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【薫風編】38:xx16年3月29日

乃亜は生まれて初めて、着る服に迷う、ということを経験していた。


日本から持ってきた服は着回しがある程度できて、

ましろにも見立ててもらい、中学生というよりも

少し大人びたようなデザインのものが多い。

彼女曰く、自分にはこの方が似合うから、だそうだ。


少し戸惑いながらもファッションにはあまり詳しいわけではないため

ましろの見立てを素直に信じて持ってきた服は、

確かに大人びていて、こちらに来てから、

自分より大人ばかりのこの環境にいても、

さほど違和感を持たれることもなく過ごすことができていると思う。


しかしそれはあくまで、日常の延長程度に過ぎないレベルのものだ。


 「……どうしよう」


思わず口から漏れ出た。

こんな悩みをここで抱くとは思わなかった。


すべての発端はつい先ほどの話。

大学を出て、いつものように車で煉矢の家に戻る最中だった。


 「乃亜、明日の練習は休みだ」

 「え……?」


唐突に言われて少し襲ってきていた眠気が吹き飛んだ。

思わず見返すと、彼はまっすぐ正面を見ながら、

さして特別なことは言っていないというように続けた。


 「こちらに来てから、ろくに観光のひとつもしていないからな。

  明日は一日、案内させてくれ」

 「え、でも……もう、イベント当日まで、間もないですよね……?」


実際イベントの本番は明後日に迫っている。

リハーサルに関しては今日までの間に時間を見つけつつ行ってはいる。

それでも練習として集まれるのは明日で最後のはずだ。

そんな時に休んでよいとはとても思えない。


 「リンディやリアム、ニックたちにも確認をした。

  乃亜は当日に備えて英気を養えと言伝をもらっている」

 「……それは、でも……」

 「家でゆっくりしたいならそれでもいいが、

  いずれにしろ、明日は休み。

  それは変えない」


煉矢がそう断定するように言うのは珍しい。

乃亜はその様子に違和感を抱いた。

なにかあったのか。

ややあって、もしや、という推測に行きついた。


 「……リンディさんに、なにか言われましたか?」


彼は何も言わない。

無言の肯定だった。

横顔に変化はないが、それがかえって、理解させた。


乃亜は苦笑いを浮かべて自分も正面を見た。


 「……お気遣いいただいて、すみません。

  でも、なにもされていませんし、大丈夫ですよ」

 「なにかをされてからでは遅い」


そうかもしれないが、起きてないことに対して

気遣われすぎるのも少し困ると言うのが正直なところだ。

しかし、煉矢の言うように、何か起きてからでは

確かにかえって迷惑をかけることになる、というのも、

乃亜は理解できてしまった。


 「……分かりました。明日はおやすみをいただきます」

 「ああ」


とりあえず納得した旨を伝え、その場ではそれ以上なにも会話はなかった。


やがて車が自宅に到着した。

いつものように夕食を取っているとき、再び明日の話になった。


 「明日だが、どこか行きたい場所はあるか?」

 「いえ、その……あまり観光地については調べていなくて」

 「であれば適当にこちらで考えるが、

  そうだな……、海岸沿いか、もしくは植物園か、どちらがいい?」

 「そう、ですね……」


少し考え、出た答えは海岸沿いだった。

久しく海など見ていないというのが理由だ。

煉矢は頷いてあとはこちらで考える、と食事に戻った。


そうして部屋に戻ったあと、なにを着るかと考え始めての今である。


一人になって冷静になり気づいてしまったのだ。

気付きたくなかった。

こんなのまるでデートではないかと。


ここしばらくイベント関連のことで忙しく、ヴァイオリンのことばかり考えていた。

だから良くも悪くも、煉矢のことを意識していなかったのだ。

なのに今日、あのようなことがあって、リンディにもからかわれた。

準備室に戻ってから正直、煉矢の顔を見ることはできなかった。

やっと落ち着いて普段通りに過ごすことができた矢先にこれである。


デートに着ていく服など、まるで考えられない。

正直今すぐましろに相談したいが、さすがにこんなことで相談できない。


正直もう考えていても仕方ないので、

乃亜は溜息を吐き出して、オフショルダーの白のカットソーに、

黒いロングのワンピース、それに薄手のラベンダー色のカーディガン。

いつもとさして代り映えがないのはもうしょうがない。

こんなことになるなど全く思っていなかったのだから。


せめてもの救いはいくつかのアクセサリーがあることだろうか。

皮ひもが通った少し大きめの木製のチャームがついたペンダント。

イアリングは持ち合わせがないので仕方がない。

腕にはそれと合わせる形での細い銀と金の三連のブレスレット。


正直この程度しか用意できないのが悲しい。

数ヶ月前、彼の誕生日その日に自覚してしまった想い。

本当はもっと前からかもしれない。

そんな人と、デートのように出かけることができる。

勿論、相手はそんな風にはきっと考えていない。

彼にとって自分は、友人の妹で、幼馴染のようなもので。

せいぜい、妹、くらいの感覚と思っている。


そう考えると切ないし、胸がぎゅっと締め付けられる。

けれど、今の環境を考えれば、ひどく贅沢だと自分に言い聞かせる。

どんな形であれ、今はごく近くで過ごすことができている。

少し前は海を隔てて会うことさえできなかった人にだ。

この日々は、きっと一生もののご褒美に違いない。


ふと、昼間に、肩に触れられた手のぬくもりを思い出す。

まるで守られているようで、心から嬉しかった。


けれど、期待してはいけない。

することさえ烏滸がましい。

自分なんかが、隣にたてる筈がないし、煉矢に対して失礼だ。

傍にいられるのは、自分が「妹」だからだ。


今の関係がおかしくなるくらいなら、こんな胸の痛みなど抑え込める。


 「……煉矢さん」


思わずつぶやいた声が震えていたことなど、きっと気のせいだ。





翌日、いつものように朝食をともにとり、

昼頃に出かけるという話を聞いた。

それまでの間はいつものようにヴァイオリンの練習を進め、

気になる箇所を徹底して繰り返した。


やがて準備が必要な時間になり、乃亜は昨晩考えた服に着替えた。

いつもより入念に髪に櫛を入れてしまったが、

海沿いなのであれば風も強い。

まったく意味がないとその後に気付いて自身に呆れた。


支度を済ませてリビングに行くと、

彼はすでにやってきていた。


 「お待たせしました……」

 「いや、大丈夫だ」


彼はいつもと変わった様子はない。

それに少し安心感を覚えた。

少しはやいが出かけることになり、車に乗り込む。


 「このあたりの海岸線は遊歩道が整えられていてな。

  のんびりと過ごすにはいいと思う」

 「はい。楽しみです」

 「では行こう。だいたい10分くらいだ」


車にエンジンがかかり、やがて出発した。

空は今日も晴れ渡っている。

あたたかささえ感じ、空は明るく澄んでいてでかけるには良い陽気といえた。


今まで通った道のりではないこともあり、

車窓からみる景色も楽しいものだった。

歩いていく人々だけでなく、みえる景色も、改めて見ても日本とは大きく違う。

どちらがいいと言うわけではない。

それぞれに良さがあり、乃亜はこちらの景色も好ましい。


やがて遠くに景色の切れ目が見える。

海だ。

見えてからは瞬く間だった。

駐車場らしき場所に到着して車を停車させる。


車を降りた途端に海のにおいが広がった。

穏やかな海の向こうに別の都市が見える。

海にはボートがいくつも浮かんでおり、けれど風は穏やかで、

ボートもまた、静かにたたずむばかりのように見えた。


 「あちらに見えるのがサンフランシスコだな」


初日に通ってきた場所だと初めて気が付いた。

到着した日はなにか落ち着かなかったし、周囲を見ていても

どこか記憶に残りずらかったのかもしれない。


 「少し歩こう」

 「はい」


海岸沿いはのんびりとした遊歩道になっていた。

どこまでも続いていくような海に沿い、

サイクリングをする人や、犬の散歩をしている現地の人とすれ違う。

ただゆっくりと流れていくような時間はひどく心地よかった。


あたたかく優しい太陽の光と、青い澄んだ空。

海からの潮風、波の音、遠くに聞こえる人々の笑い声。

少し早いマリンスポーツを楽しんでいるのか、

海岸にピクニックでもしに来ているのか。

いずれにしてもごく長閑で心地よかった。


 「……海を見たのは、久しぶりです」

 「そうか。前回みたのは?」

 「たぶん、薬師先生の施設にいた時です。

  たまには出かけようと言って、私と何人かを連れて、

  海の見える公園に連れていってくれたんですよ」

 「それは、確かに久しぶりだな」


実際のところ、そのあと中学の間に、

友人たちが海に行こうと誘ってくれた時はあった。

しかし乃亜はそれを、ヴァイオリン教室と重なっているため断った。

それは本当のことだったが、本音を言えば、

水着を着るのが嫌だったからだ。


そのあともいくつか会話をしながらゆっくりと歩く。

ただなにをするでもないが、乃亜にとってこの時間はとてもありがたい。

やがて歩いていくと、人が増えてきたような気がする。

多くのひとが、端末やカメラを掲げて写真を撮っていた。


 「人が増えてきましたね」

 「ああ、あそこに見える、ゴールデンゲートブリッジが目的だろうな」


それは乃亜も聞いたことがあったし、学校の授業でも触れたような気がする。

たしか建築当時、世界最長のつり橋と言われていたはずだ。


晴れやかな空と歴史的な橋、そして海を境にした都市。

それを合わせて写真に撮りたいと思う気持ちも分かる。


 「乃亜、あまり離れるな」


気付けばそちらの景色を見入っていたらしく、

横にいた煉矢から少し離れていた。

少し焦って駆け寄ると手を取られた。

大きな手で握られ、目を見開くが、戸惑う間もなく、そのまま手ごと引き寄せられた。

あらゆることにパニックし何事かと思っていたが、自分たちのすぐ傍を観光客らしい団体が歩いてきたからだった。

そういうことだったかと安堵した。


 「少し早いが、昼食にしよう」

 「は、はい……」


だが、すぐに離れるかと思った手は離れず、

乃亜は内心小さい混乱状態に陥りながら彼の案内に従う。


昼食を、といった通り、連れてこられたのはレストランだった。


開放感いっぱいに道沿いの壁が取り払われオープンテラスになっていた。

ダークブラウンの木の天井にファンが回り、壁際には深い緑の観葉植物、

青と白のストライプ模様のタープが張られ、更に壁には帆船の操舵桿が飾られている。

海沿いのレストランらしい雰囲気である。

床は少し年季が入ってるのか、歩くとキシキシと音がする。


よく考えたらこちらに来てからの外食は初めてだ。

店に入ったところでようやく手は離れた。

少し安堵して、案内されるた席につく。

メニューを確認すると、シーフードのメニューが中心のようだった。

これだけ海に近いのだからそれも納得する。


 「あの、こちらには来たことがあるんですか?」

 「リアムたちに連れてこられてな。

  まぁ、今はいい店を紹介してもらったと思っている」

 「リアムさんとは、リンディさんを通じて親しくなったってお話しされてましたよね」

 「そうだな。あいつは歴史学部だから、本来は縁もなかった。

  リンディはデータサイエンス学部だから、講義の流れで知り合った」

 「成程」


あれだけ大きな大学だ。

学部のジャンルによってはすれ違うことさえない学生がいても珍しくはない。


いくつかメニューから注文を済ませて、

先に飲み物がテーブルに届いた。

煉矢の前には辛口のジンジャーエール、

乃亜の前にはレモネードが置かれ、それぞれ口にする。

少し甘いが、それでもレモンの風味はしっかりと感じられた。


その後も会話をしながら注文した食事をいただく。

海鮮がメインとしているだけあって、どれも美味しかった。

正直食事事情については不安もあったが、

こちらにきてからさほど困った事態にはなっていない。

海鮮や新鮮な野菜が取れる地域だからだろうか。

日本にある意味では似ているのかもしれない。


 「このあたりは、食材が日本と少し似ていますね」

 「ああ、言わんとしていることは分かる。

  俺も正直、留学するにあたっての不安の一つだったからな。

  その点は幸いだった」


煉矢にも不安があったのかと失礼ながら思ってしまった。

とはいえ食事問題は切実な話だというのもわかる。


 「日本食が恋しいということはありませんでしたか?」

 「ない、とは言わんが、幸いアジア系のスーパーもあったからな。

  作ろうと思えば、ある程度は。

  まぁ、それでも日本の食材ではないものも多い。

  最たるものは米か」

 「ああ、それは確かに……」


煉矢と共にスーパーマーケットに足を運んだことはあるが、

米に関してはいずれも海外産のものばかりだ。

しかも日本で買うより割高で、煉矢曰く旨くない、とのことだ。


 「とはいえあと二か月程度の辛抱だ。

  5月末にはそちらに帰る」

 「はい。兄さんも喜びます」

 「どうだかな」


ふ、と静かに笑う姿に、きっと煉矢も

友人との再会を心待ちにしているのだと察した。


食事を終え、食後にコーヒーを注文した。

届いたカプチーノを口にして、ほっとひとつ息を吐いた。


ふと外に目を向ければ、穏やかな海の景色が広がっていた。

道行く人々も先ほどよりも少なくなっていて、

流れ込んでくる風はゆるく、こちらの髪を揺らしている。

自然と口元に笑みが浮かんだ。


ひどい疲労を感じていたとは思っていないし、

無理をしているとも思っていない。

けれど、こうして過ごしている静かな時間は、確かになにかを癒しているような気がする。


   ___今日連れてきていただけたことは、私にとって、大事なことだったんですね。


どこか他人事のように、けれど確かに、そう感じた。




レストランを出た二人はその後、海沿いから少し離れた

ショッピングストリートを少し歩いた。

海沿いの町らしい町並みは見ているだけで楽しさを感じたし、

ウィンドウショッピングも物珍しいものが多くついあちこち目をさまよわせてしまう。

少し子供っぽいだろうかと思ったが、隣を歩く煉矢はなにも気にした様子はない。

ただこちらを穏やかな視線で見守ってくれている。


そんな中、歩いている中で、露天商が立ち並ぶようになった。

話を聞くと曜日と時間によって、こうしてフリーマーケットのような形になるらしい。

ふと並んだアクセサリーに目がむいた。


水色と白が重なったような不思議な石のペンダントだった。

ドロップ型のそれはまるで海の波を切り取ったように美しい。

つい、足を止めてまじまじと見てしまう。


 「Find anything you like, sweetie?」

  (なにか気に入ったものはあるかい?可愛いお嬢さん)


露天商らしき青年に声をかけられ、少し戸惑う。

しかし青年はさして気にした様子はなく、朗らかに話をつづけた。


 「Are you Japanese, by any chance? Nice! I like Japan too.

  If you find anything you like, I'll give you a discount.」

  (もしかして日本人かい?いいねぇ、日本は俺も好きな国さ。

   気に入ったものがあれば安くするよ)

 「なにか気になるものがあったのか?」

 「あ、いえ……」


乃亜はそれに言葉を噤む。

煉矢は乃亜の横で彼女の琴線に触れたものを確認するが

その中で気になったそれに指先を向けた。


 「Is this stone a natural stone?」

  (この石は天然の石か?)

 「That's right. It's got a unique color, doesn't it?

  It's called Larimar, a stone also known as the gem of the sea.」

  (そうだよ。変わった色合いだろう?

   ラリマーっていう、海の宝石ともいわれる石さ)


乃亜がこれをきにしていたのかは分からないが、

海の宝石、という言葉が気に入った。

彼女の瞳は、美しい南の海の色と見紛うものだ。

石とは色合いは異なるが、その異名は彼女に似合いだと思った。

ふ、と静かに笑い、頷いた。


 「Then, I'll take this one.」

  (では、これをもらう)

 「Thank you for your purchase! Here's a little discount for you.」

  (毎度あり!ちょっとばかりだが、割り引かせてもらうね)

 「あの、煉矢さん……?」


露天商は簡易的な袋にそれを入れて差し出した。

乃亜に受け取るように視線で合図すると、おそるおそる、というように受け取った。

それと入れ替わりに支払いを済ませれば、露天商は軽くウインクをしてきた。

がんばれ、という少々、下世話なエールのつもりらしい。

それに肩をすくめ、戸惑う様子の乃亜の手を引いて、再び歩き出した。


 「煉矢さん、これ、あの、私お金払いますから」

 「受け取ると思うか?」

 「……それは」

 「この旅の記念だと思っておけ。高いものでもない」


有無を言わせてくれない。

本当にいいのかという思いがもやもやと広がるが、ちらと彼の顔を見れば

とくに気にした様子もなく、雰囲気もいつもと変わらない。

小さな袋に入れられた、ティアドロップ型のペンダント。

戸惑いもある。本当にいいのかという迷いも。

けれど、どうしても、贈られたこれに対する、喜びが勝ってしまう。

なんだか泣きそうになったがそれをぐっとこらえ、宝物を確かめるようにそれを握る。


 「……ありがとうございます」


繋がれた手。

その手から、どうか心音が伝わることがありませんように。




その後、もう少しショッピングストリートを見て回った。

日本にいる兄やましろに土産を買うためだ。

少し迷ったが、静にはコーヒー豆を購入した。

自分もそうだが基本的に毎日コーヒーは愛飲していると思う。

味の好みを伝えると店員は愛想よくそれに合わせたものを用意してくれた。

試飲もさせてもらったが兄の好みによく合うと思う。

また、ましろにはオーガニックのハンドクリームと化粧水を購入した。

ハンドクリームは無香料のもの、化粧水についてはハーブウォーターがベースになっているらしく、

爽やかで心地よい香りが広がって来る。

いくつか香りの種類もあったが、ましろにはラベンダーを選んだ。


また、これらは自分用にも購入した。

手は冬場乾燥して荒れたりするとヴァイオリン演奏には致命的だ。

年間通して手のケアは欠かしていない。

ハンドクリームはティーツリー、ハーブウォーターは薔薇を選んだ。

正直かなり迷ってしまったが、よいものを選べてよかった。


やがて海岸沿いに戻ると、来た時と変わらぬ穏やかな景色が広がっていた。

時計を確認すれば時刻は17時を過ぎていた。

ずいぶんとゆっくり時間を過ごさせてもらったような気がするのに

時間が経つのははやい。


海岸沿いのカフェに立ち寄り、テイクアウトでコーヒーを二つ購入する。

それをもって車に向かうのかと思ったが、

少し奥まった個所にある広場に案内された。

綺麗に整えられた花壇が並び、いくつものベンチが海を眺めるように設置されている。


 「カフェでもいいが、お前はこちらの方が好むだろう?」

 「……はい、ありがとうございます」


本当に、よく知ってくれていると思う。

カフェが嫌なのではなく、人の喧騒から離れた場所は、

ただ心が安らかになる。


無音でもなく、町の、人々の生活の音や

波の音や風、草木の揺れる音。

そういった音が、少し離れたところで聞こえる。

そんな場所が好きだった。


あたたかいコーヒーを飲むとほっと息を吐いた。


 「本当に今日はありがとうございました。

  おかげ様で、とても楽しく過ごせました」


心からの礼を告げれば、彼は静かに笑ったようだった。

疲れていたつもりはない。

けれどこの時間は、確かに大切なものだったように思う。

イベントのメンバーには少し申し訳ないような気もするけれど、

今は素直に好意に甘えさせてもらおうという気持ちになれていた。

普段の自分らしくないけれど、不思議と許されている気がした。


 「お前には急な話の上、色々負荷もかけていたからな。

  少しでも休めたのなら何よりだ」

 「……そんな疲れているように見えましたか?」

 「疲れていると言うか……、なにか、切迫したような、といえばいいのか」

 「そう……でしょうか」


そういったつもりもない。

ただ、周囲の期待には応えたいと考えている。

そのせいだろうか。

しかしそれは負荷とは違うような気がして、今一つしっくりこない。


 「ヴァイオリンを弾いているときは、楽しそうに見える。

  ただ、その前後については、どこか不安げで、必死さが感じ取れた」

 「……それは。

  ですが、イベントに立たれる皆さんは素晴らしい方たちばかりですし、

  私の演奏で、それを台無しにはしたくないので……」

 「その心意気は買うが、そんなことにはならないだろう。

  ……と、俺が言っても、自信は持てないんだろうが」

 「自信なんて……」


少し視線が下に下がる。

昨年秋にあったコンクールは初めての参加だった。

とても学ぶことが多かったし、多くの演奏を聴くこともできた。


だが未だに、自分の演奏が特別賞を受賞した内容には思えないでいる。

他の演奏者のそれはとても素晴らしく、技巧的にも自分がとてもたどり着けない。

表現力が優れているという評価は頂けたものの、

そもそも表現力というのは、水野が話したような自分なりの解釈をヴァイオリンの音色に乗せ、語ることではないのか。

であれば自分がそれを出来ているとは思えない。

あのコンクールからこちら、特にそれがわからなくなった。


 「だって、私より素晴らしい演奏者は星の数ほどいらっしゃいます。

  表現力が優れていると言われても……、

  自分では、そんな、特別なことをしているつもりはないですし……」


そう、特別なことはなにもしていない。

ただ演奏しているだけ。

なのに周囲はそれを素晴らしいと讃える。

それ、とはなんなのか、自分では理解ができない。


 「ヴァイオリンを弾くことは、お前にとって、特別でも何でもないわけか」

 「そうですね。なので、皆さんが評価してくださるのはありがたいですが、

  何故そこまで評価されるのか……理解が追い付いてないです」


理解が追い付かない。

だから、どうしてもどこか他人事のように感じてしまう。

ありがたいとは思っても、他人事なので、嬉しいとは感じきれない。

他者が受け取っている評価をもって、どうして自分の自信につなげられると言うのか。

乃亜は溜息をコーヒーで流し込んだ。


 「……ヴァイオリンを弾いているときのお前は、

  堂々としていて自信に満ち溢れているように見える」

 「……兄さんにも、言われました」

 「イベントのセッションでも、最後の曲でも、

  他の様々な音や歌と、共に歌い、踊り、奏で、先導しているように見えた。

  だが、ヴァイオリンを弾く時、お前は特別なことはしていないと言う。

  ……ならきっと、あの姿が、お前の本質なんだろうな」

 「!」


まったく考え付かなかった言葉が聞こえた。

驚いて横を見れば、彼はまっすぐに、海の向こうを見つめていた。


 「自信がない、不安をにじませていることを咎めているわけじゃない。

  ……ただ、何故そうなのかと少し考えてみたが、

  幼い頃の経験のせいとすれば、納得もいった」

 「……煉矢さん」

 「きっとあの頃のことが、お前の心を縛っているんだろうと。

  それは仕方がない話だ。

  ただ……」


こちらに視線が向く。

どこか切なく、苦し気に瞳が揺れている。

何故、この人がそんな苦しそうな顔をしているのだ。

その顔は知っている。

幼い頃に、助けてくれた時に、自分を見ていたあの顔と同じ。

寒さに凍える身体を抱きしめてくれたあの時と。


 「ただ、どうかヴァイオリンを奏でる時のお前自身も、

  お前だと言うことを忘れないでくれ」

 「……っ」

 「その姿が評価されているということは、

  間違いなく、お前が受けているものなんだ」


言葉がない。声が出ない。

そんな風に考えたことなかった。

そんな風に、言ってもらったこともなかった。


ヴァイオリンを弾くことはなにも特別なことはしていない。

それに対して過剰な評価を得ていることが理解できなかった。

皆はその時の自分を普段と違うと言う。

自分でない自分を讃えられ、本当の自分が置き去りにされているような、孤独感。

けれど、この人は、普段の自分と違うと言ったうえで、

それも自分自身だと言ってくれた。


まるで今まであった、なにかズレたものが重なったような気がした。


あのときもそうだ。

コンクールが終わった後に届いたメッセージ。

勿論そんな意図はなかっただろうけれど、乃亜にとっては、救いだった。


ああ、だめだ。涙が出そうだ。

必死に歯を食いしばるが、どうしても涙腺からそれが溢れそうになっている。

下を向いたらすぐにこぼれそうで顔も逸らせずいれば、

どこか苦しそうだった彼の表情が少し和らぎ、

瞳にたまった涙をぬぐうように、頬に手が触れ、親指でそれを掬ってくれた。


 「余計なことを言ったな……」

 「い、え……いいえ……っ!」


首を振って強く否定し、俯いた。

感情はぐちゃぐちゃで、どう表現していいか分からない。

けれど、余計なことではないのは確かだ。

頬に触れる大きな手のぬくもり、涙を掬うその指も、見つめてくれる眼差しも。

なにもかもが、ただ、救われるような、想いだった。

ただその深い感謝を伝えたくて、顔を上げる。


 「……ありがとう、ございます……」


涙で視界が揺れる。

その中でただ、その救われたことへの感謝と共に笑みを浮かべる。

少し驚いた様子を見せたが、彼も一等優しく、微笑んで返してくれた。

彼の目元が少し赤かったように見えたのは、

ただの光の加減のせいだと思った。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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