の人間を連れたスタッフが駆けこんできた。

リアムは手早く警備に事情を話し、アヴァを別室へと連れていく。

彼女は睡眠薬を使って学生を陥れようとした。これは国内では厳罰だ。

アヴァは最後の煉矢の言葉がよほどきいたのか、力なくつれていかれるばかりだった。


 「ノア!」

 「ノア、だいじょぶ?もうだいじょうぶ」


ニックたちやリンディが乃亜の元に駆けよる。

乃亜は彼女たちの声がまるで聞こえていないようで、ただ両手を白くなるまで握りしめていた。

震えているのがわかる。両目は見開かれ、ただ何かに耐えている。

煉矢は即座に、過去のトラウマが刺激されていると察した。


 「Ren, let her rest in the next room. Her face is pale as a ghost.」

  (レン、隣の部屋で休ませてやれ。顔色が真っ青だ)

 「Yeah, I'll do that. Sorry about this.」

  (ああ、そうさせてもらう。悪いな)

 「Don't worry about it.」

  (気にすんな)


リアムに礼を言い、心配するメンバーたちを置いて乃亜を隣の部屋に連れていく。

乃亜はただなにも言わない。黙り込んで震えるばかりだ。

つよく唇を引き結び、耐えている。

部屋には誰もいない。

いくつか並んだ椅子に乃亜を腰かけさせ、自分も隣に座る。


 「乃亜、もう大丈夫だ。誰もいない」

 「……っ、ご、め、」

 「謝るようなことはない。大丈夫だ」


謝罪の言葉の合間に、ガチガチと歯が震えるような音がした。

それに自分で気付いたのかとっさに口を両手で押さえつけた。

そうか、と気づく。

唇をつよく引き結んでいるのは、他の誰にも聞こえないようにするためだ。

なるべく音を立てないように、息を殺して、耐えることで何かをやり過ごそうとしている。


こうやって、幼い頃も、耐え続けていたのだ。


肩を抱き、引き寄せるように抱きしめた。

なにも聞かせたくない、見せたくない、ただ暖かな場所にいてほしい。

そう彼女の兄が護り続けようとしたことが、少し理解できた。

分かっているつもりだった。

けれど本当はそれはごくわずかなもので、

彼女の負った傷を理解しきれていなかった。


抱きしめてやることしかできないなど、

まるであの時となにも変わっていない。

震える小さな子を守るために、どうしていい分からず、

ただ寒さから守るように、抱きしめて、冷たい足先を包み込んでやっていた時のような。


 「……乃亜、俺の声は聞こえるか?」

 「っ、は、」

 「声をだしていい。誰もいない。お前を叩く者など、どこにも」

 「……っ、は、い……っ」


強張っていた身体の力が抜けていくように、肩が少し降りた。

抱きしめる身体は細く華奢だ。

これでも小さいと思うのに、さらにずっと幼い頃に、

先ほどの怒号よりも恐ろしい目に遭い続けてきた。

そんな傷が、そう簡単に癒えるはずはなかった。


 「もし、そんな奴が現れたとしても、必ず俺が助ける」

 「……煉矢、さん……」

 「あの時と同じように、何度でも」


その声に、乃亜は脱力したらしくこちらに体重がかかる。

抱きしめる腕の力を少し抜いて、髪を撫でる。

弱弱しく、こちらの胸元の服が握られた感覚がした。

やがて、小さい嗚咽のような声が聞こえた。

ほっと声を張り上げて泣いてもいいのに、彼女は声を殺すように泣いている。

あの時と同じように。


煉矢は乃亜の身体を抱きしめながら、

ただその声なき泣き声に胸を痛めた。

もっと、もっと声を上げていい。

怖いと叫んでもいい。

つらいと喚いてもいい。

もっと感情を顕わにしてもいい。


今は無理でもいつか。

そしてそのいつかが訪れた時は、今と同じように、

抱き留めてやりたいと無意識のうちに、願った。


「Idiotic」は侮蔑するとかそういうニュアンスの言葉です。あえて訳は書きませんでした。言語独特の、衝撃というか強さみたいなのがいいなと思ったためです。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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